AAR/王朝序曲/皇帝ルイ1世の治世
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[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝ルイ1世の治世 [#z7dd08c6]
**帝国統治令 [#c05cb319]
1219年12月31日
皇帝ルイは最初の勅令『帝国統治令』を発布した。
これは皇帝の長男が帝国を継承し、次男以下は諸王として皇帝...
従来の親王領制度が拡大されたもので、公が王に変わっただけ...
内容はカロリング朝のルイ敬虔帝が817年に発布した帝国計画令...
カロリング朝のそれは分割相続の慣習を前提としており、王権...
結果的に分裂後の諸王国は別々の歴史を歩み始め今のフランス...
しかしカペー朝のもとでは王は皇帝の封臣であるとされ、帝国...
そもそも長子相続制を採用するカペー朝では次男以下の受封は...
1220年1月1日
皇帝ルイは次弟エドゥアールをエルサレム王に、三弟ウスター...
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エルサレム王エドゥアール ルイ6世の次男 有能な人格者で...
#ref(025_1219.jpg,nolink)
ポルトガル王ウスターシュ ルイ6世の三男 よく見るとイケ...
#ref(026_1219.jpg,nolink)
レオン王ロタール ルイ6世の四男 未成年を王にするのは不...
この制度は代々続けられていく事になるが、言うまでもなく与...
以後歴代の皇帝は子弟に与える王号を確保するための侵略戦争...
またルイは、これまでフランス王が兼任してきた公爵位のうち...
即ちトゥールーズ伯レーモンをトゥールーズ公に、オーヴェル...
**三皇帝時代 [#j8982a65]
ルイの戴冠によりキリスト教世界には3人のローマ皇帝が並立...
ビザンティン皇帝ダニエルはルイを西の正帝とし、旧来の神聖...
神聖ローマ皇帝フランツはルイの戴冠を黙殺し、これまで通り...
もっとも外交的礼儀という点では西ローマ帝国も決して褒めら...
ルイが再興した帝国は歴史学的には西ローマ帝国と呼ばれるが...
カペー家の諸帝は自らを唯一正統なローマ皇帝とし、東ローマ...
三人の皇帝が互いに正統性を主張し、軍事的外交的に対立を続...
**ノルドの終焉 [#y2d73589]
フランス軍がラヴェンナとボローニャの領有権をめぐり神聖ロ...
フランス領ヘントにヴァイキングが来寇し略奪の限りをつくす...
通常なら近隣諸州の兵で容易く撃退できたのだが、兵という兵...
ヴァイキングの襲撃は西フランク王国時代とくらべて激減して...
ルイは沿岸警備の強化を諸侯に命じる一方で密偵長に命じ襲撃...
その結果わかったことは、襲撃者がいつも同じであるという事...
1220年4月20日
大臣エルメネヒルドはカペー家がオンゲルマンランドの請求権...
オンゲルマンランドはノルド教が支配する土地であり、ヴァイ...
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ノルド最後の砦オンゲルマンランド
勇猛果敢な略奪者といっても所詮は個人の武勇に頼る蛮族であ...
訓練された帝国常備軍の敵ではない。
1221年1月28日
オンゲルマンランドは帝国に併合された。
聖なる森は焼かれ祭壇は破壊され、ゴジや巫女たちは火刑に処...
現地は司教領となり急速なキリスト教化が進められていく事に...
キリストは勝利し、古きノルドの神々は滅び去ったのである。
1221年3月2日
大臣ナヴァラ公エルメネヒルドが死去。63歳であった。
傲慢で敵の多い男だったが、彼こそがルイ父子の覇業を支えた...
後任の大臣にはグラナダ公ラモン・ベレンガーが選ばれた。
1221年8月5日
イングランド王位を要求するノーザンバーランド公オズルフが...
ルイはイングランド諸侯に鎮圧を命じた。
乱は1年あまりで鎮圧され公は所領を剥奪された。
1222年3月31日
ついに来るべき日がやって来た。
神聖ローマ帝国の廃帝ホラント公レオポルトが帝位奪還を目指...
