AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452
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[[AAR/デンマーク年代記]]
1435年8月12日、皇帝は一人の男を宮廷に召した。
その男は姓をド・ノートルダム、名をミシェルと謂い、1452年...
&ref(ノストラダムス.jpg);
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔ノス.jpg); 降りまする!
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔ノス.jpg); それは私にもわかりませぬ。姿が見えない...
&ref(顔ノス.jpg); おそらくそれは非常に高い空の上に居り、...
&ref(顔ノス.jpg); そのためかそれだけは私にもわかりません...
&ref(顔ノス.jpg); 何でもないものでした…何でもないものが...
&ref(顔ノス.jpg); それが恐怖の大王なのです…
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔ノス.jpg); 偉大なローマ皇帝と、その庇護下にある者...
&ref(顔ノス.jpg); 臣の願いますに、ローマを復活なさいませ...
12月31日、マジャール女王"賢王"グレーテが崩御した。58歳で...
デンマーク王イーレク7世の長女で、母親のマジャール女王アデ...
マジャール王位は宰相キプロス王シグルドが継いだ。
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第二次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1436年2月3日-1437年7月8日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国|134000|ジェノヴァ共和国   ...
|>|-|ワラキア王国|5000|
|>|-|ポラメニア公国|12000|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|サヴォナ大市長エルミ...
|>|ヤムタラント公ニクラス|>|エンブリアコ市長オベルト|
|>|トルトサ伯レインベルン|>|グリマルディ市長ロマーノ|
|>|オヴェコ・デ・サン=クレメンテ|>|ニコシア公リトヴォイ|
1436年2月3日、ジェノヴァとワラキアのモンテリア、ポラメニ...
&ref(001.jpg);
来年になるとゲーム開始から100年が経ち、ランゴバルト王国...
6月16日、モンテリアを平定した。
6月19日、コンスタンティノポリス郊外のヒエロンで帝国軍4万...
7月3日、帝国軍が勝利し、ジェノヴァ共和国はジェノヴァを帝...
1337年7月7日、アキテーヌ公アルナウト3世が事故死し、皇帝臣...
皇帝はこれをもってアキテーヌ王を称し、アキテーヌ地方の独...
7月8日、ポラメニア公が臣従した。
&ref(002.jpg);
この頃の図
9月27日、皇帝は以前にもまして酒を好まれるようになった。
&ref(003.jpg);
10月15日、皇帝はワラキア王位をヴォイエヴォダートから簒奪...
12月12日、皇帝は詔し、未だ皇威に浴さない四つの諸侯に対し...
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|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第三次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1437年12月12日-1437年7月8日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国|134000|カタルーニャ王国   ...
|ポーランド王国|12000|聖ジョージ共和国|6000|
|ポルトガル王国|8000|ムテニア公国|5000|
|ヌビア王国|5000|ボスニア公国|6000|
|>|-|"カリフ"クッシル|8000|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ムテニア公ヴィライク|
|>|ヤムタラント公ニクラス|>|カタルーニャ王ジョアン|
|>|トルトサ伯レインベルン|>||
2月10日、イバード派カリフクッシルが書を寄越し、宣戦布告し...
2月16日、ポルトガルの"肥満王"パイオが援軍を申し出た。
3月3日にはヌビアの"冷酷王"マルツロフィロスが援軍を申し出...
皇帝は大いに感激した。
二人は共に皇帝の義理の兄弟にあたり、ヴァルデマ聖帝の第三...
3月7日、皇后にしてポルトガル女王ヤドヴィカが援軍を申し出...
4月15日、テサロニカとコルシカを支配していた聖ジョージ共和...
5月25日、トルトサ伯レインベルンが卒去した。66歳であった。
先帝の代より仕え、多くの戦争に従軍し、武勇の才はあのオト1...
27日、チュートン騎士団長を兼ねるノヴゴロド大公ゴーデンテ...
6月9日、ボスニア公イェリサヴェタは公爵位を返上して臣従し...
6月17日、サルカヴェトロとブルガリアの王スヴェンが戦場の傷...
ホルスティーン公ヘルギの子である。
6歳で王位を継ぎ、自ら聖戦を行う敬虔な人物で皇帝から大いに...
