AAR/RECONQUISTA DE PORTUGAL/信仰の守護者
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[[AAR/RECONQUISTA DE PORTUGAL]]
***信仰の守護者 [#w32abf6b]
アフリカ北岸一帯を神聖ローマ帝国が征服し、強大なムスリム...
ポルトガル王国内でも宗教的情熱に燃えた諸侯による自発的な...
1235年の春にはトレド公をはじめとする有力諸侯らがズン...
コルドバの奪取を目指して聖戦を宣言。
ズンヌーン朝とアッバード朝との間で争いが生じた隙をついて...
ズンヌーン朝アミールはアッバード朝との戦いにより兵力を消...
トレド公らの軍勢に対抗しうる力をもはや持ってはいなかった。
ために、このコルドバ奪取にむけた戦いは短期間で終結し、
アミールはコルドバおよび山間部の要衝カラトラバの拠点をト...
その頃、スコットランド女王が没し、王位は娘であるブルター...
かくしてブルターニュ・スコットランド・アラゴンの連合王国...
アラゴン王位を継承した女王はアラゴンの各諸侯に対し幅広い...
一度は離反したアラゴン公も王に忠誠を誓い、再びアラゴン地...
この転向に独立を支援したポルトガル王は怒り、公を腑抜けと...
また、1237年にはガリシアに逃れたヒメノの王国で王が没...
この内紛にはフランス王が介入し、ヒメノの血を引くドルディ...
ガリシア公の地位につけ、フランス王がナバラ王の称号を獲得...
これによりイベリアの名門ヒメノ家はかつて有していた王冠の...
以後は地方領主として生き延びていく。
同年、ズンヌーン朝とアッバード朝の争いが終結。
戦いによりアッバード朝の領内が疲弊したことを好機と見て
ポルトガル王エステヴァン3世はポルトガル南部アルガルヴェ...
飛び地であるアルガルヴェの防衛は困難であり、
また戦いの開始から程なくしてアッバード朝における重要地域...
アミールは乏しい兵力をまず反乱の鎮圧に差し向けなければな...
この間にポルトガル軍はアルガルヴェの城を包囲し、
野戦軍の攻撃を受けることなく陥落させることができたのであ...
ようやく反乱を鎮圧しアルガルヴェに向かおうとしたアッバー...
セビーリャにおいてポルトガル軍に迎撃され壊滅。
1239年、ポルトガルはアルガルヴェを王国に編入し、
王の嫡子ジョアンがアルガルヴェ公となった。
&ref(http://art4.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/143140...
1240年、教皇アデオダトゥス3世がシチリアへの十字軍を...
南イタリアは未だムスリム勢力の支配下にあり、ローマを窺う...
レコンキスタの旗手を自認するエステヴァン3世はこれにいち...
国王をはじめポルトガルの諸侯らが地中海を渡りシチリアの地...
海を渡ったポルトガル王国の軍勢は3万という大軍であった。
ポルトガル軍はシチリア島のムスリム勢力の拠点を攻略し、
南イタリアにおけるムスリム勢力の拠点は教皇庁の軍が攻略す...
この十字軍には他にヴェネツィア共和国およびチュートン騎士...
軍団の規模および戦いにおける貢献においてはポルトガル王が...
&ref(http://art11.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
1242年、シチリアのアミールは降伏し、すべての城塞を明...
教皇は十字軍の勝利とポルトガル王を祝福し、エステヴァン3...
しかし、敬虔なるエステヴァン3世はこれを固辞し、
さらにシチリアにおいて攻略した城塞をすべて教皇に献上した。
結果、ローマ教皇領は南イタリアおよびシチリア島・マルタ島...
教皇はこれに喜んでポルトガル王に対し「信仰の守護者」「カ...
また、この振る舞いを民衆は讃え、王を「寛大王」と呼ぶよう...
ポルトガル王の威厳はいやがうえにも高まろうというものであ...
&ref(http://art45.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
&size(12){教皇領の拡大};
こうした十字軍の成功を受けて王の甥セビーリャ公フランシス...
国内の貴族らとともにグラナダの奪回を目指して挙兵するも、...
グラナダは急峻な地形であり、攻め込むこと自体が困難であっ...
また衰えたといえどもムスリム勢力の兵は諸侯の寄せ集めであ...
善戦したため、セビーリャ公のグラナダ征服はアンダルシアの...
