AAR/王朝序曲/フィリップ2世の治世・前半
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フィリップ2世の治世・前半
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[[AAR/王朝序曲]] *フィリップ2世の治世・前半 [#ud51237a] #ref(001_1140.jpg,nolink) アンリ2世の長男。母はプロヴァンス公アルシェンダ。 王妃セスリスはイングランドの推定相続人(弟が誕生しなければ王位を継承する立場)である。 フィリップは決して美男ではなかったが天性の社交家として知られており、その快活さが多くの王侯に愛されてきた。 神を信じてはいたがやや冷笑的なところがあり、祖父や父のように十字軍に熱を上げたりはしなかった。 その一方で荒事は苦手で馬を乗りこなすこともできなかったという。 **継承問題 [#i9a46eaa] ***プロヴァンス [#r808d0ae] プロヴァンスはかつて王国であった。 855年のロタール1世の死によって分割相続された中フランク王国の後継国家の1つである。 その後一時的に西フランク王国に組み込まれるが、879年に反乱を起こしたボゾが王位につきフランクからの独立を勝ち取る。 しかし933年にブルグント王国に併合されて消滅。ボゾの子孫(ボゾン家)はプロヴァンス公としてブルグント王に臣従する。 1032年にブルグントが神聖ローマ帝国に編入されてからはプロヴァンスは帝国の一部となっていた。 1134年にボゾン家最後の生き残りアルシェンダが死去。長男フィリップがプロヴァンスを継承した。 そして今、フィリップのフランス王位継承によりプロヴァンスはフランスに編入されることになったのである。 1140年1月29日 フィリップは弟ジェローをプロヴァンス公に、もう1人の弟マナセスをブルゴーニュ公に封じた。 新王が即位したら弟に領地を与えることがカペーの伝統である。 #ref(002_1140.jpg,nolink) プロヴァンス公ジェロー 母の遺領を次男に与えるのもカペーの伝統 #ref(003_1140.jpg,nolink) ブルゴーニュ公マナセス 第2ブルゴーニュ家の始祖 1140年3月24日 父アンリ2世の後妻ブランシュが男児を出産した。 父親はアンリ2世。つまりフィリップの末弟ということになる。 幼児はジャフルと名付けられ正式な王子として育てられることになった。 ***中世王権の限界 [#c6742a00] フィリップが当面対処すべき問題は2つあった。 1つは父王時代から継続するバレンシア首長国との戦い。 もう1つは野心的な叔父ブルターニュ公ジュリアンへの対応である。 1140年4月2日 バレンシア首長ラフが降伏。 こうして問題の1つは解決した。 #ref(004_1140.jpg,nolink) バレンシア獲得直後ののフランス領 ブルターニュ公は自らの王位獲得への支持者を集めており、放置していては反乱へと発展しかねない。 とはいえ諸侯の多くは王を支持しており、とりわけもう1人の叔父ガスコーニュ公ジェローは心強い存在であった。 しかし… #ref(005_1141.jpg,nolink) ジェロー死す 1141年8月14日 ガスコーニュ公ジェローが54歳で他界。 長女マオーがガスコーニュ公領を、次女エルマンガルドがポワトゥ公領を分割相続した。 同年9月25日にはポワトゥ女公エルマンガルドが結婚。 相手はブルターニュ公ジュリアンの嫡子ゴドフロワである。 子供が生まれればブルターニュとポワトゥが1人の公に統合されることになる。 >「何故結婚を許したんだ。近親婚じゃないのか?」 宮廷司祭長ウードを詰ったところで教皇が許可している以上どうしようもない。 フィリップは王権法の強化を目論んでいたのだが、こういう事態になったからには先送りせざるを得ない。 諸侯の反感を買うからではない。 王権を強化するという事は諸侯の領内における権限を強化する事でもあり、これまで王家の特権だった長子相続を諸侯に認める事につながりかねない。 長子相続の下で今回のような諸侯同士の婚姻が続けば、かつてのアキテーヌ公のような大諸侯を生み出すことになる。 >「王権法の改正は凍結すべきかと」 大臣キナートの意見に他の顧問も賛成する。 フィリップも同意せざるを得なかった。 ***継承法 [#b9af07c6] 古今東西、君主制を採用する国には様々な継承法があった。 例えば長子相続がある。 これは君主の長子が父親の全ての権利を相続する制度である。 長子が死去していた場合は長子の長子が継ぐ。長子の子もいない時は次子が継ぐ。 但し、女子の継承権を認めるか否か、また姉と弟でどちらを優先するかによりこの制度は細分化される。 フランス王家は男子のみに継承権を認めている。現代日本の皇位継承制度と全く同じルールである。 一方イングランドは男子優先ではあるが、男子がいない時は女子の継承権も認めている。 フィリップの王妃セスリスは男子の兄弟が全て子を残さず他界した為、王位継承者となっているのだ。 中央アジアの遊牧民族には末子相続の伝統がある。 これは遊牧民は成人したら父親から家畜や隷属民を分与され独立する為、最後に残った末子が父親の残された財産を相続する風習である。 従って父親が死んだ時点で独立していない子が複数いた時はその中の最年長者が継ぐ。(ck2では未実装) 有名なチンギス汗は長男であったが、成人前に父が死んだ為、父の権利の全てを相続したのである。 一方で一族の長老が全ての家産を管理する社会もある。 国家レベルでこの制度を導入する例は多くはないが、分権的な部族社会や都市の市民階級に広く見られる。 現代のサウジアラビアでは王位は兄弟で相続されるケースが多いがこれも年長者相続の一形態といえる。 イスラム圏では長幼の序は厳格ではなく家族と親族の呼称上の区別は存在しない。 また一夫多妻制であることも相まって継承法が明文化される事はあまりなかった。 要するに、君主が継がせたい子に継がせるのである。 