王位は嫡子のヘンリキが継いだ。
9月23日、ムテニア公ヴィライクが臣従した。
1439年4月8日、"カリフ"クッシルは降伏を申し出た。
サラセン人は諸侯の数だけは多くそろえることが来たが、兵力...
&ref(004.jpg);
&ref(005.jpg);
ちなみに戦勝点60%
4月18日、カタルーニャ王ジョアンが降伏した。
&ref(006.jpg);
1440年2月8日、ドイツ人の皇帝コンスタンティヌス5世が事故死...
帝位は5歳になる嫡子ブルカルドが継いだ。
諸侯はこの皇帝に反発し、翌年ボヘミア王位とニーダーロード...
1440年2月19日、皇帝は北ブルターニュを掌握すべく軍を興した。
5月12日、ポルホエートの戦いでブルターニュ公爵軍を破り、平...
&ref(007.jpg);
ブルターニュにこれだけの兵力は必要なかったかもしれないが...
1441年5月25日、皇帝はタロンをサラセン人から取り戻すべく戦...
&ref(008.jpg);
1442年8月25日、タロンの総督カラは一戦も交えぬまま敗北を認...
12月23日、シチリア王オジェルが薨去した。59歳であった。
皇帝によく仕え、軍をよく率いた。
皇帝の義兄弟にあたる。
息子のヴィヴァルドがシチリア王位を、長子の子オジェルがゴ...
1443年2月19日、皇帝は自らの擁立した教皇カリクストゥス2世...
&ref(009.jpg);
3月3日、教皇カリストゥス2世は皇帝の意向にマグレブへの十字...
皇帝は大いに喜び、十字軍に参戦すべく軍を興した。
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''マグレブ十字軍''|
|>|>|>|年月日:1443年3月3日-1444年5月18日|
|>|>|>|結果:マグレブの帝国編入|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラ...
|ノルド帝国|134000|バヌ=マリンスルタン国  ...
|教皇庁|12000|>|-|
|ポルトガル王国|8000|>|-|
|ヴェネティア共和国|5000|>|-|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|バヌ=マリン"スルタン...
|>|クズルム伯フローゼ|>|ツアート太守アティッシ|
|>|ヴォルン公イマーム|>|シッソ総督サーラ|
|>|イクミン伯ヨルゲン|>|ムザブ総督オウラフ|
|>|カリン伯ニコレース|>|アダリッド総督アムベイ|
5月7日、シティ=アカチャの戦いでデンマーク王ゴズフレズが...
王位は嫡子のバヴォが継承した。
9日、シディ=アカチャの戦いは帝国軍の勝利に終わった。
8月2日、ラバットにおいて十字軍3万とサラセン人1万4千が衝突...
8月14日、帝国軍が側翼包囲を成功させサラセン人は敗走した。
皇帝も大いにご活躍成され、
この戦いで十字軍の帰趨は決した。
&ref(010.jpg);
&ref(011.jpg);
10月3日、皇后ヤドヴィカが崩御された。50歳であった。
時に皇后として、時にポーランド女王として皇帝をよく支えた。
王位は長子のヴァルデマが継承した。
&ref(012.jpg);
10月8日、皇帝はライン男爵家のイルムガルドを皇后に立てた。
1444年1月23日、皇帝の第二子クヌーズはジェノヴァ共和国の設...
&ref(014.jpg);
5月10日、皇帝の第四子クリストファは以下のように奏上した。
&ref(クリストファ4.jpg); 臣は四男で、到底帝位を継ぐとは...
&ref(クリストファ4.jpg); もし皇帝陛下が慈悲深い大御心で...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(クリストファ4.jpg); 陛下の恩寵は臣の身に沁みわたる...
&ref(クリストファ4.jpg); 必ずや栄達をして参りますので、...
皇帝はクリストファの望みを叶え、ヴァリャーギ親衛隊に入隊...
&ref(015.jpg);
5月18日、マグレブのサラセン人を追放し、皇化させた。
皇帝は一族の者に多くの土地を賜り、ヴァリャーギ親衛隊に入...
