AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・前半
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アンリ2世の治世・前半
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[[AAR/王朝序曲]] *アンリ2世の治世・前半 [#f9303909] #ref(000_1110.jpg,nolink) フィリップ1世の長男。母はアキテーヌ・ポワトゥ・ガスコーニュの公アイネス。 王妃アルシェンダはプロヴァンス公である。 フィリップ1世の治世が恐怖政治といえるものであったためか、アンリ2世の継承は諸侯から歓迎をもって迎えられた。 アンリもそれは心得ており、戴冠式の直後に最初に行ったのは父王に投獄されていた囚人たちの一斉解放であった。 後世の評価ではアンリは野心家ということになっているが、実情は夢想家の類であって、世の中の表面の、美しい部分だけを見つづけた王であった。 ボルドーの宮廷で生まれた彼は生涯南国への憧れを抱き続けた。 その夢の行きついた先に待つものとは? **新王の船出 [#k084f77f] アンリが最初に為すべき事は所領の再分配である。 妹婿のフルク・ダンジューに旧領を与えアンジュー公爵家を再興させることは既定路線であり、これはすぐに実行に移された。 問題は征服地ブルターニュの処遇である。 アンリは王位に就く前はブルターニュ公であったが、これは父王が三男ジュリアンの為に征服した領地であり、王位を継承した際には弟に譲る事が取り決められていた。 家臣の一部にはそれを反故にするよう進言する者もおり、ことに密偵長スヴェインはその急先鋒といえる存在であった。 即位に伴う一連の儀式を終えたその夜、密偵長スヴェインは王の寝室を訪れた。 アンリは自分と同い年のこのノルウェー人が嫌いだった。 >「私は反対です。ブルターニュは大邦。お与えになればジュリアン殿下は王位への強力な挑戦者となりましょう」 >「あれは余の弟だぞ」 >「弟とはいえ母親は妾。半分は他人です。それに、兄弟は潜在的な敵でございましょう」 >「ジュリアンはまだ7歳だ」 >「10年後には17歳におなりあそばします。その時、陛下の御子はいくつでありましょうや?」 無骨な外見に似合わぬその嫌らしい物言いがアンリには生理的に受け付けなかった。 そもそもスヴェインは父王の時代から密偵長として王家に仕えてきた男だ。 反対ならなぜ父王に直言しなかったのか。不誠実ではないか。 >「兄弟は助けあう事がカペーの家訓だ。余は父との約束を守る。これは勅命ぞ!」 勅命といわれれば引き下がるしか無い。 スヴェインは無言で頭を下げてそのまま退室した。 1110年3月27日 王弟ジュリアンはブルターニュ公に封じられた。 #ref(001_1110.jpg,nolink) ブルターニュ公ジュリアン アンリの異母弟 同月、ジュリアンの母アントワネットがヴェネツィアに嫁いでいった。 #ref(002_1110.jpg,nolink) ヴェネツイア統領マルコ・モロシーニの申し出に応じたものであったが、そこには父の愛人に対するアンリの屈折した感情もあったのかもしれない。 いずれにしても、ジュリアンは父に続いて母をも失う事になったのだ。 1110年4月18日 王位継承者となる長男フィリップが誕生した。 父王からはフランスを、母からはプロヴァンスを継承するはずである。 #ref(003_1110.jpg,nolink) 王太子フィリップ 1110年5月14日 異端のフラティチェリ派がヘントに現れた。 #ref(004_1110.jpg,nolink) グレゴリウス改革の洗礼を受けて間もない12世紀のカトリック教会は後世考えられているほどには腐敗していなかったが、(少なくともルネサンス期と比べれば遥かに清廉であった) それでも直接民衆と接する末端の司祭クラスとなると出来の悪い者も多く、貧しい民衆の目には神の名を騙る搾取者と映るのもやむをえぬ事であったのかもしれない。 しかしカトリックの長女をもって自認するフランス王にとって、いかなる場合も異端の存在は許されるものではない。 