AAR/王朝序曲/皇帝シャルル1世の治世・後編
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[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝シャルル1世の治世・後編 [#c824f20b]
**エーラーン・シャフル [#sd8c8d47]
シャルル1世は後世『聖帝』と讃えられる。
大帝でも征服帝でもなく聖帝と呼ばれるのは、彼の戦争がほと...
もちろんシャルルは異教徒とばかり戦ってきたわけではない。
しかしそれもキリスト教世界の支配者たるローマ皇帝の崇高な...
1269年4月23日
シャルルはワルドー派のデンマーク王グレゲレスに聖戦を布告...
目的はユトランド半島の解放である。
デンマークは960年にハーラル青歯王が洗礼を受けて以来のカト...
カトリーヌは1250年に89歳で崩御したがその宗教政策は継続さ...
#ref(080_1269.jpg,nolink)
異端の半島 異端は腐ったリンゴと同じ。放っておいたら周辺...
帝国が宗教的情熱のもとに汚物を消毒していた同じころ、東欧...
1269年1月29日
神聖ローマ皇帝カール3世はボヘミア王国に宣戦を布告。
わずか半年でこれを降しその王位を簒奪した。
ボヘミアは66年ぶりに神聖ローマ帝国に帰って来たのである。
中東ではシーア派カリフのムンチェレン朝とスンニ派カリフの...
アッバース朝はビザンティン帝国とも交戦状態にありいずれも...
1269年5月18日
アッバース朝《カリフ》バヒル3世が69歳で崩御。息子のイド...
摂政に就任したイブラヒムはこれ以上の戦争継続は不可能と考...
エジプトと講和したアッバース朝は戦力をビザンティン方面に...
世界に激震が走ったのはその年、1270年のことである。
1241年にセルジューク朝を滅ぼしペルシャ全域を支配下に置い...
更にはメソポタミアをも併合せんとアッバース朝に攻勢をかけ...
求心力を失ったジョチ・ウルスは内紛状態にはいりメソポタミ...
各地で民衆反乱が頻発する事態に陥っていた。
ペルシャも例外ではなく、モンゴルに屈従を余儀なくされてい...
ただこの反乱は従来のそれとは大きく異なる特長をもっている。
反乱指導者がイスラム教徒ではなかったのだ。
1270年7月19日
ジョチ・ウルスはペルシャを放棄した。
反乱指導者ホルモズはイスファハーンにおいて《シャー》を称...
後世《解放王ホルモズ》と呼ばれるこの人物は、ゾロアスター...
#ref(081_1270.jpg,nolink)
解放王シャー・ホルモズ ペルシャの地にゾロアスター教国家...
#ref(082_1270.jpg,nolink)
ペルシャ再興後の中東
ホルモズの前半世はよくわかっていない。
後に編纂された王朝史ではサーサーン朝の末裔と記されている...
何より本人が己の過去をほとんど語っておらず、また直系子孫...
ホルモズの出自がどうであれ、そこにゾロアスター国家が樹立...
1270年7月8日
デンマークは降伏しユトランド半島は帝国に併合された。
シャルルは次女ジュリエンヌの夫マスラフをユラン伯に叙し、...
マスラフは婿養子であり、その実家はポーランド王家である。
シャルルの次の標的は明らかであった。
**ポーランド継承戦争 [#w5661f3c]
ポーランド王国は建国以来ピャスト朝の王によって統治されて...
女系でピヤスト家の流れをくむポラジ家とドゥニン家が互いに...
1270年現在、ポーランド王位はドゥニン家のヘレナ女王が保持...
そんな一人がパリの宮廷にいたとなれば、東欧への勢力拡大を...
シャルルはポラジ家のマスラフを次女と婿養子婚させ、征服し...
他国の王位請求者を婿養子にして征服するのはカペー家のお家...
1270年9月2日
帝国はマスラフのポーランド王位を主張しヘレナ女王に宣戦を...
征服軍を率いるのはハンガリー王ベルトク。彼もまたカペー家...
1272年10月4日
ヘレナ女王は降伏。新たに即位したマスラフは帝国に臣従した。
#ref(083_1272.jpg,nolink)
ポーランド王マスラフ 無能だが種さえ残せばそれでよし
**死と誤算 [#a1c0f847]
1269年9月8日
密偵長レオナールが55歳で死去。後任にはアイルランド系フラ...
1270年1月20日
スコットランド王シモンが83歳で崩御。
長男ルイの妻アンナベラはシモンの一人娘であり、これによっ...
しかし事態は予想外の展開となる。
アンナベラに弟が生まれていたのだ。それも、シモン王が亡く...
1271年12月7日
シャルルの二番目の妻マリアが死去。
サルディニア出身のコルネリアと再婚した。
1273年10月22日
元帥テッサロニキ公ラグナールが51歳で死去。
スタニスラフの後継者として若くから将来を嘱望された天才で...
後任には長男のテッサロニキ公エイリフが17歳という異例の若...
