AAR/ヘカトンケイルの門番/ステファン2世の治世・後編
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[[AAR/ヘカトンケイルの門番]]
*ステファン2世の治世 ・後編 [#b4abfc7f]
**内治と外交の時代 [#e88d04a8]
エピロス継承戦争が終結した1218年からアテネ継承戦争が勃発...
この時代、ステファン2世の主な関心は内政の充実にあり、家...
1227年2月19日
ニカイア皇帝テオドロスが崩御。長男マタイオスが帝位を継承...
1227年2月24日
ステファンの三女ジョバラとシチリア王太子テオドリヒの婚約...
シチリア王フリードリヒはステファンの義弟であり、この婚約...
1229年3月17日
セルビア宮廷に1人の若者が現れた。
若者の名はアルタシール。アルメニア人である。
アルタシールはアナトリア半島の小都市コリクスの出身で、父...
1214年、ルーム・セルジューク朝の攻勢でアルメニアが滅亡す...
1227年に父の死で家督を継いだアルダシールはマタイオス帝と...
各地を転々とするうち、セルビア大臣ブラズにその才を見出さ...
同日、ブラズはアルタシールを後任に推薦し引退。20才の若き...
#ref(000_1229.jpg,nolink)
大臣アルタシール 極めて有能な外交官である
アルタシールは各地を転々としてきた経歴からギリシャやアナ...
123年1月4日
クロアチア王スチェパンが崩御。長男クリンが王位を継承した。
1231年2月7日
女王マリヤの強力な支配体制に不満をもつブルガリア諸侯はモ...
セルビア王妃でもあるマリヤは夫に反乱鎮圧への協力を要請。
王はそれを受諾した。
#ref(001_1231.jpg,nolink)
嫁からの救援要請
王は元帥ストラツィミールに6000の兵を与えブルガリアへ派遣。
反乱軍を大いに破った。
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セヴランの戦い
1231年3月17日
今度は義弟であるシチリア王フリードリヒが援軍を要請してき...
相手は神聖ローマ皇帝フィリップ。フリードリヒの叔父である。
しかも、戦を仕掛けたのはフリードリヒの方であった。
>「派兵などもっての外です!今のセルビアに帝国と戦う力など...
大臣アルタシールに云われるまでもない。
エピロスで助けてもらった義弟を見捨てるのは情として忍びな...
1232年1月23日
王太子ステファンとハンガリー女王ジョルジの結婚が成立した。
二人に子が生まれれば、いずれはセルビア・ブルガリア・ハン...
1232年2月10日
モエシア公ボリルの降伏をもってブルガリアの内乱は収束した。
マリヤ女王は最大の危機を乗り切ったのである。
1232年7月9日
シチリア王フリードリヒが戦死した。
過ぎた野心が身を滅ぼした典型といってもよいが、開戦からわ...
王位を継承した長男テオドリヒが最初に行った事は帝国との和...
1232年10月10日
前大臣サラノ男爵ブラズが死去。58歳であった。
1232年10月19日
元帥クラグイェヴァツ男爵ストラツィミールが59歳で死去。
後任には同じく平民出身のコンスタンティンが任命された。
#ref(003_1232.jpg,nolink)
元帥コンスタンティン 有能な人材が推挙されるイベントで宮...
10日の間に2人の側近が他界した事はセルビア宮廷の世代交代...
1232年12月25日
ラテン皇帝ボードゥアン1世が61歳で崩御。長男のロテールが...
後世ギリシャ人ロテールと呼ばれる人物である。
1234年3月21日
三女ジョバラとシチリア王テオドリヒの結婚が成立。
シチリアと再度同盟関係になった事で、セルビアは3つの王国...
#ref(004_1234.jpg,nolink)
四王国同盟 ブルガリア女王は嫁、ハンガリー女王は息子の嫁...
**アテネ継承戦争 [#s67e8f57]
1204年にコンスタンティノープルを陥落させた十字軍勢力は旧...
アテネ公国もその1つであり、多くの文人を輩出した事でも知...
#ref(005_1234.jpg,nolink)
アテネ公国
ギリシャ征服の野望を抱くステファンはアテネ公位への請求権...
1232年にはソマスの為に城塞を建設し、ルボニク男爵に叙す事...
