AAR/王朝序曲/皇帝シャルル1世の治世・前編
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[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝シャルル1世の治世・前編 [#j727d77a]
**ローマ皇帝 [#naf96ffb]
中世のヨーロッパにおいて皇帝とはローマ皇帝のみを指す。
紀元前27年にアントニウスを滅ぼし内戦を終結させたオクタウ...
これは後継者たちにも受け継がれ、その既成事実を積み重ねる...
したがって、血統はその前提条件ではない。
たしかにローマ帝国やその継承国家たるビザンティン帝国にも...
神聖ローマ帝国もかつては選挙制をとっていたが、有資格者は...
カペー朝フランス王国から発展して成立したローマ帝国もまた...
その体制を築き上げた皇帝こそが、後世「聖帝」と讃えられた...
**いとも敬虔なる皇帝 [#v9ceb9fa]
1233年3月2日
皇后バルバラが男女の双子を出産。
長男はルイ、長女はブルゴーニュと名付けられた。
シャルルは色ごとには関心が薄く子作りも君主としての義務と...
信心深く、性欲だけでなく権力欲とも無縁なシャルルの関心は...
帝国の運営は顧問団に一任されており、特に大臣エドゥアール...
しかしエドゥアールは元来が調整型の政治家であり首班として...
従って現実には顧問たちによる集団指導体制である。
1232年5月9日
カスティーリャ王ボソン1世が45歳で崩御。
同名の長男が王位を継承した。
イベリア半島統一を掲げる帝国はこれを好機としボソン2世に...
1年後の1233年5月6日にはこれを降しカラトラヴァ伯領を帝国領...
この戦争は顧問団が発案し、主に元帥スタニスラフの主導下で...
むろん最終的には皇帝が裁可したのであるが、シャルル自身が...
6月1日にはボソン2世からコルドバ公領を簒奪したが、これも...
帝国の顧問団は確かに優秀でありイベリア半島の制圧は着々と...
しかし都市国家ならともかく、これだけの規模の帝国を集団指...
そもそもローマ帝国を名乗ってはいるがその実態はフランス封...
国軍も官僚機構も存在しないこの時代に独立的な封建諸侯を統...
現に諸侯たちはシャルルを「いとも敬虔なる皇帝」と呼び軽ん...
1233年6月15日
エルサレム王エドゥアールが47歳で逝去。長女サラジーヌがエ...
兄の死から1年。名補佐役は後を追うようにこの世を去った。
後任の大臣に選ばれたマシュー・ド・ノルマンディーはサマセ...
エドゥアールの葬儀を終えた夜、カンタベリー大司教フレデリ...
シャルルは慰留したがフレデリックの決意は固い。
>「そちほどの徳と学識を備え持った司祭は二人とおらぬ。信仰...
>「私のもとに優秀な弟子がおります。年は若いが私の如き愚僧...
>「その若者の名は?」
>「オットー・ザーリアー。ドイツの名門ザーリアー家の末流で...
数日後、オットー・ザーリアーはフレデリックの後任候補とし...
**宮廷司祭長オットー [#d82dfa2f]
オットーは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の7代目の子孫であ...
ザーリアー家はドイツの旧王家で今もドイツ最大の諸侯だがオ...
疫病で妻を亡くし悲嘆に暮れた彼は修道院に入るが、その学識...
しかし現時点では司祭の叙階すら受けていない。
>「朕は天国に行きたい。そちはその方法をご存じか?」
初対面のシャルルから発せられたこの問いに、オットーは躊躇...
>「神に与えられた役割を果たすことです」
>「ほう」
>「人は皆、神から役割を与えられております。僧は民の魂のた...
>「では皇帝の役割とは何か?」
>「神の敵を打ち滅ぼし、異教徒の軛に囚われた哀れな民を正し...
>「聖戦を遂行せよということか」
>「ダニエル書では終末の時が来るまでに四つの世界帝国が興亡...
>「しかしローマ皇帝はギリシャとドイツにもいる。三人の皇帝...
>「ロムルス・アウグストゥルスの廃位によってローマ皇帝の正...
>「ではギリシャの皇帝は僭称者という事になるな。だがドイツ...
>「ドイツの帝位は貴族たちの政争の具と成り果てており皇帝の...
1233年7月10日
オットーは宮廷司祭長に任命された。
以後、死がふたりを分かつまで二人三脚で帝国の拡大に邁進し...
1233年12月20日
オットーはアッシジの司祭に叙任された。
#ref(020_1233.jpg,nolink)
宮廷司祭長オットー 神権的皇帝権の理論的支柱となった若き...
**アイルランドとウェールズ [#u34f5b8c]
1234年10月1日
帝国はブロワ伯イーモンのマンスターに対する請求権を行使。
イングランド諸侯を動員し南アイルランドへの侵攻を開始した。
イーモンはルイ6世の最後の妻タールフラの弟にあたり、姉の...
しかし彼は南アイルランドを支配するブリアン家の出自であり...
イーモンの姉タールフラはルイ6世と死別した後ほどなくして...
1234年11月23日
そのレオン王ロタールが28歳で逝去。長男ニコラが王位を継承...
しかしそのニコラも翌年8歳で夭折。
妹のシャルロッテが女王として即位する事になる。
1235年6月22日
マンスター王イーモン(ブロワ伯イーモンとは別人)は降伏。
ブロワ伯がマンスター公となり、その所領は帝国に属する事に...