以後数年にわたりドイツは内乱に明け暮れることになる。
#ref(031_1222.jpg,nolink)
廃帝レオポルトの乱 ドイツの内乱はお家芸と化している
**ハンガリー十字軍 [#bcb8b273]
1215年、大ハーンより西方の攻略を命じられたフレグは大遠征...
迎え撃つハンガリー王カルマーンは敗死し、ハンガリー諸都市...
1218年5月17日には王都ベストが陥落しハンガリー王国は地上か...
#ref(029_1220.jpg,nolink)
フレグはハンガリーを征服しフレグ=ウルスを建設した
#ref(028_1220.jpg,nolink)
チンギス・カンの孫フレグ はっきりいって無能
ハンガリー消滅の報はキリスト教世界を震撼させた。
モンゴルの急速な拡大とその蛮行は既にヨーロッパに伝わって...
本来カトリック世界の盟主としてモンゴルを迎え撃つべき神聖...
>「降伏を拒んだ都市は鼠一匹残さず皆殺しにされたと聞いてお...
ハンガリーの惨状を伝え聞いた教皇マルティヌス2世は決断し...
1220年11月11日
教皇はハンガリー十字軍を布告した。
#ref(027_1220.jpg,nolink)
第四回十字軍
>「ドイツ皇帝、ポーランド王、クロアチア王は既に参戦を表明...
大臣ラモン・ベレンガーの報告に皇帝は大きく頷く。
>「帝国も総力をもってモンゴルを迎え撃つ。元帥、卿に総指揮...
>「一命に代えましても」
皇帝ルイは帝国全土に動員令を発した。
フランス、イングランド、スペイン、イタリア、エルサレムな...
**ハンガリー解放 [#if39bc3f]
1223年1月
ハンガリーに到着した帝国軍は先着したポーランド王の敗北を...
フレグの親衛隊は10万を超える規模で、機動力と持久力に秀...
これだけの数を擁しながらもどのような長駆にも耐えるという。
一方帝国20万の軍勢は招集された地域ごとに軍団をなしてお...
バラバラに行軍していたら各個撃破されるであろう。
元帥スタニスラフは全軍を自己の指揮下に置き、一度の会戦で...
>「指揮権を渡せと云われるのか!?これは私が招集した軍団で...
バルセロナ公ティボーの不満に他の将軍たちも同調する。
帝国軍を名乗ってはいても所詮は封建社会の軍隊である。その...
国軍だの軍規だのという概念はないし体系化された指揮系統も...
そもそも帝国常備軍からして皇帝の私兵なのである。
それに帝国元帥といっても所詮は男爵家の当主でしかないスタ...
しかし元帥スタニスラフは妥協しない。
>「私は皇帝陛下より全軍の指揮権を委ねられている。その命令...
貴族たちに動揺が走る。
>「し、しかし食料の調達もままならぬ未知の土地で20万もの...
>「そうだ。死ね。我らはキリスト教世界を守るために死ぬのだ...
元帥スタニスラフは行軍を強行。
後世「死の行軍」と呼ばれることになるこの強行軍は多くの死...
しかしそれでも数の上ではフレグの軍隊を上回っている。
元帥スタニスラフの戦術は単純である。数の優位を活かした重...
1人が1人を倒せば全員死んでもなお味方が4万人も残るでは...
>「この決戦にキリスト教世界の命運がかかっている!命を惜し...
>「神の御心のままに!」
13万7千の帝国軍と10万4千のモンゴル軍が激突したこの...
#ref(032_1223.jpg,nolink)
デブレセンの戦い 後世第二のトゥール・ポワティエと称され...
#ref(033_1223.jpg,nolink)
勝利!
決戦は帝国軍の勝利に終わった。
死傷者は帝国軍4万に対しモンゴル軍は6万。実に10万人も...
元帥スタニスラフは兵が休む間も与えず、敗走するモンゴル兵...
>「一兵たりとも生かして返すな!蛮族どもは皆殺しにするのだ...
チャナドで、ニトラで、ブホで、帝国は敗走するモンゴル軍を...
そして1223年10月19日にはネティルピクセでモンゴルの最後の...
キリスト教世界は救われたのである。
1224年2月24日
教皇マルティヌス2世は十字軍の勝利を宣言。
ローマ皇帝ルイは解放者としてハンガリー王国を与えられた。
#ref(034_1224.jpg,nolink)
ハンガリー王国獲得
同年12月5日
ルイはハンガリー十字軍における戦功に報い、元帥スタニスラ...
