AAR/王朝序曲/フィリップ2世の治世・前半
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[[AAR/王朝序曲]]
*フィリップ2世の治世・前半 [#ud51237a]
#ref(001_1140.jpg,nolink)
アンリ2世の長男。母はプロヴァンス公アルシェンダ。
王妃セスリスはイングランドの推定相続人(弟が誕生しなけれ...
フィリップは決して美男ではなかったが天性の社交家として知...
神を信じてはいたがやや冷笑的なところがあり、祖父や父のよ...
その一方で荒事は苦手で馬を乗りこなすこともできなかったと...
**継承問題 [#i9a46eaa]
***プロヴァンス [#r808d0ae]
プロヴァンスはかつて王国であった。
855年のロタール1世の死によって分割相続された中フランク王...
その後一時的に西フランク王国に組み込まれるが、879年に反乱...
しかし933年にブルグント王国に併合されて消滅。ボゾの子孫(...
1032年にブルグントが神聖ローマ帝国に編入されてからはプロ...
1134年にボゾン家最後の生き残りアルシェンダが死去。長男フ...
そして今、フィリップのフランス王位継承によりプロヴァンス...
1140年1月29日
フィリップは弟ジェローをプロヴァンス公に、もう1人の弟マ...
新王が即位したら弟に領地を与えることがカペーの伝統である。
#ref(002_1140.jpg,nolink)
プロヴァンス公ジェロー 母の遺領を次男に与えるのもカペー...
#ref(003_1140.jpg,nolink)
ブルゴーニュ公マナセス 第2ブルゴーニュ家の始祖
1140年3月24日
父アンリ2世の後妻ブランシュが男児を出産した。
父親はアンリ2世。つまりフィリップの末弟ということになる。
幼児はジャフルと名付けられ正式な王子として育てられること...
***中世王権の限界 [#c6742a00]
フィリップが当面対処すべき問題は2つあった。
1つは父王時代から継続するバレンシア首長国との戦い。
もう1つは野心的な叔父ブルターニュ公ジュリアンへの対応で...
1140年4月2日
バレンシア首長ラフが降伏。
こうして問題の1つは解決した。
#ref(004_1140.jpg,nolink)
バレンシア獲得直後ののフランス領
ブルターニュ公は自らの王位獲得への支持者を集めており、放...
とはいえ諸侯の多くは王を支持しており、とりわけもう1人の...
しかし…
#ref(005_1141.jpg,nolink)
ジェロー死す
1141年8月14日
ガスコーニュ公ジェローが54歳で他界。
長女マオーがガスコーニュ公領を、次女エルマンガルドがポワ...
同年9月25日にはポワトゥ女公エルマンガルドが結婚。
相手はブルターニュ公ジュリアンの嫡子ゴドフロワである。
子供が生まれればブルターニュとポワトゥが1人の公に統合さ...
>「何故結婚を許したんだ。近親婚じゃないのか?」
宮廷司祭長ウードを詰ったところで教皇が許可している以上ど...
フィリップは王権法の強化を目論んでいたのだが、こういう事...
諸侯の反感を買うからではない。
王権を強化するという事は諸侯の領内における権限を強化する...
長子相続の下で今回のような諸侯同士の婚姻が続けば、かつて...
>「王権法の改正は凍結すべきかと」
大臣キナートの意見に他の顧問も賛成する。
フィリップも同意せざるを得なかった。
***継承法 [#b9af07c6]
古今東西、君主制を採用する国には様々な継承法があった。
例えば長子相続がある。
これは君主の長子が父親の全ての権利を相続する制度である。
長子が死去していた場合は長子の長子が継ぐ。長子の子もいな...
但し、女子の継承権を認めるか否か、また姉と弟でどちらを優...
フランス王家は男子のみに継承権を認めている。現代日本の皇...
一方イングランドは男子優先ではあるが、男子がいない時は女...
フィリップの王妃セスリスは男子の兄弟が全て子を残さず他界...
中央アジアの遊牧民族には末子相続の伝統がある。
これは遊牧民は成人したら父親から家畜や隷属民を分与され独...
従って父親が死んだ時点で独立していない子が複数いた時はそ...
有名なチンギス汗は長男であったが、成人前に父が死んだ為、...
一方で一族の長老が全ての家産を管理する社会もある。
国家レベルでこの制度を導入する例は多くはないが、分権的な...
現代のサウジアラビアでは王位は兄弟で相続されるケースが多...
イスラム圏では長幼の序は厳格ではなく家族と親族の呼称上の...
また一夫多妻制であることも相まって継承法が明文化される事...
要するに、君主が継がせたい子に継がせるのである。
勿論、君主の意図した通りに事が運ぶとは限らず、権力を巡る...