#ref(085_1273.jpg,nolink)
元帥テッサロニキ公エイリフ 軍事33の父と比べるとかなり見...
1273年12月10日
ハンガリー王ベルトクが64歳で逝去。長女ベノワトが王位を継...
ベルトクは婿養子であり、ここにアールパード王朝のハンガリ...
**帝国の将来 [#j73ce370]
1273年5月10日
ビザンティン皇帝エイフェミオスが63歳で崩御。
長男デメトリオスが帝位を継承した。
エイフェミオスは退廃の極みにあったドゥーカス朝を打倒して...
1273年5月14日
帝国はビザンティンに聖戦を布告した。
目的はタルノヴォ地方の解放である。
#ref(084_1273.jpg,nolink)
タルノヴォ軍管区 ビザンツは代替わりと休戦協定切れの度に...
1275年6月10日
ビザンティンは降伏しタルノヴォ地方は帝国領となった。
タルノヴォ公にはドイツ貴族のブルノ・フォン・ノルトハイム...
1276年10月23日
ビザンティンでクーデターが起こりデメトリオス帝は廃位。オ...
帝位を簒奪しアイネイダス王朝を開いたセオドトス帝もまた、...
#ref(087_1276.jpg,nolink)
ビザンティン皇帝セオドトス HRE同様、ビザンティンもま...
ビザンティン政変の報告を受けたその夜、大臣ラウルが参内し...
大臣は顧問団の首班であり、事実上の帝国宰相である。
しかしシャルル治世下においては宮廷司祭長オットー(教皇ド...
ラウルは先祖である摂政ラウルと同じく有能な外交官であり、...
しかし今回の参内は自身の進退に関することである。
70歳を越えたラウルは死期が近いことを悟っていたのだ。
>「後任の大臣にはエラール殿下を推挙いたします」
エラールはシャルルの次男アントワーヌの庶長子である。
私生児だがシャルルにとっては初孫であり、自ら養育し実子以...
そのエラールは今年16歳。成人を迎えたばかりであった。
>「殿下の才能には端倪すべからざるものがあります。あの方な...
>「あれの才能は朕も理解しておる。しかし若すぎるのではない...
>「過去、名臣とよばれた者は皆若くして重責を担っております...
直接口には出さなかったが、ラウルは帝国の将来に不安を抱い...
シャルルとオットーという宗教的情熱に裏打ちされた強力なカ...
皇太子ルイは決して凡庸な人物ではないがシャルルのような強...
また、教会との関係も常に良好であり続ける保証など無い。
>「エジプトの大宰相か?しかしあれは危険だ。宰相の力が強す...
シャルルはラウルの考えを見抜いていた。
彼は君主の能力に左右されない統治体制を模索しているのだ。
>「権限を顧問が分担し、その首班たる大臣が皇帝に責任を負う...
>「それでは今と変わらぬではないか」
>「顧問団に役人の人事権を付与します。もちろん最終決定権は...
>「役人の俸給はどうするのだ。土地か?金か?それは誰が出す...
>「国家が出します」
>「国家とは朕のことだ」
>「いえ、そういう意味ではなく…」
>「もうよい。そんな話はどうでもよい。そんな事より、そちの...
>「イスラム改宗で政情不安が続いておりますな。新王朝もはた...
>「違う!皇帝が変わったということは、だ。休戦協定が無効に...
ラウルの構想は現代の内閣制度のようなものであった。
しかしそれが実現するのはまだ先の話である。
1276年12月3日
大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウルは70年の生涯を閉じた。
後任の大臣にはエラールが選ばれた。
**巨星墜つ [#q18ce043]
1276年11月24日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告した。
目的はヴィディン地方の解放である。
#ref(088_1276.jpg,nolink)
ヴィディン軍管区 ここを獲ればブルガリア王国創設の条件が...
帝国は諸王に軍役を課し、総勢30万の大軍をもってビザンテ...
#ref(089_1277.jpg,nolink)
プラヴの戦い この戦いでビザンティンの主力は壊滅した
1278年5月24日
セオドトス帝は降伏。ヴィディン地方は帝国に編入された。
同日、シャルルはブルガリア王国を創設しその王位に就いた。
#ref(092_1278.jpg,nolink)
ブルガリア王国創設
また、大臣エラールをヴィディン公に封じ征服地の統治を委ね...
#ref(093_1278.jpg,nolink)
大臣ヴィディン公エラール シャルルの次男アントワーヌの庶...
シャルルはエラールを溺愛していた。
本当はブルガリア王位を授けたかったのだが、私生児は家名を...
王位が他姓に移る事態は避けねばならない。
家臣たちにこう説得されればシャルルも諦めざるおえなかった。
1278年6月25日
教皇ドヌス3世こと宮廷司祭長オットーが逝去。62歳であった。
ザーリアー家という名門に生まれながら生涯を神と帝国に捧げ...
最後の審判が近いと信じ、ひとりでも多くの魂を救済する事が...
帝国と教会の一体化を唱え、神権的帝政を実現したのもオット...
