AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458
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[[AAR/デンマーク年代記]]
*巻十三 ヴァルデマ賢帝 [#x440163d]
&ref(001.jpg);
ヴァルデマ賢帝は、先帝オト公正帝の第一子である。
知略に秀で、慈しみの心をもっておられた。
先帝に続き陣中で即位した。
皇帝の即位されたとき、未だポルトガル王をはじめ四つの諸侯...
1452年4月4日、デンマーク王バヴォがスリースヴィ公アストリ...
5月15日、皇后にしてメクレンブルク女公アデリンデが崩御した...
皇帝が成人されるとともに御成婚され、四男三女をもうけられ...
第一子をオト、第二子をヤコブ、第三子をルナ、第四子をエス...
晩年は子供の教育を巡り対立し、夫婦仲も疎遠になった。
メクレンブルク公位は長子オトが継承した。
11月3日、公妾スィーネが皇帝の子マーサを出産した。
皇帝はマーサを認知し、スィーネを皇后に立てられた。
皇帝はスィーネとの間に二男一女をもうけられ、第一子をマー...
また、皇帝は公妾四人を立てられた。
第一はヘレナと申され、一男イーナルをもうけられた。第二を...
第三をユダヤ人ヤコブの娘リヴカフと申され、一男エスベンを...
&ref(004.jpg);
11月11日、皇帝は臣下から爪楊枝を献上され、大いに喜ばれた。
&ref(003.jpg);
1453年1月1日、皇帝はド・ノートルダムに詔して曰く、
&ref(顔賢帝.jpg); 汝はかつて我が父上に1452年12月に世界が...
ノストラダムスが地に伏して奏上するに、
&ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝...
&ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝...
&ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝...
&ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝...
皇帝はド・ノートルダムの奏上の後、これ以上この事について...
2月10日、イメレティアでグリゴリという男が農民を唆し叛いた。
皇帝はこの機に皇帝に未だ従わぬ諸侯を征することを思召し、
ドイツ人のローマ帝国、ジェノヴァ共和国、カレリアのみを有...
この時、皇帝の信心が少なく、チュートン騎士団に寄進するこ...
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第六次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1453年2月10日-1454年2月2日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝...
|ノルド帝国       ...
|>|-|リトアニア王国|6000|
|>|-|ノヴゴロド王国|14000|
|>|-|ジェノヴァ共和国|15000|
|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|グリゴリ|
|>|クズルム伯フローゼ|>|テック公ヴィクトル|
|>|カリン伯ニコレース|>|テオドシア伯チアフレード|
|>|アヴィラ伯グンツェル|>|アルベンガ司教コシモ|
3月14日、グリゴリは捕えられ、イメレティアの農民反乱は終息...
その後のグリゴリの消息についてはどの史料にも書かれていな...
4月3日、帝国軍はドアッピオにおいてジェノヴァ軍を破った。
&ref(005.jpg);
4月24日、帝国軍はリュクスにてリトアニア軍と衝突した。
5月9日、帝国軍はノヴゴロド王国と敵対していたリヴォニア軍1...
5月10日、リュクスの戦いは帝国軍の勝利に終わった。
異端軍は総崩れになり、リトアニア王マンギルダスは放伐され...
&ref(006.jpg);
5月23日、リヴォニア軍をノヴゴロド領から追放し、彼らに代わ...
6月10日、小アジアのコラーラにてドイツ皇帝軍3千を破り、テ...
&ref(007.jpg);
9月23日、第209代教皇ヒラリウス2世が肺炎のため崩御した。66...
即位前は質実剛健で名を聞かせていたが、即位後に何の因果か'...
&ref(008.jpg);
後任には
1454年1月7日、ジェノヴァとノヴゴロドの双方の首都を同日に...
ノヴゴロドはカレリアを、ジェノヴァは沿岸地方をすべて喪失...
&ref(009.jpg);
1月18日、皇帝御自ら率いられた2万5千の軍がドナウウォルスに...
&ref(010.jpg);
1月29日、皇帝は見事に翼包囲を決められ、敵軍を撃滅せしめた。
2月2日、ドイツ皇帝はバーデン公領を割いて降伏した。
&ref(011.jpg);
3月25日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。
4月8日、皇帝は戦勝を祝い、馬上槍試合を開いた。
8月16日、テッサロニキ専制侯ニカレーテが死亡した。
彼女は諸侯を唆し帝国に対し叛く事を企んでおり、その懲罰で...
&ref(013.jpg);
8月23日、皇帝の従兄弟にあたるシチリア王ヴィヴァルドがニカ...