#ref(021_1235.jpg,nolink)
マンスター獲得後のブリテン島とアイルランド
この時点でブリテン島とアイルランドには帝国・スコットラン...
ナヴァラ王国は元々はパンプローナに興ったバスク人の王国で...
しかし1197年にイベリア半島の領土を喪失し実質的にはウェー...
1237年5月10日
シャルルはナヴァラ王アンドレアスの弟ブラスコをグラントン...
ブラスコはランカスター女公ボンヌの娘婿であり、その子ヴァ...
シャルルの意図は明らかだった。
1237年6月29日
帝国はナヴァラ王国に宣戦布告。ナヴァラ継承戦争が勃発した。
先のマンスター継承戦争と同様、帝国側の主力はイングランド...
#ref(022_1237.jpg,nolink)
レイヤダーの戦い
1238年10月30日
ナヴァラ王アンドレアスは降伏し、ブラスコが王位を継承した。
こうしてウェールズも帝国の版図に加わったのである。
#ref(023_1238.jpg,nolink)
ナヴァラ王ブラスコ 帝国の操り人形になるハズだったのだが...
またナヴァラ王国領だったアイルランド東部ミース地方も帝国...
同日、シャルルはアイルランド国の創設を宣言。自らその上王...
#ref(024_1238.jpg,nolink)
アイルランド国創設
この一連の戦役を主導した事で、帝国におけるシャルルの指導...
しかし新たにナヴァラ王となったブラスコの存在が後に大きな...
**世代交代 [#hb79d547]
1238年3月8日
密偵長テカが75歳で死去。
ヌビア王家の流れをくむこの黒人は「黒い悪魔」と呼ばれ貴族...
テカは強力な密偵網を構築していたがそれは近代的な諜報機関...
巨大な帝国を謀略から守るためにはテカの密偵網を再構築でき...
後任の密偵長にはブローニュ伯シモンが暫定的に任じられたが...
1238年6月10日
ヴェローナ公の密偵長を務めていたレオナール・デアルチェが...
密偵長に任命されたレオナールはテカが築き上げた密偵網を短...
彼は5年後にはサン・メアン男爵に叙任されることになる。
#ref(026_1238.jpg,nolink)
密偵長レオナール テカの後継者として辣腕を振るうフランク...
1238年12月11日
大臣マシューが51歳で死去。
後任の大臣にはモンフォール・ラムリ男爵ラウルが任命された。
ラウルはフィリップ1世の摂政・大臣を務めた名臣ラウルの6...
#ref(025_1238.jpg,nolink)
大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウル デモー家からの入閣は...
大臣は顧問団の首班であり事実上の帝国宰相である事は先に述...
しかしシャルル治世において宰相の役目を果たしたのは宮廷司...
一方世代交代の波は海外でも進行している。
1237年10月11日
神聖ローマ皇帝ジークフリート2世が成人し親政を開始。
1238年6月15日
かつてハンガリーを征服しヨーロッパを恐怖させたフレグが53...
領地を失って久しいウルスの将来はこの若者に託されることに...
1239年1月28日
ファーティマ朝の《カリフ》ラフィク1世が73歳で死去。長男...
しかしこの段階では世界情勢に大きな変化はみられない。
シャルルも当面はイタリアとスペインの掌握に取り組んでいく...
**イタリア戦役 [#wa978037]
最初の標的はピサである。
ピサ共和国は地中海交易を独占する商業大国であったが軍事的...
1239年12月15日
シャルルはルッカ伯コンスタンティオがもつピサ州への請求権...
僅か3ヶ月後にはこれを征服した。
#ref(027_1240.jpg,nolink)
ピサ伯領を獲得
首都を失った共和国はなおも存続するがそれは既に形骸といっ...
1240年2月18日
大臣ラウルは参内し、カペー家がアプルティウムの正統な統治...
前大臣マシューの代に獲得していたスポレート州の請求権と併...
#ref(028_1240.jpg,nolink)
スポレートとアプルティウム
両州は神聖ローマ帝国に属するが、彼の国は今、恒例の内乱状...
親政を開始したジークフリート2世は帝権の回復を試み王権法...
1241年2月5日
ローマ帝国は神聖ローマ帝国に宣戦布告。
帝国全土から動員した30万の大軍をもってドイツ各地を蹂躙...
#ref(029_1242.jpg,nolink)
ユーリッヒの戦い
国力に大きな開きがある上に慢性的な内乱状態にあるドイツに...
1242年9月8日
ジークフリート2世は降伏し、スポレート公領は帝国に組み込...
#ref(030_1242.jpg,nolink)
スポレート獲得
1242年10月1日
シャルルは宮廷司祭長オットーをスポレート大司教に叙任した。
司祭に叙階されてまだ10年も経っていない、異例のスピード出...
**帝国教会制 [#l33f1b41]
オットーを大司教にしたのには個人的信頼関係もあるが、それ...
帝国はローマを称してはいるが実態は分権的な封建諸侯の寄せ...
その中にあって集権的帝国を作りげていくためにはどうすれば...
教会組織を統治機構に組み込めばよいのである。
これかかつてドイツのザクセン朝が推進した帝国教会政策の模...
シャルルは新たに征服した土地に必ず1つは司教領・大司教領...
カペー家のローマ帝国はまさしくキリスト教帝国であり、その...