1234年5月25日
アテネ公ティベリオスが23歳で急逝。長女のガリファリアが公...
ガリファリアは生後2ヶ月の乳児であり公国の統治などできるは...
1234年5月31日
セルビア王ステファン2世はソマスのアテネ公位を主張し、ガ...
この戦争ではセルビアと同盟関係にある全ての王国が参戦を表...
#ref(006_1234.jpg,nolink)
セルビア・ブルガリア・ハンガリー・シチリア連合軍VSアテ...
危機にあってアテネの貴族たちは結束し2年に渡って抵抗を続け...
1236年6月29日
アテネ公ガリファリアは退位し、ソマスがセルビア宗主権下の...
しかし、これで終わりではなかったのである。
1236年10月26日
ステファンは突如としてソマスの逮捕を命じた。
謀反を目論んだというのがその理由だが、そんなものはでっち...
捕縛の手を逃れたソマスは暴君打倒の兵を上げた。
#ref(009_1236.jpg,nolink)
狡兎死して走狗烹らる
反乱はあっけなく鎮圧され、公位を剥奪されたソマスは男爵領...
こうしてアテネはステファンのものになったのである。
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アテネ征服後のセルビア王国
**アドリア海の女王 [#fb51c5f8]
最も高貴な共和国ヴェネツィア、通称ヴェネツィア共和国は歴...
アドリア海の女王と謳われ繁栄を謳歌したこの共和国の歴史は7...
この小さな漁村が都市へと発展し、更には東地中海の制海権を...
ヴェネツィアは名目上は帝国領でありその政治的庇護を受ける...
その結果、ヴェネツィアは旧宗主国である帝国を経済的に支配...
勿論、帝国はそれをよく思わずヴェネツィアの排除を試んだた...
交易で栄えた古代の都市国家がそうであったように、ヴェネツ...
そしてそれが、国家の一円支配を望む王侯たちとの衝突を生む...
セルビアにとってもヴェネツィアの存在は目の上のコブである。
王都のあるドゥブロヴニク州はアドリア海を代表する経済先進...
またセルビア本土とエピロス・アテネの間にあるディラキオン...
セルビア王国とヴェネツィア共和国は対決する運命にあったの...
1238年11月7日
セルビア王ステファンはデュラキオン公領の請求権を主張し、...
#ref(010_1238.jpg,nolink)
デュラキオン
セルビア王国の国力はヴェネツィア共和国の半分にも満たない。
常識的に考えて勝ち目など無いはずである。
しかし、ステファンには勝算があった。
ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と交戦状態にあったのである。
元帥コンスタンティン率いるセルビア軍はドゥブロヴニク州内...
また同盟国ブルガリアも参戦してデュラキオンを包囲。これを...
このように緒戦はセルビア優位に進んだのであるが、開戦3年目...
ラグーサやデュラキオンを落としヴェネツィアの植民地を制圧...
>「ヴェネツィアは2万を超える傭兵を雇用しております。我が...
ヴェネツィア本土への攻撃を躊躇する元帥はこう釈明した。
こうした、両軍の睨み合いは以後3年続くことになる。
1242年9月20日
神聖ローマ帝国とヴェネツィア共和国に和平が成立した。
こうなったらセルビアに勝機はない。
1243年2月26日
セルビア軍は反攻に転じたヴェネツィア軍に大敗。
これ以上の戦争継続は不可能な状態に陥った。
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サラノの敗戦
1243年3月21日
サラノでの敗戦の報告を受けたステファンは白紙和平を決断。
ヴェネツィア元首アンドレアもそれを受諾し、6年続いたデュラ...
#ref(012_1243.jpg,nolink)
無意味な6年間であった
**家族問題 [#zdfe650d]
1239年3月20日
ニカイア皇帝マタイオスが33歳で崩御。3歳の長女メリッサが帝...
1239年3月29日
教皇ニコラス3世はアナトリア十字軍を宣言。
イングランド王をはじめカトリック諸王がこぞって参戦したこ...
正教徒のセルビアは直接の関わりを持たないが、近隣地域の不...
1240年2月23日
ステファンの兄であるゼタ伯ヴカンが逝去した。67歳であった。
元はドゥクリャ公だったが、王国統一を目指すステファンによ...