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第六次欧州征伐''|
|>|>|>|年月日:1453年2月10日-1454年2月2日|
|>|>|>|結果:帝国軍の勝利|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''叛乱...
|ノルド帝国       ...
|>|>|>|将軍|
|>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|シチリア王ヴィヴァルド|
|>|セルビア王ヴラスティミル|>|ウラディミール王ミスティス...
|>|ハリィーチ=ヴォリン王ディトリク|>|レオン王ガリンド|
|>|ブルガリア王イーナル|>|スコットランド王ファエラン|
9月7日、シチリア王ヴィヴァルドはイングランド王、ブレート...
&ref(014.jpg);
&ref(顔シチリア王2.jpg); ノルドの皇帝ヴァルデマは、徒に...
&ref(顔シチリア王2.jpg); 斯くの如き不徳の者を君に戴くこ...
&ref(顔シチリア王2.jpg); 我らは共に互いの独立を保障し、...
&ref(015.jpg);
その兵力、帝国軍のおよそ3倍
皇帝は宰相ラルティア伯セヴェリン、元帥モルドヴァ王プリド...
&ref(顔賢帝.jpg); 今、ヴィヴァルドが叛き、南の蛮しき地を...
元帥モルドヴァ王プリドビョルンが申し上げるに曰く、
&ref(顔プリドビョルン.jpg); たいらにただしく仁み勇みて兵...
皇帝、これを可(ゆる)し、詔して曰く、
&ref(顔賢帝.jpg); セルビア王ヴラスティミルよ、今、ヴィヴ...
セルビア王ヴラスティミル、謹みて再度拝みて申するに、
&ref(顔セルビア王.jpg); 其れヴィヴァルドは南の蛮の卑しき...
&ref(顔セルビア王.jpg); 川の阻むことをたのんでつかまつら...
&ref(顔セルビア王.jpg); 臣の祖は在昔シニザより、ここにヴ...
&ref(顔セルビア王.jpg); 民を塗炭より救うこと、かの時もこ...
&ref(顔セルビア王.jpg); 唯主の助ける所は、臣が常に重く思...
皇帝、重ねて詔して曰く、
&ref(顔賢帝.jpg); 優れたる将軍は、恩を施してうつくしびを...
&ref(顔賢帝.jpg); 攻むること河のくくるが如しで、戦うこと...
とのたまわれ、また詔して曰はく、
&ref(顔賢帝.jpg); &ruby(おおいくさのきみ){大将};は民の司...
とのたまわれた。
1455年1月1日、ボヤーノにて叛徒1万2千を帝国軍2万3千が捕え...
2月12日、ツヴェニゴロドにて敵3千を破った。
3月12日、ボヤーノから敗走する叛徒軍を追撃した帝国軍は、新...
皇帝は海上の1万4千を急ぎ向かわしめ叛徒を撃滅せしめ、敵将...
&ref(016.jpg);
5月5日までにイベリア、イタリア、エルサレム、ブリテン島以...
5月18日、叛徒1万5千がポモッサを襲撃したが、沖合に居た帝国...
6月2日、帝国軍は兵をセルビア王とハリィーチ=ヴォリン王の...
6月27日、フィネルにおいてブレートラント王の率いる敵軍1万4...
&ref(017.jpg);
7月21日、フィネルに北から叛乱軍の増援1万が襲来したが、こ...
8月5日、西方からウラディミール王の率いる1万5千の反乱軍が...
&ref(018.jpg);
8月10日、セルビア王の軍勢がフィネルに到着し、再び帝国軍が...
&ref(019.jpg);
8月28日、フィネルの戦いに帝国軍は勝利した。
&ref(020.jpg);
この後、セルビア王は9月18日に終結したモドナの戦いまで、北...
9月21日、皇帝は帝国領内のサーミ人1万を傭兵として招聘し、...
10月10日、叛徒共に対して反乱がおこった。
11月13日、ナルボナの戦いにおいてレオン王ガリンドの率いる1...
レオン王は会敵するや否やすぐさまに逃亡し、敵軍は総崩れと...
帝国軍は敗走軍を追撃せず東進し、東から向かう叛徒を撃滅す...
&ref(022.jpg);
12月1日、エルサレムのギベレット城の戦いで、アラゴン王ガル...
1456年2月15日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。
3月15日、モンペリエにて帝国軍3万9千と叛徒2万が会敵した。
3月23日、叛徒2万5千がモンペリエに到着した。
3月30日、帝国軍の増援2万8千が上陸し、モンペリエの叛徒ども...
&ref(021.jpg);
8月24日、ロヴィゴにてスコットランド王の率いる叛徒4万を殲...