しかしこれが教皇庁との間に大きな軋轢を生むことになる。
**カスティーリャ征服 [#h5627969]
1243年11月26日
シャルルはカスティーリャ王ボソン2世に宣戦を布告した。
アラゴン公サヴァリーのもつソリア伯領への請求権を行使した...
1244年11月4日
ボソンは降伏しソリア伯領はアラゴン公の手に渡った。
そしてこれによって、カスティーリャ王国はその領域の過半を...
1244年12月3日
シャルルはカスティーリャ王位を宣言。同時にカスティーリャ...
#ref(038_1244.jpg,nolink)
スペイン最後の独立王国が消滅した
1244年12月9日
レオン女王シャルロッテはサマランカ伯領の領有権を主張して...
ボソンに対抗する術などあるわけもなく、サマランカはレオン...
130年前アンリ2世が夢見たスペイン統一は目前にせまっている。
#ref(040_1245.jpg,nolink)
スペイン統一まであと1州
**世界情勢の激変 [#eece898f]
1242年9月13日
ジョチ・ウルスはペルシャを征服。セルジューク朝は滅亡した。
バトゥがペルシャ遠征に乗り出したのは1241年10月であり、そ...
セルジューク朝は17万の動員力をもつ世界第三位の大国であ...
すでにグルジアやアルメニアもその支配下に入っており、国土...
#ref(034_1242.jpg,nolink)
1242年のジョチ・ウルス
1242年11月17日
エジプトでも政変があり《カリフ》ラフィク2世は廃位された。
新たに即位したのはかつてファーティマ朝を打倒したムンチェ...
25年前に再興を果たしたファーティマ朝は再びムンチェレン朝...
#ref(035_1242.jpg,nolink)
ムンチェレン王朝《カリフ》ハンマード シーア派の指導者
中東の二大勢力が相次いで崩壊したことでイスラム世界は無秩...
真っ先に動いたのはアッバース家、則ちスンニ派の《カリフ》...
トルコの軛から開放された《カリフ》バヒル2世は近隣の首長...
1243年12月14日
バヒル2世はメソポタミアのマリク(王)を宣言。数世紀にわ...
#ref(036_1243.jpg,nolink)
アッバース王朝《カリフ》バヒル2世 スンニ派の指導者
1244年7月30日
ドイツの内乱は反乱軍の勝利に終わった。
ジークフリート2世は廃位され、第二次ツェーリンゲン王朝は...
替わって帝位に就いたカール2世はザーリアー家の出身であり...
#ref(037_1244.jpg,nolink)
神聖ローマ皇帝カール2世 ザーリアー王朝再興を果たすもそ...
こうして短期間に世界情勢が激変したわけだが、その最大のも...
1245年5月17日
ビザンティン皇帝ダニエルが崩御。76歳であった。
後世、ダニエルの死は一つの時代の終わりとして語られる。
一つの時代とは、アルカディウス帝以来連綿と続いてきた東ロ...
勿論、ダニエルの死によってビザンティンが滅亡したわけでは...
新帝セバスティアノスはイスラム教徒だったのである。
#ref(039_1245.jpg,nolink)
ビザンティン皇帝セバスティアノス ムスリム皇帝の出現がビ...
**アプリア聖戦 [#oad8d6f5]
>「背教者セバスティアノスの簒奪をもってギリシャの帝権は失...
ダニエルの死とイスラム教徒の即位を受けて、パリの宮廷では...
その急先鋒はオットーである。
しかしいきなりコンスタンティノープルまで遠征するのは現実...
>「イタリアにはビザンティンに属する土地が残っております。...
大臣ラウルの意見にオットーも賛成し、ここにアプリア聖戦が...
#ref(041_1246.jpg,nolink)
アプリアはイタリア半島に残った最後のビザンティン帝国領で...
1246年1月9日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告。
ハンガリー王ベルトク、シチリア王アルナール、エルサレム女...
1246年4月7日
アテネ属州総督ステファノスがセバスティアノス打倒を掲げて...
これをきっかけにビザンティンでは総督や将軍たちの反乱が相...
危機感を抱いたセバスティアノス帝はかねてより戦争状態にあ...
遠征軍を呼び戻しアプリア防衛と反乱鎮圧に向かわせた。
一方帝国は元帥スタニスラフ率いる近衛騎士団をクロアチアに...
#ref(042_1246.jpg,nolink)
トロギルの戦い この戦いでビザンティンの遠征軍は壊滅した
遠征軍を失ったセバスティアノスはアプリアの放棄を決断した。
もはやイタリアの領地に拘っていられる状況ではない。帝位を...
1246年11月30日
セバスティアノスは降伏し、アプリアは帝国に組み込まれた。
#ref(043_1246.jpg,nolink)
アプリア公領はシチリア王に与えられた
**カトリック世界の危機 [#j849ee09]
1247年7月28日
シャルルはアイルランド上王として北アイルランドのティロン...
実力で以って認めさせるべく兵を起こした。
独立伯が帝国に敵うはずもなく、2人の伯はその年の内に帝国...
ブリテン島とアイルランド島は帝国とスコットランドの二大勢...
#ref(046_1248.jpg,nolink)
残すはスコットランドのみ
1249年3月15日
皇太子ルイとヘブリディーズ諸島伯シモンの娘アンナベラの婚...
シモンはスコットランド女王マーソックの従兄弟だが、マーソ...
つまりアンナベラは未来のスコットランド女王であり、将来の...