#ref(044_1224.jpg,nolink)
元帥ノーザンバーランド公スタニスラフ 後世「モンゴル人殺...
**意外な結末 [#e86aa08b]
1222年に始まった廃帝レオポルトの乱は3年目を迎えたが未だ...
1225年2月10日
皇帝フランツが崩御。長男のジークフリートが帝位を継承した。
新帝ジークフリート2世はわずか5歳である。
#ref(036_1225.jpg,nolink)
幼帝ジークフリート2世
反乱の首謀者レオポルトはかつて4歳で帝位を追われており、...
しかし個人的感傷で一度始めた戦いが終わるわけではない。
#ref(037_1225.jpg,nolink)
1225年のドイツ これで何度目の内乱なのか…
当初は優勢であった皇帝側も幼帝の即位によって内部分裂して...
事態がこのまま推移すればレオポルトは勝利し、帝位を奪還出...
しかし神は彼を見捨てた。
1226年8月27日
廃帝レオポルトは肺炎で急逝。24歳の若さだった。
旗頭を失った反乱軍は四散し内乱はあっけなく収束した。
新帝ジークフリート2世は最大の危機を脱したのである。
**3つの縁談 [#d4cbaa28]
1224年3月11日
皇太子シャルルと上ロレーヌ公女バルバラの婚約が成立した。
#ref(035_1224.jpg,nolink)
長男の嫁は近隣の女相続人から選ぶ
1224年3月16日
長女イザベルとアールパード家のハンガリー王子ベルトクの婚...
婿養子婚である。
ハンガリー王位を得たルイは旧アールパード王家を優遇しエス...
いずれ誰かに与えるにしても、アールパード一門を納得させカ...
ベルトクは傍流とはいえアールパード王家の一族であるし、何...
カペー家の皇女と婿養子婚させた上で王位を与えればよいので...
1225年5月19日
成人したベルトクは皇女イザベルと女系結婚。
同日、皇帝ルイは娘婿ベルトクをハンガリー王に封じた。
#ref(038_1225.jpg,nolink)
ハンガリー王ベルトク 皇帝ルイの婿養子
1224年11月22日
皇妹ソレーヌとシチリア王太子アルナールが結婚した。
これもまた婿養子婚である。
アルナールはシチリアの王位継承者だが父王ステファンとは折...
おとなしく待っていれば王位を継承できる立場である。
しかしパリの宮廷はそんな彼を放っておくほど甘くはなかった。
**シチリア継承戦争 [#e54e224c]
>「お父上は殿下を廃嫡し弟君を後継者にするおつもりでは?」
密偵長テカの悪魔の囁きがアルナールの危機感を煽る。
>「皇帝陛下には殿下の友情に応える用意がございます。あとは...
アルナールの王位奪取を支援しようというのである。
もちろん無償ではなく条件がある。
カペー家の婿養子になる事と、シチリア王国の帝国への臣従で...
廃嫡への恐怖がアルナールの判断を狂わせた。
1226年11月27日
ルイはアルナールをサッスオロ男爵に叙し封建主従関係を締結。
同日、シチリア王国に宣戦を布告した。
帝国常備軍とイタリア諸侯軍は半島を南下し、シエナでシチリ...
#ref(041_1227.jpg,nolink)
シエナの戦い
南イタリアの諸都市は次々と陥落していき、抵抗する術を失っ...
#ref(042_1229.jpg,nolink)
シチリア獲得
1229年5月13日
シチリア王に即位したアルナールはローマ帝国への忠誠を表明。
南イタリアは帝国に編入された。
#ref(043_1229.jpg,nolink)
シチリアの愚王アルナール カペー家の婿養子
余談だが前シチリア王ステファンは退位の翌月に病没している。
アルナールの軽挙は全くの無駄だったのである。
こうしてローマ帝国は再興からわずか10年でハンガリーとシチ...
**家族関係 [#geab861b]
1224年6月6日
ポルトガル王ウスターシュは弟ロタールのレオン王位を要求し...