&ref(023.jpg);
&ref(024.jpg);
ブリテン島の反乱軍はアイルランド島を荒らしまわり、戦勝点...
1457年7月8日、帝国軍がアイルランド島に上陸した。
帝国軍は叛徒を次々と破り、ヴィヴァルドは白紙和平を申し出...
1458年1月9日、シチリア王ヴィヴァルドをセルビア王ヴラステ...
皇帝は王に命じ、ヴィヴァルドを皇帝の地下牢に収監させた。
&ref(025.jpg);
皇帝は慈悲深い大御心により、ヴィヴァルドの王位返上ののち...
しかし、嘗ての帝国領の一部が独立していることを知ると大い...
&ref(026.jpg);
ジェノヴァ以外は皆どさくさで独立した諸侯である。先の叛乱...
&ref(顔賢帝.jpg); 朕に対し悪心を抱いたのみでなく、畏れ多...
&ref(顔賢帝.jpg); よもや王位の返上だけで済む物とは思って...
&ref(顔賢帝.jpg); 朕は信心が少ないということを知っていな...
ヴィヴァルドの答えるに、
&ref(顔シチリア王.jpg); 臣の不明は、深く恥じております。...
この言を聞いて皇帝は不機嫌になり、詔して曰く、
&ref(顔賢帝.jpg); 未だに命を惜しむとは嘆かわしい。これが...
&ref(顔賢帝.jpg); この者の首を刎ねよ。
ヴィヴァルドはシチリア王位を剥奪され、斬首刑に処せられた。
彼の所領は三人の子に分配され、子孫が二度と反逆できないよ...
このほかに所領を召し上げられ、処刑されたものに"ラ・マンチ...
彼は先帝に対しても叛意を抱き、その後皇帝の即位の際に恩赦...
レオン王位は皇帝の三男ハルヴォが賜った。
他に、エストリズセン家より唯一叛乱に加わったマジャール王...
ブレートラント王ヘンリーとポルトガル王ペドロ三世、そして...
また、フランス王ルーは投獄されてほどなくして獄死した。
*[[巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467>AAR/デンマーク年代...
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[[AAR/デンマーク年代記]]
*巻十三 ヴァルデマ賢帝 [#x440163d]
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ヴァルデマ賢帝は、先帝オト公正帝の第一子である。
知略に秀で、慈しみの心をもっておられた。
先帝に続き陣中で即位した。
皇帝の即位されたとき、未だポルトガル王をはじめ四つの諸侯...
1452年4月4日、デンマーク王バヴォがスリースヴィ公アストリ...
5月15日、皇后にしてメクレンブルク女公アデリンデが崩御した...
皇帝が成人されるとともに御成婚され、四男三女をもうけられ...
第一子をオト、第二子をヤコブ、第三子をルナ、第四子をエス...
晩年は子供の教育を巡り対立し、夫婦仲も疎遠になった。
メクレンブルク公位は長子オトが継承した。
11月3日、公妾スィーネが皇帝の子マーサを出産した。
皇帝はマーサを認知し、スィーネを皇后に立てられた。
皇帝はスィーネとの間に二男一女をもうけられ、第一子をマー...
また、皇帝は公妾四人を立てられた。
第一はヘレナと申され、一男イーナルをもうけられた。第二を...
第三をユダヤ人ヤコブの娘リヴカフと申され、一男エスベンを...
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11月11日、皇帝は臣下から爪楊枝を献上され、大いに喜ばれた。
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1453年1月1日、皇帝はド・ノートルダムに詔して曰く、
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皇帝はド・ノートルダムの奏上の後、これ以上この事について...
2月10日、イメレティアでグリゴリという男が農民を唆し叛いた。
皇帝はこの機に皇帝に未だ従わぬ諸侯を征することを思召し、
ドイツ人のローマ帝国、ジェノヴァ共和国、カレリアのみを有...
この時、皇帝の信心が少なく、チュートン騎士団に寄進するこ...
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|>|>|>|将軍|
|>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|グリゴリ|
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3月14日、グリゴリは捕えられ、イメレティアの農民反乱は終息...
その後のグリゴリの消息についてはどの史料にも書かれていな...
4月3日、帝国軍はドアッピオにおいてジェノヴァ軍を破った。
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4月24日、帝国軍はリュクスにてリトアニア軍と衝突した。
5月9日、帝国軍はノヴゴロド王国と敵対していたリヴォニア軍1...
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異端軍は総崩れになり、リトアニア王マンギルダスは放伐され...
