AAR/デンマーク年代記/巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416
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*巻九 ヴァルデマ聖帝 [#offa9d7a]
1409年1月23日、皇太子オトがポーランド女王ヤドヴィカと成婚...
&ref(001息子.jpg,nolink);
&ref(001嫁さん.jpg,nolink);
1409年2月1日、ポーランド王マツラウの勅使が参上し、上表し...
僭主マツレウが我がグラニスクを奪取せんと謀り、イングラン...
奴は多大な兵力をイングランド王から貰い受け、臣だけでは敵...
どうかお力をかしていただけないでしょうか。
皇帝は許可され、デンマーク王イーレク7世に征伐を命じた。
5月15日、デンマーク王イーレク7世はジャージ島に上陸するこ...
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&ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデ...
&ref(002なにこれ.jpg,nolink);
舟がないので動けないようだ
皇帝は奏上を受け入れた。
9月16日、皇帝はリトアニア領サモギティアに対する聖戦を詔さ...
&ref(003十字軍.jpg,nolink);
1410年2月5日、トラカイの戦いで帝国軍2万3千とリトアニア軍1...
3月14日、リトアニア軍は敗走した。
3月20日、ヴィリュニスにて帝国軍はリトアニア軍に追いつき、...
3月27日、異端はサモギティアから追放され、帝国領となった。
皇帝はサモフィティアに武勇の秀たデンマーク人を置いたほか...
デンマーク王イーレク7世が彼に対して仰せられるに、
&ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデ...
&ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデ...
&ref(顔オジェ.jpg,nolink); 臣の家、デラ・スカラ家は三代...
&ref(顔オジェ.jpg,nolink); その初代ヤコピノは東ゴート王...
このことを聞いたイーレクは大いに感嘆し、
&ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデ...
と仰せられ、すぐさま皇帝に奏上された。
皇帝はこのことに大いに興味を示され、オジェにゴート王位を...
&ref(004ゴート王位.jpg,nolink);
ゴトラント地方領有が条件だが、別にde jureがあるわけでは...
&ref(005ゴート王位2.jpg,nolink);
1410年7月7日、デンマーク王太子バヴォが薨去した。31歳であ...
バヴォは非嫡出子であったが、当時イーレク7世には男子がいな...
彼の薨去をもって皇帝はデンマーク王位の継承を望まれたが、
イーレク7世はバヴォの子イーレクを王太孫とし、皇帝には継承...
&ref(006バヴォ薨去.jpg,nolink);
&ref(007ブルガリア戦争.jpg,nolink);
1411年6月10日、皇帝はブルガリア王に即位された。
皇帝は即位の儀において、未だ皇威の及ばぬタルノヴォとポレ...
&ref(008ブルガリア戦争.jpg,nolink);
諸臣はすぐさま兵を集め、ブルガリアへ進発した。
8月30日、セウトポリスの戦いで最後の敵軍を破ると、タルノヴ...
9月3日、スリースヴィ公ヘンリキの子にして枢機卿、ケラク司...
生まれつき物覚えが悪く、素行にも品がなかったので皇帝は彼...
教会側からエストリズセン家を支えることを期待されたが、彼...
家柄は良かったので年を経て枢機卿にまで上ったが、その品行...
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|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''エジプト十字軍''|
|>|>|>|年月日:1412年2月9日-1412年12月25日|
|>|>|>|結果:エジプトの帝国編入|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラ...
|ノルド帝国|110000|バフリ朝     ...
|教皇庁|7000|>|-|
|トスカナ公国|7000|>|-|
|>|>|>|将軍|
|>|トルトサ伯レインベルン|>|"スルタン"アンティノス|
|>|ヤムタラント公ニクラス|>|アルニダウラ太守ハカムエ|
|>|バフリヤ伯ギゼルベルト|>|ネケル総督アガトニコス|
調べてみたらなぜかサラセン人にギリシャっぽい名前が多い。...
&ref(010十字軍.jpg,nolink);
1412年2月9日、教皇ヨハネス23世は、エジプトへの十字軍を宣...
すでにアレクサンドリア地方は帝国領であったが、未だ多くの...
ブルガリア戦争は終結していなかったが皇帝はすぐに十字軍へ...