&ref(016.jpg);
7月1日、皇帝は八つの独立諸侯に戦を詔した。
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|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第四次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1444年7月1日-1437年7月8日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国|164000|ジェノヴァ共和国   ...
|>|-|ウラジミール大公国|5000|
|>|-|聖ジョージ共和国|7000|
|>|-|キエフ公国|3000|
|>|-|ウルビノ公国|4000|
|>|-|ラヴェンナ公国|4500|
|>|-|ハンブルク共和国|12000|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ジョノヴァ総督バルト...
|>|クズルム伯フローゼ|>|サヴォナ大市長エルミニオ|
|>|カリン伯ニコレース|>|グリマルディ市長ロマーノ|
|>|アヴィラ伯グンツェル|>|ニコシア公リトヴォイ|
10月27日、聖ジョージ共和国が降伏した。
1445年1月13日、ハンブルグ共和国総督マティウス2世が降伏し...
1月14日、サラセン人のザイアがエジプトに侵入した。
皇帝はエジプトの諸侯に動員をかけ、これを撃破した。
&ref(018.jpg);
一時は危うかったが、この後逆転した。
4月23日、ラヴェンナ公は降伏し、ボログナ伯領を割いて自らの...
4月28日、ウラディミール大公ヴィシャタが病没し、弟のフョー...
フョードルは皇帝から伯領を賜り、皇帝がフョードルを軍をし...
フョードルは大公位継承は相続で継承したものであり、皇帝の...
&ref(019.jpg);
5月19日、ウルビノ公は降伏し、自らは伯になり、公爵位を献上...
8月3日、ジェノヴァ共和国がボッビオ伯領を割いて降伏した。
9月11日、皇帝はヴァリャーギ親衛隊長スティルビョルンにアイ...
&ref(020.jpg);
スティルビョルンはこれを機に東方正教から全き道たるカトリ...
12月16日、皇帝は宴を催した。
1446年4月9日、皇帝は神聖ローマ皇帝にデンマーク人のヘルガ...
9月6日、フランス女王エルヴィスが獄中で死亡した。
11月6日、ボヘミア王ハルトマンがリューツィッヒを割いて降伏...
12月10日、デンマーク王バヴォはスリースヴィ公を兼ねるブル...
12月31日、シチリア王ヴィヴァルドは甥にあたるゴートラント...
1447年3月6日、ブレッツ=イーゼル公国を平定した。
5月24日、ドイツ人の皇帝ブルカルドが傷病死し、遠縁のマグヌ...
7月27日、マグヌスは退位し、ヘルギが帝位を継いだ。
ヘルギの子は皇帝の従兄妹と女系結婚しており、このまま帝位...
10月5日、皇帝はいつになく落ち込み、詔して曰く。
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(021.jpg);
11月16日、ゴートラント王オジェルは王位を弟に譲り、ヴィヴ...
1448年3月5日、ロッビオで農民が反乱を起こした。
皇帝はこの背後にフョードルがいると怪しみ、フョードルの弟...
4月24日、皇帝は破門された。教皇カリストゥス2世はフョード...
皇帝は大いに怒り、6月12日にローマに3万の軍勢をもって上陸...
&ref(022.jpg);
フョードルはこれにも懲りず、トドゲンというサラセン人をそ...
6月24日、シチリア王ヴィヴァルドはオジェルの弟、ドートラン...
12月24日、皇帝はサラセン人をケイランピナルにて破った。
トドゲンは490グルデンもの資金を有しており、皇帝はこれをす...
1449年3月10日、皇帝の第四子クリストファがウラディミール大...
皇帝は大いに悲しみ、いよいよ宸襟を悪化された。
&ref(025.jpg);
6月24日、教皇カリストゥス2世は過食で死んだ。
&ref(026.jpg);
清貧であるべき教皇が過食で死んだという事実は諸侯を失望さ...
後任はピャスト家のヒラルス2世である。
また、フョードルは敗北を認め、弟ウラディミールにウラディ...
8月3日、ヒラルス2世は皇帝の破門を解いた。
10月6日、皇后イムルガルドが崩御した。34歳であった。
10月27日、ブルガリア王ヘンリキが薨去した。19歳であった。
若くして不具となり、その隙にデンマーク王バヴォにスリース...
王位は弟のイーナルが継承した。
11月12日、皇帝はスィスィーリェ・フォン・アイセルステイン...
