AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・前半
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[[AAR/王朝序曲]]
*アンリ2世の治世・前半 [#f9303909]
#ref(000_1110.jpg,nolink)
フィリップ1世の長男。母はアキテーヌ・ポワトゥ・ガスコー...
王妃アルシェンダはプロヴァンス公である。
フィリップ1世の治世が恐怖政治といえるものであったためか...
アンリもそれは心得ており、戴冠式の直後に最初に行ったのは...
後世の評価ではアンリは野心家ということになっているが、実...
ボルドーの宮廷で生まれた彼は生涯南国への憧れを抱き続けた。
その夢の行きついた先に待つものとは?
**新王の船出 [#k084f77f]
アンリが最初に為すべき事は所領の再分配である。
妹婿のフルク・ダンジューに旧領を与えアンジュー公爵家を再...
問題は征服地ブルターニュの処遇である。
アンリは王位に就く前はブルターニュ公であったが、これは父...
家臣の一部にはそれを反故にするよう進言する者もおり、こと...
即位に伴う一連の儀式を終えたその夜、密偵長スヴェインは王...
アンリは自分と同い年のこのノルウェー人が嫌いだった。
>「私は反対です。ブルターニュは大邦。お与えになればジュリ...
>「あれは余の弟だぞ」
>「弟とはいえ母親は妾。半分は他人です。それに、兄弟は潜在...
>「ジュリアンはまだ7歳だ」
>「10年後には17歳におなりあそばします。その時、陛下の御子...
無骨な外見に似合わぬその嫌らしい物言いがアンリには生理的...
そもそもスヴェインは父王の時代から密偵長として王家に仕え...
反対ならなぜ父王に直言しなかったのか。不誠実ではないか。
>「兄弟は助けあう事がカペーの家訓だ。余は父との約束を守る...
勅命といわれれば引き下がるしか無い。
スヴェインは無言で頭を下げてそのまま退室した。
1110年3月27日
王弟ジュリアンはブルターニュ公に封じられた。
#ref(001_1110.jpg,nolink)
ブルターニュ公ジュリアン アンリの異母弟
同月、ジュリアンの母アントワネットがヴェネツィアに嫁いで...
#ref(002_1110.jpg,nolink)
ヴェネツイア統領マルコ・モロシーニの申し出に応じたもので...
いずれにしても、ジュリアンは父に続いて母をも失う事になっ...
1110年4月18日
王位継承者となる長男フィリップが誕生した。
父王からはフランスを、母からはプロヴァンスを継承するはず...
#ref(003_1110.jpg,nolink)
王太子フィリップ
1110年5月14日
異端のフラティチェリ派がヘントに現れた。
#ref(004_1110.jpg,nolink)
グレゴリウス改革の洗礼を受けて間もない12世紀のカトリッ...
それでも直接民衆と接する末端の司祭クラスとなると出来の悪...
しかしカトリックの長女をもって自認するフランス王にとって...
アンリはヘントに異端審問所を設置し、異端者の取り締まりを...
と同時に、1110年12月24日には王権法を改正し、異教徒の所領...
しかしこの王権強化の真の目的は別にあった。
異教徒からカトリック世界を守る為には諸侯間の平和が必要で...
しかし異端の教えに惹かれる民衆は後を絶たず、1111年にはイ...
そしてワルドー派蜂起の報がパリに伝わった翌月、1111年9月20...
シャルルは先王フィリップの幼馴染で、宮廷司祭長・ランス司...
新任の宮廷司祭長にはジェヴォーダン司教エリーが選ばれ、異...
**父と子と兄弟たち [#t8624cad]
アンリ2世は家庭的な人物で王妃アルシェンダとの夫婦仲は良...
1112年3月31日に次男ジェローが、1113年4月18日に三男ロベー...
父フィリップ同様、アンリもまた兄弟間の争いを嫌い2人の弟...
アンリは親王領の制度を作り上げたことで知られるが、カペー...
それは、父が息子たちに領地を与えるのではなく、代替わりの...
これは王朝を繁栄させつつも、同時に兄弟間の争いを防ぐとい...
またアンリは、王子は王自身が教育を施すというカペーの伝統...