アンリはヘントに異端審問所を設置し、異端者の取り締まりを強化した。 と同時に、1110年12月24日には王権法を改正し、異教徒の所領を無条件で剥奪できる事を諸侯に認めさせている。 しかしこの王権強化の真の目的は別にあった。 異教徒からカトリック世界を守る為には諸侯間の平和が必要である…との名目を立て、諸侯間の私戦を禁じたのである。 しかし異端の教えに惹かれる民衆は後を絶たず、1111年にはイングランドでワルドー派の一斉蜂起が起こっている。 そしてワルドー派蜂起の報がパリに伝わった翌月、1111年9月20日。大司教シャルルが病没した。 シャルルは先王フィリップの幼馴染で、宮廷司祭長・ランス司教・シャンパーニュ大司教として王国の宗教政策を一手に担ってきた重鎮であった。 新任の宮廷司祭長にはジェヴォーダン司教エリーが選ばれ、異端撲滅の任にあたることになった。 **父と子と兄弟たち [#t8624cad] アンリ2世は家庭的な人物で王妃アルシェンダとの夫婦仲は良好であった。 1112年3月31日に次男ジェローが、1113年4月18日に三男ロベールが、そして1117年10月18日には四男マナセスが生まれている。 父フィリップ同様、アンリもまた兄弟間の争いを嫌い2人の弟には生涯気を配り続けた。 アンリは親王領の制度を作り上げたことで知られるが、カペー家のそれは他家にはない大きな特徴がある。 それは、父が息子たちに領地を与えるのではなく、代替わりの後、王位を継承した長子が弟たちに領地を与える事にある。 これは王朝を繁栄させつつも、同時に兄弟間の争いを防ぐという目的に則って定められたしきたりであった。 またアンリは、王子は王自身が教育を施すというカペーの伝統を作り上げた王でもある。 1113年9月13日 妹婿アンジュー公フルクが急逝。 御家再興を果たしてわずか3年後の出来事であった。 3歳の長男ジョフロワが公領を継承するが、その子が将来アンリを悩ませる事になる。 **ドイツ情勢 [#nb8b017b] そのころ神聖ローマ帝国は混乱の極みにあった。 1106年に戦死したハインリヒ5世には後継者がおらずザーリアー家嫡流は断絶。 傍流のエーベルハルトが帝位に就くも、あまりに遠い血縁であったためかその威光は弱く、権威を誇示するために武力を持って臨む暴君と化していた。 #ref(005_1112.jpg,nolink) 皇帝エーベルハルト 破門された上に同族殺しの特性まで持っている 暴君に不満を募らせていたドイツ諸侯は神の敵打倒を求めて一斉蜂起。 帝国は内乱状態にはいる。 #ref(006_1112.jpg,nolink) どうしてこうなった 1113年5月21日 エーベルハルトは廃されツェーリンゲン家のアドルフが皇帝に即位した。 尤も、廃帝エーベルハルトはその家領を失ったわけではなく、ザーリアー家はドイツの有力諸侯として存続している。 #ref(007_1113.jpg,nolink) 皇帝アドルフ ツェーリンゲン王朝の創始者 ドイツで王朝が交代したそのころ、キリスト教世界全体に大きな影響を与える出来事があった。 #ref(008_1113.jpg,nolink) 聖ヨハネ騎士団結成 1113年1月5日 聖ヨハネ騎士団が結成された。 ホスピタル騎士団とも呼ばれるように、本来は聖地の巡礼者たちの保護と病人の介護を目的とした修道会であるが、異教徒に対しては武器をとって闘う武装集団でもあった。 5年後にはテンプル騎士団も結成され、共に聖地防衛の最前線で活躍する事になるであろう。 そしてその機会はすぐに訪れた。 **セルジューク朝の来寇 [#n5074ea5] 1094年3月にフィリップ1世によってエルサレム王国が創設されてから20年。 宣教団の献身的な活動の甲斐あって聖地一帯はカトリック信仰に染め上げられつつあった。 もちろん末端の民草ことごとくが改宗したわけではないが、少なくとも都市部においてはムスリムは少数派になりつつあった。 しかしこれはフランスの支配権が及ぶ地域の話であって、一歩国境を踏み出せばそこはイスラムの法が支配する領域である。 スンニ派の指導者はアッバース朝のカリフであるがその政治的権威はとうの昔に失われており、今はセルジューク朝のスルタンに庇護される立場にある。 