内向的だが、性格は温和であった。
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1450年4月27日、皇帝は詔した。
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
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&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
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|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第五次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1450年4月27日-1452年9月18日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国|214000|ドイツ人のローマを僭称する帝国 &#...
|>|-|バヌ=ハフス朝|14000|
|>|-|ノヴゴロド王国|3000|
|>|-|リヴォニア王国|8000|
|>|-|ポルトガル王国|7000|
|>|-|ペルム王国|3000|
|>|-|ログヴォルド公国|6500|
|>|-|ポモルスコ公国|6500|
|>|-|フェラーラ伯国|3000|
|>|-|リミニ伯国|80|
|>|-|ラヴェンナ伯国|120|
|>|-|テオドシオポリス太守国|3800|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|"スルタン"ブワイフ|
|>|クズルム伯フローゼ|>|ベナヴェンテ司教フランシスコ|
|>|カリン伯ニコレース|>|シュゼント市長イェドルセイ|
|>|アヴィラ伯グンツェル|>|-|
9月18日、カイラワンの戦いで帝国軍5万がスルタン自ら率いる...
9月29日、プティビルの戦いで、敵4千を破った。
12月10日、テオドシオポリス太守ベルケが帝国に宣戦布告した。
&ref(028.jpg);
1451年1月4日、皇后スィスィーリェがイョルンを出産した。
3月24日、バヌ=ハフス朝の"スルタン"ブワイフは地に伏して詫...
4月25日、ノヴゴロド王国がコゼルスクを割譲し降伏した。
5月11日、皇帝に一冊の本が献上された。名をアルス・モリエン...
&ref(029.jpg);
5月11日、ペルム王イングヴァルがズィリャネを割いて降伏した。
6月29日、神聖ローマ帝国からプアルツグラフシャフト=ベイ=...
7月20日、ポモルスコ公国が公爵位を皇帝に譲り臣従した。
8月3日、フェラーラー伯が臣従した。
8月20日、レミニ伯が臣従した。
11月24日、皇帝は崩御された。58歳であった。
陣中で即位し、陣中で御隠れになられた。
だかその大御心は常に&ruby(おおみたから){百姓};の方を向い...
&ref(030.jpg);
長子であるポーランド王ヴァルデマが帝位を継いだ。
エジプトとマグレブの王位は末子ヨルンが、モルドヴァ王位は...
*[[巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458>AAR/デンマーク年代...
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[[AAR/デンマーク年代記]]
1435年8月12日、皇帝は一人の男を宮廷に召した。
その男は姓をド・ノートルダム、名をミシェルと謂い、1452年...
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&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
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&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
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&ref(顔ノス.jpg); おそらくそれは非常に高い空の上に居り、...
&ref(顔ノス.jpg); そのためかそれだけは私にもわかりません...
&ref(顔ノス.jpg); 何でもないものでした…何でもないものが...
&ref(顔ノス.jpg); それが恐怖の大王なのです…
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔ノス.jpg); 偉大なローマ皇帝と、その庇護下にある者...
&ref(顔ノス.jpg); 臣の願いますに、ローマを復活なさいませ...
12月31日、マジャール女王"賢王"グレーテが崩御した。58歳で...
デンマーク王イーレク7世の長女で、母親のマジャール女王アデ...
マジャール王位は宰相キプロス王シグルドが継いだ。
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|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第二次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1436年2月3日-1437年7月8日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
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|ノルド帝国|134000|ジェノヴァ共和国   ...
|>|-|ワラキア王国|5000|
|>|-|ポラメニア公国|12000|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|サヴォナ大市長エルミ...
|>|ヤムタラント公ニクラス|>|エンブリアコ市長オベルト|
|>|トルトサ伯レインベルン|>|グリマルディ市長ロマーノ|
|>|オヴェコ・デ・サン=クレメンテ|>|ニコシア公リトヴォイ|
1436年2月3日、ジェノヴァとワラキアのモンテリア、ポラメニ...
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来年になるとゲーム開始から100年が経ち、ランゴバルト王国...
6月16日、モンテリアを平定した。
6月19日、コンスタンティノポリス郊外のヒエロンで帝国軍4万...
7月3日、帝国軍が勝利し、ジェノヴァ共和国はジェノヴァを帝...