勿論、君主の意図した通りに事が運ぶとは限らず、権力を巡る親族間の抗争が頻発するのもイスラム圏の特徴であった。 極端な例になるが、オスマン帝国は継承者の兄弟は野心のあるなしに関わらず全員処刑されるという非情な伝統をもっていた。 世襲によらない制度もある。 王政時代のローマや近世のポーランドのように被選挙権者を特定の家系に限定しない国もあれば、モンゴル帝国のように王家の成員から選ばれる国もある。 神聖ローマ帝国はドイツ王を選挙で選ぶ国として有名だが、選帝侯の制度が明文化されたのは1356年であり、この時代はまだ王選出の明確な基準などない。 ただ皇帝に嫡子がいれば時期皇帝として支持を集めやすい傾向がある為、ザーリアー家やツェーリンゲン家による事実上の世襲が行われている。 しかしこの時代、最も一般的だったのは分割相続である。 古くはフランク族がこの風習をもっており、その流れを受け継ぐフランスにおいても王家を除くほぼ全ての封建領主がこれを採用している。 そもそもフランスという国そのものがフランク族の分割相続によって誕生したものだ。 分割相続は代を重ねる度に領地が細分化されるという欠点があり、フランク王国の覇権が短期間で崩壊した原因も分割相続の抱える制度的欠点にあった。 ***カスティーリャ連合王国の分裂 [#i915f0d5] カスティーリャ、レオン、ガリシア、アラゴン、ナヴァラ。 イベリア北部には5つの王国がある。 1141年現在、ヒメノ家のガルシア2世がナヴァラを除く4つの王国を束ねていた。 ヒメノ家は英雄イニゴ・アリスタの系譜をひくバスク人の王朝で元来はナヴァラの王であったが、本貫のナヴァラは女系継承によりウェールズ系のモルガン家に渡っている。 1130年にはガディス家のポンセがアラゴン王に推されヒメノ家から独立した事もあったが、1137年にはガルシア2世の再征服にあい独立を失っていた。 しかしその一時的な独立期に国土の多くがフランスに侵食されており、アラゴン王位は名目上のものとなっている。 1142年7月19日 フィリップは自らが正統なアラゴン王であると宣言。 ガルシアはこれを無効であると主張したが、在地領主の半数以上がフィリップの封臣となっているのが現実であり、後世の史家はこの時をもってアラゴンの王朝が交代したとみなしている。 #ref(006_1142.jpg,nolink) アラゴン王位簒奪 1143年8月10日 そのガルシア2世が崩御。 #ref(007_1143.jpg,nolink) 暗殺されたようだ ヒメノ家の伝統に則り、長男ガルシア3世がカスティーリャとレオンを、次男ファクンドがガリシアを分割相続した。 フランク王国同様、ヒメノ家の王朝もまた代を重ねる度に分裂する宿命を負ってたのだ。 そして分割相続のわずか2週間後、レオン女公エウラリアがレオンの独立を掲げ挙兵。 カスティーリャは内乱の時代に突入した。 **異教と異端 [#lb116e25] ***トルコ人クテイ [#tcb63353] 1145年1月1日 トルコ人クテイが傭兵や流民からなる私兵団を率いてエルサレムに侵攻した。 #ref(008_1145.jpg,nolink) トルコ人クテイ ジャスク太守の四男 クテイはペルシャ湾岸のジャスクを治める太守の四男だが、その所領は狭く四男の彼が受け継ぐ土地などなかった。 己の才覚で国を切り取る道を選んだ彼は流民や馬賊、ならず者の類を糾合しわずか2年で一大軍勢を築き上げ、永遠の聖地エルサレムを征服すべく決起したのだ。 クテイの軍勢は2万を超え、現地の兵力だけで聖地を守る事は不可能だった。 >「聖地はならず者どもに包囲され善良なキリスト教徒が危険に晒されております」 聖地の総督を務めるアスカロン公アルバルから急使を受けたフィリップは4万の軍勢を率い現地に向かった。 相手は異教徒のならず者である。町や村は焼かれ住民は略奪や虐殺の危機にさらされている… しかし現地についてみると事情は全く異なっていた。 クテイに制圧されていた町や村はどこにも略奪・虐殺の痕跡がなく住民はこれまで通りの生活を続けている。 >「クテイの軍は軍律が厳しく、市民への乱暴狼藉は死罪になるとか」 元帥アンドレの報告に感銘を受けたのか、フィリップはクテイという男に強い興味をもった。 並みの男ではあるまい… しかしパレスチナを席巻したクテイの軍勢も4万のフランス軍を前にはなすすべもなく、各地で連敗を重ねていく。 #ref(009_1145.jpg,nolink) アデロンの戦い この戦いでクテイの軍勢はほぼ壊滅した 1146年1月22日 クテイはフィリップ2世の前に出頭。兵士の命と引き換えに降伏を願い出た。 #ref(010_1146.jpg,nolink) 第二のセルジュークにはなれなかった >「改宗して余に仕える気はないか?」 フィリップの提案にその場にいた誰もが驚いたが、一番驚いたのはクテイだったろう。 >「アッラーの他に神はなし。イーサー(イエス)の教えに帰依するつもりはありませぬ」 >「コーランではユダヤの神もアッラーも同じ唯一の神だと説いているそうじゃないか」 >「しかしキリスト教徒の説く三位一体説は認めておりません。神が受肉するなどありえない事です」 >「ありえない事が出来るから神じゃないか」 >「神がそのような事をされる合理的理由がありません」 >「真意は神のみぞ知る、だ」 >「そんな詭弁を…」 初めは頑なだったクテイも次第にフィリップの人間的魅力(外交29!)に惹かれていく。 クテイは改宗を決意し、その夜のうちに洗礼を受け敬虔なキリスト教徒としてフィリップに近侍するようになった。 ***ノルウェー人スヴェイン [#sa4981d0] そのころパリの宮廷にある噂が持ち上がっていた。 密偵長スヴェインが異端の教えに染まっている、というのだ。 スヴェインは祖父フィリップ1世の時代から密偵長として王家を支え続けてきた悪魔的に頭の切れる男である。 父アンリ2世とは王弟ジュリアンの処遇やイングランド継承問題などで対立してきた過去もある。 #ref(011_1146.jpg,nolink) 密偵長スヴェイン カタリ派に染まったうえ悪魔憑きの特性までついている… 1146年4月7日 フィリップはスヴェインを私室に招いた。 彼は父と同い年のこのノルウェー人を尊敬していた。 >「率直に問うが、宮中の噂は真か?」 スヴェインはしばしの沈黙のあと「然り」とだけ答えた。 >「教会に腐敗した聖職者がいることは確かだし批判する気持ちもわかる。だが異端は行きすぎだ」 >「正統か異端かは神が決めること。教会の言い分は人間の驕り以外の何者でもありませぬ」 >「王として教会の認定した異端を許すことはできんのだ。カトリックに復帰してくれんか?」 >「王といえども魂まで支配する事はできませぬ」 >「神は唯一にして全能。正統だの異端だのは解釈の違いでしかなかろう。ならばカタリの形に拘る必要などあるまい」 >「陛下は神を理解しておられない。解釈こそが最も肝要なのです。解釈などどうでもよいとなれば偶像を崇める蛮族の教えと変わりませぬ」 >「解釈の違いで争うなんて馬鹿げている」 >「私の考えは変わりません。どうか私をお裁きください」 >「余はお前を救いたいのだ」 >「陛下、お裁きを!」 同日、スヴェインは密偵長の職を解かれ投獄された。 フィリップはその後も説得を続けたがスヴェインが改宗に応じる事は最後までなかった。 2年後、スヴェインは敬虔なカタリ派として67年の生涯をとじた。 **大臣キナートの死 [#u7a49579] 1146年2月24日 カスティーリャ・レオン王ガルシア3世が急逝し、一人息子のガルシア4世が2つの王国を継承した。 1146年6月3日 次男アンリが誕生。将来のアキテーヌ公である。 1147年8月1日 カステリョンで大規模な農民反乱が起こった。 在地のフランス人領主の圧政に耐えかねての事であるが、現地はムスリムが多数を占めており宗教闘争としての側面もあった。 フィリップ2世の時代、特にその後半は頻発する農民反乱に悩まされる事になるが、これはその最初の事例である。 #ref(012_1147.jpg,nolink) まつろわぬ異教徒ども 1149年12月10日 フィリップは大臣キナートを家老に任じた。 キナートはフィリップ1世の家令ライアンの嫡子でフィリップ1世晩年から3代の王に大臣として仕え顧問団を率いてきた功臣である。 同時に元帥アンドレを主馬頭に、家令ジェローを執事長に任じている。 父王時代からの長年の功に報いたものだが… #ref(013_1150.jpg,nolink) キナート死す 1150年9月12日 大臣キナートが59歳で死去。 後任の大臣に選ばれたのはトルコ人のクテイである。 クテイはキナートが携わっていたイベリア各地への要求権捏造を引き継ぐ事になった。 1151年1月7日 王太子ルイとトスカナ公女アデリンデの婚約が成立した。 トスカナ公には男子がなく、このままいけば北イタリアの広大な所領がフランス王家のものになる。 長男の結婚相手は王侯の女相続人から選ぶのもカペーの伝統である。 1152年2月4日 王太子ルイが大臣に就任した。 前大臣クテイはフィリップの私的顧問として主にオリエントの情報収集に携わることになった。 彼は直接現地に赴きかつての仲間から情報を集め、王に報告書を提出した。 **クテイの報告 [#td204d9e] 隆盛を誇ったセルジューク朝は宮廷の腐敗とそれによる政治的混迷の中にあった。 1117年にマリク・シャーからスルタン位を奪ったウスマン1世は君主号をペルシャ風のシャーに改め、宮廷の風習も刷新しようと試みた。 しかしトルコの現実と乖離したウスマンのペルシャ的専制支配は一族の離反を招く。 1135年、トルコの君侯たちはウスマンの従兄弟にあたるトリポリ太守バトゥレイを担ぎ挙兵、ウスマンは廃位されバトゥレイがスルタンとなる。 宮廷からペルシャ色は一掃されたがこれにより王朝の退廃が食い止められる事はなかった。 1140年にバトゥレイが崩御するとまたもやスルタン位を巡る内乱が勃発。 従兄弟のアルプ・アルスラーン2世が勝利しスルタンに即位した。 スルタンとなったアルスラーンは失墜した権威の回復につとめビザンティンやヒヴァへの外征を繰り返す。 しかし1151年8月5日、ホラズム君侯デュンダルとの戦いに破れスルタン自身が捕虜になるという大失態をおかしてしまう。 アルスラーンは翌年獄死し、孫のソグメンがスルタンとして即位した。 しかし新スルタンは僅か10歳であり、内憂外患を多く抱えるセルジューク朝は統治能力を喪失しつつあった。 >「エルサレム王国の版図を広げる好機かと存じますが」 >「いや、やめておこう。オリエントは遠すぎる。聖地だけで十分だ」 フィリップは現実主義者である。 聖地の維持だけでも大変なのにこれ以上リスク要因を拡げるつもりなど毛頭なかった。 クテイはその後もオリエントで活動を続け中東情勢について多くの報告書を送り続ける。 しかし3年後の1155年8月4日。肺炎にかかりわずか31歳で急逝した。 **グラナダ [#p96d99f7] このころアンダルシア南端のグラナダはバルセロナ家の男系が絶え、女系を介してヒメノ家傍流のボソンが公位にあった。 バルセロナ家は傍流のコンスタンサが健在であったが、今は一介の女男爵でしかない。 1151年6月27日 フィリップはアンダルシア王としての慣習的権利に基づきグラナダ伯領を要求。 瞬く間に制圧し伯領を剥奪した。 2年後の1153年8月7日には自らが正統なグラナダ公であると宣言。公位を簒奪した。 #ref(014_1153.jpg,nolink) 念願のグラナダを確保 同日、フィリップはバルセロナ家のコンスタンサをグラナダ公に叙し、また前グラナダ公であるマラガ伯ボゾンを臣従させコンスタンサの封臣とした。 **世代交代 [#n9e02234] 1152年12月12日 王弟プロヴァンス公ジェローが40歳で死去。 長女ベノワトが公領を継承した。 1153年3月12日には家令ジェローが死去。 後任の家令にはノルマンディー公ヴァルランが選ばれた。 