AAR/王朝序曲/フィリップ1世の治世・後半
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[[AAR/王朝序曲]]
*フィリップ1世の治世・後半 [#ac0d9106]
**家族計画 [#m7b71e22]
神の恩寵によるフランス王。
ヴァロワ、オルレアン、ベリー、ブルボン、アンジュー、シャ...
パリ、オルレアン、シャルトル、アミアン、アルトワ、ブリュ...
1086年時点でのフィリップの称号である。
フランスの14の公爵号のうち10を独占している。
ちなみに残りの4つは王弟ユーグがノルマンディー公。王妃ア...
とはいえ、ろくな官僚制度も存在しないこの時代、1人でこれ...
また王が称号を独占する現状に伯たちも不満を募らせていた。
最大の問題は称号を与えるべき王族が不足していることだ。
成人した王族男子は王と王弟ノルマンディー公の2人しかいな...
子供は3人いたが男子はアンリ1人だった。
>「せめてあと1人息子が欲しいな。我ら夫婦の領土は1人で相...
国王夫妻の頑張りが天に通じたのか、1086年10月19日、待望の...
#ref(020_1086.jpg,nolink)
第二王子ジェロー ポワトゥ公領の継承者
なお夫妻はそれ以降も励み続けるが、結局女子2人を産んだだ...
1087年3月1日。
大臣ラウルが他界した。48歳であった。
#ref(021_1087.jpg,nolink)
フィリップの摂政・養育係を務め不安定だった王権を守りぬい...
親政開始後も大臣として王を支え、主にブルターニュとの外交...
功臣の死に衝撃を受けたフィリップは1人礼拝堂に籠もり、主...
しかし政治に停滞は許されない。
後任の大臣にはフォワ伯ペイレを充てたが力量不足の感は否め...
1088年5月30日。
謀反を起こしたヴェルマンドワ伯エルベールが所領を剥奪され...
かつて王の家令を務めた事もあるカロリング家の当主である。
ただ前年に嫡子ウードがブールジュ伯となっていた為、カロリ...
1089年3月25日。
家令ライアン・ミカエルがサンリ男爵に叙された。
#ref(022_1089.jpg,nolink)
家令サンリ男爵ライアン 上述のヴェルマンドワ伯の家令職を...
大臣候補の人選も続けられ、名門ディヴレーア家のエチエンヌ...
大臣エチエンヌは2年後にはジャルゴー男爵に叙された。
#ref(023_1091.jpg,nolink)
大臣ジャルゴー男爵エチエンヌ 画像は2年後のもの
**第一回十字軍 [#gb079fa8]
当時、オリエントは混乱の極みにあった。
ビザンティン帝国とセルジューク朝はアナトリアの支配権をめ...
ファーティマ朝は南の国境防衛と反乱鎮圧に兵を投入しており...
#ref(024_1090.jpg,nolink)
ビザンティン皇帝ミカエル7世 ローマ帝国の衣鉢を継ぐには...
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セルジューク朝スルタン、アルプ・アルスラーン 何があった...
#ref(026_1090.jpg,nolink)
ファーティマ朝カリフ、アブー・マンスール 預言者の末裔。
#ref(027_1090.jpg,nolink)
ヌビアの黒人王ゲオルギオス3世 無策王とは酷いいわれよう...
今こそ聖地エルサレムを回復する好機!
1090年2月16日。
教皇ウァレンティウスは前代未聞の大事業を宣言した。
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>「今こそ十字架を取って立ち上がり、東方の我らの兄弟たちを...
>「神の御心のままに!」
ヨーロッパ各地の王侯が宗教的情熱と領土的野心から続々と参...
フランスも例外ではなく国王フィリップ自ら軍勢を率いて聖地...
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ルーアンの軍港から聖地に向かうフランスの騎士たち
フィリップは4万の軍勢を4つに分けて中東に進軍。
ファーティマ朝は戦争を遂行するだけの余力を失っており、さ...
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1091年4月エルサレム攻略戦
聖地を解放したフランク騎士たちは女子供も容赦せず殺戮し、...
追い詰められたムスリム勢力は必死の抵抗を3年間続けるが…
#ref(031_1094.jpg,nolink)
1094年3月5日ナブルスの戦い。この戦いが十字軍の勝利を決定...