極端な例になるが、オスマン帝国は継承者の兄弟は野心のある...
世襲によらない制度もある。
王政時代のローマや近世のポーランドのように被選挙権者を特...
神聖ローマ帝国はドイツ王を選挙で選ぶ国として有名だが、選...
ただ皇帝に嫡子がいれば時期皇帝として支持を集めやすい傾向...
しかしこの時代、最も一般的だったのは分割相続である。
古くはフランク族がこの風習をもっており、その流れを受け継...
そもそもフランスという国そのものがフランク族の分割相続に...
分割相続は代を重ねる度に領地が細分化されるという欠点があ...
***カスティーリャ連合王国の分裂 [#i915f0d5]
カスティーリャ、レオン、ガリシア、アラゴン、ナヴァラ。
イベリア北部には5つの王国がある。
1141年現在、ヒメノ家のガルシア2世がナヴァラを除く4つの...
ヒメノ家は英雄イニゴ・アリスタの系譜をひくバスク人の王朝...
1130年にはガディス家のポンセがアラゴン王に推されヒメノ家...
しかしその一時的な独立期に国土の多くがフランスに侵食され...
1142年7月19日
フィリップは自らが正統なアラゴン王であると宣言。
ガルシアはこれを無効であると主張したが、在地領主の半数以...
#ref(006_1142.jpg,nolink)
アラゴン王位簒奪
1143年8月10日
そのガルシア2世が崩御。
#ref(007_1143.jpg,nolink)
暗殺されたようだ
ヒメノ家の伝統に則り、長男ガルシア3世がカスティーリャと...
フランク王国同様、ヒメノ家の王朝もまた代を重ねる度に分裂...
そして分割相続のわずか2週間後、レオン女公エウラリアがレオ...
カスティーリャは内乱の時代に突入した。
**異教と異端 [#lb116e25]
***トルコ人クテイ [#tcb63353]
1145年1月1日
トルコ人クテイが傭兵や流民からなる私兵団を率いてエルサレ...
#ref(008_1145.jpg,nolink)
トルコ人クテイ ジャスク太守の四男
クテイはペルシャ湾岸のジャスクを治める太守の四男だが、そ...
己の才覚で国を切り取る道を選んだ彼は流民や馬賊、ならず者...
クテイの軍勢は2万を超え、現地の兵力だけで聖地を守る事は...
>「聖地はならず者どもに包囲され善良なキリスト教徒が危険に...
聖地の総督を務めるアスカロン公アルバルから急使を受けたフ...
相手は異教徒のならず者である。町や村は焼かれ住民は略奪や...
しかし現地についてみると事情は全く異なっていた。
クテイに制圧されていた町や村はどこにも略奪・虐殺の痕跡が...
>「クテイの軍は軍律が厳しく、市民への乱暴狼藉は死罪になる...
元帥アンドレの報告に感銘を受けたのか、フィリップはクテイ...
並みの男ではあるまい…
しかしパレスチナを席巻したクテイの軍勢も4万のフランス軍...
#ref(009_1145.jpg,nolink)
アデロンの戦い この戦いでクテイの軍勢はほぼ壊滅した
1146年1月22日
クテイはフィリップ2世の前に出頭。兵士の命と引き換えに降...
#ref(010_1146.jpg,nolink)
第二のセルジュークにはなれなかった
>「改宗して余に仕える気はないか?」
フィリップの提案にその場にいた誰もが驚いたが、一番驚いた...
>「アッラーの他に神はなし。イーサー(イエス)の教えに帰依...
>「コーランではユダヤの神もアッラーも同じ唯一の神だと説い...
>「しかしキリスト教徒の説く三位一体説は認めておりません。...
>「ありえない事が出来るから神じゃないか」
>「神がそのような事をされる合理的理由がありません」
>「真意は神のみぞ知る、だ」
>「そんな詭弁を…」
初めは頑なだったクテイも次第にフィリップの人間的魅力(外...
クテイは改宗を決意し、その夜のうちに洗礼を受け敬虔なキリ...
***ノルウェー人スヴェイン [#sa4981d0]
そのころパリの宮廷にある噂が持ち上がっていた。
密偵長スヴェインが異端の教えに染まっている、というのだ。
スヴェインは祖父フィリップ1世の時代から密偵長として王家...
父アンリ2世とは王弟ジュリアンの処遇やイングランド継承問...
#ref(011_1146.jpg,nolink)
密偵長スヴェイン カタリ派に染まったうえ悪魔憑きの特性ま...
