AAR/王朝序曲/皇帝シャルル1世の治世・中編
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[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝シャルル1世の治世・中編 [#ad2e4daa]
**ナヴァラ問題 [#v4c306cd]
盟友オットーをドヌス3世として教皇位に就けた皇帝シャルル...
しかし権力は目的達成の為の手段でしかない。
1238年にシャルルの手でナヴァラ王に即位したブラスコは、同...
その後、ナヴァラ本土を治めるナヴァラ公に宣戦布告しそれを...
シャルルは激怒したが、封臣同士の争いを防ぐことが出来るの...
しかし今は違う。
1250年のある日。
この日、顧問会議の場で皇帝シャルルは顧問団と高位聖職者た...
>「帝国の秩序を乱すナヴァラ王ブラスコは破門に値すると思う...
皇帝の発言に誰もが驚愕し、そして同席した教皇ドヌスに注目...
>「ごもっとも。神に与えられた崇高な使命を放棄し同族相争う...
教皇は皇帝の決定に全面的に同意した。
初めから示し合わせていたのだ。
1250年7月2日
教皇ドヌスはナヴァラ王ブラスコに破門を伝達した。
#ref(052_1250.jpg,nolink)
理不尽である
>「そんな馬鹿な。俺になんの落ち度があるんだ?」
困惑したブラスコは皇帝を介して教皇庁への申し開きを求めた...
>「そうか…ウェールズを征服したら俺は用無しって事か。悪魔...
1250年7月5日
捕縛を逃れたブラスコは暴君打倒を掲げ挙兵。
しかし反乱を予期していた帝国はすでに兵力をウェールズとナ...
1251年5月20日
反乱は鎮圧された。
#ref(054_1251.jpg,nolink)
狡兎死して走狗烹らる
ブラスコは全ての称号を剥奪され国外追放された。
これによりヒメノ家は全ての王位を失った事になる。
しかし粛清はこれで終わりではない。
1251年8月25日
教皇ドヌスはナヴァラ公ラモンを破門した。
ラモンはルイ6世と7世(皇帝ルイ1世)に仕えた大臣エルメ...
元は皇帝の直臣だが、ブラスコによって強引に臣従させられて...
破門の理由は私生活の不品行ということだが、これが皇帝の言...
1251年9月4日
ナヴァラ公ラモンは捕縛の手を逃れ挙兵。
しかしこれもあっけなく鎮圧されラモンは公爵位を剥奪された。
1252年8月20日
シャルルは長女ブルゴーニュの婿ゴーティエをナヴァラ王に封...
また、ウェールズ地方は現地の伯に公爵位を与える事でナヴァ...
#ref(055_1252.jpg,nolink)
ナヴァラ王ゴーティエ シャルルの婿養子。実家のレオン伯家...
この一連の騒動は娘婿に王位を与えるためにシャルルたちが仕...
ゴーティエが王位を得たのは結果であって、目的はあくまでも...
シャルルとドヌスは己の所業が正義であることを微塵も疑って...
キリスト教世界の拡大という崇高な使命を果たすためには帝国...
それが結果的に多くの民の魂を救済する事になるのだ。
**ドゥーカス朝の滅亡 [#fac31232]
1250年2月17日
ザクセン公フリードリヒがドイツ王国の創設を宣言した。
フリードリヒは皇帝カール2世と同じザーリアー家一門であり...
それだけにカール2世に対しては強い対抗意識をもっていた。
#ref(051_1250.jpg,nolink)
ドイツ王フリードリヒ ドイツ最大の諸侯は有能で悪魔憑き
1250年12月26日
ビザンティン皇帝セバスティアノスが60歳で崩御した。
唯一の男子ミカエル8世が帝位を継承するが、その地位は半年...
正教を棄てムスリムになったセバスティアノスは帝位に就くや...
それに加え、ドゥーカス家には奢侈に走る者も多くその退廃ぶ...
その不満を背景として台頭したのがマケドニアの山岳民の出自...
すでにセバスティアノス治世末期にはエウフェミオス率いる反...
1251年5月9日
エウフェミオスはローマ皇帝を宣言。
ミカエル8世は廃されドゥーカス朝は192年の歴史に幕を下ろし...
しかし新帝エウフェミオスもまたムスリムであり、ギリシャの...