ヴカンは穏やかな性格で、政治的には対立したステファンもそ...
ヴカンには3人の息子がいたが、三男ステファンは若くして僧...
長男ジョルジェは亡父の所領を相続しゼタ伯になった。
問題は次男の処遇である。
次男ヴラディンは幼少より叔父ステファンと親しく、長じてか...
三兄弟で彼だけが所領を持たないのは可哀想だし、かといって...
ならば取るべき手段は一つしかない。
戦争で奪えばよいのである。
1240年3月3日
ステファンの末子ニコラが成人した。
いずれこの子にも領地を与えなくてはならないだろう。
しかしそれにはアテがあった。嫡子ステファンはセルビアに加...
ブルガリアに適当な土地を充てがえば良い。
1243年6月20日
ステファンは元アテネ女公ガリファリアをアテネ公に叙した。
結局もとの鞘に収まった形だが、今のアテネ公国はセルビア王...
#ref(013_1243.jpg,nolink)
アテネ女公ガリファリア
1245年3月3日
家令ゼムン市長ラヨシュが64歳で死去した。
後任の家令にはディオクレア市長ヴコマンが任命されたが、彼...
**マケドニア征服戦争 [#pbeb283e]
>「陛下がマケドニアの正統な支配者であることを証明する文書...
大臣アルタシールが恭しく提示したその古文書には確かにネマ...
具体的には、アドリアノポリス、フィリッポポリス、カルキデ...
その根拠はネマニッチ家がアレクサンドロス大王の後裔である...
そのころラテン帝国は危機的な状況にあった。
皇帝ロテール1世は変わり者で何事もギリシャ風を好み、皇帝...
また、それに乗じたニカイア帝国も帝都奪還を目指してラテン...
#ref(014_1244.jpg,nolink)
ギリシャ化したラテン皇帝ロテール
#ref(015_1244.jpg,nolink)
ラテン・ニカイア戦争
1244年11月7日
セルビア王ステファンはアドリアノポリス、フィリッポポリス...
ラテン帝国に宣戦を布告した。
#ref(016_1244.jpg,nolink)
マケドニア征服戦争 この4州を奪えばラテン帝国は小国に転...
ラテン帝国はニカイア帝国との戦いで手一杯であり、セルビア...
またブルガリアはこの戦いにも律儀に参戦し、セルビア軍を大...
事態の深刻さを悟った皇帝ロテールは自ら兵を率いて侵略者を...
1245年4月29日
正教の聖地アトス山の麓で行われた決戦でラテン皇帝ロタール...
#ref(017_1245.jpg,nolink)
アトス山の戦い
**ヘカトンケイルの門番 [#e7491def]
アトス半島の先端にある標高2033mのこの山には大小40を超え...
開山は9世紀とされるが、当初は隠修士の庵がわずかに存在する...
アトス山発展の礎を築いたのは10世紀の聖アサナシオスで、こ...
歴代の皇帝や貴族たちから寄進を受けた修道院群は11世紀には...
修道院群は名目上ラテン皇帝の封臣となり、40年に渡ってその...
#ref(026_1245.jpg,nolink)
アトスの聖アサナシオス
1245年5月20日
アトス山の戦いでラテン帝国軍を壊滅させたステファンはこの...
古より正教の教えを守り禁欲的な修道生活を送ってきたこの共...
彼らを称賛したい気持ちもあったし、彼らにセルビア正教を認...
しかし、彼らの反応はステファンの予想を大きく裏切るもので...
>「異端者に没収された荘園は全て余が取り戻して差し上げる。...
ステファンの提案に修道士たちは困惑の表情を浮かべる。
歓迎されるものと思い込んでいたステファンは少し不満を覚え...
そこに、聖山の代表者を名乗る壮年の修道士が現れた。
>「私達は現世の富など求めておりません」
レオンと名乗るこの男は共同体の代表で、若いながらも全ての...
#ref(025_1245.jpg,nolink)
アトス山修道院共同体代表レオン この人物との出会いがセル...
>「40年前、聖山は墮落の極みにありました。世俗の富に溺れ、...
>「聖山への寄進は善意からきたものだ。神を畏れ修道士の徳を...