シャルルとオットーは主従であり、師弟であり、そして盟友で...
後任の教皇にはフランク人のユリウス2世が、宮廷司祭長には...
いずも非凡な人物であるが、オットーのように皇帝の人格にま...
巨人の時代は終わったのである。
#ref(090_1278.jpg,nolink)
教皇ユリウス2世 有能には違いないがオットーの衣鉢を継ぐ...
1278年8月20日
密偵長ルイが暗殺された。
当然、徹底的な捜査が行われたが下手人が判明することは最後...
後任の密偵長にはトゥールーズ公ウンベールが任命された。
#ref(094_1278.jpg,nolink)
1278年の顧問団 全員が公爵級になるのはカペー朝史上初めて
**聖戦の系譜 [#m082957c]
ヴェネツィア共和国はピサ共和国と勢力を二分する大海洋共和...
一時はアドリア海の女王と謳われるほど勢威を振るったが、116...
ビザンティンはヴェネツィアに軍管区を置き、以後マルグニオ...
しかし1276年の政変以降は自立の動きを見せており、1278年の...
1279年4月11日
帝国はヴェネツィア総督レオスセネスに聖戦を布告。
僅か半年でこれを降し帝国に併合した。
1279年10月14日
シャルルはポルトガル王ティボーの次男のエリーをヴェネツィ...
都市に自治権を付与し共和政体を復興せしめた。
#ref(095_1279.jpg,nolink)
ヴェネツィア総督エリー・カペー 公爵級の共和国はカペー王...
1280年4月22日
帝国はクロアチア総督フォカスに聖戦を布告。
フォカスもまた、政変に便乗してビザンティン皇帝から独立し...
1282年3月10日
クロアチア総督は降伏し帝国に併合された。
シャルルはクロアチア大司教領を創設し、デ・ギュネ家のラン...
**第三次ツェーリンゲン王朝 [#r130ef40]
1281年11月19日
シャルルは教皇ユリウス2世を通して神聖ローマ皇帝カール3...
カールに破門されるほどの罪状があったわけではない。
あえて罪をあげつらうならば、皇帝を僭称していること事態が...
天空に太陽はふたつとなく、地上に皇帝はただ一人なのだから。
#ref(096_1281.jpg,nolink)
偽帝死すべし
カール3世は王権の強化を目指し大諸侯たちと抗争状態にあっ...
そこに破門がきたのだから、反乱軍はさらに勢いづく。
#ref(097_1283.jpg,nolink)
いつもの光景
1283年7月15日
帝国はアルベンガ男爵ギーのサヴォイア公位を主張し神聖ロー...
ドイツの内乱につけこみ領土を拡大するのもカペー家のお家芸...
1284年1月1日
カール3世は降伏。
サヴォイア公領は帝国に編入された。
カール3世にはもう戦いを続ける力は残っていなかったのであ...
1284年1月30日
カール3世は退位し、第二次ザーリアー王朝は40年の歴史に幕...
諸侯は廃帝ジークフリート2世を復位させ、ここに第三次ツェ...
#ref(100_1284.jpg,nolink)
神聖ローマ皇帝ジークフリート2世 40年ぶりに帝位に返り咲...
なお、廃位されたカール3世はボヘミア王として、ツェーリン...
**アナトリア十字軍 [#z35034ab]
1284年3月30日
ビザンティン皇帝セオドトスが63歳で崩御。長男アナトリオス...
これは休戦協定の無効化を意味する。
1285年1月19日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告。
目的はデュラッチオン地方の解放である。
#ref(101_1285.jpg,nolink)
デュラッチオン軍管区 聖戦ラッシュでビザンツを消滅させる...
実はここ数代、カペーの君主は直轄領から兵を招集したことが...
戦争は近衛軍(常備軍)と分家諸王国からの動員兵だけで十分...
1285年3月1日
パリで農民反乱が発生した。
留守を預かる大臣エラールはアンジュー公とブルターニュ公の...
1285年4月1日
今度は中東ネジブで農民反乱が発生した。
ディラッチオンに向かっていたエルサレム王軍は転進しこれの...
1285年5月7日
ブルグント王シャルルの弟ポエモンが挙兵した。
ポエモンは皇帝シャルルの甥にあたるが、兄王から領地を分け...
2年前に宮廷を出奔。各地で兵を募り、イングランド征服の兵...
#ref(102_1285.jpg,nolink)
ポエモンの乱 何故イングランドなのかは謎
エラールは直轄領の兵を招集した。
また、イングランド諸侯に動員をかけたのみならず、フランス...
フランス国内で対規模な招集が行われるのは異例の事である。
1286年2月24日
神聖ローマ皇帝ジークフリート2世が64歳で崩御。長男カスパ...
1286年7月10日
ビザンティン帝国は降伏しデュラッチオンは帝国に併合された。
シャルルは家令アランの実弟リワル・セルネウをデュラッチオ...