#ref(053_1251.jpg,nolink)
ビザンティン皇帝エウフェミオス オボリド朝の開祖
1252年12月28日
ジョチ・ウルスの《大ハーン》バトゥが70歳で崩御。
末子のジャムガが《大ハーン》として即位した。
モンゴル帝国の遠征軍を起源とするジョチ・ウルスはごく短期...
武装集団を恒常的な国家に脱皮させるには強い意志をもった指...
#ref(056_1252.jpg,nolink)
ジョチ・ウルス《大ハーン》ジャムガ 何故かトルコ顔
**2人の若者とマケドニア十字軍 [#j4c8a1fc]
ローマ帝国は前身であるフランス王国と同じく君主と少数の顧...
顧問の出自は当初は王領地の下級聖職者や城主層が中心であっ...
実力があれば黒人ですら抜擢され、功績が認められれば男爵に...
1251年現在、5人の顧問のうち大臣、密偵長、宮廷司祭長はシ...
1251年6月
この月、パリの宮廷に2人の若者が招聘された。
家令候補はコーンウォール女公デニエラの嫡子アランで、大貴...
元帥候補はユングリング家のラグナールで、フレイの末裔を称...
どちらも世界に2人といない天才であり、いずれは顧問として...
1253年1月31日
家令サンセポルクロ男爵ルノーが75歳で死去。
後任には若きアランが抜擢された。
#ref(058_1255.jpg,nolink)
家令アラン 画像は後年、コーンウォール公爵位を継承した後...
1254年1月5日
バイエルン公エーベルハルトが暗殺され、長女エルメンガルド...
犯人は見つからなかったが、これによって得をするのが誰であ...
エーベルハルトの甥ジグハルトは公爵位の請求権を有しており...
他国の請求権者と主従関係を結びその故国を簒奪するのはカペ...
>「バイエルンは帝国の生命線であります」
大臣ラウルはこう演説し、継承戦争の準備を進めるよう強く主...
ハンガリーの飛び地状態を解消する為には南ドイツを帝国に組...
それが大臣の主張であり、家令アラン、密偵長レオナールも同...
しかし宮廷司祭長オットー(教皇ドヌス3世)は違う考えを持...
より重要なのはギリシャの民がイスラム化することを食い止め...
1254年3月3日
オットーは教皇ドヌス3世の名でマケドニア十字軍を布告した。
#ref(057_1254.jpg,nolink)
マケドニア十字軍布告
帝国は元帥スタニスラフを総大将とし総勢25万の大軍の派遣...
元帥候補ラグナールも近衛軍の副将として従軍した。
#ref(060_1255.jpg,nolink)
ティガニの戦い ラグナールの初陣である
イスラム改宗とそれに伴う内乱で疲弊の極みにあったビザンテ...
#ref(059_1255.jpg,nolink)
予想外のもろさ
1255年6月26日
ビデンティン帝国は降伏し、十字軍はカトリック勢力の勝利に...
勲功第一位のシャルルは教皇よりマケドニア王位を授けられ、...
#ref(061_1255.jpg,nolink)
十字軍は美味しい
#ref(067_1255.jpg,nolink)
獲得した新領土
1255年7月4日
シャルルは新領土の封建を行った。
アカイア大司教にデブルモン家出身のエヴラール・デブルモン
アテネ公にノルマンディー公家傍流のヴァルラン・カペー
アドリアノープル公にドイツの下級貴族出身のディエトヴィン...
テッサロニキ公に次期元帥候補のラグナール・ユングリング
そしてトラキア公位は皇帝が兼務し、コンスタンティノープル...
聖職者のエヴラールと広義の皇族であるヴァルランの叙爵は旧...
ホーエンツォレルン家はシュヴァーベン地方発祥の城主家系で...
受け継ぐ領地のない彼はその軍才を買われて諸国の宮廷を渡り...
軍才だけでなく財務にも長けた彼は元帥も家令も務まるだけの...
此度の叙爵は十字軍での勲功もあるが、それよりむしろ長年の...
ラグナールは将来の元帥であるが、カペー朝においては顧問の...
ラグナールの叙爵は元帥候補だからというよりは、旧スウェー...
**バイエルン継承戦争 [#n6a98388]
1256年4月9日
帝国はイベリア半島に残った唯一の独立勢力バリャドリド伯領...
バリャドリド伯ボソン(前カスティーリャ王)は決死の抵抗を...