5月6日、ポレツラウの伯コセリィが降伏し、伯領を明け渡した。
皇帝はスヴェンにヴィディン伯領を賜られた。
5月16日、宮廷長官スィスィーリェが十字軍への協力として民衆...
&ref(011十字軍.jpg,nolink);
''セヤンの戦い''
6月1日、トルトサ伯の率いる帝国軍と教皇庁の併せて2万1千の...
8月7日、今年の夏が例年に比べて冷夏であることが皇帝に奏上...
&ref(012冷夏.jpg,nolink);
8月13日、前のブルガリア王、リディヤが降伏し、ブルガリア王...
''ラ・サフォリェの戦い''
9月17日、エルサレムを荒らしていたバフリ朝2千の軍を率いる6...
''ファユームの戦い''
12月2日、トスカナ公爵と教皇庁の率いる1万4千の軍勢がサラセ...
&ref(013十字軍.jpg,nolink);
この後、帝国軍はエジプトの主要な城壁を次々と落とし、勝利...
12月25日、主の受肉の日、サラセン人はエジプトから追放され...
&ref(014十字軍.jpg,nolink);
皇帝はバフリ朝のスルタンからエジプト王位を簒奪すると、皇...
各地の伯領に武勇に秀でたるもの、著名な家系のものを封じた。
1413年1月5日、ジェノヴァ総督某が奏上し、エジプトにおける...
皇帝は関心を示され、ヴェネツィア所属の舟を出港停止に処し...
&ref(015十字軍.jpg,nolink);
1月13日、デンマーク王イーレク7世が薨御された。61歳であっ...
イーレクはヴァルデマ再興王の子で、マジャール女王アデリン...
アデリンデの崩御後、アスタと再婚され一男三女をもうけられ...
また、ウトランデ総督夫人ビルントニスの間にバヴォを設け、...
武勇を誇り、帝室一門として皇帝に代わり前線に出向くことが...
&ref(016イーレク薨去.jpg,nolink);
4月6日、イオアニアでヴェネツィア軍2千5百を破った。
&ref(017鄭和.jpg,nolink);
5月1日、アラビア海沖に、異国の巨大船が見えた。
巨大船は帝国領内に寄港し、その地の伯に謁見して、祖国の名...
彼らは帝国が千年前から彼らの祖国と交流のあった大秦国であ...
上表文と宝物を献じ、此方からの表文と宝物を受け取ると、ま...
6月27日、ストンにて帝国軍1万5千がヴェネツィア軍5千を捕捉...
のちに敵の増援3千が来たがこれをなんなく打ち破り、
皇帝御自ら前線で剣を振られ、勝利を収めた。
&ref(018十字軍.jpg,nolink);
この戦いの勝利でヴェネツィア軍は戦意を喪失し、エジプトに...
10月19日、スリースヴィの公ヘルギが薨去した。
先代の公ヘンリキの子で、ヴァルデマの弟にあたる。
11月10日、皇帝はその立ち振る舞いが公正であると諸臣から貴...
&ref(019公正.jpg,nolink);
11月11日、皇帝はアルバ王フェルガルに対し戦を宣し、王の弟...
&ref(020アルバ戦争.jpg,nolink);
12月2日、マオル=ロスにて帝国軍9千がアルバ軍9千を破った。
&ref(020アルバ戦争.jpg,nolink);
12月27日、マオル=ロスに帝国軍増援1万5千が到着し、敵を殲...
フォルティンガル司祭イォーガンを捕え、組織だった抵抗は全...
|LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c
|>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第三次ティムール戦役''|
|>|>|>|年月日:1414年3月5日-1415年9月18日|
|>|>|>|結果:-|
|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''キリスト教徒''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):'...
|ノルド帝国|114000|ティムール朝    &#...
|テッサロニキ専制侯国|6500|>|-|
|シチリア王国|22000|>|-|
|マジャール王国|16000|>|-|
|ポーランド王国|12000|>|-|
|>|>|>|将軍|
|>|トルトサ伯レインベルン|>|ダイラム"汗"バブル|
|>|ヤムタラント公ニクラス|>|アゾフ太守ブギダイ|
|>|バフリヤ伯ギゼルベルト|>|ボルガール太守クルァート|
1414年3月5日、ティムール朝のナクフがまたも国土を侵した。
&ref(顔トルトサ伯.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァル...