かつて父アンリ2世に反旗を翻した野心家だが、宮廷に取り込むことで動きを縛る目的もあった。 12世紀のヨーロッパは人口増加と経済成長の時代であり、辺境が開拓され新しい都市も次々と勃興する時代であった。 フランスも例外ではなく、フィリップはその治世下に多くの城塞、都市、教会を建設した。 尤も、いかに国が豊かになり税収が増えたといっても、それだけで城塞の建築費が賄われたわけではない。 フィリップが利用したのは捕虜の身代金だった。 王は戦争捕虜や陰謀を目論んだ廉で投獄した諸侯たちから身代金をとることでインフラ整備の財源にしていたのである。 都市や教会はその土地の有力者に委ねられたが、城塞はもっぱら顧問への知行に充てられた。 フランスでは顧問を10年勤めれば男爵になれる。 その噂は各地に広がり立身を夢見る多くの才能がパリにやってくるようになった。 ドイツ人ワルテールもそんな1人である。 ワルテールはニュルンベルグ伯ヘルマンの私生児であったが、醜聞を恐れた父からは認知されること無く庶民として育った。 しかしその逆境で身につけた処世術は彼を有能な外交家に成長させていた。 #ref(015_1153.jpg,nolink) 私生児ワルテール 人物検索で能力の高い人物を見つけて引き抜くのが楽しい 1153年1月16日 フィリップはワルテールをパリに招聘し大臣に任命した。 大臣の任を解かれた王太子ルイはボルドー伯に叙され領国経営の経験を積むべく任地に旅立っていった。 1153年9月10日 イングランド王エドゥアルト3世が崩御。 長女セスリスが王位を継承した。 #ref(016_1153.jpg,nolink) イングランド女王セスリス フランス王妃でもある これによりフランス王太子ルイは同時にイングランドの王太子となった。 1153年12月23日 カスティーリャ・レオン王ガルシア4世は同族のマンリコを正統なナヴァラ王として擁立。 モルガン家に奪われていた一族の故地を奪還すべくナヴァラ王国に宣戦を布告した。 #ref(017_1153.jpg,nolink) ナヴァラ継承戦争勃発 戦いは一方的に推移し、翌年8月15日にはナヴァラ王は降伏。 ヒメノ家のマンリコがナヴァラの王位に就いた。 **帝国来襲 [#t84f4598] フランドル東端の都市ヘントはケルト語で「川の合流地帯」を意味する。 フランス語でガンとも呼ばれるこの町はシャルルマーニュの側近アインハルトにも縁の深い古都である。 代々フランドル公の領地であったが、1074年にフランドル公が追放されて以来王家の直轄領となっていた。 しかしフランドルは伝統的に帝国の領域とみなされており、仏独はその領有を巡って昔から紛争を繰り返してきた。 ここ100年ほどは十字軍や聖戦で共闘するなど仏独関係は比較的良好であり、またフィリップの妹サラジーヌと皇帝の弟ジークフリートの結婚によって同盟関係にもあった。 フィリップもそのドイツが牙を剥いてくることは予想していなかったに違いない。 1154年1月29日 神聖ローマ皇帝ヘルマン1世はヘントの領有権を主張、フランスに宣戦を布告した。 #ref(018_1154.jpg,nolink) 裏切り者に皇帝の資格なし パリの宮廷は大混乱に陥った。 フランスはフィリップ1世以来の拡大政策で強大化したとはいえ、それでも帝国には遠く及ばない。 廷臣の中にはヘント放棄を口にする者もいた。 家令ヴァルランや密偵長ウルタルがその筆頭である。 しかし大臣ワルテールは降伏案を一蹴した。 >「ヘントを放棄すれば次はブリュッヘ、イベレンと要求してくるでしょう。また弱みを見せれば諸侯の離反も招きかねません」 ノルマンディー公でもある家令ヴァルランを牽制したものだ。 >「しかし勝てるのか?」 元帥の代わりに王の質問に答えたのは宮廷司祭長ウードである。 >「聖ドニがお守りくださるでしょう」 聖ドニことパリのディオニュシウスはフランスの守護聖人である。 3世紀に実在したとされる聖人で、異教徒に首を刎ねられた後も己の首を持って説教して歩いたという伝説を持つ。 その聖ドニの遺体が葬られたのがサン・ドニ修道院であり歴代フランス王の菩提寺となっている。 フィリップは甲冑をまといサン・ドニ修道院に向かうと祭壇の軍旗を手に取り、門前で待つ騎士たちの前で高く掲げた。 「モンジョワ・聖ドニ!」 フィリップの発した鯨波の声に元帥アンドレが呼応し、それはたちまち騎士たちに波及していった。 フィリップは武芸を苦手としており馬にも乗れなかったが、人の心を掴む術をよく知っていたのだ。 同日、フィリップは王国全土に動員令を発し、また王妃が治めるイングランドにも援軍を要請した。 #ref(019_1154.jpg,nolink) フランス・イングランド連合軍vs神聖ローマ帝国 戦下手の王に代わり軍略全般を担ったのは元帥アンドレである。 国力で劣るフランスが勝利するには短期決戦しかない。 分散する帝国軍を仏英両軍で襲い野戦で壊滅させるのだ。 #ref(020_1155.jpg,nolink) 帝国軍を包囲殲滅する仏英連合軍 戦線はプロヴァンス方面やブルゴーニュ方面にも展開していたが、その主戦場となったのはブラバントである。 イングランドの加勢もあってフランス騎士は各地で帝国軍を撃退していった。 #ref(021_1155.jpg,nolink) ルーヴェンの戦い 1155年4月4日に行われたルーヴェンの戦いでは帝国側は上ブルゴーニュ公ステファンが戦死するなど壊滅的な敗北を喫する。 同年5月には大規模な農民反乱も起こり帝国は外征どころではなくなっていた。 #ref(022_1155.jpg,nolink) すでに大勢は決している 1155年7月6日 皇帝ヘルマンが降伏。 1年半続いたヘント防衛戦争はフランス・イングランド連合の勝利に終わった。 #ref(023_1155.jpg,nolink) 賠償金556Gは安すぎる この戦いの後、神聖ローマ帝国は内乱の時代に突入することになる。 フィリップ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/フィリップ2世の治世・後半]]