1113年9月13日
妹婿アンジュー公フルクが急逝。
御家再興を果たしてわずか3年後の出来事であった。
3歳の長男ジョフロワが公領を継承するが、その子が将来アンリ...
**ドイツ情勢 [#nb8b017b]
そのころ神聖ローマ帝国は混乱の極みにあった。
1106年に戦死したハインリヒ5世には後継者がおらずザーリア...
傍流のエーベルハルトが帝位に就くも、あまりに遠い血縁であ...
#ref(005_1112.jpg,nolink)
皇帝エーベルハルト 破門された上に同族殺しの特性まで持っ...
暴君に不満を募らせていたドイツ諸侯は神の敵打倒を求めて一...
帝国は内乱状態にはいる。
#ref(006_1112.jpg,nolink)
どうしてこうなった
1113年5月21日
エーベルハルトは廃されツェーリンゲン家のアドルフが皇帝に...
尤も、廃帝エーベルハルトはその家領を失ったわけではなく、...
#ref(007_1113.jpg,nolink)
皇帝アドルフ ツェーリンゲン王朝の創始者
ドイツで王朝が交代したそのころ、キリスト教世界全体に大き...
#ref(008_1113.jpg,nolink)
聖ヨハネ騎士団結成
1113年1月5日
聖ヨハネ騎士団が結成された。
ホスピタル騎士団とも呼ばれるように、本来は聖地の巡礼者た...
5年後にはテンプル騎士団も結成され、共に聖地防衛の最前線で...
そしてその機会はすぐに訪れた。
**セルジューク朝の来寇 [#n5074ea5]
1094年3月にフィリップ1世によってエルサレム王国が創設され...
宣教団の献身的な活動の甲斐あって聖地一帯はカトリック信仰...
もちろん末端の民草ことごとくが改宗したわけではないが、少...
しかしこれはフランスの支配権が及ぶ地域の話であって、一歩...
スンニ派の指導者はアッバース朝のカリフであるがその政治的...
カリフを擁するその宮廷には多くのイスラム法学者がいた。そ...
>「聖地を取り戻し汚れた異教徒どもを根絶せよ、あなたは全能...
#ref(009_1116.jpg,nolink)
スルタン マリク・シャー1世 アルプ・アルスラーンの後継者
内なる敵を数多く抱えるスルタンは聖戦に乗り気ではなかった...
#ref(010_1116.jpg,nolink)
1116年3月20日
スルタン、マリク・シャーは聖地を奪還すべくアンリ2世に宣...
アンリは王国全土に動員令を発し、自らも軍を率いて聖地に向...
この戦いには3年前に結成された聖ヨハネ騎士団をはじめ、神聖...
キリスト教世界の両大国の連合軍を前に、トルコの土侯たちは2...
あの暴虐の限りを尽くした野蛮な異教徒どもを。
#ref(011_1117.jpg,nolink)
エルサレムの戦い 敗戦続きのスルタンは権威を失いつつある
1117年9月11日
セルジューク朝でクーデターが勃発。
《スルタン》マリク・シャーは廃され、イスファハンを治める...
#ref(012_1117.jpg,nolink)
シャー ウスマン1世 ペルシャ化して君主号まで変わっている
ウスマンに聖戦を継続する意思などなく、廃位されヤズドの太...
しかし単独でフランス、ドイツに対抗できるはずもなく、アン...
虫のいい話ではあるが、アンリにしてもこれ以上戦い続けたか...
#ref(013_1118.jpg,nolink)
1118年7月9日 戦争は痛み分けに終わった。
**新体制の確立 [#s393defa]
1117年10月19日
王太后アイネスが薨去した。
#ref(014_1117.jpg,nolink)
アイネスはアキテーヌ、ポワトゥ、ガスコーニュの3つの公爵...
彼女の死をもって王家に対抗できる家門は完全に消滅した。
アキテーヌは分割相続である。
彼女の長男であるアンリ2世は母からアキテーヌ公領を、そし...
三男ジュリアンは彼女の子ではない。
#ref(015_1117.jpg,nolink)
ガスコーニュとポワトゥの公ジェロー 名実ともに王国のナン...