#ref(047_1249.jpg,nolink)
順調に推移すれば孫の代にはブリテン島全域が帝国領になる
この縁談を纏め上げたのは大臣ラウルだが、元々カペー家は巧...
古くは1066年に当時の摂政ラウルがフィリップ1世とアキテー...
こうして北の国境問題は当面安泰となったが、ここにきて新た...
1248年8月10日
密偵長レオナールは驚くべき報告書を提出した。
マヨルカ公ジャンが異端のカタリ派に染まっており、領内の封...
マヨルカ公はフィリップ1世の弟ユーグに始まるノルマンディ...
しかし、末流とはいえ皇室の連枝が異端に染まるなどカトリッ...
幸いにもジャンは説得に応じカトリックに復帰したが、シャル...
1249年11月7日
神聖ローマ皇帝カール2世はデンマーク女王カトリーヌに対し...
デンマークは元々カトリック国だが、異端のワルドー派を信仰...
#ref(044_1249.jpg,nolink)
デンマーク女王カトリーヌ デンマークを異端に染め上げた女...
#ref(045_1249.jpg,nolink)
デンマークではワルドー派が多数派を形成している
ビザンティン帝国はイスラム化しデンマークも異端に染まった。
キリスト教世界は危機に瀕している…これがシャルルとオットー...
状況を打開するには十字軍の発動も必要だろう。
しかし十字軍を発動する権限は教皇にある。
いかに皇帝が強大であろうとそれだけは超えられない一線であ...
しかし今の堕落した教皇庁にはそれは期待できない…
オットーは教皇マルケルスの無能に歯がゆさを感じていた。
**皇帝と教皇 [#x11e4371]
”そこで彼らが、「主よ、剣ならこのとおりここに二振りありま...
6世紀の教皇ゲラシウス1世は「ルカによる福音書」に書かれた...
則ち、教皇の宗教的権威と皇帝の世俗的権力はともに神に由来...
もっとも権威と権力の分担は世界的に見てさほど珍しい事では...
しかしこれらはいわゆる二重王権であり、権威者と権力者の間...
徳川将軍は事実上の国王として日本に君臨したがその地位はど...
現実の力関係など問題ではない。
征夷大将軍は朝廷の官職であり、だからこそ大政奉還が理屈と...
しかし教皇と皇帝は理論上対等の関係にある。
中世ヨーロッパは教皇と皇帝という二つの中心をもった楕円構...
「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉もあるが、これは教皇庁...
皇帝は教皇の臣下ではないし、その逆でもないのである。
しかしカトリック世界が危機に瀕する今、皇帝と教皇による双...
**神意の地上代行者 [#n69d4b84]
1248年10月30日
教皇マルケルスは帝国の叙任権を独占するシャルルに対して不...
教皇庁との軋轢を嫌う大臣ラウルと家令ルノーは莫大な宝物を...
しかしオットーはこの決定に不満を抱いた。
教会の長たる教皇が金で自説を曲げるなどあってはならないこ...
#ref(048_1249.jpg,nolink)
第164第ローマ教皇マルケルス 無学な彼は聖書を読むこと...
>「今の教皇庁の堕落ぶりは目に余るものがあります」
この日開催された拡大顧問会議の席で、オットーは不満をぶち...
会議の席には皇族・帝国同輩(聖俗の大諸侯)も同席している。
>「さよう。あのベネディクトゥス9世に比肩する無学で貪欲な...
密偵長レオナールの発言に議場が凍りつく。
ベネディクトゥス9世といえば放蕩の限りを尽くした悪名高い...
結果的に3人の教皇が互いに正統性を主張し相争う異常事態を...
皆が沈黙を守る中、最初に声を上げたのはシャンパーニュ大司...
78歳のティボーは帝国宗教界の長老だ。
>「使徒の座の墮落を正すのも神意をうけた皇帝の義務でありま...
>「ならば高徳で学識もあるティボー猊下が一番適任でしょう」
>「いや、わしはもう歳だしそんな柄ではない。使徒の座はもっ...
全員の目がシャルルに注がれる。
>「では朕の考えを述べる。キリスト教世界を守るためには教皇...
皇帝の発言に議場がざわめきたつ。
最も驚いたのはオットー本人で、年齢を理由に就任を固辞した。
>「私は34歳でまだまだ若輩者です。教皇などとても務まりませ...
>「朕は24歳で皇帝になったがそちの助けで何とか務まっておる...
1249年8月6日
帝国はマルケルスの職務停止を宣言。スポレート大司教オット...
マルケルスは傭兵部隊を雇い抵抗を試みるが元帥スタニスラフ...
#ref(049_1249.jpg,nolink)
ストゥリの戦い 寄せ集めの傭兵部隊など帝国軍の敵ではない
1249年12月12日
皇帝シャルルはオットーを伴いローマへの入城を果たす。
マルケルスは退位し、オットーが第165代教皇ドヌス3世として...
#ref(050_1249.jpg,nolink)
第165代ローマ教皇ドヌス3世 教皇即位後も宮廷司祭長に...
**神権的帝政の完成 [#me2fb1d2]
使徒の座に就いたドヌス3世はコンスタンティヌスの寄進状は...
教皇領は存続したがその世俗権は皇帝に属するものとされ、実...
むろん、皇帝に従属したのは教皇の世俗統治権であって宗教的...
しかし教皇庁を保護下に置くことはローマ皇帝に絶大な権力を...