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[[AAR/王朝序曲]] *フィリップ2世の治世・前半 [#ud51237a] #ref(001_1140.jpg,nolink) アンリ2世の長男。母はプロヴァンス公アルシェンダ。 王妃セスリスはイングランドの推定相続人(弟が誕生しなければ王位を継承する立場)である。 フィリップは決して美男ではなかったが天性の社交家として知られており、その快活さが多くの王侯に愛されてきた。 神を信じてはいたがやや冷笑的なところがあり、祖父や父のように十字軍に熱を上げたりはしなかった。 その一方で荒事は苦手で馬を乗りこなすこともできなかったという。 **継承問題 [#i9a46eaa] ***プロヴァンス [#r808d0ae] プロヴァンスはかつて王国であった。 855年のロタール1世の死によって分割相続された中フランク王国の後継国家の1つである。 その後一時的に西フランク王国に組み込まれるが、879年に反乱を起こしたボゾが王位につきフランクからの独立を勝ち取る。 しかし933年にブルグント王国に併合されて消滅。ボゾの子孫(ボゾン家)はプロヴァンス公としてブルグント王に臣従する。 1032年にブルグントが神聖ローマ帝国に編入されてからはプロヴァンスは帝国の一部となっていた。 1134年にボゾン家最後の生き残りアルシェンダが死去。長男フィリップがプロヴァンスを継承した。 そして今、フィリップのフランス王位継承によりプロヴァンスはフランスに編入されることになったのである。 1140年1月29日 フィリップは弟ジェローをプロヴァンス公に、もう1人の弟マナセスをブルゴーニュ公に封じた。 新王が即位したら弟に領地を与えることがカペーの伝統である。 #ref(002_1140.jpg,nolink) プロヴァンス公ジェロー 母の遺領を次男に与えるのもカペーの伝統 #ref(003_1140.jpg,nolink) ブルゴーニュ公マナセス 第2ブルゴーニュ家の始祖 1140年3月24日 父アンリ2世の後妻ブランシュが男児を出産した。 父親はアンリ2世。つまりフィリップの末弟ということになる。 幼児はジャフルと名付けられ正式な王子として育てられることになった。 ***中世王権の限界 [#c6742a00] フィリップが当面対処すべき問題は2つあった。 1つは父王時代から継続するバレンシア首長国との戦い。 もう1つは野心的な叔父ブルターニュ公ジュリアンへの対応である。 1140年4月2日 バレンシア首長ラフが降伏。 こうして問題の1つは解決した。 #ref(004_1140.jpg,nolink) バレンシア獲得直後ののフランス領 ブルターニュ公は自らの王位獲得への支持者を集めており、放置していては反乱へと発展しかねない。 とはいえ諸侯の多くは王を支持しており、とりわけもう1人の叔父ガスコーニュ公ジェローは心強い存在であった。 しかし… #ref(005_1141.jpg,nolink) ジェロー死す 1141年8月14日 ガスコーニュ公ジェローが54歳で他界。 長女マオーがガスコーニュ公領を、次女エルマンガルドがポワトゥ公領を分割相続した。 同年9月25日にはポワトゥ女公エルマンガルドが結婚。 相手はブルターニュ公ジュリアンの嫡子ゴドフロワである。 子供が生まれればブルターニュとポワトゥが1人の公に統合されることになる。 >「何故結婚を許したんだ。近親婚じゃないのか?」 宮廷司祭長ウードを詰ったところで教皇が許可している以上どうしようもない。 フィリップは王権法の強化を目論んでいたのだが、こういう事態になったからには先送りせざるを得ない。 諸侯の反感を買うからではない。 王権を強化するという事は諸侯の領内における権限を強化する事でもあり、これまで王家の特権だった長子相続を諸侯に認める事につながりかねない。 長子相続の下で今回のような諸侯同士の婚姻が続けば、かつてのアキテーヌ公のような大諸侯を生み出すことになる。 >「王権法の改正は凍結すべきかと」 大臣キナートの意見に他の顧問も賛成する。 フィリップも同意せざるを得なかった。 ***継承法 [#b9af07c6] 古今東西、君主制を採用する国には様々な継承法があった。 例えば長子相続がある。 これは君主の長子が父親の全ての権利を相続する制度である。 長子が死去していた場合は長子の長子が継ぐ。長子の子もいない時は次子が継ぐ。 但し、女子の継承権を認めるか否か、また姉と弟でどちらを優先するかによりこの制度は細分化される。 フランス王家は男子のみに継承権を認めている。現代日本の皇位継承制度と全く同じルールである。 一方イングランドは男子優先ではあるが、男子がいない時は女子の継承権も認めている。 フィリップの王妃セスリスは男子の兄弟が全て子を残さず他界した為、王位継承者となっているのだ。 中央アジアの遊牧民族には末子相続の伝統がある。 これは遊牧民は成人したら父親から家畜や隷属民を分与され独立する為、最後に残った末子が父親の残された財産を相続する風習である。 従って父親が死んだ時点で独立していない子が複数いた時はその中の最年長者が継ぐ。(ck2では未実装) 有名なチンギス汗は長男であったが、成人前に父が死んだ為、父の権利の全てを相続したのである。 一方で一族の長老が全ての家産を管理する社会もある。 国家レベルでこの制度を導入する例は多くはないが、分権的な部族社会や都市の市民階級に広く見られる。 現代のサウジアラビアでは王位は兄弟で相続されるケースが多いがこれも年長者相続の一形態といえる。 イスラム圏では長幼の序は厳格ではなく家族と親族の呼称上の区別は存在しない。 また一夫多妻制であることも相まって継承法が明文化される事はあまりなかった。 要するに、君主が継がせたい子に継がせるのである。 勿論、君主の意図した通りに事が運ぶとは限らず、権力を巡る親族間の抗争が頻発するのもイスラム圏の特徴であった。 