#ref(032_1094.jpg,nolink)
1094年3月28日。
カリフは降伏し十字軍はキリスト勢の勝利に終わった。
戦功第一位のフィリップは征服地の全てを与えられエルサレム...
ダビデの王国を再興したフィリップは、いつしか大王と呼ばれ...
**家庭の事情 [#w42c566e]
1094年4月20日。
長女マルゴーとカスティーリャ王家のアルフォンソ王子が結婚...
同日、フィリップはアルフォンソをアスカロン公に任じ聖地の...
ただしエルサレムは王の直轄とし、王位は勿論エルサレム公位...
パレスチナ各地に改宗の任を帯びた宣教師が派遣され、宮廷司...
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アスカロン公アルフォンソ 王の娘婿
1094年9月23日。
カロリング家のブールジュ伯ウードをベリー公に叙した。
王族・婚族以外の公爵叙任はフィリップ治世下では初である。
#ref(034_1094.jpg,nolink)
ベリー公ウード シャルルマーニュの末裔
フィリップにとって最大の悩みは王族の絶対数が少ない事であ...
年中行事のように諸侯の反乱が起こっていたが、鎮圧して改易...
その為、多く場合、剥奪した伯位をその伯の子息に与えるか伯...
#ref(035_capets.jpg,nolink)
カペー家系図 成人男子は3人しかいない
1097年4月21日。
王太子アンリが成人した。
フィリップがアンリに最初に命じたことは、次男ジェローの養...
ただでさえ親族が少ないのに兄弟で争うような事になってはな...
兄に弟の教育を任せる事にはそのような意図があった。
1098年2月。
フィリップは2人の少年の後見人となった。
かつて敵対したシャンパーニュ公の孫アルノー・ブロワと、ア...
ゆくゆくは王女を娶せ旧領を再興させるつもりであった。
フィリップの心境にどのような変化があったのかはわからない...
1100年1月12日。
王太子アンリとプロヴァンス公女アルジェンダの婚約が成立し...
アルジェンダはプロヴァンス公の一人娘であり、次世代のフラ...
そして婚約のわずか9ヶ月後、プロヴァンス公アンリは急逝し...
1100年1月28日。
次女ブランシュとイングランド王太子ディエトヴィンが婚約し...
1101年11月3日。
1人のノルウェー人が宮廷に現れた。
スヴェインと名乗るこの男は辺境の地イェムトランド伯家の三...
故郷は貧しく相続できる土地もなく、半ば追い出されるような...
凡庸そうな外見に似合わず悪魔的に頭の切れる男だ。
王は彼を密偵長に任命した。
4年後にはシニー男爵領を与えられる事になる。
#ref(036_1101.jpg,nolink)
密偵長シニー男爵スヴェイン
1102年5月17日。
かねてから王と愛人関係にあった女官アントワネットが男児を...
#ref(037_1102.jpg,nolink)
第三王子ジュリアン 愛人の子
男児はジュリアンと名付けられ王の正式な子と認知された。
夫婦の仲はすでに冷え切っていたため、王妃アイネスは怒る気...
1102年10月19日。
次男ジェローが成人。
トゥアール伯の一人娘マオーと婚約した。
トゥアールはポワトゥ公領の一部であり、そのポワトゥはジェ...
しかし愛人の子ジュリアンには両親から相続する土地がない。
自分の目の黒いうちに『あの計画』を実現せねば…
フィリップは決意を固めた。
**ブルターニュ征服 [#i23f08aa]
>「カペー家がコルヌアイユの正当な統治者であることが証明さ...
大臣エチエンヌはそう述べると恭しく古文書を提示した。
これでブルターニュ公国を構成する6つの州全てがカペー家の...
前大臣ラウル以来40年かけて続けてきた6つの州に対する要求...
カペー家の源流であるロベール家は7世紀のベルギー東部に起...
9世紀の当主ロベール豪胆公は強者(ル・フォール)と呼ばれ...
カペー朝を開いたユーグ・カペーはロベール豪胆公の曾孫にあ...
ここで重要となるのはロベールが与えられたネウストリアの巡...
この地位は古のネウストリア分王の系譜を引くものであり、ブ...
当時のブルターニュは、4世紀の伝説上の建国者コナン・メリ...
しかしその地位は不安定で慢性的な内乱状態にある。
#ref(038_1104.jpg,nolink)
最後のブルターニュ王コナン4世 建国者と同じ名をもつ幼君
>「ロベール豪胆公の正当な後継者たるカペー家にはブルターニ...