エステヴァン3世はすでに有力諸侯であるセビーリャ公がさら...
ためにこの戦いに対しては一切の助力を行わなかった。
むしろ戦いの長期化により諸侯とムスリムの双方が疲弊し力を...
1245年、神聖ローマ皇帝オットー5世の息女が嫡子アルガ...
ここにポルトガル王国と神聖ローマ帝国の間に婚姻同盟が成立...
皇帝は同盟成立と同時に北アフリカに残る最後のムスリムの拠...
ポルトガルに対して戦争参加を求めてきた。
エステヴァン3世はこれを受諾し、国王の軍隊約1万がマラケ...
マラケシュはあっけなく陥落し、北アフリカは皇帝の庭となっ...
&ref(http://art56.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
ポルトガルはこの参戦の見返りとして、コルドバ地方およびポ...
ムスリム勢力の拠点を一掃するための戦いに皇帝軍の参加を求...
皇帝はこれを了承しアンダルシアの地に5万の大軍を送り込ん...
鉄壁の防御を誇ったグラナダも皇帝の大軍により陥落させられ、
ムスリム勢力の支配地域は破壊と略奪といった暴虐により荒ら...
コルドバ地方およびポルトガル王領内からムスリム勢力は撤退...
王の次子アブリルがコルドバ公に任じられた。1248年のこ...
&ref(http://art1.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/143141...
&ref(http://art6.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/143141...
&size(12){ポルトガル王国の版図およびイベリア半島の情勢 ―...
皇帝は次なる目標として西アフリカの奥地、黄金を産するとさ...
ポルトガル王にも協力が要請され、エステヴァン3世はこれに...
王は最低限の支援を行うのみで征服に対しては消極的であった。
というのも、アフリカの奥地に至る道のりは長く、また熱病や...
征服は困難であるとの情報を改宗ムスリムらから得ていたため...
実際、皇帝の侵攻軍は早々に現地人の抵抗により瓦解し、逆に...
そのうちに侵攻に参加した神聖ローマ帝国の北アフリカ諸侯同...
皇帝はマリの王に対して賠償金を支払ってすごすごと撤退せね...
&ref(http://art54.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
1254年、ブルターニュ連合王国がターヒル朝の領するカス...
ターヒル朝はイベリア半島の拠点を喪失し、バレアレス諸島ま...
これによりブルターニュはバレンシア地方の大半を掌握し、
イベリアでも屈指の豊かさを誇るバレンシアの攻略まであと一...
&ref(http://art6.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/143141...
エステヴァン3世はブルターニュの勢いを危惧した。
このため、エステヴァン3世は先んじてバレンシアを攻略する...
3万の軍を送り込んでバレンシアを陥落せしめ、ブルターニュ...
「ブリトン人の王はブリトン人のみを治めていればよい…」
&ref(http://art53.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
&size(12){バレンシアの征服};
ポルトガルとブルターニュの関係は元々良いとは言えなかった。
アラゴン公国の独立をエステヴァン3世が支援した時からもそ...
折しも新たに獲得したバレンシアの地にはブルターニュの貴族...
その国境問題もあって両国の関係は一気に悪化していった。
&ref(http://art52.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
1259年、バルセロナ公ルーカスがブルターニュ女王に対し...
エステヴァン3世はバレンシアのブルターニュ領を接収するた...
標的はバレンシアのアラクアス城塞であった。
この城塞を攻略することで、バレンシアにおけるブルターニュ...
ブルターニュ女王は軍を送り込みバルセロナ公の反乱を鎮圧し...
その頃にはバレンシアはおろかアラゴン地方のほとんどがポル...
&ref(http://art38.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
ウルヘル山地の戦いにおいて送り込まれたブルターニュ軍が撃...
ブルターニュ女王はアラクアス城塞の明け渡しを認めた。
この戦いによりポルトガルとブルターニュの敵対関係が表面化...
ポルトガルによるイベリア半島の一円支配、これが事実上の国...
1262年、ポルトガル王エステヴァン3世は食事後突如腹痛...
数回嘔吐したのち床に臥しそのまま死んだ。73歳であった。
ブルターニュ王国の刺客、あるいは有力諸侯の手の者による毒...
その治世は43年におよび、彼の統治においてキリスト教の布...
ポルトガル文化の普及が進み、国内は発展した。
対外的には積極的な外征によりレコンキスタを進展させ、シチ...