1256年7月6日
帝国はスペインの統一を達成。
アンリ2世がスペイン統一を夢見てから146年の時が流れていた。
#ref(062_1256.jpg,nolink)
スペイン統一 予想外に時間がかかりました
1256年8月3日
皇太子ルイとスコットランド王女アンナベラの結婚が成立した。
1256年8月9日
コーンウォール女公デニエラが死去。家令アランが公位を継承...
1257年4月15日
ポルトガル王ウスターシュが69才で逝去。長男ティボーが王位...
1258年2月12日
帝国はバイエルン女公エルメンガルドの従兄弟ジグハルトの継...
十字軍で延期されていたバイエルン継承戦争の勃発である。
#ref(063_1258.jpg,nolink)
飛び地ハンガリーと連結する為にはバイエルンの確保は不可欠...
大封バイエルンを喪失することになれば神聖ローマ帝国にとっ...
カール2世は諸侯に動員令をかけイタリア・ブルゴーニュ・フ...
その上、帝国は常勝のスタニスラフ元帥以下優秀な将軍を数多...
#ref(064_1259.jpg,nolink)
エイセルスタインの戦い 兵力はほぼ同数ながら指揮官の質が...
1259年6月17日
カール2世は降伏し、バイエルン公領はローマ帝国に組み込ま...
**生と死 [#xce6fcec]
1259年12月3日
第二皇子アントワーヌとヘレフォード公女アンの婚約が成立し...
また翌月には第三皇子ゴーティエとストライモン伯女レオノー...
ヘレフォード公はイングランドの有力諸侯でストライモン伯は...
これは下の息子たちが将来与えられる王号に対応したものであ...
1260年5月8日
そのアントワーヌに長男エラールが誕生した。
まだ結婚前であり相手は身分の低い女官である。
醜聞を恐れたアントワーヌはエラールを認知しなかったため、...
のちにその境遇を憐れんだシャルルが自ら教育を施し、成長後...
1261年3月19日
帝国はバルカン半島西南部のエピロス属州総督領に聖戦を布告...
戦局の流れを説明する必要もあるまい。
#ref(066_1261.jpg,nolink)
エピロスの位置
1262年12月24日
聖戦は帝国の勝利に終わった。
エピロス公には下ロレーヌ公ランベルトの甥ヴァルラム・ヴェ...
ヴェルダン家はかつて神聖ローマ皇帝を輩出したこともある名...
1262年10月28日
シチリア王アルナールが61歳で逝去。長女マルゲリートが王位...
アルナールはカペー家の婿養子だったため、ここにオートヴィ...
1262年12月5日
神聖ローマ皇帝カール2世が77歳で崩御。孫のカール3世が12...
神聖ローマ帝国では幼帝が帝位を全うした例は数えるほどしか...
第一次ツェーリンゲン王朝も第二次ツェーリンゲン王朝も幼帝...
#ref(068_1262.jpg,nolink)
神聖ローマ皇帝カール3世 第二次ザーリアー朝も同じ運命を...
1262年12月14日
神聖ローマ帝国で最大の勢力を誇るドイツ王フリードリヒが王...
ドイツはまたも混乱の時代を迎えることになった。
1264年12月14日
アッバース朝の《カリフ》バヒル2世が69歳で死去。長男バヒ...
セルジューク朝崩壊後の混乱に乗じて領土を拡大し、カリフ権...
1265年7月18日
元帥ノーサンバーランド公スタニスラフが83歳で他界した。
スタニスラフは1201年に19歳の若さで元帥に抜擢され、カペー...
1223年にはハンガリー十字軍でモンゴル軍団を殲滅し『モンゴ...
その功績によって1224年には顧問としては異例のノーサンバー...
元帥の在任期間は64年の長きに及んでおり、これは1232年に没...
同日、テッサロキニ公ラグナールが後任の元帥に任命された。
ラグナールが元帥候補としてパリに招聘されてから14年の歳月...
#ref(072_1265.jpg,nolink)
元帥テッサロニキ公ラグナール 戦闘マシーンとしかいいよう...
1266年11月11日
皇后バルバラが53歳で薨去。長男ルイがその遺領である上ロレ...
翌月、シャルルはイタリア貴族のマリアと再婚している。
#ref(074_1266.jpg,nolink)
上ロレーヌ公ルイ 後のローマ皇帝ルイ2世 外交が高いのは...
1267年4月1日
ブルグント王ルイが55歳で逝去。長男シャルルが王位を継承し...
ルイはシャルルの次弟で、カペー家の次男坊の例に漏れず控え...