1286年7月29日
教皇ユリウス2世はアナトリア解放を掲げ十字軍を布告した。
帝国軍はいまだギリシャの地にあり、敵地は目と鼻の先である。
教皇が皇帝の封臣である事も考えると、この十字軍が多分に政...
#ref(104_1286.jpg,nolink)
アナトリア十字軍 絶妙のタイミングで発動
敗戦直後のビザンティンはすでに虫の息である。
帝国軍は遠征軍をそのまま十字軍に投入し異教徒の地を蹂躙し...
更に朗報も届けられた。ポエモンを捕縛したのである。
1287年1月30日
ガリシア王ギシャールが病を得て陣没した。
ギシャールはシャルルの弟である。長男ルノーが王位を継承し...
ビザンティン皇帝アナトリオスもただ蹂躙されるにまかせてい...
全土から兵をかき集め2万の軍勢を揃えると侵略者を撃退すべ...
#ref(105_1287.jpg,nolink)
バルの戦い 敗戦直後でありながら2万近い軍勢を集めるビザ...
しかし抵抗もそれが精一杯であった。
1288年2月19日
ビザンティン帝国はアナトリアの放棄を決定。
十字軍はカトリックの勝利に終わったのである。
#ref(106_1288.jpg,nolink)
十字軍終結 アナトリアは帝国に併合された。
1288年2月20日
アナトリア王位に就いたシャルルは新領土の封建を行った。
アナトリア大司教にロルゲー・ド・ドーフィネ
トゥラセシア大司教にアルノー・リムーザン
キリキア公にブルゴーニュ公家傍流のルイ・カペー
バフラゴニア公に先に反乱を起こしたブルグント王子ポエモン...
アルメニアコン公にベリー公家傍流のアルフォンス・カロリング
トレビゾンド公に武人として活躍したロベール・ド・グリソン
カルシアノン公に皇后コルネリアの遠縁にあたるレオン・ド・...
カペー家やカロリング家は妥当な人事といえるが、それ以外は...
旧来の貴族層の特権を考慮しないこの人事は諸侯の反発を買っ...
シャルルの度量の広さとも言えるし、見方を変えれば老獪な思...
貴族たちの興味をポエモンに向けることで寒門の抜擢に対する...
そして一度やってしまえばそれは前例となるのである。
**イタリア戦争 [#e71f5a87]
>「陛下がアンコーナ、ウルビーノ、ヴェローナ、マントヴァ、...
大臣エラールが恭しく古文書を提示する。
前大臣ラウルから50年かけて獲得してきたイタリア5州の請求...
#ref(107_1288.jpg,nolink)
シャルルが正統な継承権を主張する5州 もちろん捏造である
1288年7月9日
帝国は神聖ローマ皇帝カスパーに宣戦を布告した。
目的はもちろんイタリアである。
#ref(108_1289.jpg,nolink)
ヴァーレンの戦い 一方的な虐殺である
シャルルは開戦に先立ち神聖ローマ皇帝カスパーを破門してい...
ローマ皇帝を僭称するものは例外なく破門する。
教会をも支配するシャルルに不可能な事などなかった。
1290年3月24日
カスパーは降伏しイタリア5州はシャルルの領有するところと...
#ref(109_1290.jpg,nolink)
イタリア戦争終結
同日、シャルルはフィクトル・フォン・ポメルンをヴェローナ...
イタリア半島で帝国に属さないのはピサ共和国が領有するビオ...
しかしその征服は次の代に持ち越されることになる。
#ref(110_1290.jpg,nolink)
イタリア戦争終結後の帝国 次のターゲットはドイツ
#ref(111_1290.jpg,nolink)
動員兵力 60万を超えました HRE、アッバース朝、モクス...
**崩御 [#d45e4966]
イタリア戦争の後もシャルルは意気軒昂であった。
次なる目的をドイツ征服に定め、ドイツ王アルノルトの三男ジ...
しかしこれらの計画がシャルルの生前に実現する事はなかった。
1290年1月6日
娘婿のポーランド王マスラフが42歳で逝去。長男のエドリクが...
こうしてポーランドもカペー朝のものとなった。
1290年8月6日
シャルルは病床につく。
彼は死を恐れてはいない。
天国に行きたいという若き日の望みが叶えられようとしている...
1290年10月19日
皇帝シャルル1世は崩御した。
享年83
生涯を神に捧げ、神の名のもとに征服戦争を繰り返した聖帝の...
#ref(112_1290.jpg,nolink)
**後世の評価 [#f9416663]
二度の十字軍に勝利し帝国の領土を大きく拡大したシャルルの...
シャルルの元でローマ帝国は世界帝国に発展していく基板を築...
それは軍事外交面だけではなく、帝国の統治機構のあり方につ...
皇帝が聖俗両面で絶対的な権威をもつ神権的帝政の構築がそれ...
しかしこの体制は皇帝個人の資質に大きく依存する。
皇帝の個人的力量に左右されない官僚機構の構築が、帝国を永...
しかしそれが実現するのはもう少し先の話であった。
**あとがき [#ucb20c4a]
前回もそうでしたが十字軍は美味しいです。
このAARでは今回までに6回十字軍が発動してますが、全部...