シャルル以降、歴代の皇帝は政敵や反逆者を破門する権限を、...
そしてそれはカペー朝の最大の特長である神権的帝政が完成し...
余談ながら退位した前教皇マルケルスは還俗し、のちにシャル...
敵を完全に滅ぼすことなく必ず代替の領地を与えるというカペ...
皇帝シャルル1世の治世・中編へ[[AAR/王朝序曲/皇帝シャルル...
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[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝シャルル1世の治世・前編 [#j727d77a]
**ローマ皇帝 [#naf96ffb]
中世のヨーロッパにおいて皇帝とはローマ皇帝のみを指す。
紀元前27年にアントニウスを滅ぼし内戦を終結させたオクタウ...
これは後継者たちにも受け継がれ、その既成事実を積み重ねる...
したがって、血統はその前提条件ではない。
たしかにローマ帝国やその継承国家たるビザンティン帝国にも...
神聖ローマ帝国もかつては選挙制をとっていたが、有資格者は...
カペー朝フランス王国から発展して成立したローマ帝国もまた...
その体制を築き上げた皇帝こそが、後世「聖帝」と讃えられた...
**いとも敬虔なる皇帝 [#v9ceb9fa]
1233年3月2日
皇后バルバラが男女の双子を出産。
長男はルイ、長女はブルゴーニュと名付けられた。
シャルルは色ごとには関心が薄く子作りも君主としての義務と...
信心深く、性欲だけでなく権力欲とも無縁なシャルルの関心は...
帝国の運営は顧問団に一任されており、特に大臣エドゥアール...
しかしエドゥアールは元来が調整型の政治家であり首班として...
従って現実には顧問たちによる集団指導体制である。
1232年5月9日
カスティーリャ王ボソン1世が45歳で崩御。
同名の長男が王位を継承した。
イベリア半島統一を掲げる帝国はこれを好機としボソン2世に...
1年後の1233年5月6日にはこれを降しカラトラヴァ伯領を帝国領...
この戦争は顧問団が発案し、主に元帥スタニスラフの主導下で...
むろん最終的には皇帝が裁可したのであるが、シャルル自身が...
6月1日にはボソン2世からコルドバ公領を簒奪したが、これも...
帝国の顧問団は確かに優秀でありイベリア半島の制圧は着々と...
しかし都市国家ならともかく、これだけの規模の帝国を集団指...
そもそもローマ帝国を名乗ってはいるがその実態はフランス封...
国軍も官僚機構も存在しないこの時代に独立的な封建諸侯を統...
現に諸侯たちはシャルルを「いとも敬虔なる皇帝」と呼び軽ん...
1233年6月15日
エルサレム王エドゥアールが47歳で逝去。長女サラジーヌがエ...
兄の死から1年。名補佐役は後を追うようにこの世を去った。
後任の大臣に選ばれたマシュー・ド・ノルマンディーはサマセ...
エドゥアールの葬儀を終えた夜、カンタベリー大司教フレデリ...
シャルルは慰留したがフレデリックの決意は固い。
>「そちほどの徳と学識を備え持った司祭は二人とおらぬ。信仰...
>「私のもとに優秀な弟子がおります。年は若いが私の如き愚僧...
>「その若者の名は?」
>「オットー・ザーリアー。ドイツの名門ザーリアー家の末流で...
数日後、オットー・ザーリアーはフレデリックの後任候補とし...
**宮廷司祭長オットー [#d82dfa2f]
オットーは神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の7代目の子孫であ...
ザーリアー家はドイツの旧王家で今もドイツ最大の諸侯だがオ...
疫病で妻を亡くし悲嘆に暮れた彼は修道院に入るが、その学識...
しかし現時点では司祭の叙階すら受けていない。
>「朕は天国に行きたい。そちはその方法をご存じか?」
初対面のシャルルから発せられたこの問いに、オットーは躊躇...
>「神に与えられた役割を果たすことです」
>「ほう」
>「人は皆、神から役割を与えられております。僧は民の魂のた...
>「では皇帝の役割とは何か?」
>「神の敵を打ち滅ぼし、異教徒の軛に囚われた哀れな民を正し...
>「聖戦を遂行せよということか」
>「ダニエル書では終末の時が来るまでに四つの世界帝国が興亡...
>「しかしローマ皇帝はギリシャとドイツにもいる。三人の皇帝...
>「ロムルス・アウグストゥルスの廃位によってローマ皇帝の正...
>「ではギリシャの皇帝は僭称者という事になるな。だがドイツ...
>「ドイツの帝位は貴族たちの政争の具と成り果てており皇帝の...
1233年7月10日
オットーは宮廷司祭長に任命された。
以後、死がふたりを分かつまで二人三脚で帝国の拡大に邁進し...
1233年12月20日
オットーはアッシジの司祭に叙任された。
#ref(020_1233.jpg,nolink)
宮廷司祭長オットー 神権的皇帝権の理論的支柱となった若き...
**アイルランドとウェールズ [#u34f5b8c]
1234年10月1日
帝国はブロワ伯イーモンのマンスターに対する請求権を行使。
イングランド諸侯を動員し南アイルランドへの侵攻を開始した。
イーモンはルイ6世の最後の妻タールフラの弟にあたり、姉の...
しかし彼は南アイルランドを支配するブリアン家の出自であり...
イーモンの姉タールフラはルイ6世と死別した後ほどなくして...