1104年3月8日。
フィリップは王国全土に動員令を発し4万5千の大軍をブルタ...
ブルターニュの動員力は4千にすぎない。
圧倒的な力の差を見せつけることでブルトン貴族たちの抵抗す...
しかしフィリップの思惑は裏切られ、誇り高きブルトン人は決...
しかし兵力の差は如何ともし難く…
#ref(039_1104.jpg,nolink)
1104年7月18日 フォンテンヴローの戦い
1105年4月1日。
フランス軍はブルターニュ全土を制圧。コナン4世は退位し公...
1105年4月3日。
フィリップは王太子アンリをブルターニュ公に封じた。
三男ジュリアンの為に征服した領土であったが、いまだ部屋住...
ブルターニュはアンリが王位を継承した後でジュリアンに譲る...
#ref(040_1105.jpg,nolink)
ブルターニュ公アンリ のちのフランス王アンリ2世
1105年10月19日。
三女ギラメッテがシャンパーニュ公の末裔アルノー・ブロワと...
先の話になるが1107年12月24日には四女アデライードとアンジ...
いずれ父祖の地を再興させる腹づもりであったが、ここにきて...
アンジューは問題ない。旧領を全て与えてやるつもりだ。
ただ、ランス司教領を領域に含むシャンパーニュを与えるのは...
そんな悩みを抱える王のもとに聖地からの使者が訪れた。
>「聖地エルサレムが真実の信仰に復しました」
エルサレム王国創設から12年。ついにパレスチナ一帯がカトリ...
この報告がフィリップの心を決めた。
1106年7月30日。
ランス司教シャルルは聖地改宗の功績により大司教に昇格した。
フィリップはシャンパーニュ公領をランスに寄進し世俗の統治...
ここにフランス初の大司教領、シャンパーニュ大司教領が誕生...
#ref(041_1106.jpg,nolink)
シャンパーニュ大司教シャルル フィリップの幼馴染で宮廷司...
>「アルノーには別の領地を用意してやらねばな…」
フィリップの目は南に向けられていた。
**バルセロナ聖戦 [#hc4dca4d]
1031年に後ウマイヤ朝が崩壊して以降、アンダルシアはいくつ...
タイファと呼ばれるこれら首長たちは抗争にあけくれ、劣勢に...
1107年現在レコンキスタは順調に推移しており、カスティーリ...
#ref(042_1107.jpg,nolink)
1107年のイベリア半島
一時は強勢を誇りバルセロナ・バレンシアを支配下に置いたマ...
>「バルセロナを異教徒の手から解放する。神の栄光を知らしめ...
フランス軍は無人の野を行軍するようにバルセロナの地を蹂躙。
開戦からわずか1年で全てを占領下においた。
#ref(043_1108.jpg,nolink)
1108年9月5日。
首長アーミルは降伏。バルセロナはフランスに編入された。
同日、フィリップはアルノー・ブロワをバルセロナ公に封じた。
北仏の名門ブロワ家はイベリアの地で新たな歴史を刻むことに...
#ref(044_1108.jpg,nolink)
バルセロナ公アルノー 画像は後年のものです。
**晩年 [#s896fa4f]
1109年4月27日。
大臣エチエンヌが43歳で死去。
ラウルの後継者としてフィリップを支え続けた功臣であった。
後任の大臣にはベリー公ウードが任命されたが在任2週間で急...
第二王子ジェローが後任の大臣となるがその在任期間も僅か1...
1109年6月11日。ジェローの妻マオーがトゥアール伯を継承した...
ヘント市長ピーテルが大臣に就任することで落ち着いたが、ラ...
同年12月7日には家令ライアンが58歳で他界した。
サンリ男爵領を継承した長男キナートは父以上の逸材で、父の...
#ref(045_1109.jpg,nolink)
家令サンリ男爵キナート 父親譲りの天才
1年後には大臣ピーテルが死去し、キナートは大臣に就任する...
相次ぐ側近たちの死はフィリップを弱気にさせていた。
自分ももう57歳になる。いつお迎えが来てもおかしくはない。
死後に王国が混乱することが無いようにしておかなくてはなら...
そんなフィリップを悩ませたのが封臣たちの動きであった。
彼らは政治的要求を実現するために徒党を組んで王に対抗しよ...
