AAR/王朝序曲/ルイ6世の治世・前編
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[[AAR/王朝序曲]]
*ルイ6世の治世・前編 [#c92d334e]
**九英雄 [#wb4979fd]
九英雄(または九偉人)という言葉がある。
中世ヨーロッパで騎士道を体現する偉人とされてきた九人の英...
即ちヘクトール、アレクサンドロス大王、カエサル、ヨシュア...
異教時代から3人、旧約時代から3人、そしてキリスト教徒か...
王権の高揚を図るカペー家は吟遊詩人などを通してこの伝説を...
その結果フィリップ1世は聖王と讃えられ理想のキリスト教君...
現実のフィリップ1世は列聖などされていないし、むしろ粛清...
カペー家は神に選ばれた聖なる一族である、とするフランスの...
(史実で九英雄という表現が生まれたのは14世紀で最後の一人...
**皇帝への夢 [#c33acf28]
即位に伴う一連の儀式を終えた後、ルイは顧問団を私室に招い...
ルイの傍らにはシャンパーニュ大司教アルノーもいる。
>「余は皇帝になる」
ルイの言葉に顧問団は驚愕した。
アルノーに驚いた様子がないのは先に聞かされていたからだろ...
いや、むしろ発案したのはアルノーの方かもしれない。
#ref(014_1181.jpg,nolink)
シャンパーニュ大司教アルノー 若くしてフランス宗教界の頂...
『王はその王国において皇帝である』という有名な言葉がある。
これはフランス王権がドイツの皇帝権に従属しない対等な存在...
しかしそれでも、王と皇帝の間には厳然とした差があった。
王が王を従えることは出来ないが、皇帝は違う。
現実的にはドイツの地方王権に過ぎないにしても、やはり皇帝...
>「フランス皇帝を称されるのですか?」
密偵長ライナウの問いにルイは「否」と答えた。
かつてフェルナンド1世がヒスパニア皇帝を称した前例はある...
中世ヨーロッパにおいて、皇帝とはローマ皇帝以外にありえな...
>「神聖ローマ皇帝に立候補されるのですか?」
大臣ギラナナームの一見間の抜けた意見も帝国の現状から見れ...
>「あんなものはローマ帝国ではない。ドイツ人どもが勝手に名...
>「イタリア…ですか」
家令ウンベールの発言にルイは大きく頷いた。
>「イタリアを制した者にこそ真のローマ皇帝を名乗る資格があ...
王が神意を口にする事に宮廷司祭長ティボーは違和感を感じた...
アルノーの動機がなんであれ、ローマ帝国再興そのものに反対...
ただし政策には優先順位というものがある。
今はアンリ2世以来の国策レコンキスタを完遂させることが最...
1182年1月4日
フランスはイベリアに残った最後のイスラム勢力マヨルカ首長...
モーリタニアは既にシーア派のファーティマ朝に征服されてお...
1182年8月21日
マヨルカ首長ラフは降伏。718年のペラヨの反乱に始まるレコン...
翌日、ノルマンディー公家傍流のヴァルラン・カペーがマヨル...
#ref(017_1182.jpg,nolink)
史実より310年も早く終わった
**別れの季節 [#ta444ee7]
1181年5月24日
長女フランチェサとスウェーデンの王弟エムンドの結婚が成立...
エムンドはルイと同じ46歳であり、父娘ほども歳の離れたカッ...
フランチェサはルイがイングランド時代に手を付けた女官の娘...
スウェーデン王族が私生児に求婚してきた理由は良くわからな...
王位継承の可能性が低いエムンドはこの歳まで部屋住みの独身...