**オーストリア継承戦争 [#ocf999b7]
1265年11月12日
帝国はメッサラノ男爵ゴッチョークのオーストリア公位請求権...
神聖ローマ帝国は皇帝の代替わりに伴う政治的混乱が続いる。
他国の内乱を利用しての侵略もまたカペー家のお家芸である。
この戦役はスタニスラフ亡き後最初に行われたもので、ラグナ...
#ref(075_1266.jpg,nolink)
ブザンソンの戦い 敵は烏合の衆
ラグナールはかつて、師であるスタニスラフに戦いに勝つ秘訣...
>「敵より多くの兵力を用意すること。それが出来ぬのなら戦う...
身も蓋もない回答に失望した覚えがあるが、それが真理である...
ラグナールはその理論の忠実な実践者に成長していた。
1267年6月23日
神聖ローマ皇帝カール3世は降伏。
オーストリアは帝国に組み込まれた。
同日、シャルルはバイエルン王国の創設を宣言。
しかしハンガリーの飛び地状態はまだ解消されていない。
#ref(076_1267.jpg,nolink)
南ドイツに地歩を固めた
1267年10月31日
ハンガリーを失って以来雌伏の時を過ごしてきたフレグ・ウル...
国家としてのフレグ・ウルスが復活した。
#ref(077_1267.jpg,nolink)
フレグの子チュルゲテイ いつの間にかネストリウス派に改宗...
**大地が揺れた日 [#lbd18e1d]
1267年7月11日
この日、イル・ド・フランス地方の大地が揺れた。
迷信深いこの時代である。人々は恐慌に陥っていた。
皇帝シャルルは自ら被害状況の視察に出向き、現地の役人たち...
>「陛下、住民の代表がお目通りを求めております」
やってきたのは恐怖に震える貧相な農民である。
農民は畑の近くの地面に大きな裂け目ができているので調べて...
#ref(071_1267.jpg,nolink)
地震イベント 興味深い選択肢もでてくるけどここは自重
そこはまるで地獄の入り口のような壮絶な光景だった。
裂け目から炎と硫黄が噴き出し周辺の大地を焼き焦がしている。
炎を噴き上げる裂け目からは、泣き声、悲鳴、助けを求める叫...
>「終末の日がやってきたんだ!」
農民たちは口々に叫び、跪き、神に慈悲を乞うた。
兵士たちも動揺している。
シャルルも少なからず動揺していたが、パニックによる秩序崩...
>「うろたえるな!終末はまだ先だ!みよ!太陽は輝き続け星も...
>「し、しかし穴の底から聞こえるこの叫び声はどう説明できま...
>「サタンの創りだした幻覚だ!恐怖は人々の正常心を奪う。そ...
シャルルはサン・ドニ司祭ベルナールを呼び寄せると、悪魔祓...
ベルナールはラテン語の長大な祈祷文を朗読した後、聖水を振...
翌日には噴煙は止まり悲鳴らしき声も聞こえなくなっていた。
たまたま鎮火しただけなのかもしれないが、同時代の人々がこ...
人々は地獄の門を塞いだ皇帝と教会を讃えたが、シャルルの心...
**総主教追放 [#g2518140]
シャルルは考えていた。
あの地獄の門は神の怒りの表れではないのか。
皇帝である自分に落ち度があるのではないか。
悪魔祓いの数日後、宮廷司祭長を兼務する教皇ドヌスがパリに...
>「神は教会の分裂を解消せよと仰せなのでしょう。地面が割れ...
>「コンスタンティノープルとその周辺の改宗事業は今も進行中...
>「しかし異端の総本山は今も居座っております」
全地総主教。
厳密にはコンスタンティノープル総主教と称するべきであるが...
ビザンティン帝国の宗教上の最高指導者であり、皇帝がイスラ...
コンスタンティノープルがカトリックの手に落ちてからもアヤ...
それを廃せよと神は仰せなのだ。
>「神、仰せのとおりに」
シャルルは決断した。
#ref(078_1267.jpg,nolink)
全地総主教セオドロス 最後の総主教は宦官であった
1267年12月3日
シャルルは教会統一を掲げ総主教に宣戦を布告した。
もっとも、総主教の支配領域はコンスタンティノープルの一区...
それでも総主教セオドロスは5000の軍勢を揃え決死の防衛を試...