独立や王権の縮小を求める派閥もやっかいだが、最も困るのが...
特に、マコン女伯デニーズが結成した王弟ノルマンディー公ユ...
#ref(046_1109.jpg,nolink)
マコン女伯の不穏な動き
ユーグ本人に野心がなくとも、反乱の神輿にされてしまたら処...
そうなってしまう前に対処する必要があった。
>「飴と鞭を使いわけていきましょう」
密偵長スヴェインは金品による懐柔と脅迫を駆使して派閥を内...
そして…
#ref(047_1109.jpg,nolink)
あっという間に派閥は弱体化
>「弟を処罰せずに済んで良かった…一族で相争うことだけはあ...
ブルターニュの長男アンリに宛てた手紙にはそう書かれていた...
>「父はジュリアンの事を心配しているのか」
王位についたらブルターニュはジュリアンに与える事。これが...
フィリップは約束が本当に履行されるのか心配なのだ。
1109年7月30日。
ノルマンディー家傍流の血を引くトゥルスタンが大軍を率いて...
イングランド王エドガーはフィリップに救援を要請した。
#ref(048_1109.jpg,nolink)
>「イングランドの王太子は娘婿。助太刀は当然であろう」
フィリップは快く応じ、フランドルに上陸したトゥルスタンの...
しかし、王がその結末を見ることは無かった。
1110年2月19日。
フィリップ1世はパリ郊外のムラン城で崩御した。
享年58。その生涯は封建諸侯たちとの権力抗争にあけくれ、心...
#ref(049_1110.jpg,nolink)
**後世の評価 [#v822671b]
フィリップ1世の50年に及ぶ治世下でフランスの王権は飛躍的...
王権を圧迫していた七大公を筆頭とする諸侯たちは、相次ぐ粛...
また十字軍の成功によりフランスの国際的地位を高からしめた...
治世後半にはブルターニュ、バルセロナを版図に加え、また婚...
ただ、それら戦争で手にした冨は城塞や都市、教会の建築・設...
しかしこれらの惜しみない投資こそが将来のフランスの繁栄に...
内政面では門地に拘らない実力主義の人材登用で宮廷の旧弊を...
彼ら子飼いの顧問たちはその多くが男爵領を授かっており、そ...
**あとがき [#nf783c64]
AIではいつもグダグダになるフランスですが人間が操作する...
ちなみに暗殺は一度も使っていません。アキテーヌもプロヴァ...
実は最初の1年目だけ何度もリロードしてますがそれを凌いで...
ひたすら家臣を取り潰す粛清プレイになってしまい読む方には...
続きはこれからプレイするので更新までしばらく時間をくださ...
よろしくお願いします。
アンリ2世の治世・前半へ[[AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・...
終了行:
[[AAR/王朝序曲]]
*フィリップ1世の治世・後半 [#ac0d9106]
**家族計画 [#m7b71e22]
神の恩寵によるフランス王。
ヴァロワ、オルレアン、ベリー、ブルボン、アンジュー、シャ...
パリ、オルレアン、シャルトル、アミアン、アルトワ、ブリュ...
1086年時点でのフィリップの称号である。
フランスの14の公爵号のうち10を独占している。
ちなみに残りの4つは王弟ユーグがノルマンディー公。王妃ア...
とはいえ、ろくな官僚制度も存在しないこの時代、1人でこれ...
また王が称号を独占する現状に伯たちも不満を募らせていた。
最大の問題は称号を与えるべき王族が不足していることだ。
成人した王族男子は王と王弟ノルマンディー公の2人しかいな...
子供は3人いたが男子はアンリ1人だった。
>「せめてあと1人息子が欲しいな。我ら夫婦の領土は1人で相...
国王夫妻の頑張りが天に通じたのか、1086年10月19日、待望の...
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第二王子ジェロー ポワトゥ公領の継承者
なお夫妻はそれ以降も励み続けるが、結局女子2人を産んだだ...
1087年3月1日。
大臣ラウルが他界した。48歳であった。
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フィリップの摂政・養育係を務め不安定だった王権を守りぬい...
親政開始後も大臣として王を支え、主にブルターニュとの外交...
功臣の死に衝撃を受けたフィリップは1人礼拝堂に籠もり、主...
しかし政治に停滞は許されない。
後任の大臣にはフォワ伯ペイレを充てたが力量不足の感は否め...