カリフを擁するその宮廷には多くのイスラム法学者がいた。そして彼らは毎日のようにスルタンに進言するのだ。 >「聖地を取り戻し汚れた異教徒どもを根絶せよ、あなたは全能のスルタンではないのか!?」 #ref(009_1116.jpg,nolink) スルタン マリク・シャー1世 アルプ・アルスラーンの後継者 内なる敵を数多く抱えるスルタンは聖戦に乗り気ではなかったが、カリフ側近たちの声を無視する事は出来なかったのだろう。 #ref(010_1116.jpg,nolink) 1116年3月20日 スルタン、マリク・シャーは聖地を奪還すべくアンリ2世に宣戦を布告した。 アンリは王国全土に動員令を発し、自らも軍を率いて聖地に向かっていった。 この戦いには3年前に結成された聖ヨハネ騎士団をはじめ、神聖ローマ帝国も参戦を表明。 キリスト教世界の両大国の連合軍を前に、トルコの土侯たちは20年前の十字軍を思い出していた。 あの暴虐の限りを尽くした野蛮な異教徒どもを。 #ref(011_1117.jpg,nolink) エルサレムの戦い 敗戦続きのスルタンは権威を失いつつある 1117年9月11日 セルジューク朝でクーデターが勃発。 《スルタン》マリク・シャーは廃され、イスファハンを治める甥のウスマンが《シャー》として即位した。 #ref(012_1117.jpg,nolink) シャー ウスマン1世 ペルシャ化して君主号まで変わっている ウスマンに聖戦を継続する意思などなく、廃位されヤズドの太守となったマリク・シャーは単独で聖戦を続行する羽目になった。 しかし単独でフランス、ドイツに対抗できるはずもなく、アンリに白紙和平を申し出てきた。 虫のいい話ではあるが、アンリにしてもこれ以上戦い続けたからといって何を得るというわけでもない。 #ref(013_1118.jpg,nolink) 1118年7月9日 戦争は痛み分けに終わった。 **新体制の確立 [#s393defa] 1117年10月19日 王太后アイネスが薨去した。 #ref(014_1117.jpg,nolink) アイネスはアキテーヌ、ポワトゥ、ガスコーニュの3つの公爵領を治める大諸侯であり、彼女こそが七大公の最後の1人であった。 彼女の死をもって王家に対抗できる家門は完全に消滅した。 アキテーヌは分割相続である。 彼女の長男であるアンリ2世は母からアキテーヌ公領を、そして次男ジェローはガスコーニュとポワトゥを相続した。 三男ジュリアンは彼女の子ではない。 #ref(015_1117.jpg,nolink) ガスコーニュとポワトゥの公ジェロー 名実ともに王国のナンバー2 また、マリク・シャーとの和平が成立した1118年7月、アンリは顧問団の改造を行った。 今の体制は先王時代のそれを引き継いだものであった為、ここで世代交代を図ったのだ。 ただし大臣キナートと密偵長スヴェインは引き続き留任となった。 #ref(017_1118.jpg,nolink) 大臣サンリ男爵キナート 先王の家令ライアンの嫡子。先王時代から大臣の任にあるアイルランド人 #ref(018_1118.jpg,nolink) 元帥ジャルゴー男爵アンドレ 先王の大臣エチエンヌの嫡子。実家はイタリア王を出したこともある名家である #ref(019_1118.jpg,nolink) 家令ランマラ男爵ジェロー 祖先はアラブ人でファーティマ朝の宮廷官僚出身 #ref(020_1118.jpg,nolink) 密偵長シニー男爵スヴェイン 先王時代から密偵長の任にある、悪魔的に頭の切れるノルウェー人 #ref(021_1118.jpg,nolink) 宮廷司祭長ボーヴェ司祭ウード 顧問団の最年長。かつてシャルルに師事した事もある名僧 5人中2人は父親が宮廷顧問を務めていた、いわば二世顧問とでもいうべき存在である。 これは後世フランス宮廷の宿痾となる宮廷官僚の門閥化、言い換えるなら宮廷貴族化の端緒といえるのかもしれない。 しかしこの時代、彼らは己の実力をもってその地位を獲得していたのであり、その立場も決して安穏としていられるものではなかった。 