この国王の死に民衆は深く悲しんだという。
王位はアルガルヴェ公にしてバレンシア伯ジョアンが継承し、...
&ref(http://art4.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/143141...
続く
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[[AAR/RECONQUISTA DE PORTUGAL]]
***信仰の守護者 [#w32abf6b]
アフリカ北岸一帯を神聖ローマ帝国が征服し、強大なムスリム...
ポルトガル王国内でも宗教的情熱に燃えた諸侯による自発的な...
1235年の春にはトレド公をはじめとする有力諸侯らがズン...
コルドバの奪取を目指して聖戦を宣言。
ズンヌーン朝とアッバード朝との間で争いが生じた隙をついて...
ズンヌーン朝アミールはアッバード朝との戦いにより兵力を消...
トレド公らの軍勢に対抗しうる力をもはや持ってはいなかった。
ために、このコルドバ奪取にむけた戦いは短期間で終結し、
アミールはコルドバおよび山間部の要衝カラトラバの拠点をト...
その頃、スコットランド女王が没し、王位は娘であるブルター...
かくしてブルターニュ・スコットランド・アラゴンの連合王国...
アラゴン王位を継承した女王はアラゴンの各諸侯に対し幅広い...
一度は離反したアラゴン公も王に忠誠を誓い、再びアラゴン地...
この転向に独立を支援したポルトガル王は怒り、公を腑抜けと...
また、1237年にはガリシアに逃れたヒメノの王国で王が没...
この内紛にはフランス王が介入し、ヒメノの血を引くドルディ...
ガリシア公の地位につけ、フランス王がナバラ王の称号を獲得...
これによりイベリアの名門ヒメノ家はかつて有していた王冠の...
以後は地方領主として生き延びていく。
同年、ズンヌーン朝とアッバード朝の争いが終結。
戦いによりアッバード朝の領内が疲弊したことを好機と見て
ポルトガル王エステヴァン3世はポルトガル南部アルガルヴェ...
飛び地であるアルガルヴェの防衛は困難であり、
また戦いの開始から程なくしてアッバード朝における重要地域...
アミールは乏しい兵力をまず反乱の鎮圧に差し向けなければな...
この間にポルトガル軍はアルガルヴェの城を包囲し、
野戦軍の攻撃を受けることなく陥落させることができたのであ...
ようやく反乱を鎮圧しアルガルヴェに向かおうとしたアッバー...
セビーリャにおいてポルトガル軍に迎撃され壊滅。
1239年、ポルトガルはアルガルヴェを王国に編入し、
王の嫡子ジョアンがアルガルヴェ公となった。
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1240年、教皇アデオダトゥス3世がシチリアへの十字軍を...
南イタリアは未だムスリム勢力の支配下にあり、ローマを窺う...
レコンキスタの旗手を自認するエステヴァン3世はこれにいち...
国王をはじめポルトガルの諸侯らが地中海を渡りシチリアの地...
海を渡ったポルトガル王国の軍勢は3万という大軍であった。
ポルトガル軍はシチリア島のムスリム勢力の拠点を攻略し、
南イタリアにおけるムスリム勢力の拠点は教皇庁の軍が攻略す...
この十字軍には他にヴェネツィア共和国およびチュートン騎士...
軍団の規模および戦いにおける貢献においてはポルトガル王が...
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1242年、シチリアのアミールは降伏し、すべての城塞を明...
教皇は十字軍の勝利とポルトガル王を祝福し、エステヴァン3...
しかし、敬虔なるエステヴァン3世はこれを固辞し、
さらにシチリアにおいて攻略した城塞をすべて教皇に献上した。
結果、ローマ教皇領は南イタリアおよびシチリア島・マルタ島...
教皇はこれに喜んでポルトガル王に対し「信仰の守護者」「カ...
また、この振る舞いを民衆は讃え、王を「寛大王」と呼ぶよう...
ポルトガル王の威厳はいやがうえにも高まろうというものであ...
&ref(http://art45.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/14314...
&size(12){教皇領の拡大};
こうした十字軍の成功を受けて王の甥セビーリャ公フランシス...
国内の貴族らとともにグラナダの奪回を目指して挙兵するも、...
グラナダは急峻な地形であり、攻め込むこと自体が困難であっ...