勲功第一位が総取りですから。
今回のプレイで一番驚いたのはビザンティンのイスラム化。こ...
ゾロアスター教の復活も胸熱ですが…まあ、長くは持たないでし...
ここまで大国になってしまうと完全に塗り絵状態で見てても面...
当面の目標はHREとビザンツの完全併合。その先は…全世界カ...
皇帝ルイ2世の治世へ[[AAR/王朝序曲/皇帝ルイ2世の治世]]
終了行:
[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝シャルル1世の治世・後編 [#c824f20b]
**エーラーン・シャフル [#sd8c8d47]
シャルル1世は後世『聖帝』と讃えられる。
大帝でも征服帝でもなく聖帝と呼ばれるのは、彼の戦争がほと...
もちろんシャルルは異教徒とばかり戦ってきたわけではない。
しかしそれもキリスト教世界の支配者たるローマ皇帝の崇高な...
1269年4月23日
シャルルはワルドー派のデンマーク王グレゲレスに聖戦を布告...
目的はユトランド半島の解放である。
デンマークは960年にハーラル青歯王が洗礼を受けて以来のカト...
カトリーヌは1250年に89歳で崩御したがその宗教政策は継続さ...
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異端の半島 異端は腐ったリンゴと同じ。放っておいたら周辺...
帝国が宗教的情熱のもとに汚物を消毒していた同じころ、東欧...
1269年1月29日
神聖ローマ皇帝カール3世はボヘミア王国に宣戦を布告。
わずか半年でこれを降しその王位を簒奪した。
ボヘミアは66年ぶりに神聖ローマ帝国に帰って来たのである。
中東ではシーア派カリフのムンチェレン朝とスンニ派カリフの...
アッバース朝はビザンティン帝国とも交戦状態にありいずれも...
1269年5月18日
アッバース朝《カリフ》バヒル3世が69歳で崩御。息子のイド...
摂政に就任したイブラヒムはこれ以上の戦争継続は不可能と考...
エジプトと講和したアッバース朝は戦力をビザンティン方面に...
世界に激震が走ったのはその年、1270年のことである。
1241年にセルジューク朝を滅ぼしペルシャ全域を支配下に置い...
更にはメソポタミアをも併合せんとアッバース朝に攻勢をかけ...
求心力を失ったジョチ・ウルスは内紛状態にはいりメソポタミ...
各地で民衆反乱が頻発する事態に陥っていた。
ペルシャも例外ではなく、モンゴルに屈従を余儀なくされてい...
ただこの反乱は従来のそれとは大きく異なる特長をもっている。
反乱指導者がイスラム教徒ではなかったのだ。
1270年7月19日
ジョチ・ウルスはペルシャを放棄した。
反乱指導者ホルモズはイスファハーンにおいて《シャー》を称...
後世《解放王ホルモズ》と呼ばれるこの人物は、ゾロアスター...
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解放王シャー・ホルモズ ペルシャの地にゾロアスター教国家...
#ref(082_1270.jpg,nolink)
ペルシャ再興後の中東
ホルモズの前半世はよくわかっていない。
後に編纂された王朝史ではサーサーン朝の末裔と記されている...
何より本人が己の過去をほとんど語っておらず、また直系子孫...
ホルモズの出自がどうであれ、そこにゾロアスター国家が樹立...
1270年7月8日
デンマークは降伏しユトランド半島は帝国に併合された。
シャルルは次女ジュリエンヌの夫マスラフをユラン伯に叙し、...
マスラフは婿養子であり、その実家はポーランド王家である。
シャルルの次の標的は明らかであった。
**ポーランド継承戦争 [#w5661f3c]
ポーランド王国は建国以来ピャスト朝の王によって統治されて...
女系でピヤスト家の流れをくむポラジ家とドゥニン家が互いに...
1270年現在、ポーランド王位はドゥニン家のヘレナ女王が保持...
そんな一人がパリの宮廷にいたとなれば、東欧への勢力拡大を...
シャルルはポラジ家のマスラフを次女と婿養子婚させ、征服し...
他国の王位請求者を婿養子にして征服するのはカペー家のお家...
1270年9月2日
帝国はマスラフのポーランド王位を主張しヘレナ女王に宣戦を...
征服軍を率いるのはハンガリー王ベルトク。彼もまたカペー家...
1272年10月4日
ヘレナ女王は降伏。新たに即位したマスラフは帝国に臣従した。
#ref(083_1272.jpg,nolink)
ポーランド王マスラフ 無能だが種さえ残せばそれでよし
**死と誤算 [#a1c0f847]
1269年9月8日
密偵長レオナールが55歳で死去。後任にはアイルランド系フラ...
1270年1月20日
スコットランド王シモンが83歳で崩御。
長男ルイの妻アンナベラはシモンの一人娘であり、これによっ...
しかし事態は予想外の展開となる。
アンナベラに弟が生まれていたのだ。それも、シモン王が亡く...