イベリアは一時騒然となる。
帝国は王権法により封臣同士の戦争を禁じているが、イベリア...
皇帝ルイは弟たちの争いに激怒したがどうすることも出来ずた...
結局、この争いは5年も続いた挙句痛み分けに終わる。
1229年11月3日
ポルトガル王ウスターシュがサンティアゴの領有権を主張しガ...
1229年2月2日
レオン王ロタールがトレドの領有権を主張しトレド女公アルド...
1230年7月18日
大臣ラモン・ベレンガーが死去。
後任の大臣に選ばれたのはエルサレム王エドゥアールである。
エドゥアールはルイの次弟で優れた外交手腕をもち、やんちゃ...
1230年7月20日
皇后ブルンヒルデが53歳で薨去。
皇太子シャルルが上ブルゴーニュ公を継承した。
#ref(045_1230.jpg,nolink)
上ブルゴーニュ公シャルル 後の皇帝シャルル1世
ルイは再婚した。
相手はイタリアの下級貴族出身のアンナである。
#ref(046_1230.jpg,nolink)
後妻アンナ 地中海顔は失敗作だと言わざる負えない
**ガリシア征服 [#i9135563]
1230年10月26日
大臣エドゥアールはルイがコルーニャ伯領の正統な領有権を有...
ルイはガリシア王ボソンに宣戦を布告した。
#ref(047_1230.jpg,nolink)
ガリシアごとき小国は我が帝国の敵ではない
1230年11月2日
上ロレーヌ公ディートリヒは上ブルゴーニュ公の領有権を主張。
公シャルルに宣戦を布告した。
ディートリヒはシャルルの妻バルバラの父親である。
弟たちの抗争に続き、今度は息子とその義父の抗争である。
心労がルイの健康を蝕んでいった。
#ref(048_1230.jpg,nolink)
ロレーヌ・ブルゴーニュ戦争
この戦争は長期化し、終結するのはシャルルが皇位を継承した...
1232年1月3日
ガリシア王ボソンは降伏。
コルーニャ伯領はルイの支配下に入った。
同日、ルイはガリシアの王にして公であると宣言。
王位と公位を剥奪されたボソンはカラトラヴァ伯に転落した。
翌月にはハダホス公ムーニョも帝国に臣従している。
#ref(052_1232.jpg,nolink)
戦後のイベリア カラトラヴァ伯ボソンはこの後カスティーリ...
1232年2月24日
バレンシア公ロウボーはラマンチャの領有権を主張しカスティ...
カスティーリャは諸勢力の草刈り場になっていた。
**崩御 [#jd2cef83]
1232年3月19日
家令ウンベールが87歳で死去した。
旧ブルゴーニュ公家の嫡流に生まれたウンベールはフィリップ...
家令としての在職年数は実に61年もの長きに及ぶ。
後任の家令に選ばれたのはサンセポルクロ男爵ルノーであるが...
1232年3月27日
重臣の死で気弱になったルイに明るい知らせがもたらされた。
後妻アンナが男児ギシャールを産んだのである。
>「兄上、男の子が生まれましたぞ!」
大臣エドゥアールの報告にルイは笑みを浮かべたが、体調が回...
>「モンゴルが新たな西征軍を派遣したとの報告も入っておりま...
>「それはシャルルの仕事だ。朕はもう疲れた。そろそろ休ませ...
1232年4月16日
皇帝ルイ1世は崩御した。
享年57
「そろそろ休ませてくれ」
ローマ帝国を再興しモンゴルの脅威を取り除いた偉大な皇帝の...
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**後世の評価 [#x86e9c2b]
ローマ帝国を再興したルイは偉大な皇帝として多くの物語の題...
特にモンゴルを撃退しハンガリーを解放したことは重要で、も...
他にもイタリア半島の大部分を帝国に組み込むなど、軍事・外...
ただルイ自身は最後まで己をフランス王と考えていたフシがあ...
ローマ帝国それ自体にはあまり思い入れはなかったと云われて...
フランス王国からローマ帝国への転換は次のシャルル1世に引...
**あとがき [#x94eb2d4]
絶妙のタイミングで十字軍が発動しましたね。
お陰で一度の戦争でイルハンを退場させることができました。
おまけにハンガリーまでゲット出来たので言うことなしですね...