極端な例になるが、オスマン帝国は継承者の兄弟は野心のあるなしに関わらず全員処刑されるという非情な伝統をもっていた。 世襲によらない制度もある。 王政時代のローマや近世のポーランドのように被選挙権者を特定の家系に限定しない国もあれば、モンゴル帝国のように王家の成員から選ばれる国もある。 神聖ローマ帝国はドイツ王を選挙で選ぶ国として有名だが、選帝侯の制度が明文化されたのは1356年であり、この時代はまだ王選出の明確な基準などない。 ただ皇帝に嫡子がいれば時期皇帝として支持を集めやすい傾向がある為、ザーリアー家やツェーリンゲン家による事実上の世襲が行われている。 しかしこの時代、最も一般的だったのは分割相続である。 古くはフランク族がこの風習をもっており、その流れを受け継ぐフランスにおいても王家を除くほぼ全ての封建領主がこれを採用している。 そもそもフランスという国そのものがフランク族の分割相続によって誕生したものだ。 分割相続は代を重ねる度に領地が細分化されるという欠点があり、フランク王国の覇権が短期間で崩壊した原因も分割相続の抱える制度的欠点にあった。 ***カスティーリャ連合王国の分裂 [#i915f0d5] カスティーリャ、レオン、ガリシア、アラゴン、ナヴァラ。 イベリア北部には5つの王国がある。 1141年現在、ヒメノ家のガルシア2世がナヴァラを除く4つの王国を束ねていた。 ヒメノ家は英雄イニゴ・アリスタの系譜をひくバスク人の王朝で元来はナヴァラの王であったが、本貫のナヴァラは女系継承によりウェールズ系のモルガン家に渡っている。 1130年にはガディス家のポンセがアラゴン王に推されヒメノ家から独立した事もあったが、1137年にはガルシア2世の再征服にあい独立を失っていた。 しかしその一時的な独立期に国土の多くがフランスに侵食されており、アラゴン王位は名目上のものとなっている。 1142年7月19日 フィリップは自らが正統なアラゴン王であると宣言。 ガルシアはこれを無効であると主張したが、在地領主の半数以上がフィリップの封臣となっているのが現実であり、後世の史家はこの時をもってアラゴンの王朝が交代したとみなしている。 #ref(006_1142.jpg,nolink) アラゴン王位簒奪 1143年8月10日 そのガルシア2世が崩御。 #ref(007_1143.jpg,nolink) 暗殺されたようだ ヒメノ家の伝統に則り、長男ガルシア3世がカスティーリャとレオンを、次男ファクンドがガリシアを分割相続した。 フランク王国同様、ヒメノ家の王朝もまた代を重ねる度に分裂する宿命を負ってたのだ。 そして分割相続のわずか2週間後、レオン女公エウラリアがレオンの独立を掲げ挙兵。 カスティーリャは内乱の時代に突入した。 **異教と異端 [#lb116e25] ***トルコ人クテイ [#tcb63353] 1145年1月1日 トルコ人クテイが傭兵や流民からなる私兵団を率いてエルサレムに侵攻した。 #ref(008_1145.jpg,nolink) トルコ人クテイ ジャスク太守の四男 クテイはペルシャ湾岸のジャスクを治める太守の四男だが、その所領は狭く四男の彼が受け継ぐ土地などなかった。 己の才覚で国を切り取る道を選んだ彼は流民や馬賊、ならず者の類を糾合しわずか2年で一大軍勢を築き上げ、永遠の聖地エルサレムを征服すべく決起したのだ。 クテイの軍勢は2万を超え、現地の兵力だけで聖地を守る事は不可能だった。 >「聖地はならず者どもに包囲され善良なキリスト教徒が危険に晒されております」 聖地の総督を務めるアスカロン公アルバルから急使を受けたフィリップは4万の軍勢を率い現地に向かった。 相手は異教徒のならず者である。町や村は焼かれ住民は略奪や虐殺の危機にさらされている… しかし現地についてみると事情は全く異なっていた。 クテイに制圧されていた町や村はどこにも略奪・虐殺の痕跡がなく住民はこれまで通りの生活を続けている。 >「クテイの軍は軍律が厳しく、市民への乱暴狼藉は死罪になるとか」 元帥アンドレの報告に感銘を受けたのか、フィリップはクテイという男に強い興味をもった。 並みの男ではあるまい… しかしパレスチナを席巻したクテイの軍勢も4万のフランス軍を前にはなすすべもなく、各地で連敗を重ねていく。 #ref(009_1145.jpg,nolink) アデロンの戦い この戦いでクテイの軍勢はほぼ壊滅した 1146年1月22日 クテイはフィリップ2世の前に出頭。兵士の命と引き換えに降伏を願い出た。 #ref(010_1146.jpg,nolink) 第二のセルジュークにはなれなかった >「改宗して余に仕える気はないか?」 フィリップの提案にその場にいた誰もが驚いたが、一番驚いたのはクテイだったろう。 >「アッラーの他に神はなし。イーサー(イエス)の教えに帰依するつもりはありませぬ」 >「コーランではユダヤの神もアッラーも同じ唯一の神だと説いているそうじゃないか」 >「しかしキリスト教徒の説く三位一体説は認めておりません。神が受肉するなどありえない事です」 >「ありえない事が出来るから神じゃないか」 >「神がそのような事をされる合理的理由がありません」 >「真意は神のみぞ知る、だ」 >「そんな詭弁を…」 初めは頑なだったクテイも次第にフィリップの人間的魅力(外交29!)に惹かれていく。 クテイは改宗を決意し、その夜のうちに洗礼を受け敬虔なキリスト教徒としてフィリップに近侍するようになった。 ***ノルウェー人スヴェイン [#sa4981d0] そのころパリの宮廷にある噂が持ち上がっていた。 密偵長スヴェインが異端の教えに染まっている、というのだ。 スヴェインは祖父フィリップ1世の時代から密偵長として王家を支え続けてきた悪魔的に頭の切れる男である。 父アンリ2世とは王弟ジュリアンの処遇やイングランド継承問題などで対立してきた過去もある。 #ref(011_1146.jpg,nolink) 密偵長スヴェイン カタリ派に染まったうえ悪魔憑きの特性までついている… 1146年4月7日 フィリップはスヴェインを私室に招いた。 