しかしそれも、破滅を半年先延ばしするだけでしかなかった。
1268年6月2日
総主教庁は陥落した。
#ref(079_1268.jpg,nolink)
正教会の没落
シャルルは征服したアヤ・ソフィア寺院とその周辺区域を教皇...
国外追放されたセオドロスはなおも全地総主教の称号を保持し...
皇帝と教皇がともにローマ帝国を統治する体制がまた一歩前進...
皇帝シャルル1世の治世・後編へ[[AAR/王朝序曲/皇帝シャルル...
終了行:
[[AAR/王朝序曲]]
*皇帝シャルル1世の治世・中編 [#ad2e4daa]
**ナヴァラ問題 [#v4c306cd]
盟友オットーをドヌス3世として教皇位に就けた皇帝シャルル...
しかし権力は目的達成の為の手段でしかない。
1238年にシャルルの手でナヴァラ王に即位したブラスコは、同...
その後、ナヴァラ本土を治めるナヴァラ公に宣戦布告しそれを...
シャルルは激怒したが、封臣同士の争いを防ぐことが出来るの...
しかし今は違う。
1250年のある日。
この日、顧問会議の場で皇帝シャルルは顧問団と高位聖職者た...
>「帝国の秩序を乱すナヴァラ王ブラスコは破門に値すると思う...
皇帝の発言に誰もが驚愕し、そして同席した教皇ドヌスに注目...
>「ごもっとも。神に与えられた崇高な使命を放棄し同族相争う...
教皇は皇帝の決定に全面的に同意した。
初めから示し合わせていたのだ。
1250年7月2日
教皇ドヌスはナヴァラ王ブラスコに破門を伝達した。
#ref(052_1250.jpg,nolink)
理不尽である
>「そんな馬鹿な。俺になんの落ち度があるんだ?」
困惑したブラスコは皇帝を介して教皇庁への申し開きを求めた...
>「そうか…ウェールズを征服したら俺は用無しって事か。悪魔...
1250年7月5日
捕縛を逃れたブラスコは暴君打倒を掲げ挙兵。
しかし反乱を予期していた帝国はすでに兵力をウェールズとナ...
1251年5月20日
反乱は鎮圧された。
#ref(054_1251.jpg,nolink)
狡兎死して走狗烹らる
ブラスコは全ての称号を剥奪され国外追放された。
これによりヒメノ家は全ての王位を失った事になる。
しかし粛清はこれで終わりではない。
1251年8月25日
教皇ドヌスはナヴァラ公ラモンを破門した。
ラモンはルイ6世と7世(皇帝ルイ1世)に仕えた大臣エルメ...
元は皇帝の直臣だが、ブラスコによって強引に臣従させられて...
破門の理由は私生活の不品行ということだが、これが皇帝の言...
1251年9月4日
ナヴァラ公ラモンは捕縛の手を逃れ挙兵。
しかしこれもあっけなく鎮圧されラモンは公爵位を剥奪された。
1252年8月20日
シャルルは長女ブルゴーニュの婿ゴーティエをナヴァラ王に封...
また、ウェールズ地方は現地の伯に公爵位を与える事でナヴァ...
#ref(055_1252.jpg,nolink)
ナヴァラ王ゴーティエ シャルルの婿養子。実家のレオン伯家...
この一連の騒動は娘婿に王位を与えるためにシャルルたちが仕...
ゴーティエが王位を得たのは結果であって、目的はあくまでも...
シャルルとドヌスは己の所業が正義であることを微塵も疑って...
キリスト教世界の拡大という崇高な使命を果たすためには帝国...
それが結果的に多くの民の魂を救済する事になるのだ。
**ドゥーカス朝の滅亡 [#fac31232]
1250年2月17日
ザクセン公フリードリヒがドイツ王国の創設を宣言した。
フリードリヒは皇帝カール2世と同じザーリアー家一門であり...
それだけにカール2世に対しては強い対抗意識をもっていた。
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ドイツ王フリードリヒ ドイツ最大の諸侯は有能で悪魔憑き
1250年12月26日
ビザンティン皇帝セバスティアノスが60歳で崩御した。
唯一の男子ミカエル8世が帝位を継承するが、その地位は半年...
正教を棄てムスリムになったセバスティアノスは帝位に就くや...
それに加え、ドゥーカス家には奢侈に走る者も多くその退廃ぶ...
その不満を背景として台頭したのがマケドニアの山岳民の出自...
すでにセバスティアノス治世末期にはエウフェミオス率いる反...