あと、シチリアを獲得したやり方はこれを読んでる方なら誰も...
まあ、このAARでは自重は一切しませんから、今後もこのや...
ただ、大きくなりすぎた為に綻びも出始めてるのが気になる所...
一族に王国を与えるのはリスクが大きいので、本来なら皇帝に...
次の目標は次章で明かします。
幕間2 1232年のローマ帝国へ[[AAR/王朝序曲/1232年のローマ...
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[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝ルイ1世の治世 [#z7dd08c6]
**帝国統治令 [#c05cb319]
1219年12月31日
皇帝ルイは最初の勅令『帝国統治令』を発布した。
これは皇帝の長男が帝国を継承し、次男以下は諸王として皇帝...
従来の親王領制度が拡大されたもので、公が王に変わっただけ...
内容はカロリング朝のルイ敬虔帝が817年に発布した帝国計画令...
カロリング朝のそれは分割相続の慣習を前提としており、王権...
結果的に分裂後の諸王国は別々の歴史を歩み始め今のフランス...
しかしカペー朝のもとでは王は皇帝の封臣であるとされ、帝国...
そもそも長子相続制を採用するカペー朝では次男以下の受封は...
1220年1月1日
皇帝ルイは次弟エドゥアールをエルサレム王に、三弟ウスター...
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エルサレム王エドゥアール ルイ6世の次男 有能な人格者で...
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ポルトガル王ウスターシュ ルイ6世の三男 よく見るとイケ...
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レオン王ロタール ルイ6世の四男 未成年を王にするのは不...
この制度は代々続けられていく事になるが、言うまでもなく与...
以後歴代の皇帝は子弟に与える王号を確保するための侵略戦争...
またルイは、これまでフランス王が兼任してきた公爵位のうち...
即ちトゥールーズ伯レーモンをトゥールーズ公に、オーヴェル...
**三皇帝時代 [#j8982a65]
ルイの戴冠によりキリスト教世界には3人のローマ皇帝が並立...
ビザンティン皇帝ダニエルはルイを西の正帝とし、旧来の神聖...
神聖ローマ皇帝フランツはルイの戴冠を黙殺し、これまで通り...
もっとも外交的礼儀という点では西ローマ帝国も決して褒めら...
ルイが再興した帝国は歴史学的には西ローマ帝国と呼ばれるが...
カペー家の諸帝は自らを唯一正統なローマ皇帝とし、東ローマ...
三人の皇帝が互いに正統性を主張し、軍事的外交的に対立を続...
**ノルドの終焉 [#y2d73589]
フランス軍がラヴェンナとボローニャの領有権をめぐり神聖ロ...
フランス領ヘントにヴァイキングが来寇し略奪の限りをつくす...
通常なら近隣諸州の兵で容易く撃退できたのだが、兵という兵...
ヴァイキングの襲撃は西フランク王国時代とくらべて激減して...
ルイは沿岸警備の強化を諸侯に命じる一方で密偵長に命じ襲撃...
その結果わかったことは、襲撃者がいつも同じであるという事...
1220年4月20日
大臣エルメネヒルドはカペー家がオンゲルマンランドの請求権...
オンゲルマンランドはノルド教が支配する土地であり、ヴァイ...
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ノルド最後の砦オンゲルマンランド
勇猛果敢な略奪者といっても所詮は個人の武勇に頼る蛮族であ...
訓練された帝国常備軍の敵ではない。
1221年1月28日
オンゲルマンランドは帝国に併合された。
聖なる森は焼かれ祭壇は破壊され、ゴジや巫女たちは火刑に処...
現地は司教領となり急速なキリスト教化が進められていく事に...
キリストは勝利し、古きノルドの神々は滅び去ったのである。
1221年3月2日
大臣ナヴァラ公エルメネヒルドが死去。63歳であった。
傲慢で敵の多い男だったが、彼こそがルイ父子の覇業を支えた...
後任の大臣にはグラナダ公ラモン・ベレンガーが選ばれた。
1221年8月5日
イングランド王位を要求するノーザンバーランド公オズルフが...