彼は父と同い年のこのノルウェー人を尊敬していた。 >「率直に問うが、宮中の噂は真か?」 スヴェインはしばしの沈黙のあと「然り」とだけ答えた。 >「教会に腐敗した聖職者がいることは確かだし批判する気持ちもわかる。だが異端は行きすぎだ」 >「正統か異端かは神が決めること。教会の言い分は人間の驕り以外の何者でもありませぬ」 >「王として教会の認定した異端を許すことはできんのだ。カトリックに復帰してくれんか?」 >「王といえども魂まで支配する事はできませぬ」 >「神は唯一にして全能。正統だの異端だのは解釈の違いでしかなかろう。ならばカタリの形に拘る必要などあるまい」 >「陛下は神を理解しておられない。解釈こそが最も肝要なのです。解釈などどうでもよいとなれば偶像を崇める蛮族の教えと変わりませぬ」 >「解釈の違いで争うなんて馬鹿げている」 >「私の考えは変わりません。どうか私をお裁きください」 >「余はお前を救いたいのだ」 >「陛下、お裁きを!」 同日、スヴェインは密偵長の職を解かれ投獄された。 フィリップはその後も説得を続けたがスヴェインが改宗に応じる事は最後までなかった。 2年後、スヴェインは敬虔なカタリ派として67年の生涯をとじた。 **大臣キナートの死 [#u7a49579] 1146年2月24日 カスティーリャ・レオン王ガルシア3世が急逝し、一人息子のガルシア4世が2つの王国を継承した。 1146年6月3日 次男アンリが誕生。将来のアキテーヌ公である。 1147年8月1日 カステリョンで大規模な農民反乱が起こった。 在地のフランス人領主の圧政に耐えかねての事であるが、現地はムスリムが多数を占めており宗教闘争としての側面もあった。 フィリップ2世の時代、特にその後半は頻発する農民反乱に悩まされる事になるが、これはその最初の事例である。 #ref(012_1147.jpg,nolink) まつろわぬ異教徒ども 1149年12月10日 フィリップは大臣キナートを家老に任じた。 キナートはフィリップ1世の家令ライアンの嫡子でフィリップ1世晩年から3代の王に大臣として仕え顧問団を率いてきた功臣である。 同時に元帥アンドレを主馬頭に、家令ジェローを執事長に任じている。 父王時代からの長年の功に報いたものだが… #ref(013_1150.jpg,nolink) キナート死す 1150年9月12日 大臣キナートが59歳で死去。 後任の大臣に選ばれたのはトルコ人のクテイである。 クテイはキナートが携わっていたイベリア各地への要求権捏造を引き継ぐ事になった。 1151年1月7日 王太子ルイとトスカナ公女アデリンデの婚約が成立した。 トスカナ公には男子がなく、このままいけば北イタリアの広大な所領がフランス王家のものになる。 長男の結婚相手は王侯の女相続人から選ぶのもカペーの伝統である。 1152年2月4日 王太子ルイが大臣に就任した。 前大臣クテイはフィリップの私的顧問として主にオリエントの情報収集に携わることになった。 彼は直接現地に赴きかつての仲間から情報を集め、王に報告書を提出した。 **クテイの報告 [#td204d9e] 隆盛を誇ったセルジューク朝は宮廷の腐敗とそれによる政治的混迷の中にあった。 1117年にマリク・シャーからスルタン位を奪ったウスマン1世は君主号をペルシャ風のシャーに改め、宮廷の風習も刷新しようと試みた。 しかしトルコの現実と乖離したウスマンのペルシャ的専制支配は一族の離反を招く。 1135年、トルコの君侯たちはウスマンの従兄弟にあたるトリポリ太守バトゥレイを担ぎ挙兵、ウスマンは廃位されバトゥレイがスルタンとなる。 宮廷からペルシャ色は一掃されたがこれにより王朝の退廃が食い止められる事はなかった。 1140年にバトゥレイが崩御するとまたもやスルタン位を巡る内乱が勃発。 従兄弟のアルプ・アルスラーン2世が勝利しスルタンに即位した。 スルタンとなったアルスラーンは失墜した権威の回復につとめビザンティンやヒヴァへの外征を繰り返す。 しかし1151年8月5日、ホラズム君侯デュンダルとの戦いに破れスルタン自身が捕虜になるという大失態をおかしてしまう。 アルスラーンは翌年獄死し、孫のソグメンがスルタンとして即位した。 しかし新スルタンは僅か10歳であり、内憂外患を多く抱えるセルジューク朝は統治能力を喪失しつつあった。 >「エルサレム王国の版図を広げる好機かと存じますが」 >「いや、やめておこう。オリエントは遠すぎる。聖地だけで十分だ」 フィリップは現実主義者である。 聖地の維持だけでも大変なのにこれ以上リスク要因を拡げるつもりなど毛頭なかった。 クテイはその後もオリエントで活動を続け中東情勢について多くの報告書を送り続ける。 しかし3年後の1155年8月4日。肺炎にかかりわずか31歳で急逝した。 **グラナダ [#p96d99f7] このころアンダルシア南端のグラナダはバルセロナ家の男系が絶え、女系を介してヒメノ家傍流のボソンが公位にあった。 バルセロナ家は傍流のコンスタンサが健在であったが、今は一介の女男爵でしかない。 1151年6月27日 フィリップはアンダルシア王としての慣習的権利に基づきグラナダ伯領を要求。 瞬く間に制圧し伯領を剥奪した。 2年後の1153年8月7日には自らが正統なグラナダ公であると宣言。公位を簒奪した。 #ref(014_1153.jpg,nolink) 念願のグラナダを確保 同日、フィリップはバルセロナ家のコンスタンサをグラナダ公に叙し、また前グラナダ公であるマラガ伯ボゾンを臣従させコンスタンサの封臣とした。 **世代交代 [#n9e02234] 1152年12月12日 王弟プロヴァンス公ジェローが40歳で死去。 長女ベノワトが公領を継承した。 1153年3月12日には家令ジェローが死去。 後任の家令にはノルマンディー公ヴァルランが選ばれた。 かつて父アンリ2世に反旗を翻した野心家だが、宮廷に取り込むことで動きを縛る目的もあった。 12世紀のヨーロッパは人口増加と経済成長の時代であり、辺境が開拓され新しい都市も次々と勃興する時代であった。 