また、マリク・シャーとの和平が成立した1118年7月、アンリは...
今の体制は先王時代のそれを引き継いだものであった為、ここ...
ただし大臣キナートと密偵長スヴェインは引き続き留任となっ...
#ref(017_1118.jpg,nolink)
大臣サンリ男爵キナート 先王の家令ライアンの嫡子。先王時...
#ref(018_1118.jpg,nolink)
元帥ジャルゴー男爵アンドレ 先王の大臣エチエンヌの嫡子。...
#ref(019_1118.jpg,nolink)
家令ランマラ男爵ジェロー 祖先はアラブ人でファーティマ朝...
#ref(020_1118.jpg,nolink)
密偵長シニー男爵スヴェイン 先王時代から密偵長の任にある...
#ref(021_1118.jpg,nolink)
宮廷司祭長ボーヴェ司祭ウード 顧問団の最年長。かつてシャ...
5人中2人は父親が宮廷顧問を務めていた、いわば二世顧問と...
これは後世フランス宮廷の宿痾となる宮廷官僚の門閥化、言い...
しかしこの時代、彼らは己の実力をもってその地位を獲得して...
より優れた能力をもった者が君主の目に止まれば、たちまち交...
1118年12月10日
アンリはコーンウォールで亡命生活を送っていた元ブルターニ...
被征服民ブルトン人への懐柔策という意味合いもあったが、そ...
かつて父王フィリップも反逆者の子や孫に替わりの領地を与え...
敵を完全に滅ぼすこと無く必ず替わりの領地を充てがう事は、...
また、アンリは勲功に応じて名誉称号の授与も積極的に行なっ...
ユーグは先王の弟として献身的に兄を支え続けてきた一族の長...
その功労に報いたものであるが、これにはアンリを悩ませ続け...
**訃報 [#j734a560]
それは弟たちの不和である。
1118年に成人した末弟ジュリアンは次兄ジェローが母から広大...
母親の出自の低さからくるコンプレックスもあったのだろう。
#ref(023_1120.jpg,nolink)
弟たちの不和
ユーグを家老に任じたのは一族の調停者の役割を期待してのも...
しかしその期待も虚しく1121年1月31日、叔父ユーグは64歳でこ...
そして、跡を継いだ長子ヴァルランは父とは対照的な人物だっ...
#ref(024_1121.jpg,nolink)
ノルマンディー公ヴァルラン 王位を望む野心家
叔父の死に衝撃を受けたアンリの元に、もう一つの訃報が伝え...
妹婿のイングランド王太子ディエトヴィンが急逝したのだ。
かつて、父フィリップは妹エマをイングランド王太子ロベール...
しかしロベールは在位7ヶ月で戦死、仏英同盟は瓦解した。
王妹ブランシュとディエドヴィンの結婚は両国に新たな同盟を...
しかしそれも雲散霧消した事になる。
**アフリカ遠征 [#xf4e1aba]
1121年3月のある日。
アンリは顧問会議を招集、アフリカの情勢について意見を求め...
アフリカはベルベル人の土地である。
彼らはアラブの支配下にありながらも独立自尊の気概を持ち続...
そのズィール朝も1085年には同族に放逐されており、1121年現...
しかし東のファーティマ朝、西のムラービト朝に挟撃され国力...
#ref(025_1121.jpg,nolink)
ハンマード朝の版図 吹けば飛ぶような小国である
アフリカを征服する。
アンリの命令に全ての顧問が反対した。
>「無益な戦は避けるべきです。アフリカに手を出すことに何の...
反対の急先鋒は密偵長スヴェインであった。
宮廷司祭長ウードも同意する。
>「戦をすれば勝てます。されど…」
>「維持するために膨大な資金と兵が必要でしょうな」
元帥アンドレの意見を家令ジェローが補足した。
>「エジプトも黙っておりますまい」
大臣キナートも反対の意を述べた。
確かに、誰が考えてもこの戦争がフランスの利益になるとは思...
異教徒どもには勝手に戦わせておけばよいのである。
しかしアンリの考えは違った。
アンリには夢があったのだ。
それはあまりにも途方も無いものでまだ口にすることは出来な...