1337年7月7日、アキテーヌ公アルナウト3世が事故死し、皇帝臣...
皇帝はこれをもってアキテーヌ王を称し、アキテーヌ地方の独...
7月8日、ポラメニア公が臣従した。
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この頃の図
9月27日、皇帝は以前にもまして酒を好まれるようになった。
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10月15日、皇帝はワラキア王位をヴォイエヴォダートから簒奪...
12月12日、皇帝は詔し、未だ皇威に浴さない四つの諸侯に対し...
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|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
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|ノルド帝国|134000|カタルーニャ王国   ...
|ポーランド王国|12000|聖ジョージ共和国|6000|
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|ヌビア王国|5000|ボスニア公国|6000|
|>|-|"カリフ"クッシル|8000|
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|>|トルトサ伯レインベルン|>||
2月10日、イバード派カリフクッシルが書を寄越し、宣戦布告し...
2月16日、ポルトガルの"肥満王"パイオが援軍を申し出た。
3月3日にはヌビアの"冷酷王"マルツロフィロスが援軍を申し出...
皇帝は大いに感激した。
二人は共に皇帝の義理の兄弟にあたり、ヴァルデマ聖帝の第三...
3月7日、皇后にしてポルトガル女王ヤドヴィカが援軍を申し出...
4月15日、テサロニカとコルシカを支配していた聖ジョージ共和...
5月25日、トルトサ伯レインベルンが卒去した。66歳であった。
先帝の代より仕え、多くの戦争に従軍し、武勇の才はあのオト1...
27日、チュートン騎士団長を兼ねるノヴゴロド大公ゴーデンテ...
6月9日、ボスニア公イェリサヴェタは公爵位を返上して臣従し...
6月17日、サルカヴェトロとブルガリアの王スヴェンが戦場の傷...
ホルスティーン公ヘルギの子である。
6歳で王位を継ぎ、自ら聖戦を行う敬虔な人物で皇帝から大いに...
王位は嫡子のヘンリキが継いだ。
9月23日、ムテニア公ヴィライクが臣従した。
1439年4月8日、"カリフ"クッシルは降伏を申し出た。
サラセン人は諸侯の数だけは多くそろえることが来たが、兵力...
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ちなみに戦勝点60%
4月18日、カタルーニャ王ジョアンが降伏した。
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1440年2月8日、ドイツ人の皇帝コンスタンティヌス5世が事故死...
帝位は5歳になる嫡子ブルカルドが継いだ。
諸侯はこの皇帝に反発し、翌年ボヘミア王位とニーダーロード...
1440年2月19日、皇帝は北ブルターニュを掌握すべく軍を興した。
5月12日、ポルホエートの戦いでブルターニュ公爵軍を破り、平...
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ブルターニュにこれだけの兵力は必要なかったかもしれないが...
1441年5月25日、皇帝はタロンをサラセン人から取り戻すべく戦...
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1442年8月25日、タロンの総督カラは一戦も交えぬまま敗北を認...
12月23日、シチリア王オジェルが薨去した。59歳であった。
皇帝によく仕え、軍をよく率いた。
皇帝の義兄弟にあたる。
息子のヴィヴァルドがシチリア王位を、長子の子オジェルがゴ...
1443年2月19日、皇帝は自らの擁立した教皇カリクストゥス2世...
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3月3日、教皇カリストゥス2世は皇帝の意向にマグレブへの十字...
皇帝は大いに喜び、十字軍に参戦すべく軍を興した。
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|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''マグレブ十字軍''|
|>|>|>|年月日:1443年3月3日-1444年5月18日|
|>|>|>|結果:マグレブの帝国編入|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラ...
|ノルド帝国|134000|バヌ=マリンスルタン国  ...
|教皇庁|12000|>|-|
|ポルトガル王国|8000|>|-|
|ヴェネティア共和国|5000|>|-|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|バヌ=マリン"スルタン...
|>|クズルム伯フローゼ|>|ツアート太守アティッシ|
|>|ヴォルン公イマーム|>|シッソ総督サーラ|
|>|イクミン伯ヨルゲン|>|ムザブ総督オウラフ|
|>|カリン伯ニコレース|>|アダリッド総督アムベイ|
5月7日、シティ=アカチャの戦いでデンマーク王ゴズフレズが...