>「俗塵に踏み込み民を導く司牧(司祭や司教のこと)なら生き...
>「異端者が奪った土地は元は聖山のものだ」
>「この点に関しては、むしろ異端者に感謝しております。我々...
取り付く島もない、とはこの事だった。
彼らは世捨て人なのだ。
この世に害を為す存在ではないが、積極的に益を為すわけでも...
荘園領主として農奴を搾取する一方で社会奉仕にも積極的に取...
彼ら(アトス山)の在り方はステファンの価値観と合致するも...
実践方法に違いはあれど、彼らの神への献身には一切の私欲が...
>「あなた方と同じく、余は余が信じる道を歩む。ゆえに余はこ...
>「陛下、思いつきでモノを申すべきではありません。それに、...
>「あなた方の望みなど関係ない。余はあなた方を守り、そして...
なおも抗議の声を上げる修道士たちに背を向け、ステファンは...
ステファンは本営に従軍する貴族・聖職者たちを集め、こう宣...
>「余と余の後継者はアトス山の門番になる。セルビア王国があ...
この宣言以降、セルビアはアトス山の守護者となった。
**新領土 [#w215c55f]
1246年に入り、ラテン帝国の状況は悪化の一途を辿っていた。
1246年7月10日
アナトリア解放を目指した十字軍は強大なルーム・セルジュー...
十字軍の失敗で西欧諸国の支援が期待できなくなったラテン帝...
#ref(018_1246.jpg,nolink)
四面楚歌のラテン帝国
1247年10月17日
ラテン皇帝ロテール1世が暗殺された。38歳の若さであった。
帝国の斜陽は必ずしもロテールの責任というわけでも無かった...
ロテールを暗殺したのは国内の貴族たちだったが、その軽挙が...
帝位を継承したロテール2世は13歳であり、摂政ブラッシェル...
1249年10月10日
抵抗力を喪失したラテン帝国は降伏し、マケドニアの4州はセ...
#ref(020_1249.jpg,nolink)
衰運のラテン帝国
1249年10月15日
ステファン2世は新領土の封建を行った。
アドリアノープル公には勲功第一等の大臣アルタシールを封じ...
異邦人のアルタシールに大邦を与えることには反対意見も多か...
王が人事の全権を握ることを内外に示すためにも、この抜擢は...
テッサロニキは教会領とし、テッサロニキ主教ゼノンを大主教...
公爵級の大主教はセルビア史上初めての事である。
また、甥のヴラディンをカルキディケ伯に叙しアトス山守護の...
#ref(021_1249.jpg,nolink)
アドリアノープル公アルタシール セルビアの大臣であり顧問...
#ref(022_1249.jpg,nolink)
テッサロニキ大主教ゼノン セルビア史上最初の大主教にして...
#ref(023_1249.jpg,nolink)
マケドニア征服後のセルビア王国 やっぱりヴェネツィアが邪魔
一連の戦争でセルビアはバルカンの大国となった。
そしてこれが、ステファンの最後の仕事になったのである。
**崩御 [#p2def14b]
1249年11月19日
ラテン皇帝ロテール2世が暗殺され、弟のボードゥアン2世が...
ボードゥアンは8歳であり、ブラッシェルナエ男爵アンドレが引...
二代続けて皇帝が暗殺された事はこの国が崩壊過程にある事を...
1250年1月3日
ブルガリア女王マリヤが57歳で崩御。
王太子ステファンが王位を継承した。
#ref(019_1249.jpg,nolink)
嫁の死 これでブルガリア併合が確定した
妻の死に気落ちしたステファンはこのころから病気がちになっ...
後継者は成人しており王国の将来に心配は無い。
心配事があるとすれば末子ニコラの処遇くらいか・・・
1250年5月15日
自らの死期を悟ったステファンは王城に一族・家臣・聖職者を...
1 王国は長子相続を原則とする事。
2 次子以下は諸侯となり宗家を支える事。
3 正教信仰を守る事。
4 アトス山は治外法権とし、いかなる世俗権力の介入も認め...
5 併合した国・地域は対等に扱う事。ただし異教・異端は排...
これは建国王の遺詔としてセルビア王国の国是となった。
1250年5月20日
ステファン2世は崩御した。
享年74
ブルガリア王ステファンが王位を継承し、ここに2つの王国は...