1271年12月7日
シャルルの二番目の妻マリアが死去。
サルディニア出身のコルネリアと再婚した。
1273年10月22日
元帥テッサロニキ公ラグナールが51歳で死去。
スタニスラフの後継者として若くから将来を嘱望された天才で...
後任には長男のテッサロニキ公エイリフが17歳という異例の若...
#ref(085_1273.jpg,nolink)
元帥テッサロニキ公エイリフ 軍事33の父と比べるとかなり見...
1273年12月10日
ハンガリー王ベルトクが64歳で逝去。長女ベノワトが王位を継...
ベルトクは婿養子であり、ここにアールパード王朝のハンガリ...
**帝国の将来 [#j73ce370]
1273年5月10日
ビザンティン皇帝エイフェミオスが63歳で崩御。
長男デメトリオスが帝位を継承した。
エイフェミオスは退廃の極みにあったドゥーカス朝を打倒して...
1273年5月14日
帝国はビザンティンに聖戦を布告した。
目的はタルノヴォ地方の解放である。
#ref(084_1273.jpg,nolink)
タルノヴォ軍管区 ビザンツは代替わりと休戦協定切れの度に...
1275年6月10日
ビザンティンは降伏しタルノヴォ地方は帝国領となった。
タルノヴォ公にはドイツ貴族のブルノ・フォン・ノルトハイム...
1276年10月23日
ビザンティンでクーデターが起こりデメトリオス帝は廃位。オ...
帝位を簒奪しアイネイダス王朝を開いたセオドトス帝もまた、...
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ビザンティン皇帝セオドトス HRE同様、ビザンティンもま...
ビザンティン政変の報告を受けたその夜、大臣ラウルが参内し...
大臣は顧問団の首班であり、事実上の帝国宰相である。
しかしシャルル治世下においては宮廷司祭長オットー(教皇ド...
ラウルは先祖である摂政ラウルと同じく有能な外交官であり、...
しかし今回の参内は自身の進退に関することである。
70歳を越えたラウルは死期が近いことを悟っていたのだ。
>「後任の大臣にはエラール殿下を推挙いたします」
エラールはシャルルの次男アントワーヌの庶長子である。
私生児だがシャルルにとっては初孫であり、自ら養育し実子以...
そのエラールは今年16歳。成人を迎えたばかりであった。
>「殿下の才能には端倪すべからざるものがあります。あの方な...
>「あれの才能は朕も理解しておる。しかし若すぎるのではない...
>「過去、名臣とよばれた者は皆若くして重責を担っております...
直接口には出さなかったが、ラウルは帝国の将来に不安を抱い...
シャルルとオットーという宗教的情熱に裏打ちされた強力なカ...
皇太子ルイは決して凡庸な人物ではないがシャルルのような強...
また、教会との関係も常に良好であり続ける保証など無い。
>「エジプトの大宰相か?しかしあれは危険だ。宰相の力が強す...
シャルルはラウルの考えを見抜いていた。
彼は君主の能力に左右されない統治体制を模索しているのだ。
>「権限を顧問が分担し、その首班たる大臣が皇帝に責任を負う...
>「それでは今と変わらぬではないか」
>「顧問団に役人の人事権を付与します。もちろん最終決定権は...
>「役人の俸給はどうするのだ。土地か?金か?それは誰が出す...
>「国家が出します」
>「国家とは朕のことだ」
>「いえ、そういう意味ではなく…」
>「もうよい。そんな話はどうでもよい。そんな事より、そちの...
>「イスラム改宗で政情不安が続いておりますな。新王朝もはた...
>「違う!皇帝が変わったということは、だ。休戦協定が無効に...
ラウルの構想は現代の内閣制度のようなものであった。
しかしそれが実現するのはまだ先の話である。
1276年12月3日
大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウルは70年の生涯を閉じた。
後任の大臣にはエラールが選ばれた。
**巨星墜つ [#q18ce043]
1276年11月24日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告した。
目的はヴィディン地方の解放である。
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ヴィディン軍管区 ここを獲ればブルガリア王国創設の条件が...
帝国は諸王に軍役を課し、総勢30万の大軍をもってビザンテ...
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プラヴの戦い この戦いでビザンティンの主力は壊滅した
1278年5月24日
セオドトス帝は降伏。ヴィディン地方は帝国に編入された。
同日、シャルルはブルガリア王国を創設しその王位に就いた。
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ブルガリア王国創設
また、大臣エラールをヴィディン公に封じ征服地の統治を委ね...
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大臣ヴィディン公エラール シャルルの次男アントワーヌの庶...
シャルルはエラールを溺愛していた。
本当はブルガリア王位を授けたかったのだが、私生児は家名を...
王位が他姓に移る事態は避けねばならない。
家臣たちにこう説得されればシャルルも諦めざるおえなかった。
1278年6月25日
教皇ドヌス3世こと宮廷司祭長オットーが逝去。62歳であった。
ザーリアー家という名門に生まれながら生涯を神と帝国に捧げ...