それに実現は不可能であろう。
しかし、自分の代では出来なくとも世代を超えて夢を追い続け...
その為には奪える土地は奪えるうちに奪っておく。それが将来...
1121月3月14日
アンリは反対を押し切ってアフリカ遠征を敢行。
弱体化したハンマード朝に対抗する術などなく、戦争はわずか1...
#ref(026_1122.jpg,nolink)
鎧袖一触とはこのことか
1122年9月14日
ハンマード朝を滅ぼしたアンリはこの地にアルゲル大司教領の...
しかしそれは長い戦争の時代の始まりでもあった。
アンリ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・...
終了行:
[[AAR/王朝序曲]]
*アンリ2世の治世・前半 [#f9303909]
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フィリップ1世の長男。母はアキテーヌ・ポワトゥ・ガスコー...
王妃アルシェンダはプロヴァンス公である。
フィリップ1世の治世が恐怖政治といえるものであったためか...
アンリもそれは心得ており、戴冠式の直後に最初に行ったのは...
後世の評価ではアンリは野心家ということになっているが、実...
ボルドーの宮廷で生まれた彼は生涯南国への憧れを抱き続けた。
その夢の行きついた先に待つものとは?
**新王の船出 [#k084f77f]
アンリが最初に為すべき事は所領の再分配である。
妹婿のフルク・ダンジューに旧領を与えアンジュー公爵家を再...
問題は征服地ブルターニュの処遇である。
アンリは王位に就く前はブルターニュ公であったが、これは父...
家臣の一部にはそれを反故にするよう進言する者もおり、こと...
即位に伴う一連の儀式を終えたその夜、密偵長スヴェインは王...
アンリは自分と同い年のこのノルウェー人が嫌いだった。
>「私は反対です。ブルターニュは大邦。お与えになればジュリ...
>「あれは余の弟だぞ」
>「弟とはいえ母親は妾。半分は他人です。それに、兄弟は潜在...
>「ジュリアンはまだ7歳だ」
>「10年後には17歳におなりあそばします。その時、陛下の御子...
無骨な外見に似合わぬその嫌らしい物言いがアンリには生理的...
そもそもスヴェインは父王の時代から密偵長として王家に仕え...
反対ならなぜ父王に直言しなかったのか。不誠実ではないか。
>「兄弟は助けあう事がカペーの家訓だ。余は父との約束を守る...
勅命といわれれば引き下がるしか無い。
スヴェインは無言で頭を下げてそのまま退室した。
1110年3月27日
王弟ジュリアンはブルターニュ公に封じられた。
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ブルターニュ公ジュリアン アンリの異母弟
同月、ジュリアンの母アントワネットがヴェネツィアに嫁いで...
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ヴェネツイア統領マルコ・モロシーニの申し出に応じたもので...
いずれにしても、ジュリアンは父に続いて母をも失う事になっ...
1110年4月18日
王位継承者となる長男フィリップが誕生した。
父王からはフランスを、母からはプロヴァンスを継承するはず...
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王太子フィリップ
1110年5月14日
異端のフラティチェリ派がヘントに現れた。
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グレゴリウス改革の洗礼を受けて間もない12世紀のカトリッ...
それでも直接民衆と接する末端の司祭クラスとなると出来の悪...
しかしカトリックの長女をもって自認するフランス王にとって...
アンリはヘントに異端審問所を設置し、異端者の取り締まりを...
と同時に、1110年12月24日には王権法を改正し、異教徒の所領...
しかしこの王権強化の真の目的は別にあった。
異教徒からカトリック世界を守る為には諸侯間の平和が必要で...
しかし異端の教えに惹かれる民衆は後を絶たず、1111年にはイ...
そしてワルドー派蜂起の報がパリに伝わった翌月、1111年9月20...
シャルルは先王フィリップの幼馴染で、宮廷司祭長・ランス司...
新任の宮廷司祭長にはジェヴォーダン司教エリーが選ばれ、異...
**父と子と兄弟たち [#t8624cad]
アンリ2世は家庭的な人物で王妃アルシェンダとの夫婦仲は良...
