AAR/歴史資料集 図説 ローマ帝国の再興と拡大/10世紀後半
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10世紀後半
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[[AAR/歴史資料集 図説 ローマ帝国の再興と拡大]] 前ページ [[AAR/歴史資料集 図説 ローマ帝国の再興と拡大/10世紀前半]] **10世紀後半 [#z364cdf9] &ref(10世紀中盤.jpg); 79歳の長寿を保ったバルダス帝でしたがその代償として嫡男に先立たれてしまい、 955年、帝国は孫のダニエル帝が後継します。 ところがダニエル帝も2年に満たず崩御し、その弟の同名のダニエル2世帝が立ちます。 (古文書によってはこの2帝を混同しているものもあります) バシレイオス帝から3代後のこのダニエル2世帝はついに偉業を成し遂げることになります。 すなわち973年に発せられた「ローマ帝国再興宣言」です。 それの前段階として963年、ガリアを大幅に征服した「西フランク王国」に対し ローマ教皇庁が「帝国(インペリウム)」の名乗りを与えていました。 &ref(フランク帝国.jpg); これは800年にあった「カールの僭称」の復活であり、当時は一定の妥協を図ったとはいえ、 それを改めて行ったローマ教皇庁に対して制裁を加える必要が絶対にあったのです。 とはいえマケドニア家にとって、そして帝国にとって忘れてはならないことは 「ローマは一日にしてならず」ということです。 400年前の「ユスティニアヌスの回復」は繰り返してはならない、 それは誰もが理解していました。 それゆえにダニエル帝は急ぐことなく、まずイタリアの「向かい」であるアフリカ属州を再復し、 &ref(アフリカ.jpg); 宗教的にもさらなる盤石を築くべく 治世中それまでに2度帝国への攻撃を図り、その2度とも撃退していたアッバース朝から 967年に最大の聖地・イェルサレムを奪還しました。 &ref(シリアパレスティーナ.jpg); &ref(エルサレム.jpg); そしてついに969年、一度目のローマ攻撃を行い、 &ref(ローマ司教座.jpg); その4年後の973年をもってローマ周辺の城市を全て確保、 同時に東方でも攻勢をかけ、東地中海の制海権を完全なものとしたダニエル帝は ついに「ローマ帝国再興宣言」を行うのです。 この全文は今でも残っています。 &ref(ローマ再興.jpg); 「新時代の夜明け」 友よ、都市生活者よ、鄙に住む人々よ、どうか耳を貸して欲しい。 数世紀にも及ぶ奇跡的な国土の回復をもって、ついにローマ帝国は再興した! 帝国を蛮族の嵐が襲い、彼らの触れるものみな炎に包まれた結果、 ヨーロッパは暗黒時代を過ごすことを余儀なくされたが、 今や全ての文明人にとっての輝かしい新時代の夜明けを迎えたのだ。 我らローマは最早西の簒奪者が言うような「ギリシャ人の帝国」ではない。 ローマの遺産の真正なる継承者なのだ。 私ダニエル2世はローマ帝国の統治を回復させたが、もちろんこれで終わりではない。 未だ回復すべき領土、国境はあり、より多大なる職務が待ち構える。 私は元老院とローマ市民のため、手を休めることは無いであろう! その後宣言通りダニエル帝は休むことなく、 ヒスパニアへの本格的侵攻を開始、 さらには黒海を内海とする方針を立ち上げこれへ侵攻を開始。 宣言から10年後の983年、「栄光帝」と呼ばれた生涯を閉じました。 それを後継したのは次男のフォティオス帝です。 僭称者フランク帝国を大いに攻撃するとともに、 10世紀中にエジプト属州・イリリクム属州を回復、 &ref(エジプト.jpg); &ref(イリリクム.jpg); 黒海を内海とすることに成功、 さらにナヴァラ地方を回復したことで、 帝国は625年に西ゴートに敗北して以来、実に365年ぶりに大西洋に到達したのでした。 &ref(10世紀終盤.jpg); そして東からさらなる強敵の噂が入ってくるのでした… &ref(セルジュク.jpg); [[AAR/歴史資料集 図説 ローマ帝国の再興と拡大/11世紀前半]]
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添付ファイル:
シリアパレスティーナ.jpg
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イリリクム.jpg
767件
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ローマ再興.jpg
736件
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10世紀中盤.jpg
835件
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アフリカ.jpg
761件
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ローマ司教座.jpg
760件
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エジプト.jpg
772件
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セルジュク.jpg
844件
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フランク帝国.jpg
794件
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エルサレム.jpg
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10世紀終盤.jpg
798件
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