最後の審判が近いと信じ、ひとりでも多くの魂を救済する事が...
帝国と教会の一体化を唱え、神権的帝政を実現したのもオット...
シャルルとオットーは主従であり、師弟であり、そして盟友で...
後任の教皇にはフランク人のユリウス2世が、宮廷司祭長には...
いずも非凡な人物であるが、オットーのように皇帝の人格にま...
巨人の時代は終わったのである。
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教皇ユリウス2世 有能には違いないがオットーの衣鉢を継ぐ...
1278年8月20日
密偵長ルイが暗殺された。
当然、徹底的な捜査が行われたが下手人が判明することは最後...
後任の密偵長にはトゥールーズ公ウンベールが任命された。
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1278年の顧問団 全員が公爵級になるのはカペー朝史上初めて
**聖戦の系譜 [#m082957c]
ヴェネツィア共和国はピサ共和国と勢力を二分する大海洋共和...
一時はアドリア海の女王と謳われるほど勢威を振るったが、116...
ビザンティンはヴェネツィアに軍管区を置き、以後マルグニオ...
しかし1276年の政変以降は自立の動きを見せており、1278年の...
1279年4月11日
帝国はヴェネツィア総督レオスセネスに聖戦を布告。
僅か半年でこれを降し帝国に併合した。
1279年10月14日
シャルルはポルトガル王ティボーの次男のエリーをヴェネツィ...
都市に自治権を付与し共和政体を復興せしめた。
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ヴェネツィア総督エリー・カペー 公爵級の共和国はカペー王...
1280年4月22日
帝国はクロアチア総督フォカスに聖戦を布告。
フォカスもまた、政変に便乗してビザンティン皇帝から独立し...
1282年3月10日
クロアチア総督は降伏し帝国に併合された。
シャルルはクロアチア大司教領を創設し、デ・ギュネ家のラン...
**第三次ツェーリンゲン王朝 [#r130ef40]
1281年11月19日
シャルルは教皇ユリウス2世を通して神聖ローマ皇帝カール3...
カールに破門されるほどの罪状があったわけではない。
あえて罪をあげつらうならば、皇帝を僭称していること事態が...
天空に太陽はふたつとなく、地上に皇帝はただ一人なのだから。
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偽帝死すべし
カール3世は王権の強化を目指し大諸侯たちと抗争状態にあっ...
そこに破門がきたのだから、反乱軍はさらに勢いづく。
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いつもの光景
1283年7月15日
帝国はアルベンガ男爵ギーのサヴォイア公位を主張し神聖ロー...
ドイツの内乱につけこみ領土を拡大するのもカペー家のお家芸...
1284年1月1日
カール3世は降伏。
サヴォイア公領は帝国に編入された。
カール3世にはもう戦いを続ける力は残っていなかったのであ...
1284年1月30日
カール3世は退位し、第二次ザーリアー王朝は40年の歴史に幕...
諸侯は廃帝ジークフリート2世を復位させ、ここに第三次ツェ...
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神聖ローマ皇帝ジークフリート2世 40年ぶりに帝位に返り咲...
なお、廃位されたカール3世はボヘミア王として、ツェーリン...
**アナトリア十字軍 [#z35034ab]
1284年3月30日
ビザンティン皇帝セオドトスが63歳で崩御。長男アナトリオス...
これは休戦協定の無効化を意味する。
1285年1月19日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告。
目的はデュラッチオン地方の解放である。
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デュラッチオン軍管区 聖戦ラッシュでビザンツを消滅させる...
実はここ数代、カペーの君主は直轄領から兵を招集したことが...
戦争は近衛軍(常備軍)と分家諸王国からの動員兵だけで十分...
1285年3月1日
パリで農民反乱が発生した。
留守を預かる大臣エラールはアンジュー公とブルターニュ公の...
1285年4月1日
今度は中東ネジブで農民反乱が発生した。
ディラッチオンに向かっていたエルサレム王軍は転進しこれの...
1285年5月7日
ブルグント王シャルルの弟ポエモンが挙兵した。
ポエモンは皇帝シャルルの甥にあたるが、兄王から領地を分け...
2年前に宮廷を出奔。各地で兵を募り、イングランド征服の兵...
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ポエモンの乱 何故イングランドなのかは謎
エラールは直轄領の兵を招集した。
また、イングランド諸侯に動員をかけたのみならず、フランス...
フランス国内で対規模な招集が行われるのは異例の事である。
1286年2月24日
神聖ローマ皇帝ジークフリート2世が64歳で崩御。長男カスパ...
1286年7月10日
ビザンティン帝国は降伏しデュラッチオンは帝国に併合された。
シャルルは家令アランの実弟リワル・セルネウをデュラッチオ...
1286年7月29日
教皇ユリウス2世はアナトリア解放を掲げ十字軍を布告した。
帝国軍はいまだギリシャの地にあり、敵地は目と鼻の先である。
教皇が皇帝の封臣である事も考えると、この十字軍が多分に政...