&ref(顔トルトサ伯.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァル...
&ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖...
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5月17日、アルバ王フェギルは戦いで敗北し、王位をデンマンに...
&ref(030第三次ティムール戦役2.jpg,nolink);
9月14日、ティムール軍が南下していたが、途中で北に引き返し...
未だノルドの軍は来ておらず、もし攻撃を受ければ各個撃破の...
10月29日、傭兵1万5千を含めたノルド軍6万7千がレヴァンティ...
''ナザレの勝利''
&ref(022第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
11月12日、ナザレに陣を構えたトルトサ伯の率いる1万4千の軍...
ティムール朝4万の軍が向かっているという知らせを受けたバフ...
ナザレに上陸を仕掛けた。
&ref(023第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
11月16日、バフリヤ伯軍はナザレに上陸し、一機に敵の倍の兵...
&ref(024第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
敵の将軍、アル=ジャズィー汗ラトロルチが無能であったこと...
12月10日には大勢は決した。
&ref(025第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
12月11日、敵将グバツを討ち取った。
&ref(026第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
ロシア顔のモンゴル人である
敵の別動隊がベルヴォイルまで迫ったが、ナザレでの敗北を受...
ナザレの戦いにおける敗残兵もベルヴォイルに向かっていたの...
皇帝は帝国軍8万をもってティムール騎射兵を殲滅する事を勅し...
''ベルヴォイルの戦い''
12月21日、ベルヴォイルに帝国軍先遣隊2万が到着した。
23日には本体も到着し、帝国軍が優勢になった。
12月29日、中央を率いていたヤムタラント公ニクラス2世が敵の...
&ref(027第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
正直割に合わない戦死
1415年1月2日、宮廷に招かれていた第三皇女アスタの婿、レオ...
途中で父の死により帝国の封臣でないレオン王となったが、そ...
1月9日、ヌビア王が王太子マルツォフィロスと第三皇女アスタ...
皇帝は許可し、マルツォフィロスを宮廷に招いた。
1月17日、マルツォフィロスがコプト正教会からカトリックに改...
&ref(031ヌビア2.jpg,nolink);
1月25日、ベルヴォイルの戦いは終わった。
この戦いでは双方多くの将官の戦死者を出した。
&ref(028第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
2月13日、ナザレに逃れたティムール軍1万を殲滅した。
&ref(029第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
4月23日、チュートン騎士団がティムールとの戦争に参加せず、...
5月21日、スリースヴィ公ヘンレクの子ヴィディン伯スヴェンに...
5月26日、教皇ヨハネス23世が664グルデンを寄進した。
9月18日、ティムールに占領されていたアンティオキアの土地を...
ティムールはその兵力を6万にまで減らし、もはや再征服は不可...
&ref(030第三次ティムール戦役.jpg,nolink);
9月20日、皇帝はたまわれた。
&ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖...
&ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖...
&ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖...
天下は大いに安らぎ家に人足りて、民は皇帝の偉大な業績を称...
11月1日、ティムール朝は諸侯をつなぎとめておくことが出来ず...
&ref(038ティムールの落日.jpg,nolink);
11月16日、ティムール朝から独立したエデッサ女伯ヨハネが皇...
&ref(039ティムールの落日.jpg,nolink);
ヨハネは皇帝に謁えて奏上し、
&ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 臣は長きにわたり異教の民に囚...
&ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 皇帝陛下の恩寵により忌々しき...
&ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 今こうしてまた御前に謁えるこ...
皇帝の答えるに、
&ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖...
&ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖...
12月2日、皇帝はティムールへの勝利とエデッサ女伯の帰順を祝...
*[[巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421>AAR/デンマーク年代記/...
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[[AAR/デンマーク年代記]]
*巻九 ヴァルデマ聖帝 [#offa9d7a]
1409年1月23日、皇太子オトがポーランド女王ヤドヴィカと成婚...
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1409年2月1日、ポーランド王マツラウの勅使が参上し、上表し...