ルイはイングランド諸侯に鎮圧を命じた。
乱は1年あまりで鎮圧され公は所領を剥奪された。
1222年3月31日
ついに来るべき日がやって来た。
神聖ローマ帝国の廃帝ホラント公レオポルトが帝位奪還を目指...
以後数年にわたりドイツは内乱に明け暮れることになる。
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廃帝レオポルトの乱 ドイツの内乱はお家芸と化している
**ハンガリー十字軍 [#bcb8b273]
1215年、大ハーンより西方の攻略を命じられたフレグは大遠征...
迎え撃つハンガリー王カルマーンは敗死し、ハンガリー諸都市...
1218年5月17日には王都ベストが陥落しハンガリー王国は地上か...
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フレグはハンガリーを征服しフレグ=ウルスを建設した
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チンギス・カンの孫フレグ はっきりいって無能
ハンガリー消滅の報はキリスト教世界を震撼させた。
モンゴルの急速な拡大とその蛮行は既にヨーロッパに伝わって...
本来カトリック世界の盟主としてモンゴルを迎え撃つべき神聖...
>「降伏を拒んだ都市は鼠一匹残さず皆殺しにされたと聞いてお...
ハンガリーの惨状を伝え聞いた教皇マルティヌス2世は決断し...
1220年11月11日
教皇はハンガリー十字軍を布告した。
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第四回十字軍
>「ドイツ皇帝、ポーランド王、クロアチア王は既に参戦を表明...
大臣ラモン・ベレンガーの報告に皇帝は大きく頷く。
>「帝国も総力をもってモンゴルを迎え撃つ。元帥、卿に総指揮...
>「一命に代えましても」
皇帝ルイは帝国全土に動員令を発した。
フランス、イングランド、スペイン、イタリア、エルサレムな...
**ハンガリー解放 [#if39bc3f]
1223年1月
ハンガリーに到着した帝国軍は先着したポーランド王の敗北を...
フレグの親衛隊は10万を超える規模で、機動力と持久力に秀...
これだけの数を擁しながらもどのような長駆にも耐えるという。
一方帝国20万の軍勢は招集された地域ごとに軍団をなしてお...
バラバラに行軍していたら各個撃破されるであろう。
元帥スタニスラフは全軍を自己の指揮下に置き、一度の会戦で...
>「指揮権を渡せと云われるのか!?これは私が招集した軍団で...
バルセロナ公ティボーの不満に他の将軍たちも同調する。
帝国軍を名乗ってはいても所詮は封建社会の軍隊である。その...
国軍だの軍規だのという概念はないし体系化された指揮系統も...
そもそも帝国常備軍からして皇帝の私兵なのである。
それに帝国元帥といっても所詮は男爵家の当主でしかないスタ...
しかし元帥スタニスラフは妥協しない。
>「私は皇帝陛下より全軍の指揮権を委ねられている。その命令...
貴族たちに動揺が走る。
>「し、しかし食料の調達もままならぬ未知の土地で20万もの...
>「そうだ。死ね。我らはキリスト教世界を守るために死ぬのだ...
元帥スタニスラフは行軍を強行。
後世「死の行軍」と呼ばれることになるこの強行軍は多くの死...
しかしそれでも数の上ではフレグの軍隊を上回っている。
元帥スタニスラフの戦術は単純である。数の優位を活かした重...
1人が1人を倒せば全員死んでもなお味方が4万人も残るでは...
>「この決戦にキリスト教世界の命運がかかっている!命を惜し...
>「神の御心のままに!」
13万7千の帝国軍と10万4千のモンゴル軍が激突したこの...
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デブレセンの戦い 後世第二のトゥール・ポワティエと称され...
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勝利!
決戦は帝国軍の勝利に終わった。
死傷者は帝国軍4万に対しモンゴル軍は6万。実に10万人も...
元帥スタニスラフは兵が休む間も与えず、敗走するモンゴル兵...
>「一兵たりとも生かして返すな!蛮族どもは皆殺しにするのだ...
チャナドで、ニトラで、ブホで、帝国は敗走するモンゴル軍を...
そして1223年10月19日にはネティルピクセでモンゴルの最後の...