1088年5月30日。
謀反を起こしたヴェルマンドワ伯エルベールが所領を剥奪され...
かつて王の家令を務めた事もあるカロリング家の当主である。
ただ前年に嫡子ウードがブールジュ伯となっていた為、カロリ...
1089年3月25日。
家令ライアン・ミカエルがサンリ男爵に叙された。
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家令サンリ男爵ライアン 上述のヴェルマンドワ伯の家令職を...
大臣候補の人選も続けられ、名門ディヴレーア家のエチエンヌ...
大臣エチエンヌは2年後にはジャルゴー男爵に叙された。
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大臣ジャルゴー男爵エチエンヌ 画像は2年後のもの
**第一回十字軍 [#gb079fa8]
当時、オリエントは混乱の極みにあった。
ビザンティン帝国とセルジューク朝はアナトリアの支配権をめ...
ファーティマ朝は南の国境防衛と反乱鎮圧に兵を投入しており...
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ビザンティン皇帝ミカエル7世 ローマ帝国の衣鉢を継ぐには...
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セルジューク朝スルタン、アルプ・アルスラーン 何があった...
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ファーティマ朝カリフ、アブー・マンスール 預言者の末裔。
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ヌビアの黒人王ゲオルギオス3世 無策王とは酷いいわれよう...
今こそ聖地エルサレムを回復する好機!
1090年2月16日。
教皇ウァレンティウスは前代未聞の大事業を宣言した。
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>「今こそ十字架を取って立ち上がり、東方の我らの兄弟たちを...
>「神の御心のままに!」
ヨーロッパ各地の王侯が宗教的情熱と領土的野心から続々と参...
フランスも例外ではなく国王フィリップ自ら軍勢を率いて聖地...
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ルーアンの軍港から聖地に向かうフランスの騎士たち
フィリップは4万の軍勢を4つに分けて中東に進軍。
ファーティマ朝は戦争を遂行するだけの余力を失っており、さ...
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1091年4月エルサレム攻略戦
聖地を解放したフランク騎士たちは女子供も容赦せず殺戮し、...
追い詰められたムスリム勢力は必死の抵抗を3年間続けるが…
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1094年3月5日ナブルスの戦い。この戦いが十字軍の勝利を決定...
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1094年3月28日。
カリフは降伏し十字軍はキリスト勢の勝利に終わった。
戦功第一位のフィリップは征服地の全てを与えられエルサレム...
ダビデの王国を再興したフィリップは、いつしか大王と呼ばれ...
**家庭の事情 [#w42c566e]
1094年4月20日。
長女マルゴーとカスティーリャ王家のアルフォンソ王子が結婚...
同日、フィリップはアルフォンソをアスカロン公に任じ聖地の...
ただしエルサレムは王の直轄とし、王位は勿論エルサレム公位...
パレスチナ各地に改宗の任を帯びた宣教師が派遣され、宮廷司...
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アスカロン公アルフォンソ 王の娘婿
1094年9月23日。
カロリング家のブールジュ伯ウードをベリー公に叙した。
王族・婚族以外の公爵叙任はフィリップ治世下では初である。
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ベリー公ウード シャルルマーニュの末裔
フィリップにとって最大の悩みは王族の絶対数が少ない事であ...
年中行事のように諸侯の反乱が起こっていたが、鎮圧して改易...
その為、多く場合、剥奪した伯位をその伯の子息に与えるか伯...
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カペー家系図 成人男子は3人しかいない
1097年4月21日。
王太子アンリが成人した。
フィリップがアンリに最初に命じたことは、次男ジェローの養...
ただでさえ親族が少ないのに兄弟で争うような事になってはな...
兄に弟の教育を任せる事にはそのような意図があった。
1098年2月。
フィリップは2人の少年の後見人となった。
かつて敵対したシャンパーニュ公の孫アルノー・ブロワと、ア...
ゆくゆくは王女を娶せ旧領を再興させるつもりであった。
フィリップの心境にどのような変化があったのかはわからない...
1100年1月12日。
王太子アンリとプロヴァンス公女アルジェンダの婚約が成立し...
アルジェンダはプロヴァンス公の一人娘であり、次世代のフラ...
そして婚約のわずか9ヶ月後、プロヴァンス公アンリは急逝し...
1100年1月28日。
次女ブランシュとイングランド王太子ディエトヴィンが婚約し...