#ref(024_1250.jpg,nolink)
**あとがき [#p40a13b5]
今のところ順調に推移しています。
やはり勢力を拡大していく上で婚姻乗っ取りは絶大な威力を発...
ブルガリアの乗っ取りでは暗殺に手を出しましたが、ハンガリ...
まあ、このゲームは大国になる事よりもそれを維持する方が難...
複数のプレイを平行していますので次の更新は少し時間がかか...
終了行:
[[AAR/ヘカトンケイルの門番]]
*ステファン2世の治世 ・後編 [#b4abfc7f]
**内治と外交の時代 [#e88d04a8]
エピロス継承戦争が終結した1218年からアテネ継承戦争が勃発...
この時代、ステファン2世の主な関心は内政の充実にあり、家...
1227年2月19日
ニカイア皇帝テオドロスが崩御。長男マタイオスが帝位を継承...
1227年2月24日
ステファンの三女ジョバラとシチリア王太子テオドリヒの婚約...
シチリア王フリードリヒはステファンの義弟であり、この婚約...
1229年3月17日
セルビア宮廷に1人の若者が現れた。
若者の名はアルタシール。アルメニア人である。
アルタシールはアナトリア半島の小都市コリクスの出身で、父...
1214年、ルーム・セルジューク朝の攻勢でアルメニアが滅亡す...
1227年に父の死で家督を継いだアルダシールはマタイオス帝と...
各地を転々とするうち、セルビア大臣ブラズにその才を見出さ...
同日、ブラズはアルタシールを後任に推薦し引退。20才の若き...
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大臣アルタシール 極めて有能な外交官である
アルタシールは各地を転々としてきた経歴からギリシャやアナ...
123年1月4日
クロアチア王スチェパンが崩御。長男クリンが王位を継承した。
1231年2月7日
女王マリヤの強力な支配体制に不満をもつブルガリア諸侯はモ...
セルビア王妃でもあるマリヤは夫に反乱鎮圧への協力を要請。
王はそれを受諾した。
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嫁からの救援要請
王は元帥ストラツィミールに6000の兵を与えブルガリアへ派遣。
反乱軍を大いに破った。
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セヴランの戦い
1231年3月17日
今度は義弟であるシチリア王フリードリヒが援軍を要請してき...
相手は神聖ローマ皇帝フィリップ。フリードリヒの叔父である。
しかも、戦を仕掛けたのはフリードリヒの方であった。
>「派兵などもっての外です!今のセルビアに帝国と戦う力など...
大臣アルタシールに云われるまでもない。
エピロスで助けてもらった義弟を見捨てるのは情として忍びな...
1232年1月23日
王太子ステファンとハンガリー女王ジョルジの結婚が成立した。
二人に子が生まれれば、いずれはセルビア・ブルガリア・ハン...
1232年2月10日
モエシア公ボリルの降伏をもってブルガリアの内乱は収束した。
マリヤ女王は最大の危機を乗り切ったのである。
1232年7月9日
シチリア王フリードリヒが戦死した。
過ぎた野心が身を滅ぼした典型といってもよいが、開戦からわ...
王位を継承した長男テオドリヒが最初に行った事は帝国との和...
1232年10月10日
前大臣サラノ男爵ブラズが死去。58歳であった。
1232年10月19日
元帥クラグイェヴァツ男爵ストラツィミールが59歳で死去。
後任には同じく平民出身のコンスタンティンが任命された。
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元帥コンスタンティン 有能な人材が推挙されるイベントで宮...
10日の間に2人の側近が他界した事はセルビア宮廷の世代交代...
1232年12月25日
ラテン皇帝ボードゥアン1世が61歳で崩御。長男のロテールが...
後世ギリシャ人ロテールと呼ばれる人物である。
1234年3月21日
三女ジョバラとシチリア王テオドリヒの結婚が成立。
シチリアと再度同盟関係になった事で、セルビアは3つの王国...
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四王国同盟 ブルガリア女王は嫁、ハンガリー女王は息子の嫁...
**アテネ継承戦争 [#s67e8f57]
1204年にコンスタンティノープルを陥落させた十字軍勢力は旧...