フランスも例外ではなく、フィリップはその治世下に多くの城塞、都市、教会を建設した。 尤も、いかに国が豊かになり税収が増えたといっても、それだけで城塞の建築費が賄われたわけではない。 フィリップが利用したのは捕虜の身代金だった。 王は戦争捕虜や陰謀を目論んだ廉で投獄した諸侯たちから身代金をとることでインフラ整備の財源にしていたのである。 都市や教会はその土地の有力者に委ねられたが、城塞はもっぱら顧問への知行に充てられた。 フランスでは顧問を10年勤めれば男爵になれる。 その噂は各地に広がり立身を夢見る多くの才能がパリにやってくるようになった。 ドイツ人ワルテールもそんな1人である。 ワルテールはニュルンベルグ伯ヘルマンの私生児であったが、醜聞を恐れた父からは認知されること無く庶民として育った。 しかしその逆境で身につけた処世術は彼を有能な外交家に成長させていた。 #ref(015_1153.jpg,nolink) 私生児ワルテール 人物検索で能力の高い人物を見つけて引き抜くのが楽しい 1153年1月16日 フィリップはワルテールをパリに招聘し大臣に任命した。 大臣の任を解かれた王太子ルイはボルドー伯に叙され領国経営の経験を積むべく任地に旅立っていった。 1153年9月10日 イングランド王エドゥアルト3世が崩御。 長女セスリスが王位を継承した。 #ref(016_1153.jpg,nolink) イングランド女王セスリス フランス王妃でもある これによりフランス王太子ルイは同時にイングランドの王太子となった。 1153年12月23日 カスティーリャ・レオン王ガルシア4世は同族のマンリコを正統なナヴァラ王として擁立。 モルガン家に奪われていた一族の故地を奪還すべくナヴァラ王国に宣戦を布告した。 #ref(017_1153.jpg,nolink) ナヴァラ継承戦争勃発 戦いは一方的に推移し、翌年8月15日にはナヴァラ王は降伏。 ヒメノ家のマンリコがナヴァラの王位に就いた。 **帝国来襲 [#t84f4598] フランドル東端の都市ヘントはケルト語で「川の合流地帯」を意味する。 フランス語でガンとも呼ばれるこの町はシャルルマーニュの側近アインハルトにも縁の深い古都である。 代々フランドル公の領地であったが、1074年にフランドル公が追放されて以来王家の直轄領となっていた。 しかしフランドルは伝統的に帝国の領域とみなされており、仏独はその領有を巡って昔から紛争を繰り返してきた。 ここ100年ほどは十字軍や聖戦で共闘するなど仏独関係は比較的良好であり、またフィリップの妹サラジーヌと皇帝の弟ジークフリートの結婚によって同盟関係にもあった。 フィリップもそのドイツが牙を剥いてくることは予想していなかったに違いない。 1154年1月29日 神聖ローマ皇帝ヘルマン1世はヘントの領有権を主張、フランスに宣戦を布告した。 #ref(018_1154.jpg,nolink) 裏切り者に皇帝の資格なし パリの宮廷は大混乱に陥った。 フランスはフィリップ1世以来の拡大政策で強大化したとはいえ、それでも帝国には遠く及ばない。 廷臣の中にはヘント放棄を口にする者もいた。 家令ヴァルランや密偵長ウルタルがその筆頭である。 しかし大臣ワルテールは降伏案を一蹴した。 >「ヘントを放棄すれば次はブリュッヘ、イベレンと要求してくるでしょう。また弱みを見せれば諸侯の離反も招きかねません」 ノルマンディー公でもある家令ヴァルランを牽制したものだ。 >「しかし勝てるのか?」 元帥の代わりに王の質問に答えたのは宮廷司祭長ウードである。 >「聖ドニがお守りくださるでしょう」 聖ドニことパリのディオニュシウスはフランスの守護聖人である。 3世紀に実在したとされる聖人で、異教徒に首を刎ねられた後も己の首を持って説教して歩いたという伝説を持つ。 その聖ドニの遺体が葬られたのがサン・ドニ修道院であり歴代フランス王の菩提寺となっている。 フィリップは甲冑をまといサン・ドニ修道院に向かうと祭壇の軍旗を手に取り、門前で待つ騎士たちの前で高く掲げた。 「モンジョワ・聖ドニ!」 フィリップの発した鯨波の声に元帥アンドレが呼応し、それはたちまち騎士たちに波及していった。 フィリップは武芸を苦手としており馬にも乗れなかったが、人の心を掴む術をよく知っていたのだ。 同日、フィリップは王国全土に動員令を発し、また王妃が治めるイングランドにも援軍を要請した。 #ref(019_1154.jpg,nolink) フランス・イングランド連合軍vs神聖ローマ帝国 戦下手の王に代わり軍略全般を担ったのは元帥アンドレである。 国力で劣るフランスが勝利するには短期決戦しかない。 分散する帝国軍を仏英両軍で襲い野戦で壊滅させるのだ。 #ref(020_1155.jpg,nolink) 帝国軍を包囲殲滅する仏英連合軍 戦線はプロヴァンス方面やブルゴーニュ方面にも展開していたが、その主戦場となったのはブラバントである。 イングランドの加勢もあってフランス騎士は各地で帝国軍を撃退していった。 #ref(021_1155.jpg,nolink) ルーヴェンの戦い 1155年4月4日に行われたルーヴェンの戦いでは帝国側は上ブルゴーニュ公ステファンが戦死するなど壊滅的な敗北を喫する。 同年5月には大規模な農民反乱も起こり帝国は外征どころではなくなっていた。 #ref(022_1155.jpg,nolink) すでに大勢は決している 1155年7月6日 皇帝ヘルマンが降伏。 1年半続いたヘント防衛戦争はフランス・イングランド連合の勝利に終わった。 #ref(023_1155.jpg,nolink) 賠償金556Gは安すぎる この戦いの後、神聖ローマ帝国は内乱の時代に突入することになる。 フィリップ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/フィリップ2世の治世・後半]]
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