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奴は多大な兵力をイングランド王から貰い受け、臣だけでは敵...
どうかお力をかしていただけないでしょうか。
皇帝は許可され、デンマーク王イーレク7世に征伐を命じた。
5月15日、デンマーク王イーレク7世はジャージ島に上陸するこ...
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3月27日、異端はサモギティアから追放され、帝国領となった。
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ブルガリア戦争は終結していなかったが皇帝はすぐに十字軍へ...
5月6日、ポレツラウの伯コセリィが降伏し、伯領を明け渡した。
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''セヤンの戦い''
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''ラ・サフォリェの戦い''
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皇帝はバフリ朝のスルタンからエジプト王位を簒奪すると、皇...
各地の伯領に武勇に秀でたるもの、著名な家系のものを封じた。
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皇帝は関心を示され、ヴェネツィア所属の舟を出港停止に処し...
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1月13日、デンマーク王イーレク7世が薨御された。61歳であっ...
イーレクはヴァルデマ再興王の子で、マジャール女王アデリン...
アデリンデの崩御後、アスタと再婚され一男三女をもうけられ...
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武勇を誇り、帝室一門として皇帝に代わり前線に出向くことが...
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巨大船は帝国領内に寄港し、その地の伯に謁見して、祖国の名...
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上表文と宝物を献じ、此方からの表文と宝物を受け取ると、ま...
6月27日、ストンにて帝国軍1万5千がヴェネツィア軍5千を捕捉...
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皇帝御自ら前線で剣を振られ、勝利を収めた。
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この戦いの勝利でヴェネツィア軍は戦意を喪失し、エジプトに...
10月19日、スリースヴィの公ヘルギが薨去した。
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フォルティンガル司祭イォーガンを捕え、組織だった抵抗は全...
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11月12日、ナザレに陣を構えたトルトサ伯の率いる1万4千の軍...
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ナザレに上陸を仕掛けた。
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ロシア顔のモンゴル人である
敵の別動隊がベルヴォイルまで迫ったが、ナザレでの敗北を受...
ナザレの戦いにおける敗残兵もベルヴォイルに向かっていたの...
皇帝は帝国軍8万をもってティムール騎射兵を殲滅する事を勅し...
''ベルヴォイルの戦い''
12月21日、ベルヴォイルに帝国軍先遣隊2万が到着した。
23日には本体も到着し、帝国軍が優勢になった。
12月29日、中央を率いていたヤムタラント公ニクラス2世が敵の...
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正直割に合わない戦死
1415年1月2日、宮廷に招かれていた第三皇女アスタの婿、レオ...
途中で父の死により帝国の封臣でないレオン王となったが、そ...
1月9日、ヌビア王が王太子マルツォフィロスと第三皇女アスタ...
皇帝は許可し、マルツォフィロスを宮廷に招いた。
1月17日、マルツォフィロスがコプト正教会からカトリックに改...
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1月25日、ベルヴォイルの戦いは終わった。
この戦いでは双方多くの将官の戦死者を出した。
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2月13日、ナザレに逃れたティムール軍1万を殲滅した。
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4月23日、チュートン騎士団がティムールとの戦争に参加せず、...
5月21日、スリースヴィ公ヘンレクの子ヴィディン伯スヴェンに...
5月26日、教皇ヨハネス23世が664グルデンを寄進した。
9月18日、ティムールに占領されていたアンティオキアの土地を...
ティムールはその兵力を6万にまで減らし、もはや再征服は不可...
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9月20日、皇帝はたまわれた。
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天下は大いに安らぎ家に人足りて、民は皇帝の偉大な業績を称...
11月1日、ティムール朝は諸侯をつなぎとめておくことが出来ず...
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11月16日、ティムール朝から独立したエデッサ女伯ヨハネが皇...
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ヨハネは皇帝に謁えて奏上し、
&ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 臣は長きにわたり異教の民に囚...
&ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 皇帝陛下の恩寵により忌々しき...
&ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 今こうしてまた御前に謁えるこ...
皇帝の答えるに、
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12月2日、皇帝はティムールへの勝利とエデッサ女伯の帰順を祝...
*[[巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421>AAR/デンマーク年代記/...
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