1251年5月9日
エウフェミオスはローマ皇帝を宣言。
ミカエル8世は廃されドゥーカス朝は192年の歴史に幕を下ろし...
しかし新帝エウフェミオスもまたムスリムであり、ギリシャの...
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ビザンティン皇帝エウフェミオス オボリド朝の開祖
1252年12月28日
ジョチ・ウルスの《大ハーン》バトゥが70歳で崩御。
末子のジャムガが《大ハーン》として即位した。
モンゴル帝国の遠征軍を起源とするジョチ・ウルスはごく短期...
武装集団を恒常的な国家に脱皮させるには強い意志をもった指...
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ジョチ・ウルス《大ハーン》ジャムガ 何故かトルコ顔
**2人の若者とマケドニア十字軍 [#j4c8a1fc]
ローマ帝国は前身であるフランス王国と同じく君主と少数の顧...
顧問の出自は当初は王領地の下級聖職者や城主層が中心であっ...
実力があれば黒人ですら抜擢され、功績が認められれば男爵に...
1251年現在、5人の顧問のうち大臣、密偵長、宮廷司祭長はシ...
1251年6月
この月、パリの宮廷に2人の若者が招聘された。
家令候補はコーンウォール女公デニエラの嫡子アランで、大貴...
元帥候補はユングリング家のラグナールで、フレイの末裔を称...
どちらも世界に2人といない天才であり、いずれは顧問として...
1253年1月31日
家令サンセポルクロ男爵ルノーが75歳で死去。
後任には若きアランが抜擢された。
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家令アラン 画像は後年、コーンウォール公爵位を継承した後...
1254年1月5日
バイエルン公エーベルハルトが暗殺され、長女エルメンガルド...
犯人は見つからなかったが、これによって得をするのが誰であ...
エーベルハルトの甥ジグハルトは公爵位の請求権を有しており...
他国の請求権者と主従関係を結びその故国を簒奪するのはカペ...
>「バイエルンは帝国の生命線であります」
大臣ラウルはこう演説し、継承戦争の準備を進めるよう強く主...
ハンガリーの飛び地状態を解消する為には南ドイツを帝国に組...
それが大臣の主張であり、家令アラン、密偵長レオナールも同...
しかし宮廷司祭長オットー(教皇ドヌス3世)は違う考えを持...
より重要なのはギリシャの民がイスラム化することを食い止め...
1254年3月3日
オットーは教皇ドヌス3世の名でマケドニア十字軍を布告した。
#ref(057_1254.jpg,nolink)
マケドニア十字軍布告
帝国は元帥スタニスラフを総大将とし総勢25万の大軍の派遣...
元帥候補ラグナールも近衛軍の副将として従軍した。
#ref(060_1255.jpg,nolink)
ティガニの戦い ラグナールの初陣である
イスラム改宗とそれに伴う内乱で疲弊の極みにあったビザンテ...
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予想外のもろさ
1255年6月26日
ビデンティン帝国は降伏し、十字軍はカトリック勢力の勝利に...
勲功第一位のシャルルは教皇よりマケドニア王位を授けられ、...
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十字軍は美味しい
#ref(067_1255.jpg,nolink)
獲得した新領土
1255年7月4日
シャルルは新領土の封建を行った。
アカイア大司教にデブルモン家出身のエヴラール・デブルモン
アテネ公にノルマンディー公家傍流のヴァルラン・カペー
アドリアノープル公にドイツの下級貴族出身のディエトヴィン...
テッサロニキ公に次期元帥候補のラグナール・ユングリング
そしてトラキア公位は皇帝が兼務し、コンスタンティノープル...
聖職者のエヴラールと広義の皇族であるヴァルランの叙爵は旧...
ホーエンツォレルン家はシュヴァーベン地方発祥の城主家系で...
受け継ぐ領地のない彼はその軍才を買われて諸国の宮廷を渡り...
軍才だけでなく財務にも長けた彼は元帥も家令も務まるだけの...
此度の叙爵は十字軍での勲功もあるが、それよりむしろ長年の...
ラグナールは将来の元帥であるが、カペー朝においては顧問の...
ラグナールの叙爵は元帥候補だからというよりは、旧スウェー...
**バイエルン継承戦争 [#n6a98388]
1256年4月9日
帝国はイベリア半島に残った唯一の独立勢力バリャドリド伯領...
バリャドリド伯ボソン(前カスティーリャ王)は決死の抵抗を...