1146年4月7日
フィリップはスヴェインを私室に招いた。
彼は父と同い年のこのノルウェー人を尊敬していた。
>「率直に問うが、宮中の噂は真か?」
スヴェインはしばしの沈黙のあと「然り」とだけ答えた。
>「教会に腐敗した聖職者がいることは確かだし批判する気持ち...
>「正統か異端かは神が決めること。教会の言い分は人間の驕り...
>「王として教会の認定した異端を許すことはできんのだ。カト...
>「王といえども魂まで支配する事はできませぬ」
>「神は唯一にして全能。正統だの異端だのは解釈の違いでしか...
>「陛下は神を理解しておられない。解釈こそが最も肝要なので...
>「解釈の違いで争うなんて馬鹿げている」
>「私の考えは変わりません。どうか私をお裁きください」
>「余はお前を救いたいのだ」
>「陛下、お裁きを!」
同日、スヴェインは密偵長の職を解かれ投獄された。
フィリップはその後も説得を続けたがスヴェインが改宗に応じ...
2年後、スヴェインは敬虔なカタリ派として67年の生涯をとじた。
**大臣キナートの死 [#u7a49579]
1146年2月24日
カスティーリャ・レオン王ガルシア3世が急逝し、一人息子の...
1146年6月3日
次男アンリが誕生。将来のアキテーヌ公である。
1147年8月1日
カステリョンで大規模な農民反乱が起こった。
在地のフランス人領主の圧政に耐えかねての事であるが、現地...
フィリップ2世の時代、特にその後半は頻発する農民反乱に悩...
#ref(012_1147.jpg,nolink)
まつろわぬ異教徒ども
1149年12月10日
フィリップは大臣キナートを家老に任じた。
キナートはフィリップ1世の家令ライアンの嫡子でフィリップ...
同時に元帥アンドレを主馬頭に、家令ジェローを執事長に任じ...
父王時代からの長年の功に報いたものだが…
#ref(013_1150.jpg,nolink)
キナート死す
1150年9月12日
大臣キナートが59歳で死去。
後任の大臣に選ばれたのはトルコ人のクテイである。
クテイはキナートが携わっていたイベリア各地への要求権捏造...
1151年1月7日
王太子ルイとトスカナ公女アデリンデの婚約が成立した。
トスカナ公には男子がなく、このままいけば北イタリアの広大...
長男の結婚相手は王侯の女相続人から選ぶのもカペーの伝統で...
1152年2月4日
王太子ルイが大臣に就任した。
前大臣クテイはフィリップの私的顧問として主にオリエントの...
彼は直接現地に赴きかつての仲間から情報を集め、王に報告書...
**クテイの報告 [#td204d9e]
隆盛を誇ったセルジューク朝は宮廷の腐敗とそれによる政治的...
1117年にマリク・シャーからスルタン位を奪ったウスマン1世...
しかしトルコの現実と乖離したウスマンのペルシャ的専制支配...
1135年、トルコの君侯たちはウスマンの従兄弟にあたるトリポ...
宮廷からペルシャ色は一掃されたがこれにより王朝の退廃が食...
1140年にバトゥレイが崩御するとまたもやスルタン位を巡る内...
従兄弟のアルプ・アルスラーン2世が勝利しスルタンに即位し...
スルタンとなったアルスラーンは失墜した権威の回復につとめ...
しかし1151年8月5日、ホラズム君侯デュンダルとの戦いに破れ...
アルスラーンは翌年獄死し、孫のソグメンがスルタンとして即...
しかし新スルタンは僅か10歳であり、内憂外患を多く抱えるセ...
>「エルサレム王国の版図を広げる好機かと存じますが」
>「いや、やめておこう。オリエントは遠すぎる。聖地だけで十...
フィリップは現実主義者である。
聖地の維持だけでも大変なのにこれ以上リスク要因を拡げるつ...
クテイはその後もオリエントで活動を続け中東情勢について多...
しかし3年後の1155年8月4日。肺炎にかかりわずか31歳で急逝し...
**グラナダ [#p96d99f7]
このころアンダルシア南端のグラナダはバルセロナ家の男系が...
バルセロナ家は傍流のコンスタンサが健在であったが、今は一...
1151年6月27日
フィリップはアンダルシア王としての慣習的権利に基づきグラ...
瞬く間に制圧し伯領を剥奪した。
2年後の1153年8月7日には自らが正統なグラナダ公であると宣言...
#ref(014_1153.jpg,nolink)
念願のグラナダを確保
同日、フィリップはバルセロナ家のコンスタンサをグラナダ公...
**世代交代 [#n9e02234]
1152年12月12日
王弟プロヴァンス公ジェローが40歳で死去。
長女ベノワトが公領を継承した。
1153年3月12日には家令ジェローが死去。
後任の家令にはノルマンディー公ヴァルランが選ばれた。
かつて父アンリ2世に反旗を翻した野心家だが、宮廷に取り込...