日陰の娘フランチェサはスウェーデンに旅立っていった。
#ref(015_1181.jpg,nolink)
長女フランチェサ ルイと対面することは生涯なかったと伝わる
1181年9月2日
元帥ジャルゴー男爵エチエンヌが62歳で死去。
後任の元帥にはナルボンヌ伯ウェズィアンが任命された。
彼は密偵長ライナウの旧主ジェルジの息子である。
#ref(016_1181.jpg,nolink)
元帥ナルボンヌ伯ウェズィアン
なお、ジャルゴー男爵領を継承したマリーは2年後に他界。
後継者は無く男爵領は王領に組み込まれることになった。
1183年2月27日
王弟アキテーヌ公アンリが36歳で死去。10歳の長男フィリップ...
ルイとアンリは12歳も離れていたが、兄弟の仲は良く王はその...
**イングランド騒乱 [#i7f45850]
1182年4月20日のノーザンプトン伯エドバートの乱を皮切りにイ...
1182年6月5日にベッドフォード伯エルドムンドの乱。
1183年8月1日にサマセットで農民反乱。
しかし最も規模が大きなものはカンタベリー公オズルフの反乱...
1183年1月14日
オズルフはイングランド王位請求権を掲げて挙兵。
コーンウォール公リオク、ヘレフォード公ウィトレドも呼応し...
#ref(018_1183.jpg,nolink)
大軍を投入して速やかに鎮圧する
一連の反乱は1年ほどで鎮圧された。
ノーザンプトン伯領は剥奪され父王フィリップ2世の後妻ベト...
ベッドフォード伯領は剥奪され司教領となった。
サマセットの反乱指導者エルフガルは処刑された。
カンタベリー公は全ての領地・財産を剥奪され追放となった。
呼応したコーンウォール公とヘレフォード公は処罰を免れたが...
1184年6月2日
ルイはカンタベリーの世俗統治権を大司教に委ねる事を表明。
カンタベリー大司教領が誕生した。
#ref(021_1184.jpg,nolink)
カンタベリー大司教ジルベール 凡庸な人物である
**アラゴン [#z1f41a0a]
イスラム勢力が駆逐されたイベリアに待っていたのはフランス...
1183年時点でヒメノ家は3つに分裂しており、中でもカスティ...
#ref(019_1183.jpg,nolink)
カスティーリャ・レオン王ガルシア4世 南進を阻む最大の障害
ガルシアの同名の祖父ガルシア2世はアラゴン王位も保持して...
そのアラゴン地方には未だフランスに従属しない諸侯がおり、...
1183年4月13日
フランスはアンバラシン伯領の支配権を求めてカスティーリャ...
これはアラゴン公ジギスムントの保持する慣習的権利に基づい...
#ref(020_1184.jpg,nolink)
ヘリンの戦い カスティーリャが2万を超える兵力を動員した...
1185年6月7日
ガルシア4世は降伏しアンバラシンはフランスの主権下に入っ...
#ref(023_1185.jpg,nolink)
イベリア半島掌握は着実に進展している
**さまざまな継承 [#wcdb029c]
1184年5月27日
トスカナ公ヒューゴが死去。フランス王妃アデリンデがトスカ...
トスカナは北イタリア最大の領邦であり、将来のカペー家にと...
1185年5月16日
王妹エロディとビザンティン皇帝ダニエルの結婚が成立した。
1185年6月19日
スウェーデン王トリルが崩御。
2人の息子が父より先に他界していたため、王弟エムンドが王...
#ref(024_1186.jpg,nolink)
スウェーデン王エムンド ルイの長女フランチェサの夫
日陰の存在だったフランチェサは一躍スウェーデン王妃となっ...
しかしこれが彼女の不幸の始まりでもあったのだ。
1185年6月28日
次男エドゥアールが誕生。
11年ぶりに誕生した男子であり、慣例に従うなら将来トスカナ...
翌年10月1日には三男ウスターシュも誕生している。
1186年10月3日
アキテーヌ公フィリップが14歳で死去。10歳の妹アリエノール...
1186年11月11日
ブルターニュ公ゴドフロワが死去。長男のポワトゥ公ゴドフロ...
これにより2つの公領を治める大諸侯が誕生した。
これは1141年にガスコーニュ公ジェローが死去して以来、45年...