1256年7月6日
帝国はスペインの統一を達成。
アンリ2世がスペイン統一を夢見てから146年の時が流れていた。
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スペイン統一 予想外に時間がかかりました
1256年8月3日
皇太子ルイとスコットランド王女アンナベラの結婚が成立した。
1256年8月9日
コーンウォール女公デニエラが死去。家令アランが公位を継承...
1257年4月15日
ポルトガル王ウスターシュが69才で逝去。長男ティボーが王位...
1258年2月12日
帝国はバイエルン女公エルメンガルドの従兄弟ジグハルトの継...
十字軍で延期されていたバイエルン継承戦争の勃発である。
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飛び地ハンガリーと連結する為にはバイエルンの確保は不可欠...
大封バイエルンを喪失することになれば神聖ローマ帝国にとっ...
カール2世は諸侯に動員令をかけイタリア・ブルゴーニュ・フ...
その上、帝国は常勝のスタニスラフ元帥以下優秀な将軍を数多...
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エイセルスタインの戦い 兵力はほぼ同数ながら指揮官の質が...
1259年6月17日
カール2世は降伏し、バイエルン公領はローマ帝国に組み込ま...
**生と死 [#xce6fcec]
1259年12月3日
第二皇子アントワーヌとヘレフォード公女アンの婚約が成立し...
また翌月には第三皇子ゴーティエとストライモン伯女レオノー...
ヘレフォード公はイングランドの有力諸侯でストライモン伯は...
これは下の息子たちが将来与えられる王号に対応したものであ...
1260年5月8日
そのアントワーヌに長男エラールが誕生した。
まだ結婚前であり相手は身分の低い女官である。
醜聞を恐れたアントワーヌはエラールを認知しなかったため、...
のちにその境遇を憐れんだシャルルが自ら教育を施し、成長後...
1261年3月19日
帝国はバルカン半島西南部のエピロス属州総督領に聖戦を布告...
戦局の流れを説明する必要もあるまい。
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エピロスの位置
1262年12月24日
聖戦は帝国の勝利に終わった。
エピロス公には下ロレーヌ公ランベルトの甥ヴァルラム・ヴェ...
ヴェルダン家はかつて神聖ローマ皇帝を輩出したこともある名...
1262年10月28日
シチリア王アルナールが61歳で逝去。長女マルゲリートが王位...
アルナールはカペー家の婿養子だったため、ここにオートヴィ...
1262年12月5日
神聖ローマ皇帝カール2世が77歳で崩御。孫のカール3世が12...
神聖ローマ帝国では幼帝が帝位を全うした例は数えるほどしか...
第一次ツェーリンゲン王朝も第二次ツェーリンゲン王朝も幼帝...
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神聖ローマ皇帝カール3世 第二次ザーリアー朝も同じ運命を...
1262年12月14日
神聖ローマ帝国で最大の勢力を誇るドイツ王フリードリヒが王...
ドイツはまたも混乱の時代を迎えることになった。
1264年12月14日
アッバース朝の《カリフ》バヒル2世が69歳で死去。長男バヒ...
セルジューク朝崩壊後の混乱に乗じて領土を拡大し、カリフ権...
1265年7月18日
元帥ノーサンバーランド公スタニスラフが83歳で他界した。
スタニスラフは1201年に19歳の若さで元帥に抜擢され、カペー...
1223年にはハンガリー十字軍でモンゴル軍団を殲滅し『モンゴ...
その功績によって1224年には顧問としては異例のノーサンバー...
元帥の在任期間は64年の長きに及んでおり、これは1232年に没...
同日、テッサロキニ公ラグナールが後任の元帥に任命された。
ラグナールが元帥候補としてパリに招聘されてから14年の歳月...
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元帥テッサロニキ公ラグナール 戦闘マシーンとしかいいよう...
1266年11月11日
皇后バルバラが53歳で薨去。長男ルイがその遺領である上ロレ...
翌月、シャルルはイタリア貴族のマリアと再婚している。
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上ロレーヌ公ルイ 後のローマ皇帝ルイ2世 外交が高いのは...
1267年4月1日
ブルグント王ルイが55歳で逝去。長男シャルルが王位を継承し...
ルイはシャルルの次弟で、カペー家の次男坊の例に漏れず控え...
**オーストリア継承戦争 [#ocf999b7]
1265年11月12日
帝国はメッサラノ男爵ゴッチョークのオーストリア公位請求権...