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5月23日、リヴォニア軍をノヴゴロド領から追放し、彼らに代わ...
6月10日、小アジアのコラーラにてドイツ皇帝軍3千を破り、テ...
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9月23日、第209代教皇ヒラリウス2世が肺炎のため崩御した。66...
即位前は質実剛健で名を聞かせていたが、即位後に何の因果か'...
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1454年1月7日、ジェノヴァとノヴゴロドの双方の首都を同日に...
ノヴゴロドはカレリアを、ジェノヴァは沿岸地方をすべて喪失...
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1月18日、皇帝御自ら率いられた2万5千の軍がドナウウォルスに...
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1月29日、皇帝は見事に翼包囲を決められ、敵軍を撃滅せしめた。
2月2日、ドイツ皇帝はバーデン公領を割いて降伏した。
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3月25日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。
4月8日、皇帝は戦勝を祝い、馬上槍試合を開いた。
8月16日、テッサロニキ専制侯ニカレーテが死亡した。
彼女は諸侯を唆し帝国に対し叛く事を企んでおり、その懲罰で...
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|ノルド帝国       ...
|>|>|>|将軍|
|>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|シチリア王ヴィヴァルド|
|>|セルビア王ヴラスティミル|>|ウラディミール王ミスティス...
|>|ハリィーチ=ヴォリン王ディトリク|>|レオン王ガリンド|
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9月7日、シチリア王ヴィヴァルドはイングランド王、ブレート...
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皇帝は宰相ラルティア伯セヴェリン、元帥モルドヴァ王プリド...
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元帥モルドヴァ王プリドビョルンが申し上げるに曰く、
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皇帝、これを可(ゆる)し、詔して曰く、
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セルビア王ヴラスティミル、謹みて再度拝みて申するに、
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皇帝、重ねて詔して曰く、
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とのたまわれ、また詔して曰はく、
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とのたまわれた。
1455年1月1日、ボヤーノにて叛徒1万2千を帝国軍2万3千が捕え...
2月12日、ツヴェニゴロドにて敵3千を破った。
3月12日、ボヤーノから敗走する叛徒軍を追撃した帝国軍は、新...
皇帝は海上の1万4千を急ぎ向かわしめ叛徒を撃滅せしめ、敵将...
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9月21日、皇帝は帝国領内のサーミ人1万を傭兵として招聘し、...
10月10日、叛徒共に対して反乱がおこった。
11月13日、ナルボナの戦いにおいてレオン王ガリンドの率いる1...
レオン王は会敵するや否やすぐさまに逃亡し、敵軍は総崩れと...
帝国軍は敗走軍を追撃せず東進し、東から向かう叛徒を撃滅す...
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12月1日、エルサレムのギベレット城の戦いで、アラゴン王ガル...
1456年2月15日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。
3月15日、モンペリエにて帝国軍3万9千と叛徒2万が会敵した。
3月23日、叛徒2万5千がモンペリエに到着した。
3月30日、帝国軍の増援2万8千が上陸し、モンペリエの叛徒ども...
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8月24日、ロヴィゴにてスコットランド王の率いる叛徒4万を殲...
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ブリテン島の反乱軍はアイルランド島を荒らしまわり、戦勝点...
1457年7月8日、帝国軍がアイルランド島に上陸した。
帝国軍は叛徒を次々と破り、ヴィヴァルドは白紙和平を申し出...
1458年1月9日、シチリア王ヴィヴァルドをセルビア王ヴラステ...
皇帝は王に命じ、ヴィヴァルドを皇帝の地下牢に収監させた。
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皇帝は慈悲深い大御心により、ヴィヴァルドの王位返上ののち...
しかし、嘗ての帝国領の一部が独立していることを知ると大い...
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ジェノヴァ以外は皆どさくさで独立した諸侯である。先の叛乱...
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ヴィヴァルドの答えるに、
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この言を聞いて皇帝は不機嫌になり、詔して曰く、
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ヴィヴァルドはシチリア王位を剥奪され、斬首刑に処せられた。
彼の所領は三人の子に分配され、子孫が二度と反逆できないよ...
このほかに所領を召し上げられ、処刑されたものに"ラ・マンチ...
彼は先帝に対しても叛意を抱き、その後皇帝の即位の際に恩赦...
レオン王位は皇帝の三男ハルヴォが賜った。
他に、エストリズセン家より唯一叛乱に加わったマジャール王...
ブレートラント王ヘンリーとポルトガル王ペドロ三世、そして...
また、フランス王ルーは投獄されてほどなくして獄死した。
*[[巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467>AAR/デンマーク年代...
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