12世紀のヨーロッパは人口増加と経済成長の時代であり、辺境...
フランスも例外ではなく、フィリップはその治世下に多くの城...
尤も、いかに国が豊かになり税収が増えたといっても、それだ...
フィリップが利用したのは捕虜の身代金だった。
王は戦争捕虜や陰謀を目論んだ廉で投獄した諸侯たちから身代...
都市や教会はその土地の有力者に委ねられたが、城塞はもっぱ...
フランスでは顧問を10年勤めれば男爵になれる。
その噂は各地に広がり立身を夢見る多くの才能がパリにやって...
ドイツ人ワルテールもそんな1人である。
ワルテールはニュルンベルグ伯ヘルマンの私生児であったが、...
しかしその逆境で身につけた処世術は彼を有能な外交家に成長...
#ref(015_1153.jpg,nolink)
私生児ワルテール 人物検索で能力の高い人物を見つけて引き...
1153年1月16日
フィリップはワルテールをパリに招聘し大臣に任命した。
大臣の任を解かれた王太子ルイはボルドー伯に叙され領国経営...
1153年9月10日
イングランド王エドゥアルト3世が崩御。
長女セスリスが王位を継承した。
#ref(016_1153.jpg,nolink)
イングランド女王セスリス フランス王妃でもある
これによりフランス王太子ルイは同時にイングランドの王太子...
1153年12月23日
カスティーリャ・レオン王ガルシア4世は同族のマンリコを正...
モルガン家に奪われていた一族の故地を奪還すべくナヴァラ王...
#ref(017_1153.jpg,nolink)
ナヴァラ継承戦争勃発
戦いは一方的に推移し、翌年8月15日にはナヴァラ王は降伏。
ヒメノ家のマンリコがナヴァラの王位に就いた。
**帝国来襲 [#t84f4598]
フランドル東端の都市ヘントはケルト語で「川の合流地帯」を...
フランス語でガンとも呼ばれるこの町はシャルルマーニュの側...
代々フランドル公の領地であったが、1074年にフランドル公が...
しかしフランドルは伝統的に帝国の領域とみなされており、仏...
ここ100年ほどは十字軍や聖戦で共闘するなど仏独関係は比較的...
フィリップもそのドイツが牙を剥いてくることは予想していな...
1154年1月29日
神聖ローマ皇帝ヘルマン1世はヘントの領有権を主張、フラン...
#ref(018_1154.jpg,nolink)
裏切り者に皇帝の資格なし
パリの宮廷は大混乱に陥った。
フランスはフィリップ1世以来の拡大政策で強大化したとはい...
廷臣の中にはヘント放棄を口にする者もいた。
家令ヴァルランや密偵長ウルタルがその筆頭である。
しかし大臣ワルテールは降伏案を一蹴した。
>「ヘントを放棄すれば次はブリュッヘ、イベレンと要求してく...
ノルマンディー公でもある家令ヴァルランを牽制したものだ。
>「しかし勝てるのか?」
元帥の代わりに王の質問に答えたのは宮廷司祭長ウードである。
>「聖ドニがお守りくださるでしょう」
聖ドニことパリのディオニュシウスはフランスの守護聖人であ...
3世紀に実在したとされる聖人で、異教徒に首を刎ねられた後...
その聖ドニの遺体が葬られたのがサン・ドニ修道院であり歴代...
フィリップは甲冑をまといサン・ドニ修道院に向かうと祭壇の...
「モンジョワ・聖ドニ!」
フィリップの発した鯨波の声に元帥アンドレが呼応し、それは...
フィリップは武芸を苦手としており馬にも乗れなかったが、人...
同日、フィリップは王国全土に動員令を発し、また王妃が治め...
#ref(019_1154.jpg,nolink)
フランス・イングランド連合軍vs神聖ローマ帝国
戦下手の王に代わり軍略全般を担ったのは元帥アンドレである。
国力で劣るフランスが勝利するには短期決戦しかない。
分散する帝国軍を仏英両軍で襲い野戦で壊滅させるのだ。
#ref(020_1155.jpg,nolink)
帝国軍を包囲殲滅する仏英連合軍
戦線はプロヴァンス方面やブルゴーニュ方面にも展開していた...
イングランドの加勢もあってフランス騎士は各地で帝国軍を撃...
#ref(021_1155.jpg,nolink)
ルーヴェンの戦い
1155年4月4日に行われたルーヴェンの戦いでは帝国側は上ブル...
同年5月には大規模な農民反乱も起こり帝国は外征どころではな...