キリスト教世界は救われたのである。
1224年2月24日
教皇マルティヌス2世は十字軍の勝利を宣言。
ローマ皇帝ルイは解放者としてハンガリー王国を与えられた。
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ハンガリー王国獲得
同年12月5日
ルイはハンガリー十字軍における戦功に報い、元帥スタニスラ...
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元帥ノーザンバーランド公スタニスラフ 後世「モンゴル人殺...
**意外な結末 [#e86aa08b]
1222年に始まった廃帝レオポルトの乱は3年目を迎えたが未だ...
1225年2月10日
皇帝フランツが崩御。長男のジークフリートが帝位を継承した。
新帝ジークフリート2世はわずか5歳である。
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幼帝ジークフリート2世
反乱の首謀者レオポルトはかつて4歳で帝位を追われており、...
しかし個人的感傷で一度始めた戦いが終わるわけではない。
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1225年のドイツ これで何度目の内乱なのか…
当初は優勢であった皇帝側も幼帝の即位によって内部分裂して...
事態がこのまま推移すればレオポルトは勝利し、帝位を奪還出...
しかし神は彼を見捨てた。
1226年8月27日
廃帝レオポルトは肺炎で急逝。24歳の若さだった。
旗頭を失った反乱軍は四散し内乱はあっけなく収束した。
新帝ジークフリート2世は最大の危機を脱したのである。
**3つの縁談 [#d4cbaa28]
1224年3月11日
皇太子シャルルと上ロレーヌ公女バルバラの婚約が成立した。
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長男の嫁は近隣の女相続人から選ぶ
1224年3月16日
長女イザベルとアールパード家のハンガリー王子ベルトクの婚...
婿養子婚である。
ハンガリー王位を得たルイは旧アールパード王家を優遇しエス...
いずれ誰かに与えるにしても、アールパード一門を納得させカ...
ベルトクは傍流とはいえアールパード王家の一族であるし、何...
カペー家の皇女と婿養子婚させた上で王位を与えればよいので...
1225年5月19日
成人したベルトクは皇女イザベルと女系結婚。
同日、皇帝ルイは娘婿ベルトクをハンガリー王に封じた。
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ハンガリー王ベルトク 皇帝ルイの婿養子
1224年11月22日
皇妹ソレーヌとシチリア王太子アルナールが結婚した。
これもまた婿養子婚である。
アルナールはシチリアの王位継承者だが父王ステファンとは折...
おとなしく待っていれば王位を継承できる立場である。
しかしパリの宮廷はそんな彼を放っておくほど甘くはなかった。
**シチリア継承戦争 [#e54e224c]
>「お父上は殿下を廃嫡し弟君を後継者にするおつもりでは?」
密偵長テカの悪魔の囁きがアルナールの危機感を煽る。
>「皇帝陛下には殿下の友情に応える用意がございます。あとは...
アルナールの王位奪取を支援しようというのである。
もちろん無償ではなく条件がある。
カペー家の婿養子になる事と、シチリア王国の帝国への臣従で...
廃嫡への恐怖がアルナールの判断を狂わせた。
1226年11月27日
ルイはアルナールをサッスオロ男爵に叙し封建主従関係を締結。
同日、シチリア王国に宣戦を布告した。
帝国常備軍とイタリア諸侯軍は半島を南下し、シエナでシチリ...
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シエナの戦い
南イタリアの諸都市は次々と陥落していき、抵抗する術を失っ...
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シチリア獲得
1229年5月13日
シチリア王に即位したアルナールはローマ帝国への忠誠を表明。
南イタリアは帝国に編入された。
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シチリアの愚王アルナール カペー家の婿養子
余談だが前シチリア王ステファンは退位の翌月に病没している。
アルナールの軽挙は全くの無駄だったのである。
こうしてローマ帝国は再興からわずか10年でハンガリーとシチ...
**家族関係 [#geab861b]
1224年6月6日
ポルトガル王ウスターシュは弟ロタールのレオン王位を要求し...
イベリアは一時騒然となる。
帝国は王権法により封臣同士の戦争を禁じているが、イベリア...
皇帝ルイは弟たちの争いに激怒したがどうすることも出来ずた...
結局、この争いは5年も続いた挙句痛み分けに終わる。
1229年11月3日
ポルトガル王ウスターシュがサンティアゴの領有権を主張しガ...