より優れた能力をもった者が君主の目に止まれば、たちまち交代させられる不安定な地位だったのである。 1118年12月10日 アンリはコーンウォールで亡命生活を送っていた元ブルターニュ王コナンを宮廷に招き、ギネス伯領を与えた。 被征服民ブルトン人への懐柔策という意味合いもあったが、それ以上にアンリ自身の君主観からくるものであった。 かつて父王フィリップも反逆者の子や孫に替わりの領地を与えてきた。 敵を完全に滅ぼすこと無く必ず替わりの領地を充てがう事は、後々までカペーの伝統となっていった。 また、アンリは勲功に応じて名誉称号の授与も積極的に行なっており、1118年12月には叔父ノルマンディー公ユーグを家老に任じている。 ユーグは先王の弟として献身的に兄を支え続けてきた一族の長老である。 その功労に報いたものであるが、これにはアンリを悩ませ続けた別の要因もあった。 **訃報 [#j734a560] それは弟たちの不和である。 1118年に成人した末弟ジュリアンは次兄ジェローが母から広大な遺領を継承したことを妬み、他の諸侯と図ってその剥奪を試みていた。 母親の出自の低さからくるコンプレックスもあったのだろう。 #ref(023_1120.jpg,nolink) 弟たちの不和 ユーグを家老に任じたのは一族の調停者の役割を期待してのものでもある。 しかしその期待も虚しく1121年1月31日、叔父ユーグは64歳でこの世を去った。 そして、跡を継いだ長子ヴァルランは父とは対照的な人物だった。 #ref(024_1121.jpg,nolink) ノルマンディー公ヴァルラン 王位を望む野心家 叔父の死に衝撃を受けたアンリの元に、もう一つの訃報が伝えられた。 妹婿のイングランド王太子ディエトヴィンが急逝したのだ。 かつて、父フィリップは妹エマをイングランド王太子ロベールに嫁がせたことがあった。 しかしロベールは在位7ヶ月で戦死、仏英同盟は瓦解した。 王妹ブランシュとディエドヴィンの結婚は両国に新たな同盟をもたらすものであるはずだった。 しかしそれも雲散霧消した事になる。 **アフリカ遠征 [#xf4e1aba] 1121年3月のある日。 アンリは顧問会議を招集、アフリカの情勢について意見を求めた。 アフリカはベルベル人の土地である。 彼らはアラブの支配下にありながらも独立自尊の気概を持ち続け、983年にはズィール朝を樹立してファーティマ朝から独立していた。 そのズィール朝も1085年には同族に放逐されており、1121年現在はハンマード朝がアフリカを支配していた。 しかし東のファーティマ朝、西のムラービト朝に挟撃され国力は衰微しており、その滅亡は時間の問題である。 #ref(025_1121.jpg,nolink) ハンマード朝の版図 吹けば飛ぶような小国である アフリカを征服する。 アンリの命令に全ての顧問が反対した。 >「無益な戦は避けるべきです。アフリカに手を出すことに何の意味がありましょう?」 反対の急先鋒は密偵長スヴェインであった。 宮廷司祭長ウードも同意する。 >「戦をすれば勝てます。されど…」 >「維持するために膨大な資金と兵が必要でしょうな」 元帥アンドレの意見を家令ジェローが補足した。 >「エジプトも黙っておりますまい」 大臣キナートも反対の意を述べた。 確かに、誰が考えてもこの戦争がフランスの利益になるとは思えない。 異教徒どもには勝手に戦わせておけばよいのである。 しかしアンリの考えは違った。 アンリには夢があったのだ。 それはあまりにも途方も無いものでまだ口にすることは出来ない。 それに実現は不可能であろう。 しかし、自分の代では出来なくとも世代を超えて夢を追い続ければ、いつかきっと叶う日がくる。 その為には奪える土地は奪えるうちに奪っておく。それが将来、フランスの力となるのだ。 1121月3月14日 アンリは反対を押し切ってアフリカ遠征を敢行。 弱体化したハンマード朝に対抗する術などなく、戦争はわずか1年で集結した。 #ref(026_1122.jpg,nolink) 鎧袖一触とはこのことか 1122年9月14日 ハンマード朝を滅ぼしたアンリはこの地にアルゲル大司教領の創設を宣言。 しかしそれは長い戦争の時代の始まりでもあった。 アンリ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・後半]]