#ref(022_1155.jpg,nolink)
すでに大勢は決している
1155年7月6日
皇帝ヘルマンが降伏。
1年半続いたヘント防衛戦争はフランス・イングランド連合の...
#ref(023_1155.jpg,nolink)
賠償金556Gは安すぎる
この戦いの後、神聖ローマ帝国は内乱の時代に突入することに...
フィリップ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/フィリップ2世...
終了行:
[[AAR/王朝序曲]]
*フィリップ2世の治世・前半 [#ud51237a]
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アンリ2世の長男。母はプロヴァンス公アルシェンダ。
王妃セスリスはイングランドの推定相続人(弟が誕生しなけれ...
フィリップは決して美男ではなかったが天性の社交家として知...
神を信じてはいたがやや冷笑的なところがあり、祖父や父のよ...
その一方で荒事は苦手で馬を乗りこなすこともできなかったと...
**継承問題 [#i9a46eaa]
***プロヴァンス [#r808d0ae]
プロヴァンスはかつて王国であった。
855年のロタール1世の死によって分割相続された中フランク王...
その後一時的に西フランク王国に組み込まれるが、879年に反乱...
しかし933年にブルグント王国に併合されて消滅。ボゾの子孫(...
1032年にブルグントが神聖ローマ帝国に編入されてからはプロ...
1134年にボゾン家最後の生き残りアルシェンダが死去。長男フ...
そして今、フィリップのフランス王位継承によりプロヴァンス...
1140年1月29日
フィリップは弟ジェローをプロヴァンス公に、もう1人の弟マ...
新王が即位したら弟に領地を与えることがカペーの伝統である。
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プロヴァンス公ジェロー 母の遺領を次男に与えるのもカペー...
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ブルゴーニュ公マナセス 第2ブルゴーニュ家の始祖
1140年3月24日
父アンリ2世の後妻ブランシュが男児を出産した。
父親はアンリ2世。つまりフィリップの末弟ということになる。
幼児はジャフルと名付けられ正式な王子として育てられること...
***中世王権の限界 [#c6742a00]
フィリップが当面対処すべき問題は2つあった。
1つは父王時代から継続するバレンシア首長国との戦い。
もう1つは野心的な叔父ブルターニュ公ジュリアンへの対応で...
1140年4月2日
バレンシア首長ラフが降伏。
こうして問題の1つは解決した。
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バレンシア獲得直後ののフランス領
ブルターニュ公は自らの王位獲得への支持者を集めており、放...
とはいえ諸侯の多くは王を支持しており、とりわけもう1人の...
しかし…
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ジェロー死す
1141年8月14日
ガスコーニュ公ジェローが54歳で他界。
長女マオーがガスコーニュ公領を、次女エルマンガルドがポワ...
同年9月25日にはポワトゥ女公エルマンガルドが結婚。
相手はブルターニュ公ジュリアンの嫡子ゴドフロワである。
子供が生まれればブルターニュとポワトゥが1人の公に統合さ...
>「何故結婚を許したんだ。近親婚じゃないのか?」
宮廷司祭長ウードを詰ったところで教皇が許可している以上ど...
フィリップは王権法の強化を目論んでいたのだが、こういう事...
諸侯の反感を買うからではない。
王権を強化するという事は諸侯の領内における権限を強化する...
長子相続の下で今回のような諸侯同士の婚姻が続けば、かつて...
>「王権法の改正は凍結すべきかと」
大臣キナートの意見に他の顧問も賛成する。
フィリップも同意せざるを得なかった。
***継承法 [#b9af07c6]
古今東西、君主制を採用する国には様々な継承法があった。
例えば長子相続がある。
これは君主の長子が父親の全ての権利を相続する制度である。
長子が死去していた場合は長子の長子が継ぐ。長子の子もいな...
但し、女子の継承権を認めるか否か、また姉と弟でどちらを優...
フランス王家は男子のみに継承権を認めている。現代日本の皇...
一方イングランドは男子優先ではあるが、男子がいない時は女...
フィリップの王妃セスリスは男子の兄弟が全て子を残さず他界...
中央アジアの遊牧民族には末子相続の伝統がある。
これは遊牧民は成人したら父親から家畜や隷属民を分与され独...
従って父親が死んだ時点で独立していない子が複数いた時はそ...
有名なチンギス汗は長男であったが、成人前に父が死んだ為、...
一方で一族の長老が全ての家産を管理する社会もある。
国家レベルでこの制度を導入する例は多くはないが、分権的な...
現代のサウジアラビアでは王位は兄弟で相続されるケースが多...
イスラム圏では長幼の序は厳格ではなく家族と親族の呼称上の...