1112年3月31日に次男ジェローが、1113年4月18日に三男ロベー...
父フィリップ同様、アンリもまた兄弟間の争いを嫌い2人の弟...
アンリは親王領の制度を作り上げたことで知られるが、カペー...
それは、父が息子たちに領地を与えるのではなく、代替わりの...
これは王朝を繁栄させつつも、同時に兄弟間の争いを防ぐとい...
またアンリは、王子は王自身が教育を施すというカペーの伝統...
1113年9月13日
妹婿アンジュー公フルクが急逝。
御家再興を果たしてわずか3年後の出来事であった。
3歳の長男ジョフロワが公領を継承するが、その子が将来アンリ...
**ドイツ情勢 [#nb8b017b]
そのころ神聖ローマ帝国は混乱の極みにあった。
1106年に戦死したハインリヒ5世には後継者がおらずザーリア...
傍流のエーベルハルトが帝位に就くも、あまりに遠い血縁であ...
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皇帝エーベルハルト 破門された上に同族殺しの特性まで持っ...
暴君に不満を募らせていたドイツ諸侯は神の敵打倒を求めて一...
帝国は内乱状態にはいる。
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どうしてこうなった
1113年5月21日
エーベルハルトは廃されツェーリンゲン家のアドルフが皇帝に...
尤も、廃帝エーベルハルトはその家領を失ったわけではなく、...
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皇帝アドルフ ツェーリンゲン王朝の創始者
ドイツで王朝が交代したそのころ、キリスト教世界全体に大き...
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聖ヨハネ騎士団結成
1113年1月5日
聖ヨハネ騎士団が結成された。
ホスピタル騎士団とも呼ばれるように、本来は聖地の巡礼者た...
5年後にはテンプル騎士団も結成され、共に聖地防衛の最前線で...
そしてその機会はすぐに訪れた。
**セルジューク朝の来寇 [#n5074ea5]
1094年3月にフィリップ1世によってエルサレム王国が創設され...
宣教団の献身的な活動の甲斐あって聖地一帯はカトリック信仰...
もちろん末端の民草ことごとくが改宗したわけではないが、少...
しかしこれはフランスの支配権が及ぶ地域の話であって、一歩...
スンニ派の指導者はアッバース朝のカリフであるがその政治的...
カリフを擁するその宮廷には多くのイスラム法学者がいた。そ...
>「聖地を取り戻し汚れた異教徒どもを根絶せよ、あなたは全能...
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スルタン マリク・シャー1世 アルプ・アルスラーンの後継者
内なる敵を数多く抱えるスルタンは聖戦に乗り気ではなかった...
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スルタン、マリク・シャーは聖地を奪還すべくアンリ2世に宣...
アンリは王国全土に動員令を発し、自らも軍を率いて聖地に向...
この戦いには3年前に結成された聖ヨハネ騎士団をはじめ、神聖...
キリスト教世界の両大国の連合軍を前に、トルコの土侯たちは2...
あの暴虐の限りを尽くした野蛮な異教徒どもを。
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エルサレムの戦い 敗戦続きのスルタンは権威を失いつつある
1117年9月11日
セルジューク朝でクーデターが勃発。
《スルタン》マリク・シャーは廃され、イスファハンを治める...
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シャー ウスマン1世 ペルシャ化して君主号まで変わっている
ウスマンに聖戦を継続する意思などなく、廃位されヤズドの太...
しかし単独でフランス、ドイツに対抗できるはずもなく、アン...
虫のいい話ではあるが、アンリにしてもこれ以上戦い続けたか...
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1118年7月9日 戦争は痛み分けに終わった。
**新体制の確立 [#s393defa]
1117年10月19日
王太后アイネスが薨去した。
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アイネスはアキテーヌ、ポワトゥ、ガスコーニュの3つの公爵...
彼女の死をもって王家に対抗できる家門は完全に消滅した。
アキテーヌは分割相続である。
彼女の長男であるアンリ2世は母からアキテーヌ公領を、そし...
三男ジュリアンは彼女の子ではない。
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ガスコーニュとポワトゥの公ジェロー 名実ともに王国のナン...
また、マリク・シャーとの和平が成立した1118年7月、アンリは...