1229年2月2日
レオン王ロタールがトレドの領有権を主張しトレド女公アルド...
1230年7月18日
大臣ラモン・ベレンガーが死去。
後任の大臣に選ばれたのはエルサレム王エドゥアールである。
エドゥアールはルイの次弟で優れた外交手腕をもち、やんちゃ...
1230年7月20日
皇后ブルンヒルデが53歳で薨去。
皇太子シャルルが上ブルゴーニュ公を継承した。
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上ブルゴーニュ公シャルル 後の皇帝シャルル1世
ルイは再婚した。
相手はイタリアの下級貴族出身のアンナである。
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後妻アンナ 地中海顔は失敗作だと言わざる負えない
**ガリシア征服 [#i9135563]
1230年10月26日
大臣エドゥアールはルイがコルーニャ伯領の正統な領有権を有...
ルイはガリシア王ボソンに宣戦を布告した。
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ガリシアごとき小国は我が帝国の敵ではない
1230年11月2日
上ロレーヌ公ディートリヒは上ブルゴーニュ公の領有権を主張。
公シャルルに宣戦を布告した。
ディートリヒはシャルルの妻バルバラの父親である。
弟たちの抗争に続き、今度は息子とその義父の抗争である。
心労がルイの健康を蝕んでいった。
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ロレーヌ・ブルゴーニュ戦争
この戦争は長期化し、終結するのはシャルルが皇位を継承した...
1232年1月3日
ガリシア王ボソンは降伏。
コルーニャ伯領はルイの支配下に入った。
同日、ルイはガリシアの王にして公であると宣言。
王位と公位を剥奪されたボソンはカラトラヴァ伯に転落した。
翌月にはハダホス公ムーニョも帝国に臣従している。
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戦後のイベリア カラトラヴァ伯ボソンはこの後カスティーリ...
1232年2月24日
バレンシア公ロウボーはラマンチャの領有権を主張しカスティ...
カスティーリャは諸勢力の草刈り場になっていた。
**崩御 [#jd2cef83]
1232年3月19日
家令ウンベールが87歳で死去した。
旧ブルゴーニュ公家の嫡流に生まれたウンベールはフィリップ...
家令としての在職年数は実に61年もの長きに及ぶ。
後任の家令に選ばれたのはサンセポルクロ男爵ルノーであるが...
1232年3月27日
重臣の死で気弱になったルイに明るい知らせがもたらされた。
後妻アンナが男児ギシャールを産んだのである。
>「兄上、男の子が生まれましたぞ!」
大臣エドゥアールの報告にルイは笑みを浮かべたが、体調が回...
>「モンゴルが新たな西征軍を派遣したとの報告も入っておりま...
>「それはシャルルの仕事だ。朕はもう疲れた。そろそろ休ませ...
1232年4月16日
皇帝ルイ1世は崩御した。
享年57
「そろそろ休ませてくれ」
ローマ帝国を再興しモンゴルの脅威を取り除いた偉大な皇帝の...
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**後世の評価 [#x86e9c2b]
ローマ帝国を再興したルイは偉大な皇帝として多くの物語の題...
特にモンゴルを撃退しハンガリーを解放したことは重要で、も...
他にもイタリア半島の大部分を帝国に組み込むなど、軍事・外...
ただルイ自身は最後まで己をフランス王と考えていたフシがあ...
ローマ帝国それ自体にはあまり思い入れはなかったと云われて...
フランス王国からローマ帝国への転換は次のシャルル1世に引...
**あとがき [#x94eb2d4]
絶妙のタイミングで十字軍が発動しましたね。
お陰で一度の戦争でイルハンを退場させることができました。
おまけにハンガリーまでゲット出来たので言うことなしですね...
あと、シチリアを獲得したやり方はこれを読んでる方なら誰も...
まあ、このAARでは自重は一切しませんから、今後もこのや...
ただ、大きくなりすぎた為に綻びも出始めてるのが気になる所...
一族に王国を与えるのはリスクが大きいので、本来なら皇帝に...
次の目標は次章で明かします。
幕間2 1232年のローマ帝国へ[[AAR/王朝序曲/1232年のローマ...
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