また一夫多妻制であることも相まって継承法が明文化される事...
要するに、君主が継がせたい子に継がせるのである。
勿論、君主の意図した通りに事が運ぶとは限らず、権力を巡る...
極端な例になるが、オスマン帝国は継承者の兄弟は野心のある...
世襲によらない制度もある。
王政時代のローマや近世のポーランドのように被選挙権者を特...
神聖ローマ帝国はドイツ王を選挙で選ぶ国として有名だが、選...
ただ皇帝に嫡子がいれば時期皇帝として支持を集めやすい傾向...
しかしこの時代、最も一般的だったのは分割相続である。
古くはフランク族がこの風習をもっており、その流れを受け継...
そもそもフランスという国そのものがフランク族の分割相続に...
分割相続は代を重ねる度に領地が細分化されるという欠点があ...
***カスティーリャ連合王国の分裂 [#i915f0d5]
カスティーリャ、レオン、ガリシア、アラゴン、ナヴァラ。
イベリア北部には5つの王国がある。
1141年現在、ヒメノ家のガルシア2世がナヴァラを除く4つの...
ヒメノ家は英雄イニゴ・アリスタの系譜をひくバスク人の王朝...
1130年にはガディス家のポンセがアラゴン王に推されヒメノ家...
しかしその一時的な独立期に国土の多くがフランスに侵食され...
1142年7月19日
フィリップは自らが正統なアラゴン王であると宣言。
ガルシアはこれを無効であると主張したが、在地領主の半数以...
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アラゴン王位簒奪
1143年8月10日
そのガルシア2世が崩御。
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暗殺されたようだ
ヒメノ家の伝統に則り、長男ガルシア3世がカスティーリャと...
フランク王国同様、ヒメノ家の王朝もまた代を重ねる度に分裂...
そして分割相続のわずか2週間後、レオン女公エウラリアがレオ...
カスティーリャは内乱の時代に突入した。
**異教と異端 [#lb116e25]
***トルコ人クテイ [#tcb63353]
1145年1月1日
トルコ人クテイが傭兵や流民からなる私兵団を率いてエルサレ...
#ref(008_1145.jpg,nolink)
トルコ人クテイ ジャスク太守の四男
クテイはペルシャ湾岸のジャスクを治める太守の四男だが、そ...
己の才覚で国を切り取る道を選んだ彼は流民や馬賊、ならず者...
クテイの軍勢は2万を超え、現地の兵力だけで聖地を守る事は...
>「聖地はならず者どもに包囲され善良なキリスト教徒が危険に...
聖地の総督を務めるアスカロン公アルバルから急使を受けたフ...
相手は異教徒のならず者である。町や村は焼かれ住民は略奪や...
しかし現地についてみると事情は全く異なっていた。
クテイに制圧されていた町や村はどこにも略奪・虐殺の痕跡が...
>「クテイの軍は軍律が厳しく、市民への乱暴狼藉は死罪になる...
元帥アンドレの報告に感銘を受けたのか、フィリップはクテイ...
並みの男ではあるまい…
しかしパレスチナを席巻したクテイの軍勢も4万のフランス軍...
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アデロンの戦い この戦いでクテイの軍勢はほぼ壊滅した
1146年1月22日
クテイはフィリップ2世の前に出頭。兵士の命と引き換えに降...
#ref(010_1146.jpg,nolink)
第二のセルジュークにはなれなかった
>「改宗して余に仕える気はないか?」
フィリップの提案にその場にいた誰もが驚いたが、一番驚いた...
>「アッラーの他に神はなし。イーサー(イエス)の教えに帰依...
>「コーランではユダヤの神もアッラーも同じ唯一の神だと説い...
>「しかしキリスト教徒の説く三位一体説は認めておりません。...
>「ありえない事が出来るから神じゃないか」
>「神がそのような事をされる合理的理由がありません」
>「真意は神のみぞ知る、だ」
>「そんな詭弁を…」
初めは頑なだったクテイも次第にフィリップの人間的魅力(外...
クテイは改宗を決意し、その夜のうちに洗礼を受け敬虔なキリ...
***ノルウェー人スヴェイン [#sa4981d0]
そのころパリの宮廷にある噂が持ち上がっていた。
密偵長スヴェインが異端の教えに染まっている、というのだ。
スヴェインは祖父フィリップ1世の時代から密偵長として王家...
父アンリ2世とは王弟ジュリアンの処遇やイングランド継承問...
#ref(011_1146.jpg,nolink)
密偵長スヴェイン カタリ派に染まったうえ悪魔憑きの特性ま...