#ref(025_1186.jpg,nolink)
ブルターニュ・ポワトゥの公ゴドフロワ 王国最大の諸侯
#ref(026_1186.jpg,nolink)
ゴドフロワの支配領域
ゴドフロワは自分が警戒されている事をよく理解しており、謀...
**ポルトガル [#p10ae9fe]
1157年にモーリタニアのムラービト朝が滅んで30年。
征服者ファーティマ朝による硬軟織り交ぜた政策は功を奏し、...
本国エジプトも安定しており、カリフの威光はこれまでにない...
#ref(027_1187.jpg,nolink)
ファーティマ朝《カリフ》ムーサ2世 退廃0ってあまり見な...
1187年12月27日
カリフはポルトガルを異教徒の手から取り戻すべくジハードを...
イベリアは再び戦乱の時代に突入した。
#ref(028_1187.jpg,nolink)
イスラムの側からすればこれもレコンキスタ
ルイはこの聖戦に関心を持ってはいたがあえて介入するつもり...
同時期に発生していたブルターニュとネジブの農民反乱の鎮圧...
しかし、カスティーリャはルイの想像以上に弱体化していたの...
#ref(029_1189.jpg,nolink)
ポルトガル陥落
1189年7月20日
ガルシア4世は降伏した。
ポルトガルが異教徒の手に落ちたとの報はヨーロッパ中を震撼...
ここ100年ほど、カトリックが聖戦で領土を奪うことはあっても...
1189年8月18日
事態を重く見た教皇マルティヌス2世はすぐさま十字軍を布告...
#ref(030_1189.jpg,nolink)
十字軍発動 ポルトガル陥落からまだ1月も経っていない
ルイは即座に参戦を表明。
5万の大軍を動員し海路からポルトガルに雪崩れ込む。
#ref(032_1190.jpg,nolink)
異教徒と戦うフランス騎士
ファーティマ朝はポルトガルを征服した直後で兵も疲弊してお...
対して十字軍は万全の態勢でのぞんでおり、戦争はごく短期間...
1190年11月11日
カリフは降伏。
ルイは勲功第一位としてポルトガル王国を創設した。
#ref(033_1190.jpg,nolink)
ジハードに成功されてむしろラッキーでした
これでカペー家は6つ目の王国を手に入れた事になる。
しかしルイがこの程度で満足する事はなかった。
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*ルイ6世の治世・前編 [#c92d334e]
**九英雄 [#wb4979fd]
九英雄(または九偉人)という言葉がある。
中世ヨーロッパで騎士道を体現する偉人とされてきた九人の英...
即ちヘクトール、アレクサンドロス大王、カエサル、ヨシュア...
異教時代から3人、旧約時代から3人、そしてキリスト教徒か...
王権の高揚を図るカペー家は吟遊詩人などを通してこの伝説を...
その結果フィリップ1世は聖王と讃えられ理想のキリスト教君...
現実のフィリップ1世は列聖などされていないし、むしろ粛清...
カペー家は神に選ばれた聖なる一族である、とするフランスの...
(史実で九英雄という表現が生まれたのは14世紀で最後の一人...
**皇帝への夢 [#c33acf28]
即位に伴う一連の儀式を終えた後、ルイは顧問団を私室に招い...
ルイの傍らにはシャンパーニュ大司教アルノーもいる。
>「余は皇帝になる」
ルイの言葉に顧問団は驚愕した。
アルノーに驚いた様子がないのは先に聞かされていたからだろ...
いや、むしろ発案したのはアルノーの方かもしれない。
#ref(014_1181.jpg,nolink)
シャンパーニュ大司教アルノー 若くしてフランス宗教界の頂...
『王はその王国において皇帝である』という有名な言葉がある。
これはフランス王権がドイツの皇帝権に従属しない対等な存在...
しかしそれでも、王と皇帝の間には厳然とした差があった。
王が王を従えることは出来ないが、皇帝は違う。
現実的にはドイツの地方王権に過ぎないにしても、やはり皇帝...