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[[AAR/王朝序曲]] *アンリ2世の治世・前半 [#f9303909] #ref(000_1110.jpg,nolink) フィリップ1世の長男。母はアキテーヌ・ポワトゥ・ガスコーニュの公アイネス。 王妃アルシェンダはプロヴァンス公である。 フィリップ1世の治世が恐怖政治といえるものであったためか、アンリ2世の継承は諸侯から歓迎をもって迎えられた。 アンリもそれは心得ており、戴冠式の直後に最初に行ったのは父王に投獄されていた囚人たちの一斉解放であった。 後世の評価ではアンリは野心家ということになっているが、実情は夢想家の類であって、世の中の表面の、美しい部分だけを見つづけた王であった。 ボルドーの宮廷で生まれた彼は生涯南国への憧れを抱き続けた。 その夢の行きついた先に待つものとは? **新王の船出 [#k084f77f] アンリが最初に為すべき事は所領の再分配である。 妹婿のフルク・ダンジューに旧領を与えアンジュー公爵家を再興させることは既定路線であり、これはすぐに実行に移された。 問題は征服地ブルターニュの処遇である。 アンリは王位に就く前はブルターニュ公であったが、これは父王が三男ジュリアンの為に征服した領地であり、王位を継承した際には弟に譲る事が取り決められていた。 家臣の一部にはそれを反故にするよう進言する者もおり、ことに密偵長スヴェインはその急先鋒といえる存在であった。 即位に伴う一連の儀式を終えたその夜、密偵長スヴェインは王の寝室を訪れた。 アンリは自分と同い年のこのノルウェー人が嫌いだった。 >「私は反対です。ブルターニュは大邦。お与えになればジュリアン殿下は王位への強力な挑戦者となりましょう」 >「あれは余の弟だぞ」 >「弟とはいえ母親は妾。半分は他人です。それに、兄弟は潜在的な敵でございましょう」 >「ジュリアンはまだ7歳だ」 >「10年後には17歳におなりあそばします。その時、陛下の御子はいくつでありましょうや?」 無骨な外見に似合わぬその嫌らしい物言いがアンリには生理的に受け付けなかった。 そもそもスヴェインは父王の時代から密偵長として王家に仕えてきた男だ。 反対ならなぜ父王に直言しなかったのか。不誠実ではないか。 >「兄弟は助けあう事がカペーの家訓だ。余は父との約束を守る。これは勅命ぞ!」 勅命といわれれば引き下がるしか無い。 スヴェインは無言で頭を下げてそのまま退室した。 1110年3月27日 王弟ジュリアンはブルターニュ公に封じられた。 #ref(001_1110.jpg,nolink) ブルターニュ公ジュリアン アンリの異母弟 同月、ジュリアンの母アントワネットがヴェネツィアに嫁いでいった。 #ref(002_1110.jpg,nolink) ヴェネツイア統領マルコ・モロシーニの申し出に応じたものであったが、そこには父の愛人に対するアンリの屈折した感情もあったのかもしれない。 いずれにしても、ジュリアンは父に続いて母をも失う事になったのだ。 1110年4月18日 王位継承者となる長男フィリップが誕生した。 父王からはフランスを、母からはプロヴァンスを継承するはずである。 #ref(003_1110.jpg,nolink) 王太子フィリップ 1110年5月14日 異端のフラティチェリ派がヘントに現れた。 #ref(004_1110.jpg,nolink) グレゴリウス改革の洗礼を受けて間もない12世紀のカトリック教会は後世考えられているほどには腐敗していなかったが、(少なくともルネサンス期と比べれば遥かに清廉であった) それでも直接民衆と接する末端の司祭クラスとなると出来の悪い者も多く、貧しい民衆の目には神の名を騙る搾取者と映るのもやむをえぬ事であったのかもしれない。 しかしカトリックの長女をもって自認するフランス王にとって、いかなる場合も異端の存在は許されるものではない。 アンリはヘントに異端審問所を設置し、異端者の取り締まりを強化した。 