神聖ローマ帝国は皇帝の代替わりに伴う政治的混乱が続いる。
他国の内乱を利用しての侵略もまたカペー家のお家芸である。
この戦役はスタニスラフ亡き後最初に行われたもので、ラグナ...
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ブザンソンの戦い 敵は烏合の衆
ラグナールはかつて、師であるスタニスラフに戦いに勝つ秘訣...
>「敵より多くの兵力を用意すること。それが出来ぬのなら戦う...
身も蓋もない回答に失望した覚えがあるが、それが真理である...
ラグナールはその理論の忠実な実践者に成長していた。
1267年6月23日
神聖ローマ皇帝カール3世は降伏。
オーストリアは帝国に組み込まれた。
同日、シャルルはバイエルン王国の創設を宣言。
しかしハンガリーの飛び地状態はまだ解消されていない。
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南ドイツに地歩を固めた
1267年10月31日
ハンガリーを失って以来雌伏の時を過ごしてきたフレグ・ウル...
国家としてのフレグ・ウルスが復活した。
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フレグの子チュルゲテイ いつの間にかネストリウス派に改宗...
**大地が揺れた日 [#lbd18e1d]
1267年7月11日
この日、イル・ド・フランス地方の大地が揺れた。
迷信深いこの時代である。人々は恐慌に陥っていた。
皇帝シャルルは自ら被害状況の視察に出向き、現地の役人たち...
>「陛下、住民の代表がお目通りを求めております」
やってきたのは恐怖に震える貧相な農民である。
農民は畑の近くの地面に大きな裂け目ができているので調べて...
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地震イベント 興味深い選択肢もでてくるけどここは自重
そこはまるで地獄の入り口のような壮絶な光景だった。
裂け目から炎と硫黄が噴き出し周辺の大地を焼き焦がしている。
炎を噴き上げる裂け目からは、泣き声、悲鳴、助けを求める叫...
>「終末の日がやってきたんだ!」
農民たちは口々に叫び、跪き、神に慈悲を乞うた。
兵士たちも動揺している。
シャルルも少なからず動揺していたが、パニックによる秩序崩...
>「うろたえるな!終末はまだ先だ!みよ!太陽は輝き続け星も...
>「し、しかし穴の底から聞こえるこの叫び声はどう説明できま...
>「サタンの創りだした幻覚だ!恐怖は人々の正常心を奪う。そ...
シャルルはサン・ドニ司祭ベルナールを呼び寄せると、悪魔祓...
ベルナールはラテン語の長大な祈祷文を朗読した後、聖水を振...
翌日には噴煙は止まり悲鳴らしき声も聞こえなくなっていた。
たまたま鎮火しただけなのかもしれないが、同時代の人々がこ...
人々は地獄の門を塞いだ皇帝と教会を讃えたが、シャルルの心...
**総主教追放 [#g2518140]
シャルルは考えていた。
あの地獄の門は神の怒りの表れではないのか。
皇帝である自分に落ち度があるのではないか。
悪魔祓いの数日後、宮廷司祭長を兼務する教皇ドヌスがパリに...
>「神は教会の分裂を解消せよと仰せなのでしょう。地面が割れ...
>「コンスタンティノープルとその周辺の改宗事業は今も進行中...
>「しかし異端の総本山は今も居座っております」
全地総主教。
厳密にはコンスタンティノープル総主教と称するべきであるが...
ビザンティン帝国の宗教上の最高指導者であり、皇帝がイスラ...
コンスタンティノープルがカトリックの手に落ちてからもアヤ...
それを廃せよと神は仰せなのだ。
>「神、仰せのとおりに」
シャルルは決断した。
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全地総主教セオドロス 最後の総主教は宦官であった
1267年12月3日
シャルルは教会統一を掲げ総主教に宣戦を布告した。
もっとも、総主教の支配領域はコンスタンティノープルの一区...
それでも総主教セオドロスは5000の軍勢を揃え決死の防衛を試...
しかしそれも、破滅を半年先延ばしするだけでしかなかった。
1268年6月2日
総主教庁は陥落した。
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正教会の没落
シャルルは征服したアヤ・ソフィア寺院とその周辺区域を教皇...
国外追放されたセオドロスはなおも全地総主教の称号を保持し...
皇帝と教皇がともにローマ帝国を統治する体制がまた一歩前進...
皇帝シャルル1世の治世・後編へ[[AAR/王朝序曲/皇帝シャルル...
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