1234年11月23日
そのレオン王ロタールが28歳で逝去。長男ニコラが王位を継承...
しかしそのニコラも翌年8歳で夭折。
妹のシャルロッテが女王として即位する事になる。
1235年6月22日
マンスター王イーモン(ブロワ伯イーモンとは別人)は降伏。
ブロワ伯がマンスター公となり、その所領は帝国に属する事に...
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マンスター獲得後のブリテン島とアイルランド
この時点でブリテン島とアイルランドには帝国・スコットラン...
ナヴァラ王国は元々はパンプローナに興ったバスク人の王国で...
しかし1197年にイベリア半島の領土を喪失し実質的にはウェー...
1237年5月10日
シャルルはナヴァラ王アンドレアスの弟ブラスコをグラントン...
ブラスコはランカスター女公ボンヌの娘婿であり、その子ヴァ...
シャルルの意図は明らかだった。
1237年6月29日
帝国はナヴァラ王国に宣戦布告。ナヴァラ継承戦争が勃発した。
先のマンスター継承戦争と同様、帝国側の主力はイングランド...
#ref(022_1237.jpg,nolink)
レイヤダーの戦い
1238年10月30日
ナヴァラ王アンドレアスは降伏し、ブラスコが王位を継承した。
こうしてウェールズも帝国の版図に加わったのである。
#ref(023_1238.jpg,nolink)
ナヴァラ王ブラスコ 帝国の操り人形になるハズだったのだが...
またナヴァラ王国領だったアイルランド東部ミース地方も帝国...
同日、シャルルはアイルランド国の創設を宣言。自らその上王...
#ref(024_1238.jpg,nolink)
アイルランド国創設
この一連の戦役を主導した事で、帝国におけるシャルルの指導...
しかし新たにナヴァラ王となったブラスコの存在が後に大きな...
**世代交代 [#hb79d547]
1238年3月8日
密偵長テカが75歳で死去。
ヌビア王家の流れをくむこの黒人は「黒い悪魔」と呼ばれ貴族...
テカは強力な密偵網を構築していたがそれは近代的な諜報機関...
巨大な帝国を謀略から守るためにはテカの密偵網を再構築でき...
後任の密偵長にはブローニュ伯シモンが暫定的に任じられたが...
1238年6月10日
ヴェローナ公の密偵長を務めていたレオナール・デアルチェが...
密偵長に任命されたレオナールはテカが築き上げた密偵網を短...
彼は5年後にはサン・メアン男爵に叙任されることになる。
#ref(026_1238.jpg,nolink)
密偵長レオナール テカの後継者として辣腕を振るうフランク...
1238年12月11日
大臣マシューが51歳で死去。
後任の大臣にはモンフォール・ラムリ男爵ラウルが任命された。
ラウルはフィリップ1世の摂政・大臣を務めた名臣ラウルの6...
#ref(025_1238.jpg,nolink)
大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウル デモー家からの入閣は...
大臣は顧問団の首班であり事実上の帝国宰相である事は先に述...
しかしシャルル治世において宰相の役目を果たしたのは宮廷司...
一方世代交代の波は海外でも進行している。
1237年10月11日
神聖ローマ皇帝ジークフリート2世が成人し親政を開始。
1238年6月15日
かつてハンガリーを征服しヨーロッパを恐怖させたフレグが53...
領地を失って久しいウルスの将来はこの若者に託されることに...
1239年1月28日
ファーティマ朝の《カリフ》ラフィク1世が73歳で死去。長男...
しかしこの段階では世界情勢に大きな変化はみられない。
シャルルも当面はイタリアとスペインの掌握に取り組んでいく...
**イタリア戦役 [#wa978037]
最初の標的はピサである。
ピサ共和国は地中海交易を独占する商業大国であったが軍事的...
1239年12月15日
シャルルはルッカ伯コンスタンティオがもつピサ州への請求権...
僅か3ヶ月後にはこれを征服した。
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ピサ伯領を獲得
首都を失った共和国はなおも存続するがそれは既に形骸といっ...
1240年2月18日
大臣ラウルは参内し、カペー家がアプルティウムの正統な統治...
前大臣マシューの代に獲得していたスポレート州の請求権と併...
#ref(028_1240.jpg,nolink)
スポレートとアプルティウム
両州は神聖ローマ帝国に属するが、彼の国は今、恒例の内乱状...
親政を開始したジークフリート2世は帝権の回復を試み王権法...
1241年2月5日
ローマ帝国は神聖ローマ帝国に宣戦布告。
帝国全土から動員した30万の大軍をもってドイツ各地を蹂躙...
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ユーリッヒの戦い
国力に大きな開きがある上に慢性的な内乱状態にあるドイツに...
1242年9月8日
ジークフリート2世は降伏し、スポレート公領は帝国に組み込...
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スポレート獲得
1242年10月1日
シャルルは宮廷司祭長オットーをスポレート大司教に叙任した。
司祭に叙階されてまだ10年も経っていない、異例のスピード出...
**帝国教会制 [#l33f1b41]
オットーを大司教にしたのには個人的信頼関係もあるが、それ...
帝国はローマを称してはいるが実態は分権的な封建諸侯の寄せ...
その中にあって集権的帝国を作りげていくためにはどうすれば...
教会組織を統治機構に組み込めばよいのである。
これかかつてドイツのザクセン朝が推進した帝国教会政策の模...
シャルルは新たに征服した土地に必ず1つは司教領・大司教領...