アテネ公国もその1つであり、多くの文人を輩出した事でも知...
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アテネ公国
ギリシャ征服の野望を抱くステファンはアテネ公位への請求権...
1232年にはソマスの為に城塞を建設し、ルボニク男爵に叙す事...
1234年5月25日
アテネ公ティベリオスが23歳で急逝。長女のガリファリアが公...
ガリファリアは生後2ヶ月の乳児であり公国の統治などできるは...
1234年5月31日
セルビア王ステファン2世はソマスのアテネ公位を主張し、ガ...
この戦争ではセルビアと同盟関係にある全ての王国が参戦を表...
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セルビア・ブルガリア・ハンガリー・シチリア連合軍VSアテ...
危機にあってアテネの貴族たちは結束し2年に渡って抵抗を続け...
1236年6月29日
アテネ公ガリファリアは退位し、ソマスがセルビア宗主権下の...
しかし、これで終わりではなかったのである。
1236年10月26日
ステファンは突如としてソマスの逮捕を命じた。
謀反を目論んだというのがその理由だが、そんなものはでっち...
捕縛の手を逃れたソマスは暴君打倒の兵を上げた。
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狡兎死して走狗烹らる
反乱はあっけなく鎮圧され、公位を剥奪されたソマスは男爵領...
こうしてアテネはステファンのものになったのである。
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アテネ征服後のセルビア王国
**アドリア海の女王 [#fb51c5f8]
最も高貴な共和国ヴェネツィア、通称ヴェネツィア共和国は歴...
アドリア海の女王と謳われ繁栄を謳歌したこの共和国の歴史は7...
この小さな漁村が都市へと発展し、更には東地中海の制海権を...
ヴェネツィアは名目上は帝国領でありその政治的庇護を受ける...
その結果、ヴェネツィアは旧宗主国である帝国を経済的に支配...
勿論、帝国はそれをよく思わずヴェネツィアの排除を試んだた...
交易で栄えた古代の都市国家がそうであったように、ヴェネツ...
そしてそれが、国家の一円支配を望む王侯たちとの衝突を生む...
セルビアにとってもヴェネツィアの存在は目の上のコブである。
王都のあるドゥブロヴニク州はアドリア海を代表する経済先進...
またセルビア本土とエピロス・アテネの間にあるディラキオン...
セルビア王国とヴェネツィア共和国は対決する運命にあったの...
1238年11月7日
セルビア王ステファンはデュラキオン公領の請求権を主張し、...
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デュラキオン
セルビア王国の国力はヴェネツィア共和国の半分にも満たない。
常識的に考えて勝ち目など無いはずである。
しかし、ステファンには勝算があった。
ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と交戦状態にあったのである。
元帥コンスタンティン率いるセルビア軍はドゥブロヴニク州内...
また同盟国ブルガリアも参戦してデュラキオンを包囲。これを...
このように緒戦はセルビア優位に進んだのであるが、開戦3年目...
ラグーサやデュラキオンを落としヴェネツィアの植民地を制圧...
>「ヴェネツィアは2万を超える傭兵を雇用しております。我が...
ヴェネツィア本土への攻撃を躊躇する元帥はこう釈明した。
こうした、両軍の睨み合いは以後3年続くことになる。
1242年9月20日
神聖ローマ帝国とヴェネツィア共和国に和平が成立した。
こうなったらセルビアに勝機はない。
1243年2月26日
セルビア軍は反攻に転じたヴェネツィア軍に大敗。
これ以上の戦争継続は不可能な状態に陥った。
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サラノの敗戦
1243年3月21日
サラノでの敗戦の報告を受けたステファンは白紙和平を決断。
ヴェネツィア元首アンドレアもそれを受諾し、6年続いたデュラ...
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無意味な6年間であった
**家族問題 [#zdfe650d]
1239年3月20日
ニカイア皇帝マタイオスが33歳で崩御。3歳の長女メリッサが帝...
1239年3月29日
教皇ニコラス3世はアナトリア十字軍を宣言。
イングランド王をはじめカトリック諸王がこぞって参戦したこ...
正教徒のセルビアは直接の関わりを持たないが、近隣地域の不...