と同時に、1110年12月24日には王権法を改正し、異教徒の所領を無条件で剥奪できる事を諸侯に認めさせている。 しかしこの王権強化の真の目的は別にあった。 異教徒からカトリック世界を守る為には諸侯間の平和が必要である…との名目を立て、諸侯間の私戦を禁じたのである。 しかし異端の教えに惹かれる民衆は後を絶たず、1111年にはイングランドでワルドー派の一斉蜂起が起こっている。 そしてワルドー派蜂起の報がパリに伝わった翌月、1111年9月20日。大司教シャルルが病没した。 シャルルは先王フィリップの幼馴染で、宮廷司祭長・ランス司教・シャンパーニュ大司教として王国の宗教政策を一手に担ってきた重鎮であった。 新任の宮廷司祭長にはジェヴォーダン司教エリーが選ばれ、異端撲滅の任にあたることになった。 **父と子と兄弟たち [#t8624cad] アンリ2世は家庭的な人物で王妃アルシェンダとの夫婦仲は良好であった。 1112年3月31日に次男ジェローが、1113年4月18日に三男ロベールが、そして1117年10月18日には四男マナセスが生まれている。 父フィリップ同様、アンリもまた兄弟間の争いを嫌い2人の弟には生涯気を配り続けた。 アンリは親王領の制度を作り上げたことで知られるが、カペー家のそれは他家にはない大きな特徴がある。 それは、父が息子たちに領地を与えるのではなく、代替わりの後、王位を継承した長子が弟たちに領地を与える事にある。 これは王朝を繁栄させつつも、同時に兄弟間の争いを防ぐという目的に則って定められたしきたりであった。 またアンリは、王子は王自身が教育を施すというカペーの伝統を作り上げた王でもある。 1113年9月13日 妹婿アンジュー公フルクが急逝。 御家再興を果たしてわずか3年後の出来事であった。 3歳の長男ジョフロワが公領を継承するが、その子が将来アンリを悩ませる事になる。 **ドイツ情勢 [#nb8b017b] そのころ神聖ローマ帝国は混乱の極みにあった。 1106年に戦死したハインリヒ5世には後継者がおらずザーリアー家嫡流は断絶。 傍流のエーベルハルトが帝位に就くも、あまりに遠い血縁であったためかその威光は弱く、権威を誇示するために武力を持って臨む暴君と化していた。 #ref(005_1112.jpg,nolink) 皇帝エーベルハルト 破門された上に同族殺しの特性まで持っている 暴君に不満を募らせていたドイツ諸侯は神の敵打倒を求めて一斉蜂起。 帝国は内乱状態にはいる。 #ref(006_1112.jpg,nolink) どうしてこうなった 1113年5月21日 エーベルハルトは廃されツェーリンゲン家のアドルフが皇帝に即位した。 尤も、廃帝エーベルハルトはその家領を失ったわけではなく、ザーリアー家はドイツの有力諸侯として存続している。 #ref(007_1113.jpg,nolink) 皇帝アドルフ ツェーリンゲン王朝の創始者 ドイツで王朝が交代したそのころ、キリスト教世界全体に大きな影響を与える出来事があった。 #ref(008_1113.jpg,nolink) 聖ヨハネ騎士団結成 1113年1月5日 聖ヨハネ騎士団が結成された。 ホスピタル騎士団とも呼ばれるように、本来は聖地の巡礼者たちの保護と病人の介護を目的とした修道会であるが、異教徒に対しては武器をとって闘う武装集団でもあった。 5年後にはテンプル騎士団も結成され、共に聖地防衛の最前線で活躍する事になるであろう。 そしてその機会はすぐに訪れた。 **セルジューク朝の来寇 [#n5074ea5] 1094年3月にフィリップ1世によってエルサレム王国が創設されてから20年。 宣教団の献身的な活動の甲斐あって聖地一帯はカトリック信仰に染め上げられつつあった。 もちろん末端の民草ことごとくが改宗したわけではないが、少なくとも都市部においてはムスリムは少数派になりつつあった。 しかしこれはフランスの支配権が及ぶ地域の話であって、一歩国境を踏み出せばそこはイスラムの法が支配する領域である。 スンニ派の指導者はアッバース朝のカリフであるがその政治的権威はとうの昔に失われており、今はセルジューク朝のスルタンに庇護される立場にある。 カリフを擁するその宮廷には多くのイスラム法学者がいた。そして彼らは毎日のようにスルタンに進言するのだ。 >「聖地を取り戻し汚れた異教徒どもを根絶せよ、あなたは全能のスルタンではないのか!?」 #ref(009_1116.jpg,nolink) スルタン マリク・シャー1世 アルプ・アルスラーンの後継者 内なる敵を数多く抱えるスルタンは聖戦に乗り気ではなかったが、カリフ側近たちの声を無視する事は出来なかったのだろう。 #ref(010_1116.jpg,nolink) 1116年3月20日 スルタン、マリク・シャーは聖地を奪還すべくアンリ2世に宣戦を布告した。 アンリは王国全土に動員令を発し、自らも軍を率いて聖地に向かっていった。 この戦いには3年前に結成された聖ヨハネ騎士団をはじめ、神聖ローマ帝国も参戦を表明。 キリスト教世界の両大国の連合軍を前に、トルコの土侯たちは20年前の十字軍を思い出していた。 あの暴虐の限りを尽くした野蛮な異教徒どもを。 #ref(011_1117.jpg,nolink) エルサレムの戦い 敗戦続きのスルタンは権威を失いつつある 1117年9月11日 セルジューク朝でクーデターが勃発。 《スルタン》マリク・シャーは廃され、イスファハンを治める甥のウスマンが《シャー》として即位した。 #ref(012_1117.jpg,nolink) シャー ウスマン1世 ペルシャ化して君主号まで変わっている ウスマンに聖戦を継続する意思などなく、廃位されヤズドの太守となったマリク・シャーは単独で聖戦を続行する羽目になった。 しかし単独でフランス、ドイツに対抗できるはずもなく、アンリに白紙和平を申し出てきた。 虫のいい話ではあるが、アンリにしてもこれ以上戦い続けたからといって何を得るというわけでもない。 #ref(013_1118.jpg,nolink) 1118年7月9日 戦争は痛み分けに終わった。 **新体制の確立 [#s393defa] 1117年10月19日 王太后アイネスが薨去した。 #ref(014_1117.jpg,nolink) アイネスはアキテーヌ、ポワトゥ、ガスコーニュの3つの公爵領を治める大諸侯であり、彼女こそが七大公の最後の1人であった。 彼女の死をもって王家に対抗できる家門は完全に消滅した。 アキテーヌは分割相続である。 彼女の長男であるアンリ2世は母からアキテーヌ公領を、そして次男ジェローはガスコーニュとポワトゥを相続した。 三男ジュリアンは彼女の子ではない。 #ref(015_1117.jpg,nolink) ガスコーニュとポワトゥの公ジェロー 名実ともに王国のナンバー2 また、マリク・シャーとの和平が成立した1118年7月、アンリは顧問団の改造を行った。 今の体制は先王時代のそれを引き継いだものであった為、ここで世代交代を図ったのだ。 ただし大臣キナートと密偵長スヴェインは引き続き留任となった。 #ref(017_1118.jpg,nolink) 大臣サンリ男爵キナート 先王の家令ライアンの嫡子。先王時代から大臣の任にあるアイルランド人 #ref(018_1118.jpg,nolink) 元帥ジャルゴー男爵アンドレ 先王の大臣エチエンヌの嫡子。実家はイタリア王を出したこともある名家である #ref(019_1118.jpg,nolink) 家令ランマラ男爵ジェロー 祖先はアラブ人でファーティマ朝の宮廷官僚出身 #ref(020_1118.jpg,nolink) 密偵長シニー男爵スヴェイン 先王時代から密偵長の任にある、悪魔的に頭の切れるノルウェー人 #ref(021_1118.jpg,nolink) 宮廷司祭長ボーヴェ司祭ウード 顧問団の最年長。かつてシャルルに師事した事もある名僧 5人中2人は父親が宮廷顧問を務めていた、いわば二世顧問とでもいうべき存在である。 これは後世フランス宮廷の宿痾となる宮廷官僚の門閥化、言い換えるなら宮廷貴族化の端緒といえるのかもしれない。 しかしこの時代、彼らは己の実力をもってその地位を獲得していたのであり、その立場も決して安穏としていられるものではなかった。 より優れた能力をもった者が君主の目に止まれば、たちまち交代させられる不安定な地位だったのである。 1118年12月10日 アンリはコーンウォールで亡命生活を送っていた元ブルターニュ王コナンを宮廷に招き、ギネス伯領を与えた。 