王位は嫡子のバヴォが継承した。
9日、シディ=アカチャの戦いは帝国軍の勝利に終わった。
8月2日、ラバットにおいて十字軍3万とサラセン人1万4千が衝突...
8月14日、帝国軍が側翼包囲を成功させサラセン人は敗走した。
皇帝も大いにご活躍成され、
この戦いで十字軍の帰趨は決した。
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&ref(011.jpg);
10月3日、皇后ヤドヴィカが崩御された。50歳であった。
時に皇后として、時にポーランド女王として皇帝をよく支えた。
王位は長子のヴァルデマが継承した。
&ref(012.jpg);
10月8日、皇帝はライン男爵家のイルムガルドを皇后に立てた。
1444年1月23日、皇帝の第二子クヌーズはジェノヴァ共和国の設...
&ref(014.jpg);
5月10日、皇帝の第四子クリストファは以下のように奏上した。
&ref(クリストファ4.jpg); 臣は四男で、到底帝位を継ぐとは...
&ref(クリストファ4.jpg); もし皇帝陛下が慈悲深い大御心で...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(クリストファ4.jpg); 陛下の恩寵は臣の身に沁みわたる...
&ref(クリストファ4.jpg); 必ずや栄達をして参りますので、...
皇帝はクリストファの望みを叶え、ヴァリャーギ親衛隊に入隊...
&ref(015.jpg);
5月18日、マグレブのサラセン人を追放し、皇化させた。
皇帝は一族の者に多くの土地を賜り、ヴァリャーギ親衛隊に入...
&ref(016.jpg);
7月1日、皇帝は八つの独立諸侯に戦を詔した。
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第四次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1444年7月1日-1437年7月8日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国|164000|ジェノヴァ共和国   ...
|>|-|ウラジミール大公国|5000|
|>|-|聖ジョージ共和国|7000|
|>|-|キエフ公国|3000|
|>|-|ウルビノ公国|4000|
|>|-|ラヴェンナ公国|4500|
|>|-|ハンブルク共和国|12000|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ジョノヴァ総督バルト...
|>|クズルム伯フローゼ|>|サヴォナ大市長エルミニオ|
|>|カリン伯ニコレース|>|グリマルディ市長ロマーノ|
|>|アヴィラ伯グンツェル|>|ニコシア公リトヴォイ|
10月27日、聖ジョージ共和国が降伏した。
1445年1月13日、ハンブルグ共和国総督マティウス2世が降伏し...
1月14日、サラセン人のザイアがエジプトに侵入した。
皇帝はエジプトの諸侯に動員をかけ、これを撃破した。
&ref(018.jpg);
一時は危うかったが、この後逆転した。
4月23日、ラヴェンナ公は降伏し、ボログナ伯領を割いて自らの...
4月28日、ウラディミール大公ヴィシャタが病没し、弟のフョー...
フョードルは皇帝から伯領を賜り、皇帝がフョードルを軍をし...
フョードルは大公位継承は相続で継承したものであり、皇帝の...
&ref(019.jpg);
5月19日、ウルビノ公は降伏し、自らは伯になり、公爵位を献上...
8月3日、ジェノヴァ共和国がボッビオ伯領を割いて降伏した。
9月11日、皇帝はヴァリャーギ親衛隊長スティルビョルンにアイ...
&ref(020.jpg);
スティルビョルンはこれを機に東方正教から全き道たるカトリ...
12月16日、皇帝は宴を催した。
1446年4月9日、皇帝は神聖ローマ皇帝にデンマーク人のヘルガ...
9月6日、フランス女王エルヴィスが獄中で死亡した。
11月6日、ボヘミア王ハルトマンがリューツィッヒを割いて降伏...
12月10日、デンマーク王バヴォはスリースヴィ公を兼ねるブル...
12月31日、シチリア王ヴィヴァルドは甥にあたるゴートラント...
1447年3月6日、ブレッツ=イーゼル公国を平定した。
5月24日、ドイツ人の皇帝ブルカルドが傷病死し、遠縁のマグヌ...
7月27日、マグヌスは退位し、ヘルギが帝位を継いだ。
ヘルギの子は皇帝の従兄妹と女系結婚しており、このまま帝位...