今の体制は先王時代のそれを引き継いだものであった為、ここ...
ただし大臣キナートと密偵長スヴェインは引き続き留任となっ...
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元帥ジャルゴー男爵アンドレ 先王の大臣エチエンヌの嫡子。...
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家令ランマラ男爵ジェロー 祖先はアラブ人でファーティマ朝...
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宮廷司祭長ボーヴェ司祭ウード 顧問団の最年長。かつてシャ...
5人中2人は父親が宮廷顧問を務めていた、いわば二世顧問と...
これは後世フランス宮廷の宿痾となる宮廷官僚の門閥化、言い...
しかしこの時代、彼らは己の実力をもってその地位を獲得して...
より優れた能力をもった者が君主の目に止まれば、たちまち交...
1118年12月10日
アンリはコーンウォールで亡命生活を送っていた元ブルターニ...
被征服民ブルトン人への懐柔策という意味合いもあったが、そ...
かつて父王フィリップも反逆者の子や孫に替わりの領地を与え...
敵を完全に滅ぼすこと無く必ず替わりの領地を充てがう事は、...
また、アンリは勲功に応じて名誉称号の授与も積極的に行なっ...
ユーグは先王の弟として献身的に兄を支え続けてきた一族の長...
その功労に報いたものであるが、これにはアンリを悩ませ続け...
**訃報 [#j734a560]
それは弟たちの不和である。
1118年に成人した末弟ジュリアンは次兄ジェローが母から広大...
母親の出自の低さからくるコンプレックスもあったのだろう。
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弟たちの不和
ユーグを家老に任じたのは一族の調停者の役割を期待してのも...
しかしその期待も虚しく1121年1月31日、叔父ユーグは64歳でこ...
そして、跡を継いだ長子ヴァルランは父とは対照的な人物だっ...
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ノルマンディー公ヴァルラン 王位を望む野心家
叔父の死に衝撃を受けたアンリの元に、もう一つの訃報が伝え...
妹婿のイングランド王太子ディエトヴィンが急逝したのだ。
かつて、父フィリップは妹エマをイングランド王太子ロベール...
しかしロベールは在位7ヶ月で戦死、仏英同盟は瓦解した。
王妹ブランシュとディエドヴィンの結婚は両国に新たな同盟を...
しかしそれも雲散霧消した事になる。
**アフリカ遠征 [#xf4e1aba]
1121年3月のある日。
アンリは顧問会議を招集、アフリカの情勢について意見を求め...
アフリカはベルベル人の土地である。
彼らはアラブの支配下にありながらも独立自尊の気概を持ち続...
そのズィール朝も1085年には同族に放逐されており、1121年現...
しかし東のファーティマ朝、西のムラービト朝に挟撃され国力...
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ハンマード朝の版図 吹けば飛ぶような小国である
アフリカを征服する。
アンリの命令に全ての顧問が反対した。
>「無益な戦は避けるべきです。アフリカに手を出すことに何の...
反対の急先鋒は密偵長スヴェインであった。
宮廷司祭長ウードも同意する。
>「戦をすれば勝てます。されど…」
>「維持するために膨大な資金と兵が必要でしょうな」
元帥アンドレの意見を家令ジェローが補足した。
>「エジプトも黙っておりますまい」
大臣キナートも反対の意を述べた。
確かに、誰が考えてもこの戦争がフランスの利益になるとは思...
異教徒どもには勝手に戦わせておけばよいのである。
しかしアンリの考えは違った。
アンリには夢があったのだ。
それはあまりにも途方も無いものでまだ口にすることは出来な...
それに実現は不可能であろう。
しかし、自分の代では出来なくとも世代を超えて夢を追い続け...
その為には奪える土地は奪えるうちに奪っておく。それが将来...
1121月3月14日
アンリは反対を押し切ってアフリカ遠征を敢行。
弱体化したハンマード朝に対抗する術などなく、戦争はわずか1...
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鎧袖一触とはこのことか
1122年9月14日
ハンマード朝を滅ぼしたアンリはこの地にアルゲル大司教領の...
しかしそれは長い戦争の時代の始まりでもあった。
アンリ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・...
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