1101年11月3日。
1人のノルウェー人が宮廷に現れた。
スヴェインと名乗るこの男は辺境の地イェムトランド伯家の三...
故郷は貧しく相続できる土地もなく、半ば追い出されるような...
凡庸そうな外見に似合わず悪魔的に頭の切れる男だ。
王は彼を密偵長に任命した。
4年後にはシニー男爵領を与えられる事になる。
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密偵長シニー男爵スヴェイン
1102年5月17日。
かねてから王と愛人関係にあった女官アントワネットが男児を...
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第三王子ジュリアン 愛人の子
男児はジュリアンと名付けられ王の正式な子と認知された。
夫婦の仲はすでに冷え切っていたため、王妃アイネスは怒る気...
1102年10月19日。
次男ジェローが成人。
トゥアール伯の一人娘マオーと婚約した。
トゥアールはポワトゥ公領の一部であり、そのポワトゥはジェ...
しかし愛人の子ジュリアンには両親から相続する土地がない。
自分の目の黒いうちに『あの計画』を実現せねば…
フィリップは決意を固めた。
**ブルターニュ征服 [#i23f08aa]
>「カペー家がコルヌアイユの正当な統治者であることが証明さ...
大臣エチエンヌはそう述べると恭しく古文書を提示した。
これでブルターニュ公国を構成する6つの州全てがカペー家の...
前大臣ラウル以来40年かけて続けてきた6つの州に対する要求...
カペー家の源流であるロベール家は7世紀のベルギー東部に起...
9世紀の当主ロベール豪胆公は強者(ル・フォール)と呼ばれ...
カペー朝を開いたユーグ・カペーはロベール豪胆公の曾孫にあ...
ここで重要となるのはロベールが与えられたネウストリアの巡...
この地位は古のネウストリア分王の系譜を引くものであり、ブ...
当時のブルターニュは、4世紀の伝説上の建国者コナン・メリ...
しかしその地位は不安定で慢性的な内乱状態にある。
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最後のブルターニュ王コナン4世 建国者と同じ名をもつ幼君
>「ロベール豪胆公の正当な後継者たるカペー家にはブルターニ...
1104年3月8日。
フィリップは王国全土に動員令を発し4万5千の大軍をブルタ...
ブルターニュの動員力は4千にすぎない。
圧倒的な力の差を見せつけることでブルトン貴族たちの抵抗す...
しかしフィリップの思惑は裏切られ、誇り高きブルトン人は決...
しかし兵力の差は如何ともし難く…
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1104年7月18日 フォンテンヴローの戦い
1105年4月1日。
フランス軍はブルターニュ全土を制圧。コナン4世は退位し公...
1105年4月3日。
フィリップは王太子アンリをブルターニュ公に封じた。
三男ジュリアンの為に征服した領土であったが、いまだ部屋住...
ブルターニュはアンリが王位を継承した後でジュリアンに譲る...
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ブルターニュ公アンリ のちのフランス王アンリ2世
1105年10月19日。
三女ギラメッテがシャンパーニュ公の末裔アルノー・ブロワと...
先の話になるが1107年12月24日には四女アデライードとアンジ...
いずれ父祖の地を再興させる腹づもりであったが、ここにきて...
アンジューは問題ない。旧領を全て与えてやるつもりだ。
ただ、ランス司教領を領域に含むシャンパーニュを与えるのは...
そんな悩みを抱える王のもとに聖地からの使者が訪れた。
>「聖地エルサレムが真実の信仰に復しました」
エルサレム王国創設から12年。ついにパレスチナ一帯がカトリ...
この報告がフィリップの心を決めた。
1106年7月30日。
ランス司教シャルルは聖地改宗の功績により大司教に昇格した。
フィリップはシャンパーニュ公領をランスに寄進し世俗の統治...
ここにフランス初の大司教領、シャンパーニュ大司教領が誕生...
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シャンパーニュ大司教シャルル フィリップの幼馴染で宮廷司...
>「アルノーには別の領地を用意してやらねばな…」
フィリップの目は南に向けられていた。
**バルセロナ聖戦 [#hc4dca4d]
1031年に後ウマイヤ朝が崩壊して以降、アンダルシアはいくつ...
タイファと呼ばれるこれら首長たちは抗争にあけくれ、劣勢に...