また衰えたといえどもムスリム勢力の兵は諸侯の寄せ集めであ...
善戦したため、セビーリャ公のグラナダ征服はアンダルシアの...
エステヴァン3世はすでに有力諸侯であるセビーリャ公がさら...
ためにこの戦いに対しては一切の助力を行わなかった。
むしろ戦いの長期化により諸侯とムスリムの双方が疲弊し力を...
1245年、神聖ローマ皇帝オットー5世の息女が嫡子アルガ...
ここにポルトガル王国と神聖ローマ帝国の間に婚姻同盟が成立...
皇帝は同盟成立と同時に北アフリカに残る最後のムスリムの拠...
ポルトガルに対して戦争参加を求めてきた。
エステヴァン3世はこれを受諾し、国王の軍隊約1万がマラケ...
マラケシュはあっけなく陥落し、北アフリカは皇帝の庭となっ...
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ポルトガルはこの参戦の見返りとして、コルドバ地方およびポ...
ムスリム勢力の拠点を一掃するための戦いに皇帝軍の参加を求...
皇帝はこれを了承しアンダルシアの地に5万の大軍を送り込ん...
鉄壁の防御を誇ったグラナダも皇帝の大軍により陥落させられ、
ムスリム勢力の支配地域は破壊と略奪といった暴虐により荒ら...
コルドバ地方およびポルトガル王領内からムスリム勢力は撤退...
王の次子アブリルがコルドバ公に任じられた。1248年のこ...
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皇帝は次なる目標として西アフリカの奥地、黄金を産するとさ...
ポルトガル王にも協力が要請され、エステヴァン3世はこれに...
王は最低限の支援を行うのみで征服に対しては消極的であった。
というのも、アフリカの奥地に至る道のりは長く、また熱病や...
征服は困難であるとの情報を改宗ムスリムらから得ていたため...
実際、皇帝の侵攻軍は早々に現地人の抵抗により瓦解し、逆に...
そのうちに侵攻に参加した神聖ローマ帝国の北アフリカ諸侯同...
皇帝はマリの王に対して賠償金を支払ってすごすごと撤退せね...
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1254年、ブルターニュ連合王国がターヒル朝の領するカス...
ターヒル朝はイベリア半島の拠点を喪失し、バレアレス諸島ま...
これによりブルターニュはバレンシア地方の大半を掌握し、
イベリアでも屈指の豊かさを誇るバレンシアの攻略まであと一...
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エステヴァン3世はブルターニュの勢いを危惧した。
このため、エステヴァン3世は先んじてバレンシアを攻略する...
3万の軍を送り込んでバレンシアを陥落せしめ、ブルターニュ...
「ブリトン人の王はブリトン人のみを治めていればよい…」
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ポルトガルとブルターニュの関係は元々良いとは言えなかった。
アラゴン公国の独立をエステヴァン3世が支援した時からもそ...
折しも新たに獲得したバレンシアの地にはブルターニュの貴族...
その国境問題もあって両国の関係は一気に悪化していった。
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1259年、バルセロナ公ルーカスがブルターニュ女王に対し...
エステヴァン3世はバレンシアのブルターニュ領を接収するた...
標的はバレンシアのアラクアス城塞であった。
この城塞を攻略することで、バレンシアにおけるブルターニュ...
ブルターニュ女王は軍を送り込みバルセロナ公の反乱を鎮圧し...
その頃にはバレンシアはおろかアラゴン地方のほとんどがポル...
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ウルヘル山地の戦いにおいて送り込まれたブルターニュ軍が撃...
ブルターニュ女王はアラクアス城塞の明け渡しを認めた。
この戦いによりポルトガルとブルターニュの敵対関係が表面化...
ポルトガルによるイベリア半島の一円支配、これが事実上の国...
1262年、ポルトガル王エステヴァン3世は食事後突如腹痛...
数回嘔吐したのち床に臥しそのまま死んだ。73歳であった。
ブルターニュ王国の刺客、あるいは有力諸侯の手の者による毒...
その治世は43年におよび、彼の統治においてキリスト教の布...
ポルトガル文化の普及が進み、国内は発展した。
対外的には積極的な外征によりレコンキスタを進展させ、シチ...
この国王の死に民衆は深く悲しんだという。
王位はアルガルヴェ公にしてバレンシア伯ジョアンが継承し、...
&ref(http://art4.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/143141...
続く
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