カペー家のローマ帝国はまさしくキリスト教帝国であり、その...
しかしこれが教皇庁との間に大きな軋轢を生むことになる。
**カスティーリャ征服 [#h5627969]
1243年11月26日
シャルルはカスティーリャ王ボソン2世に宣戦を布告した。
アラゴン公サヴァリーのもつソリア伯領への請求権を行使した...
1244年11月4日
ボソンは降伏しソリア伯領はアラゴン公の手に渡った。
そしてこれによって、カスティーリャ王国はその領域の過半を...
1244年12月3日
シャルルはカスティーリャ王位を宣言。同時にカスティーリャ...
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スペイン最後の独立王国が消滅した
1244年12月9日
レオン女王シャルロッテはサマランカ伯領の領有権を主張して...
ボソンに対抗する術などあるわけもなく、サマランカはレオン...
130年前アンリ2世が夢見たスペイン統一は目前にせまっている。
#ref(040_1245.jpg,nolink)
スペイン統一まであと1州
**世界情勢の激変 [#eece898f]
1242年9月13日
ジョチ・ウルスはペルシャを征服。セルジューク朝は滅亡した。
バトゥがペルシャ遠征に乗り出したのは1241年10月であり、そ...
セルジューク朝は17万の動員力をもつ世界第三位の大国であ...
すでにグルジアやアルメニアもその支配下に入っており、国土...
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1242年のジョチ・ウルス
1242年11月17日
エジプトでも政変があり《カリフ》ラフィク2世は廃位された。
新たに即位したのはかつてファーティマ朝を打倒したムンチェ...
25年前に再興を果たしたファーティマ朝は再びムンチェレン朝...
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ムンチェレン王朝《カリフ》ハンマード シーア派の指導者
中東の二大勢力が相次いで崩壊したことでイスラム世界は無秩...
真っ先に動いたのはアッバース家、則ちスンニ派の《カリフ》...
トルコの軛から開放された《カリフ》バヒル2世は近隣の首長...
1243年12月14日
バヒル2世はメソポタミアのマリク(王)を宣言。数世紀にわ...
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アッバース王朝《カリフ》バヒル2世 スンニ派の指導者
1244年7月30日
ドイツの内乱は反乱軍の勝利に終わった。
ジークフリート2世は廃位され、第二次ツェーリンゲン王朝は...
替わって帝位に就いたカール2世はザーリアー家の出身であり...
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神聖ローマ皇帝カール2世 ザーリアー王朝再興を果たすもそ...
こうして短期間に世界情勢が激変したわけだが、その最大のも...
1245年5月17日
ビザンティン皇帝ダニエルが崩御。76歳であった。
後世、ダニエルの死は一つの時代の終わりとして語られる。
一つの時代とは、アルカディウス帝以来連綿と続いてきた東ロ...
勿論、ダニエルの死によってビザンティンが滅亡したわけでは...
新帝セバスティアノスはイスラム教徒だったのである。
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ビザンティン皇帝セバスティアノス ムスリム皇帝の出現がビ...
**アプリア聖戦 [#oad8d6f5]
>「背教者セバスティアノスの簒奪をもってギリシャの帝権は失...
ダニエルの死とイスラム教徒の即位を受けて、パリの宮廷では...
その急先鋒はオットーである。
しかしいきなりコンスタンティノープルまで遠征するのは現実...
>「イタリアにはビザンティンに属する土地が残っております。...
大臣ラウルの意見にオットーも賛成し、ここにアプリア聖戦が...
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アプリアはイタリア半島に残った最後のビザンティン帝国領で...
1246年1月9日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告。
ハンガリー王ベルトク、シチリア王アルナール、エルサレム女...
1246年4月7日
アテネ属州総督ステファノスがセバスティアノス打倒を掲げて...
これをきっかけにビザンティンでは総督や将軍たちの反乱が相...
危機感を抱いたセバスティアノス帝はかねてより戦争状態にあ...
遠征軍を呼び戻しアプリア防衛と反乱鎮圧に向かわせた。
一方帝国は元帥スタニスラフ率いる近衛騎士団をクロアチアに...
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トロギルの戦い この戦いでビザンティンの遠征軍は壊滅した
遠征軍を失ったセバスティアノスはアプリアの放棄を決断した。
もはやイタリアの領地に拘っていられる状況ではない。帝位を...
1246年11月30日
セバスティアノスは降伏し、アプリアは帝国に組み込まれた。
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アプリア公領はシチリア王に与えられた
**カトリック世界の危機 [#j849ee09]
1247年7月28日
シャルルはアイルランド上王として北アイルランドのティロン...
実力で以って認めさせるべく兵を起こした。
独立伯が帝国に敵うはずもなく、2人の伯はその年の内に帝国...
ブリテン島とアイルランド島は帝国とスコットランドの二大勢...
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残すはスコットランドのみ
1249年3月15日
皇太子ルイとヘブリディーズ諸島伯シモンの娘アンナベラの婚...
シモンはスコットランド女王マーソックの従兄弟だが、マーソ...
つまりアンナベラは未来のスコットランド女王であり、将来の...
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順調に推移すれば孫の代にはブリテン島全域が帝国領になる
この縁談を纏め上げたのは大臣ラウルだが、元々カペー家は巧...
古くは1066年に当時の摂政ラウルがフィリップ1世とアキテー...
こうして北の国境問題は当面安泰となったが、ここにきて新た...