1107年現在レコンキスタは順調に推移しており、カスティーリ...
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1107年のイベリア半島
一時は強勢を誇りバルセロナ・バレンシアを支配下に置いたマ...
>「バルセロナを異教徒の手から解放する。神の栄光を知らしめ...
フランス軍は無人の野を行軍するようにバルセロナの地を蹂躙。
開戦からわずか1年で全てを占領下においた。
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1108年9月5日。
首長アーミルは降伏。バルセロナはフランスに編入された。
同日、フィリップはアルノー・ブロワをバルセロナ公に封じた。
北仏の名門ブロワ家はイベリアの地で新たな歴史を刻むことに...
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バルセロナ公アルノー 画像は後年のものです。
**晩年 [#s896fa4f]
1109年4月27日。
大臣エチエンヌが43歳で死去。
ラウルの後継者としてフィリップを支え続けた功臣であった。
後任の大臣にはベリー公ウードが任命されたが在任2週間で急...
第二王子ジェローが後任の大臣となるがその在任期間も僅か1...
1109年6月11日。ジェローの妻マオーがトゥアール伯を継承した...
ヘント市長ピーテルが大臣に就任することで落ち着いたが、ラ...
同年12月7日には家令ライアンが58歳で他界した。
サンリ男爵領を継承した長男キナートは父以上の逸材で、父の...
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家令サンリ男爵キナート 父親譲りの天才
1年後には大臣ピーテルが死去し、キナートは大臣に就任する...
相次ぐ側近たちの死はフィリップを弱気にさせていた。
自分ももう57歳になる。いつお迎えが来てもおかしくはない。
死後に王国が混乱することが無いようにしておかなくてはなら...
そんなフィリップを悩ませたのが封臣たちの動きであった。
彼らは政治的要求を実現するために徒党を組んで王に対抗しよ...
独立や王権の縮小を求める派閥もやっかいだが、最も困るのが...
特に、マコン女伯デニーズが結成した王弟ノルマンディー公ユ...
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マコン女伯の不穏な動き
ユーグ本人に野心がなくとも、反乱の神輿にされてしまたら処...
そうなってしまう前に対処する必要があった。
>「飴と鞭を使いわけていきましょう」
密偵長スヴェインは金品による懐柔と脅迫を駆使して派閥を内...
そして…
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あっという間に派閥は弱体化
>「弟を処罰せずに済んで良かった…一族で相争うことだけはあ...
ブルターニュの長男アンリに宛てた手紙にはそう書かれていた...
>「父はジュリアンの事を心配しているのか」
王位についたらブルターニュはジュリアンに与える事。これが...
フィリップは約束が本当に履行されるのか心配なのだ。
1109年7月30日。
ノルマンディー家傍流の血を引くトゥルスタンが大軍を率いて...
イングランド王エドガーはフィリップに救援を要請した。
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>「イングランドの王太子は娘婿。助太刀は当然であろう」
フィリップは快く応じ、フランドルに上陸したトゥルスタンの...
しかし、王がその結末を見ることは無かった。
1110年2月19日。
フィリップ1世はパリ郊外のムラン城で崩御した。
享年58。その生涯は封建諸侯たちとの権力抗争にあけくれ、心...
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**後世の評価 [#v822671b]
フィリップ1世の50年に及ぶ治世下でフランスの王権は飛躍的...
王権を圧迫していた七大公を筆頭とする諸侯たちは、相次ぐ粛...
また十字軍の成功によりフランスの国際的地位を高からしめた...
治世後半にはブルターニュ、バルセロナを版図に加え、また婚...
ただ、それら戦争で手にした冨は城塞や都市、教会の建築・設...
しかしこれらの惜しみない投資こそが将来のフランスの繁栄に...
内政面では門地に拘らない実力主義の人材登用で宮廷の旧弊を...
彼ら子飼いの顧問たちはその多くが男爵領を授かっており、そ...
**あとがき [#nf783c64]
AIではいつもグダグダになるフランスですが人間が操作する...
ちなみに暗殺は一度も使っていません。アキテーヌもプロヴァ...
実は最初の1年目だけ何度もリロードしてますがそれを凌いで...
ひたすら家臣を取り潰す粛清プレイになってしまい読む方には...
続きはこれからプレイするので更新までしばらく時間をくださ...
よろしくお願いします。
アンリ2世の治世・前半へ[[AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・...
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