>「フランス皇帝を称されるのですか?」
密偵長ライナウの問いにルイは「否」と答えた。
かつてフェルナンド1世がヒスパニア皇帝を称した前例はある...
中世ヨーロッパにおいて、皇帝とはローマ皇帝以外にありえな...
>「神聖ローマ皇帝に立候補されるのですか?」
大臣ギラナナームの一見間の抜けた意見も帝国の現状から見れ...
>「あんなものはローマ帝国ではない。ドイツ人どもが勝手に名...
>「イタリア…ですか」
家令ウンベールの発言にルイは大きく頷いた。
>「イタリアを制した者にこそ真のローマ皇帝を名乗る資格があ...
王が神意を口にする事に宮廷司祭長ティボーは違和感を感じた...
アルノーの動機がなんであれ、ローマ帝国再興そのものに反対...
ただし政策には優先順位というものがある。
今はアンリ2世以来の国策レコンキスタを完遂させることが最...
1182年1月4日
フランスはイベリアに残った最後のイスラム勢力マヨルカ首長...
モーリタニアは既にシーア派のファーティマ朝に征服されてお...
1182年8月21日
マヨルカ首長ラフは降伏。718年のペラヨの反乱に始まるレコン...
翌日、ノルマンディー公家傍流のヴァルラン・カペーがマヨル...
#ref(017_1182.jpg,nolink)
史実より310年も早く終わった
**別れの季節 [#ta444ee7]
1181年5月24日
長女フランチェサとスウェーデンの王弟エムンドの結婚が成立...
エムンドはルイと同じ46歳であり、父娘ほども歳の離れたカッ...
フランチェサはルイがイングランド時代に手を付けた女官の娘...
スウェーデン王族が私生児に求婚してきた理由は良くわからな...
王位継承の可能性が低いエムンドはこの歳まで部屋住みの独身...
日陰の娘フランチェサはスウェーデンに旅立っていった。
#ref(015_1181.jpg,nolink)
長女フランチェサ ルイと対面することは生涯なかったと伝わる
1181年9月2日
元帥ジャルゴー男爵エチエンヌが62歳で死去。
後任の元帥にはナルボンヌ伯ウェズィアンが任命された。
彼は密偵長ライナウの旧主ジェルジの息子である。
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元帥ナルボンヌ伯ウェズィアン
なお、ジャルゴー男爵領を継承したマリーは2年後に他界。
後継者は無く男爵領は王領に組み込まれることになった。
1183年2月27日
王弟アキテーヌ公アンリが36歳で死去。10歳の長男フィリップ...
ルイとアンリは12歳も離れていたが、兄弟の仲は良く王はその...
**イングランド騒乱 [#i7f45850]
1182年4月20日のノーザンプトン伯エドバートの乱を皮切りにイ...
1182年6月5日にベッドフォード伯エルドムンドの乱。
1183年8月1日にサマセットで農民反乱。
しかし最も規模が大きなものはカンタベリー公オズルフの反乱...
1183年1月14日
オズルフはイングランド王位請求権を掲げて挙兵。
コーンウォール公リオク、ヘレフォード公ウィトレドも呼応し...
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大軍を投入して速やかに鎮圧する
一連の反乱は1年ほどで鎮圧された。
ノーザンプトン伯領は剥奪され父王フィリップ2世の後妻ベト...
ベッドフォード伯領は剥奪され司教領となった。
サマセットの反乱指導者エルフガルは処刑された。
カンタベリー公は全ての領地・財産を剥奪され追放となった。
呼応したコーンウォール公とヘレフォード公は処罰を免れたが...
1184年6月2日
ルイはカンタベリーの世俗統治権を大司教に委ねる事を表明。
カンタベリー大司教領が誕生した。
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カンタベリー大司教ジルベール 凡庸な人物である
**アラゴン [#z1f41a0a]
イスラム勢力が駆逐されたイベリアに待っていたのはフランス...
1183年時点でヒメノ家は3つに分裂しており、中でもカスティ...