10月5日、皇帝はいつになく落ち込み、詔して曰く。
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(021.jpg);
11月16日、ゴートラント王オジェルは王位を弟に譲り、ヴィヴ...
1448年3月5日、ロッビオで農民が反乱を起こした。
皇帝はこの背後にフョードルがいると怪しみ、フョードルの弟...
4月24日、皇帝は破門された。教皇カリストゥス2世はフョード...
皇帝は大いに怒り、6月12日にローマに3万の軍勢をもって上陸...
&ref(022.jpg);
フョードルはこれにも懲りず、トドゲンというサラセン人をそ...
6月24日、シチリア王ヴィヴァルドはオジェルの弟、ドートラン...
12月24日、皇帝はサラセン人をケイランピナルにて破った。
トドゲンは490グルデンもの資金を有しており、皇帝はこれをす...
1449年3月10日、皇帝の第四子クリストファがウラディミール大...
皇帝は大いに悲しみ、いよいよ宸襟を悪化された。
&ref(025.jpg);
6月24日、教皇カリストゥス2世は過食で死んだ。
&ref(026.jpg);
清貧であるべき教皇が過食で死んだという事実は諸侯を失望さ...
後任はピャスト家のヒラルス2世である。
また、フョードルは敗北を認め、弟ウラディミールにウラディ...
8月3日、ヒラルス2世は皇帝の破門を解いた。
10月6日、皇后イムルガルドが崩御した。34歳であった。
10月27日、ブルガリア王ヘンリキが薨去した。19歳であった。
若くして不具となり、その隙にデンマーク王バヴォにスリース...
王位は弟のイーナルが継承した。
11月12日、皇帝はスィスィーリェ・フォン・アイセルステイン...
内向的だが、性格は温和であった。
&ref(027.jpg);
1450年4月27日、皇帝は詔した。
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
&ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト...
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第五次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1450年4月27日-1452年9月18日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国|214000|ドイツ人のローマを僭称する帝国 &#...
|>|-|バヌ=ハフス朝|14000|
|>|-|ノヴゴロド王国|3000|
|>|-|リヴォニア王国|8000|
|>|-|ポルトガル王国|7000|
|>|-|ペルム王国|3000|
|>|-|ログヴォルド公国|6500|
|>|-|ポモルスコ公国|6500|
|>|-|フェラーラ伯国|3000|
|>|-|リミニ伯国|80|
|>|-|ラヴェンナ伯国|120|
|>|-|テオドシオポリス太守国|3800|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|"スルタン"ブワイフ|
|>|クズルム伯フローゼ|>|ベナヴェンテ司教フランシスコ|
|>|カリン伯ニコレース|>|シュゼント市長イェドルセイ|
|>|アヴィラ伯グンツェル|>|-|
9月18日、カイラワンの戦いで帝国軍5万がスルタン自ら率いる...
9月29日、プティビルの戦いで、敵4千を破った。
12月10日、テオドシオポリス太守ベルケが帝国に宣戦布告した。
&ref(028.jpg);
1451年1月4日、皇后スィスィーリェがイョルンを出産した。
3月24日、バヌ=ハフス朝の"スルタン"ブワイフは地に伏して詫...
4月25日、ノヴゴロド王国がコゼルスクを割譲し降伏した。
5月11日、皇帝に一冊の本が献上された。名をアルス・モリエン...
&ref(029.jpg);
5月11日、ペルム王イングヴァルがズィリャネを割いて降伏した。
6月29日、神聖ローマ帝国からプアルツグラフシャフト=ベイ=...
7月20日、ポモルスコ公国が公爵位を皇帝に譲り臣従した。
8月3日、フェラーラー伯が臣従した。
8月20日、レミニ伯が臣従した。
11月24日、皇帝は崩御された。58歳であった。
陣中で即位し、陣中で御隠れになられた。
だかその大御心は常に&ruby(おおみたから){百姓};の方を向い...
&ref(030.jpg);
長子であるポーランド王ヴァルデマが帝位を継いだ。
エジプトとマグレブの王位は末子ヨルンが、モルドヴァ王位は...
*[[巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458>AAR/デンマーク年代...
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