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アナトリア十字軍 絶妙のタイミングで発動
敗戦直後のビザンティンはすでに虫の息である。
帝国軍は遠征軍をそのまま十字軍に投入し異教徒の地を蹂躙し...
更に朗報も届けられた。ポエモンを捕縛したのである。
1287年1月30日
ガリシア王ギシャールが病を得て陣没した。
ギシャールはシャルルの弟である。長男ルノーが王位を継承し...
ビザンティン皇帝アナトリオスもただ蹂躙されるにまかせてい...
全土から兵をかき集め2万の軍勢を揃えると侵略者を撃退すべ...
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バルの戦い 敗戦直後でありながら2万近い軍勢を集めるビザ...
しかし抵抗もそれが精一杯であった。
1288年2月19日
ビザンティン帝国はアナトリアの放棄を決定。
十字軍はカトリックの勝利に終わったのである。
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十字軍終結 アナトリアは帝国に併合された。
1288年2月20日
アナトリア王位に就いたシャルルは新領土の封建を行った。
アナトリア大司教にロルゲー・ド・ドーフィネ
トゥラセシア大司教にアルノー・リムーザン
キリキア公にブルゴーニュ公家傍流のルイ・カペー
バフラゴニア公に先に反乱を起こしたブルグント王子ポエモン...
アルメニアコン公にベリー公家傍流のアルフォンス・カロリング
トレビゾンド公に武人として活躍したロベール・ド・グリソン
カルシアノン公に皇后コルネリアの遠縁にあたるレオン・ド・...
カペー家やカロリング家は妥当な人事といえるが、それ以外は...
旧来の貴族層の特権を考慮しないこの人事は諸侯の反発を買っ...
シャルルの度量の広さとも言えるし、見方を変えれば老獪な思...
貴族たちの興味をポエモンに向けることで寒門の抜擢に対する...
そして一度やってしまえばそれは前例となるのである。
**イタリア戦争 [#e71f5a87]
>「陛下がアンコーナ、ウルビーノ、ヴェローナ、マントヴァ、...
大臣エラールが恭しく古文書を提示する。
前大臣ラウルから50年かけて獲得してきたイタリア5州の請求...
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シャルルが正統な継承権を主張する5州 もちろん捏造である
1288年7月9日
帝国は神聖ローマ皇帝カスパーに宣戦を布告した。
目的はもちろんイタリアである。
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ヴァーレンの戦い 一方的な虐殺である
シャルルは開戦に先立ち神聖ローマ皇帝カスパーを破門してい...
ローマ皇帝を僭称するものは例外なく破門する。
教会をも支配するシャルルに不可能な事などなかった。
1290年3月24日
カスパーは降伏しイタリア5州はシャルルの領有するところと...
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イタリア戦争終結
同日、シャルルはフィクトル・フォン・ポメルンをヴェローナ...
イタリア半島で帝国に属さないのはピサ共和国が領有するビオ...
しかしその征服は次の代に持ち越されることになる。
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イタリア戦争終結後の帝国 次のターゲットはドイツ
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動員兵力 60万を超えました HRE、アッバース朝、モクス...
**崩御 [#d45e4966]
イタリア戦争の後もシャルルは意気軒昂であった。
次なる目的をドイツ征服に定め、ドイツ王アルノルトの三男ジ...
しかしこれらの計画がシャルルの生前に実現する事はなかった。
1290年1月6日
娘婿のポーランド王マスラフが42歳で逝去。長男のエドリクが...
こうしてポーランドもカペー朝のものとなった。
1290年8月6日
シャルルは病床につく。
彼は死を恐れてはいない。
天国に行きたいという若き日の望みが叶えられようとしている...
1290年10月19日
皇帝シャルル1世は崩御した。
享年83
生涯を神に捧げ、神の名のもとに征服戦争を繰り返した聖帝の...
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**後世の評価 [#f9416663]
二度の十字軍に勝利し帝国の領土を大きく拡大したシャルルの...
シャルルの元でローマ帝国は世界帝国に発展していく基板を築...
それは軍事外交面だけではなく、帝国の統治機構のあり方につ...
皇帝が聖俗両面で絶対的な権威をもつ神権的帝政の構築がそれ...
しかしこの体制は皇帝個人の資質に大きく依存する。
皇帝の個人的力量に左右されない官僚機構の構築が、帝国を永...
しかしそれが実現するのはもう少し先の話であった。
**あとがき [#ucb20c4a]
前回もそうでしたが十字軍は美味しいです。
このAARでは今回までに6回十字軍が発動してますが、全部...
勲功第一位が総取りですから。
今回のプレイで一番驚いたのはビザンティンのイスラム化。こ...
ゾロアスター教の復活も胸熱ですが…まあ、長くは持たないでし...
ここまで大国になってしまうと完全に塗り絵状態で見てても面...
当面の目標はHREとビザンツの完全併合。その先は…全世界カ...
皇帝ルイ2世の治世へ[[AAR/王朝序曲/皇帝ルイ2世の治世]]
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