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カスティーリャ・レオン王ガルシア4世 南進を阻む最大の障害
ガルシアの同名の祖父ガルシア2世はアラゴン王位も保持して...
そのアラゴン地方には未だフランスに従属しない諸侯がおり、...
1183年4月13日
フランスはアンバラシン伯領の支配権を求めてカスティーリャ...
これはアラゴン公ジギスムントの保持する慣習的権利に基づい...
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ヘリンの戦い カスティーリャが2万を超える兵力を動員した...
1185年6月7日
ガルシア4世は降伏しアンバラシンはフランスの主権下に入っ...
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イベリア半島掌握は着実に進展している
**さまざまな継承 [#wcdb029c]
1184年5月27日
トスカナ公ヒューゴが死去。フランス王妃アデリンデがトスカ...
トスカナは北イタリア最大の領邦であり、将来のカペー家にと...
1185年5月16日
王妹エロディとビザンティン皇帝ダニエルの結婚が成立した。
1185年6月19日
スウェーデン王トリルが崩御。
2人の息子が父より先に他界していたため、王弟エムンドが王...
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スウェーデン王エムンド ルイの長女フランチェサの夫
日陰の存在だったフランチェサは一躍スウェーデン王妃となっ...
しかしこれが彼女の不幸の始まりでもあったのだ。
1185年6月28日
次男エドゥアールが誕生。
11年ぶりに誕生した男子であり、慣例に従うなら将来トスカナ...
翌年10月1日には三男ウスターシュも誕生している。
1186年10月3日
アキテーヌ公フィリップが14歳で死去。10歳の妹アリエノール...
1186年11月11日
ブルターニュ公ゴドフロワが死去。長男のポワトゥ公ゴドフロ...
これにより2つの公領を治める大諸侯が誕生した。
これは1141年にガスコーニュ公ジェローが死去して以来、45年...
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ブルターニュ・ポワトゥの公ゴドフロワ 王国最大の諸侯
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ゴドフロワの支配領域
ゴドフロワは自分が警戒されている事をよく理解しており、謀...
**ポルトガル [#p10ae9fe]
1157年にモーリタニアのムラービト朝が滅んで30年。
征服者ファーティマ朝による硬軟織り交ぜた政策は功を奏し、...
本国エジプトも安定しており、カリフの威光はこれまでにない...
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ファーティマ朝《カリフ》ムーサ2世 退廃0ってあまり見な...
1187年12月27日
カリフはポルトガルを異教徒の手から取り戻すべくジハードを...
イベリアは再び戦乱の時代に突入した。
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イスラムの側からすればこれもレコンキスタ
ルイはこの聖戦に関心を持ってはいたがあえて介入するつもり...
同時期に発生していたブルターニュとネジブの農民反乱の鎮圧...
しかし、カスティーリャはルイの想像以上に弱体化していたの...
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ポルトガル陥落
1189年7月20日
ガルシア4世は降伏した。
ポルトガルが異教徒の手に落ちたとの報はヨーロッパ中を震撼...
ここ100年ほど、カトリックが聖戦で領土を奪うことはあっても...
1189年8月18日
事態を重く見た教皇マルティヌス2世はすぐさま十字軍を布告...
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十字軍発動 ポルトガル陥落からまだ1月も経っていない
ルイは即座に参戦を表明。
5万の大軍を動員し海路からポルトガルに雪崩れ込む。
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異教徒と戦うフランス騎士
ファーティマ朝はポルトガルを征服した直後で兵も疲弊してお...
対して十字軍は万全の態勢でのぞんでおり、戦争はごく短期間...
1190年11月11日
カリフは降伏。
ルイは勲功第一位としてポルトガル王国を創設した。
#ref(033_1190.jpg,nolink)
ジハードに成功されてむしろラッキーでした
これでカペー家は6つ目の王国を手に入れた事になる。
しかしルイがこの程度で満足する事はなかった。
ルイ6世の治世・中編へ[[AAR/王朝序曲/ルイ6世の治世・中編]]
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