1240年2月23日
ステファンの兄であるゼタ伯ヴカンが逝去した。67歳であった。
元はドゥクリャ公だったが、王国統一を目指すステファンによ...
ヴカンは穏やかな性格で、政治的には対立したステファンもそ...
ヴカンには3人の息子がいたが、三男ステファンは若くして僧...
長男ジョルジェは亡父の所領を相続しゼタ伯になった。
問題は次男の処遇である。
次男ヴラディンは幼少より叔父ステファンと親しく、長じてか...
三兄弟で彼だけが所領を持たないのは可哀想だし、かといって...
ならば取るべき手段は一つしかない。
戦争で奪えばよいのである。
1240年3月3日
ステファンの末子ニコラが成人した。
いずれこの子にも領地を与えなくてはならないだろう。
しかしそれにはアテがあった。嫡子ステファンはセルビアに加...
ブルガリアに適当な土地を充てがえば良い。
1243年6月20日
ステファンは元アテネ女公ガリファリアをアテネ公に叙した。
結局もとの鞘に収まった形だが、今のアテネ公国はセルビア王...
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アテネ女公ガリファリア
1245年3月3日
家令ゼムン市長ラヨシュが64歳で死去した。
後任の家令にはディオクレア市長ヴコマンが任命されたが、彼...
**マケドニア征服戦争 [#pbeb283e]
>「陛下がマケドニアの正統な支配者であることを証明する文書...
大臣アルタシールが恭しく提示したその古文書には確かにネマ...
具体的には、アドリアノポリス、フィリッポポリス、カルキデ...
その根拠はネマニッチ家がアレクサンドロス大王の後裔である...
そのころラテン帝国は危機的な状況にあった。
皇帝ロテール1世は変わり者で何事もギリシャ風を好み、皇帝...
また、それに乗じたニカイア帝国も帝都奪還を目指してラテン...
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ギリシャ化したラテン皇帝ロテール
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ラテン・ニカイア戦争
1244年11月7日
セルビア王ステファンはアドリアノポリス、フィリッポポリス...
ラテン帝国に宣戦を布告した。
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マケドニア征服戦争 この4州を奪えばラテン帝国は小国に転...
ラテン帝国はニカイア帝国との戦いで手一杯であり、セルビア...
またブルガリアはこの戦いにも律儀に参戦し、セルビア軍を大...
事態の深刻さを悟った皇帝ロテールは自ら兵を率いて侵略者を...
1245年4月29日
正教の聖地アトス山の麓で行われた決戦でラテン皇帝ロタール...
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アトス山の戦い
**ヘカトンケイルの門番 [#e7491def]
アトス半島の先端にある標高2033mのこの山には大小40を超え...
開山は9世紀とされるが、当初は隠修士の庵がわずかに存在する...
アトス山発展の礎を築いたのは10世紀の聖アサナシオスで、こ...
歴代の皇帝や貴族たちから寄進を受けた修道院群は11世紀には...
修道院群は名目上ラテン皇帝の封臣となり、40年に渡ってその...
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アトスの聖アサナシオス
1245年5月20日
アトス山の戦いでラテン帝国軍を壊滅させたステファンはこの...
古より正教の教えを守り禁欲的な修道生活を送ってきたこの共...
彼らを称賛したい気持ちもあったし、彼らにセルビア正教を認...
しかし、彼らの反応はステファンの予想を大きく裏切るもので...
>「異端者に没収された荘園は全て余が取り戻して差し上げる。...
ステファンの提案に修道士たちは困惑の表情を浮かべる。
歓迎されるものと思い込んでいたステファンは少し不満を覚え...
そこに、聖山の代表者を名乗る壮年の修道士が現れた。
>「私達は現世の富など求めておりません」
レオンと名乗るこの男は共同体の代表で、若いながらも全ての...
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アトス山修道院共同体代表レオン この人物との出会いがセル...
>「40年前、聖山は墮落の極みにありました。世俗の富に溺れ、...
>「聖山への寄進は善意からきたものだ。神を畏れ修道士の徳を...
>「俗塵に踏み込み民を導く司牧(司祭や司教のこと)なら生き...
>「異端者が奪った土地は元は聖山のものだ」
>「この点に関しては、むしろ異端者に感謝しております。我々...