1146年4月7日
フィリップはスヴェインを私室に招いた。
彼は父と同い年のこのノルウェー人を尊敬していた。
>「率直に問うが、宮中の噂は真か?」
スヴェインはしばしの沈黙のあと「然り」とだけ答えた。
>「教会に腐敗した聖職者がいることは確かだし批判する気持ち...
>「正統か異端かは神が決めること。教会の言い分は人間の驕り...
>「王として教会の認定した異端を許すことはできんのだ。カト...
>「王といえども魂まで支配する事はできませぬ」
>「神は唯一にして全能。正統だの異端だのは解釈の違いでしか...
>「陛下は神を理解しておられない。解釈こそが最も肝要なので...
>「解釈の違いで争うなんて馬鹿げている」
>「私の考えは変わりません。どうか私をお裁きください」
>「余はお前を救いたいのだ」
>「陛下、お裁きを!」
同日、スヴェインは密偵長の職を解かれ投獄された。
フィリップはその後も説得を続けたがスヴェインが改宗に応じ...
2年後、スヴェインは敬虔なカタリ派として67年の生涯をとじた。
**大臣キナートの死 [#u7a49579]
1146年2月24日
カスティーリャ・レオン王ガルシア3世が急逝し、一人息子の...
1146年6月3日
次男アンリが誕生。将来のアキテーヌ公である。
1147年8月1日
カステリョンで大規模な農民反乱が起こった。
在地のフランス人領主の圧政に耐えかねての事であるが、現地...
フィリップ2世の時代、特にその後半は頻発する農民反乱に悩...
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まつろわぬ異教徒ども
1149年12月10日
フィリップは大臣キナートを家老に任じた。
キナートはフィリップ1世の家令ライアンの嫡子でフィリップ...
同時に元帥アンドレを主馬頭に、家令ジェローを執事長に任じ...
父王時代からの長年の功に報いたものだが…
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キナート死す
1150年9月12日
大臣キナートが59歳で死去。
後任の大臣に選ばれたのはトルコ人のクテイである。
クテイはキナートが携わっていたイベリア各地への要求権捏造...
1151年1月7日
王太子ルイとトスカナ公女アデリンデの婚約が成立した。
トスカナ公には男子がなく、このままいけば北イタリアの広大...
長男の結婚相手は王侯の女相続人から選ぶのもカペーの伝統で...
1152年2月4日
王太子ルイが大臣に就任した。
前大臣クテイはフィリップの私的顧問として主にオリエントの...
彼は直接現地に赴きかつての仲間から情報を集め、王に報告書...
**クテイの報告 [#td204d9e]
隆盛を誇ったセルジューク朝は宮廷の腐敗とそれによる政治的...
1117年にマリク・シャーからスルタン位を奪ったウスマン1世...
しかしトルコの現実と乖離したウスマンのペルシャ的専制支配...
1135年、トルコの君侯たちはウスマンの従兄弟にあたるトリポ...
宮廷からペルシャ色は一掃されたがこれにより王朝の退廃が食...
1140年にバトゥレイが崩御するとまたもやスルタン位を巡る内...
従兄弟のアルプ・アルスラーン2世が勝利しスルタンに即位し...
スルタンとなったアルスラーンは失墜した権威の回復につとめ...
しかし1151年8月5日、ホラズム君侯デュンダルとの戦いに破れ...
アルスラーンは翌年獄死し、孫のソグメンがスルタンとして即...
しかし新スルタンは僅か10歳であり、内憂外患を多く抱えるセ...
>「エルサレム王国の版図を広げる好機かと存じますが」
>「いや、やめておこう。オリエントは遠すぎる。聖地だけで十...
フィリップは現実主義者である。
聖地の維持だけでも大変なのにこれ以上リスク要因を拡げるつ...
クテイはその後もオリエントで活動を続け中東情勢について多...
しかし3年後の1155年8月4日。肺炎にかかりわずか31歳で急逝し...
**グラナダ [#p96d99f7]
このころアンダルシア南端のグラナダはバルセロナ家の男系が...
バルセロナ家は傍流のコンスタンサが健在であったが、今は一...
1151年6月27日
フィリップはアンダルシア王としての慣習的権利に基づきグラ...
瞬く間に制圧し伯領を剥奪した。
2年後の1153年8月7日には自らが正統なグラナダ公であると宣言...
#ref(014_1153.jpg,nolink)
念願のグラナダを確保
同日、フィリップはバルセロナ家のコンスタンサをグラナダ公...
**世代交代 [#n9e02234]
1152年12月12日
王弟プロヴァンス公ジェローが40歳で死去。
長女ベノワトが公領を継承した。
1153年3月12日には家令ジェローが死去。
後任の家令にはノルマンディー公ヴァルランが選ばれた。
かつて父アンリ2世に反旗を翻した野心家だが、宮廷に取り込...