被征服民ブルトン人への懐柔策という意味合いもあったが、それ以上にアンリ自身の君主観からくるものであった。 かつて父王フィリップも反逆者の子や孫に替わりの領地を与えてきた。 敵を完全に滅ぼすこと無く必ず替わりの領地を充てがう事は、後々までカペーの伝統となっていった。 また、アンリは勲功に応じて名誉称号の授与も積極的に行なっており、1118年12月には叔父ノルマンディー公ユーグを家老に任じている。 ユーグは先王の弟として献身的に兄を支え続けてきた一族の長老である。 その功労に報いたものであるが、これにはアンリを悩ませ続けた別の要因もあった。 **訃報 [#j734a560] それは弟たちの不和である。 1118年に成人した末弟ジュリアンは次兄ジェローが母から広大な遺領を継承したことを妬み、他の諸侯と図ってその剥奪を試みていた。 母親の出自の低さからくるコンプレックスもあったのだろう。 #ref(023_1120.jpg,nolink) 弟たちの不和 ユーグを家老に任じたのは一族の調停者の役割を期待してのものでもある。 しかしその期待も虚しく1121年1月31日、叔父ユーグは64歳でこの世を去った。 そして、跡を継いだ長子ヴァルランは父とは対照的な人物だった。 #ref(024_1121.jpg,nolink) ノルマンディー公ヴァルラン 王位を望む野心家 叔父の死に衝撃を受けたアンリの元に、もう一つの訃報が伝えられた。 妹婿のイングランド王太子ディエトヴィンが急逝したのだ。 かつて、父フィリップは妹エマをイングランド王太子ロベールに嫁がせたことがあった。 しかしロベールは在位7ヶ月で戦死、仏英同盟は瓦解した。 王妹ブランシュとディエドヴィンの結婚は両国に新たな同盟をもたらすものであるはずだった。 しかしそれも雲散霧消した事になる。 **アフリカ遠征 [#xf4e1aba] 1121年3月のある日。 アンリは顧問会議を招集、アフリカの情勢について意見を求めた。 アフリカはベルベル人の土地である。 彼らはアラブの支配下にありながらも独立自尊の気概を持ち続け、983年にはズィール朝を樹立してファーティマ朝から独立していた。 そのズィール朝も1085年には同族に放逐されており、1121年現在はハンマード朝がアフリカを支配していた。 しかし東のファーティマ朝、西のムラービト朝に挟撃され国力は衰微しており、その滅亡は時間の問題である。 #ref(025_1121.jpg,nolink) ハンマード朝の版図 吹けば飛ぶような小国である アフリカを征服する。 アンリの命令に全ての顧問が反対した。 >「無益な戦は避けるべきです。アフリカに手を出すことに何の意味がありましょう?」 反対の急先鋒は密偵長スヴェインであった。 宮廷司祭長ウードも同意する。 >「戦をすれば勝てます。されど…」 >「維持するために膨大な資金と兵が必要でしょうな」 元帥アンドレの意見を家令ジェローが補足した。 >「エジプトも黙っておりますまい」 大臣キナートも反対の意を述べた。 確かに、誰が考えてもこの戦争がフランスの利益になるとは思えない。 異教徒どもには勝手に戦わせておけばよいのである。 しかしアンリの考えは違った。 アンリには夢があったのだ。 それはあまりにも途方も無いものでまだ口にすることは出来ない。 それに実現は不可能であろう。 しかし、自分の代では出来なくとも世代を超えて夢を追い続ければ、いつかきっと叶う日がくる。 その為には奪える土地は奪えるうちに奪っておく。それが将来、フランスの力となるのだ。 1121月3月14日 アンリは反対を押し切ってアフリカ遠征を敢行。 弱体化したハンマード朝に対抗する術などなく、戦争はわずか1年で集結した。 #ref(026_1122.jpg,nolink) 鎧袖一触とはこのことか 1122年9月14日 ハンマード朝を滅ぼしたアンリはこの地にアルゲル大司教領の創設を宣言。 しかしそれは長い戦争の時代の始まりでもあった。 アンリ2世の治世・後半へ[[AAR/王朝序曲/アンリ2世の治世・後半]]
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