取り付く島もない、とはこの事だった。
彼らは世捨て人なのだ。
この世に害を為す存在ではないが、積極的に益を為すわけでも...
荘園領主として農奴を搾取する一方で社会奉仕にも積極的に取...
彼ら(アトス山)の在り方はステファンの価値観と合致するも...
実践方法に違いはあれど、彼らの神への献身には一切の私欲が...
>「あなた方と同じく、余は余が信じる道を歩む。ゆえに余はこ...
>「陛下、思いつきでモノを申すべきではありません。それに、...
>「あなた方の望みなど関係ない。余はあなた方を守り、そして...
なおも抗議の声を上げる修道士たちに背を向け、ステファンは...
ステファンは本営に従軍する貴族・聖職者たちを集め、こう宣...
>「余と余の後継者はアトス山の門番になる。セルビア王国があ...
この宣言以降、セルビアはアトス山の守護者となった。
**新領土 [#w215c55f]
1246年に入り、ラテン帝国の状況は悪化の一途を辿っていた。
1246年7月10日
アナトリア解放を目指した十字軍は強大なルーム・セルジュー...
十字軍の失敗で西欧諸国の支援が期待できなくなったラテン帝...
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四面楚歌のラテン帝国
1247年10月17日
ラテン皇帝ロテール1世が暗殺された。38歳の若さであった。
帝国の斜陽は必ずしもロテールの責任というわけでも無かった...
ロテールを暗殺したのは国内の貴族たちだったが、その軽挙が...
帝位を継承したロテール2世は13歳であり、摂政ブラッシェル...
1249年10月10日
抵抗力を喪失したラテン帝国は降伏し、マケドニアの4州はセ...
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衰運のラテン帝国
1249年10月15日
ステファン2世は新領土の封建を行った。
アドリアノープル公には勲功第一等の大臣アルタシールを封じ...
異邦人のアルタシールに大邦を与えることには反対意見も多か...
王が人事の全権を握ることを内外に示すためにも、この抜擢は...
テッサロニキは教会領とし、テッサロニキ主教ゼノンを大主教...
公爵級の大主教はセルビア史上初めての事である。
また、甥のヴラディンをカルキディケ伯に叙しアトス山守護の...
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アドリアノープル公アルタシール セルビアの大臣であり顧問...
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テッサロニキ大主教ゼノン セルビア史上最初の大主教にして...
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マケドニア征服後のセルビア王国 やっぱりヴェネツィアが邪魔
一連の戦争でセルビアはバルカンの大国となった。
そしてこれが、ステファンの最後の仕事になったのである。
**崩御 [#p2def14b]
1249年11月19日
ラテン皇帝ロテール2世が暗殺され、弟のボードゥアン2世が...
ボードゥアンは8歳であり、ブラッシェルナエ男爵アンドレが引...
二代続けて皇帝が暗殺された事はこの国が崩壊過程にある事を...
1250年1月3日
ブルガリア女王マリヤが57歳で崩御。
王太子ステファンが王位を継承した。
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嫁の死 これでブルガリア併合が確定した
妻の死に気落ちしたステファンはこのころから病気がちになっ...
後継者は成人しており王国の将来に心配は無い。
心配事があるとすれば末子ニコラの処遇くらいか・・・
1250年5月15日
自らの死期を悟ったステファンは王城に一族・家臣・聖職者を...
1 王国は長子相続を原則とする事。
2 次子以下は諸侯となり宗家を支える事。
3 正教信仰を守る事。
4 アトス山は治外法権とし、いかなる世俗権力の介入も認め...
5 併合した国・地域は対等に扱う事。ただし異教・異端は排...
これは建国王の遺詔としてセルビア王国の国是となった。
1250年5月20日
ステファン2世は崩御した。
享年74
ブルガリア王ステファンが王位を継承し、ここに2つの王国は...
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**あとがき [#p40a13b5]
今のところ順調に推移しています。
やはり勢力を拡大していく上で婚姻乗っ取りは絶大な威力を発...
ブルガリアの乗っ取りでは暗殺に手を出しましたが、ハンガリ...
まあ、このゲームは大国になる事よりもそれを維持する方が難...
複数のプレイを平行していますので次の更新は少し時間がかか...
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