1248年8月10日
密偵長レオナールは驚くべき報告書を提出した。
マヨルカ公ジャンが異端のカタリ派に染まっており、領内の封...
マヨルカ公はフィリップ1世の弟ユーグに始まるノルマンディ...
しかし、末流とはいえ皇室の連枝が異端に染まるなどカトリッ...
幸いにもジャンは説得に応じカトリックに復帰したが、シャル...
1249年11月7日
神聖ローマ皇帝カール2世はデンマーク女王カトリーヌに対し...
デンマークは元々カトリック国だが、異端のワルドー派を信仰...
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デンマーク女王カトリーヌ デンマークを異端に染め上げた女...
#ref(045_1249.jpg,nolink)
デンマークではワルドー派が多数派を形成している
ビザンティン帝国はイスラム化しデンマークも異端に染まった。
キリスト教世界は危機に瀕している…これがシャルルとオットー...
状況を打開するには十字軍の発動も必要だろう。
しかし十字軍を発動する権限は教皇にある。
いかに皇帝が強大であろうとそれだけは超えられない一線であ...
しかし今の堕落した教皇庁にはそれは期待できない…
オットーは教皇マルケルスの無能に歯がゆさを感じていた。
**皇帝と教皇 [#x11e4371]
”そこで彼らが、「主よ、剣ならこのとおりここに二振りありま...
6世紀の教皇ゲラシウス1世は「ルカによる福音書」に書かれた...
則ち、教皇の宗教的権威と皇帝の世俗的権力はともに神に由来...
もっとも権威と権力の分担は世界的に見てさほど珍しい事では...
しかしこれらはいわゆる二重王権であり、権威者と権力者の間...
徳川将軍は事実上の国王として日本に君臨したがその地位はど...
現実の力関係など問題ではない。
征夷大将軍は朝廷の官職であり、だからこそ大政奉還が理屈と...
しかし教皇と皇帝は理論上対等の関係にある。
中世ヨーロッパは教皇と皇帝という二つの中心をもった楕円構...
「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉もあるが、これは教皇庁...
皇帝は教皇の臣下ではないし、その逆でもないのである。
しかしカトリック世界が危機に瀕する今、皇帝と教皇による双...
**神意の地上代行者 [#n69d4b84]
1248年10月30日
教皇マルケルスは帝国の叙任権を独占するシャルルに対して不...
教皇庁との軋轢を嫌う大臣ラウルと家令ルノーは莫大な宝物を...
しかしオットーはこの決定に不満を抱いた。
教会の長たる教皇が金で自説を曲げるなどあってはならないこ...
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第164第ローマ教皇マルケルス 無学な彼は聖書を読むこと...
>「今の教皇庁の堕落ぶりは目に余るものがあります」
この日開催された拡大顧問会議の席で、オットーは不満をぶち...
会議の席には皇族・帝国同輩(聖俗の大諸侯)も同席している。
>「さよう。あのベネディクトゥス9世に比肩する無学で貪欲な...
密偵長レオナールの発言に議場が凍りつく。
ベネディクトゥス9世といえば放蕩の限りを尽くした悪名高い...
結果的に3人の教皇が互いに正統性を主張し相争う異常事態を...
皆が沈黙を守る中、最初に声を上げたのはシャンパーニュ大司...
78歳のティボーは帝国宗教界の長老だ。
>「使徒の座の墮落を正すのも神意をうけた皇帝の義務でありま...
>「ならば高徳で学識もあるティボー猊下が一番適任でしょう」
>「いや、わしはもう歳だしそんな柄ではない。使徒の座はもっ...
全員の目がシャルルに注がれる。
>「では朕の考えを述べる。キリスト教世界を守るためには教皇...
皇帝の発言に議場がざわめきたつ。
最も驚いたのはオットー本人で、年齢を理由に就任を固辞した。
>「私は34歳でまだまだ若輩者です。教皇などとても務まりませ...
>「朕は24歳で皇帝になったがそちの助けで何とか務まっておる...
1249年8月6日
帝国はマルケルスの職務停止を宣言。スポレート大司教オット...
マルケルスは傭兵部隊を雇い抵抗を試みるが元帥スタニスラフ...
#ref(049_1249.jpg,nolink)
ストゥリの戦い 寄せ集めの傭兵部隊など帝国軍の敵ではない
1249年12月12日
皇帝シャルルはオットーを伴いローマへの入城を果たす。
マルケルスは退位し、オットーが第165代教皇ドヌス3世として...
#ref(050_1249.jpg,nolink)
第165代ローマ教皇ドヌス3世 教皇即位後も宮廷司祭長に...
**神権的帝政の完成 [#me2fb1d2]
使徒の座に就いたドヌス3世はコンスタンティヌスの寄進状は...
教皇領は存続したがその世俗権は皇帝に属するものとされ、実...
むろん、皇帝に従属したのは教皇の世俗統治権であって宗教的...
しかし教皇庁を保護下に置くことはローマ皇帝に絶大な権力を...
シャルル以降、歴代の皇帝は政敵や反逆者を破門する権限を、...
そしてそれはカペー朝の最大の特長である神権的帝政が完成し...
余談ながら退位した前教皇マルケルスは還俗し、のちにシャル...
敵を完全に滅ぼすことなく必ず代替の領地を与えるというカペ...
皇帝シャルル1世の治世・中編へ[[AAR/王朝序曲/皇帝シャルル...
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