12世紀のヨーロッパは人口増加と経済成長の時代であり、辺境...
フランスも例外ではなく、フィリップはその治世下に多くの城...
尤も、いかに国が豊かになり税収が増えたといっても、それだ...
フィリップが利用したのは捕虜の身代金だった。
王は戦争捕虜や陰謀を目論んだ廉で投獄した諸侯たちから身代...
都市や教会はその土地の有力者に委ねられたが、城塞はもっぱ...
フランスでは顧問を10年勤めれば男爵になれる。
その噂は各地に広がり立身を夢見る多くの才能がパリにやって...
ドイツ人ワルテールもそんな1人である。
ワルテールはニュルンベルグ伯ヘルマンの私生児であったが、...
しかしその逆境で身につけた処世術は彼を有能な外交家に成長...
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私生児ワルテール 人物検索で能力の高い人物を見つけて引き...
1153年1月16日
フィリップはワルテールをパリに招聘し大臣に任命した。
大臣の任を解かれた王太子ルイはボルドー伯に叙され領国経営...
1153年9月10日
イングランド王エドゥアルト3世が崩御。
長女セスリスが王位を継承した。
#ref(016_1153.jpg,nolink)
イングランド女王セスリス フランス王妃でもある
これによりフランス王太子ルイは同時にイングランドの王太子...
1153年12月23日
カスティーリャ・レオン王ガルシア4世は同族のマンリコを正...
モルガン家に奪われていた一族の故地を奪還すべくナヴァラ王...
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ナヴァラ継承戦争勃発
戦いは一方的に推移し、翌年8月15日にはナヴァラ王は降伏。
ヒメノ家のマンリコがナヴァラの王位に就いた。
**帝国来襲 [#t84f4598]
フランドル東端の都市ヘントはケルト語で「川の合流地帯」を...
フランス語でガンとも呼ばれるこの町はシャルルマーニュの側...
代々フランドル公の領地であったが、1074年にフランドル公が...
しかしフランドルは伝統的に帝国の領域とみなされており、仏...
ここ100年ほどは十字軍や聖戦で共闘するなど仏独関係は比較的...
フィリップもそのドイツが牙を剥いてくることは予想していな...
1154年1月29日
神聖ローマ皇帝ヘルマン1世はヘントの領有権を主張、フラン...
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裏切り者に皇帝の資格なし
パリの宮廷は大混乱に陥った。
フランスはフィリップ1世以来の拡大政策で強大化したとはい...
廷臣の中にはヘント放棄を口にする者もいた。
家令ヴァルランや密偵長ウルタルがその筆頭である。
しかし大臣ワルテールは降伏案を一蹴した。
>「ヘントを放棄すれば次はブリュッヘ、イベレンと要求してく...
ノルマンディー公でもある家令ヴァルランを牽制したものだ。
>「しかし勝てるのか?」
元帥の代わりに王の質問に答えたのは宮廷司祭長ウードである。
>「聖ドニがお守りくださるでしょう」
聖ドニことパリのディオニュシウスはフランスの守護聖人であ...
3世紀に実在したとされる聖人で、異教徒に首を刎ねられた後...
その聖ドニの遺体が葬られたのがサン・ドニ修道院であり歴代...
フィリップは甲冑をまといサン・ドニ修道院に向かうと祭壇の...
「モンジョワ・聖ドニ!」
フィリップの発した鯨波の声に元帥アンドレが呼応し、それは...
フィリップは武芸を苦手としており馬にも乗れなかったが、人...
同日、フィリップは王国全土に動員令を発し、また王妃が治め...
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フランス・イングランド連合軍vs神聖ローマ帝国
戦下手の王に代わり軍略全般を担ったのは元帥アンドレである。
国力で劣るフランスが勝利するには短期決戦しかない。
分散する帝国軍を仏英両軍で襲い野戦で壊滅させるのだ。
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帝国軍を包囲殲滅する仏英連合軍
戦線はプロヴァンス方面やブルゴーニュ方面にも展開していた...
イングランドの加勢もあってフランス騎士は各地で帝国軍を撃...
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ルーヴェンの戦い
1155年4月4日に行われたルーヴェンの戦いでは帝国側は上ブル...
同年5月には大規模な農民反乱も起こり帝国は外征どころではな...
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すでに大勢は決している
1155年7月6日
皇帝ヘルマンが降伏。
1年半続いたヘント防衛戦争はフランス・イングランド連合の...
#ref(023_1155.jpg,nolink)
賠償金556Gは安すぎる
この戦いの後、神聖ローマ帝国は内乱の時代に突入することに...
フィリップ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/フィリップ2世...
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