AAR/教皇は太陽、皇帝は月/アフリカ王Ausonio Iの治世
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アフリカ王Ausonio Iの治世
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[[AAR/教皇は太陽、皇帝は月]] **西のローマから東のローマへ [#yfe3974b] >&ref(parma017.jpg,left,50%); この頃の東ローマ帝国は領土こそ神聖ローマ帝国に次ぐ大きさであるものの、王権limited、おまけにエジプトから侵略を受け存亡の危機に立たされた斜陽の帝国である。 アウソニオは東ローマの助力をはなから期待しておらず、神聖ローマより自由に行動できるというただ一点において宗旨替えしたと言っていい。 今や帝国内の最大勢力となったジェノバ公に対して東ローマは強く意見することはできず、アウソニオの東方正教への改宗は終ぞ行われることは無かった。 アウソニオは、公国の移籍を機に親族への大規模な領土分与を行った。 長男はデンマークの女公へ嫁ぎ、優秀な次男にはシエナ州を与え後継者に指名した。またイタリア南部とチュニジアの州を甥や叔父に一州ずつ与えた。 これまで全ての伯領を直轄地としていたアウソニオだが、領土分与によって非効率な統治が改善され、収入が倍増、動因兵力も増加した。 **王位簒奪 [#h65dd10d] '''王位が欲しい。神聖ローマ帝国と対決せねばならないイタリア王は不可能、教皇と戦争せねばならないシチリア王も論外だ。''' '''異教徒の僭称するアフリカ王位ならば不可能ではないが、仇敵モロッコとの衝突は避けられないだろう。''' -アウソニオの手記 1150年、アフリカ王位創設に必要な領土を得るためトリポリに宣戦。他国の参戦も無く、つつがなく占領して併合。 1151年、トリポリを求めてアフリカ王国に聖戦。さして抵抗もなくトリポリを併合し、アフリカ王国は滅亡。 1155年、最後の障害であるモロッコ王国の持つカビリアを求めて聖戦を宣言。 先ほどの領土分与で兵が増え、傭兵とあわせれば兵力はモロッコ王国とほぼ対等。 更にはイタリア全土の船を動員、モロッコ軍の主力が合流する前に船による機動戦で各個撃破を図り、これに成功。 アフリカ王国のDe jure上にあるイスラム領土を全て回収し、先のサルディーニャ戦争の復讐を果たした。 >&ref(parma018.jpg,nolink); 二つの戦争によってアフリカの大半の州をその支配下に収めたアウソニオは、アフリカ王国の建国を宣言し、その初代キリスト教国王となる。 >&ref(parma019.jpg,nolink); アフリカ王国は継承法が分割相続だったため選挙法へ変更をもくろむが、法の変更には10年を待たねばならない。 アウソニオは高齢でいつ死ぬともわからなかったため、息子にはヴェネチアやジェノバなど豊かな領土をあらかじめ譲渡しておく。 ところが譲渡した矢先に息子が死んでしまい、領土は成人したばかりの孫へ継承される。 **皇帝戦争 [#j67921a3] 1159年、アウソニオの持つチュニジア領の一つであるメジェルダ州をめぐって神聖ローマが東ローマに宣戦、数万の皇帝軍がイタリアを南下し集結中との知らせが入る。 正面からぶつかれば勝機は無いとみたアウソニオは、モロッコ戦争と同様、艦隊を使った機動戦によって終結中の軍を各個撃破しつつ白紙講和にを模索した。 ところ開始半年で東ローマが降伏、メジェルダ州は神聖ローマに割譲されてしまう。 >&ref(parma020.jpg,nolink); '''どの皇帝も自らの保身ばかりを考える。''' '''東ローマ皇帝にとっては無益な戦争を回避し、同時に私の力を削ぐことができ一石二鳥といったところであろう。''' '''だが長い目で見れば、いたずらに臣下のの叛意を煽りイスラムへ対抗する兵力も減るばかりだとどうしてわからないのか。''' '''東も西も、どちらを向いてもまともな王がおらぬ。なれば自ら王にならねばならぬ。''' -アウソニオの手記 **アフリカ独立戦争 [#eb31820b] 1170年、皇帝が死去。 次いで即位した息子が幼君だったことで、継承戦争が勃発。 複数の臣下の反乱で東ローマ全土が荒れていた。 >&ref(parma21.jpg,left,50%); 義弟であった先の皇帝にこそ忠誠を誓えど、その息子となればもはや帝国に服従する義務はない。 諸侯の一人から反乱参加の誘いが来たのを機に、アウソニオは遂に皇帝を見限り東ローマ帝国からの独立を宣言。 しかし東ローマは腐っても帝国である。継承戦争を白紙講和に終わらせると、それまで内乱で戦っていた全軍がイタリアへ侵攻する。 倍以上の領土差を考えると厳しい戦いではあったが、皇帝も臣下との仲の悪さが原因か思うように兵が動員できなかったようで、実際の戦力差は大きくは無かった。 交戦をなるべく避け、独立の既成事実を作るべく時間を稼ぎ、開戦から3年後の1173年、アウソニオはついに独立を達成した。 アウソニオは晩年、更なる戦争は控え直轄地の城の改修を行い、アフリカ全土に都市を建設し、この功績を讃えられてアウソニオ賢王と呼ばれるようになった。 1182年の冬、アウソニオは静かに息を引き取った。享年86歳の大往生であった。 >&ref(parma22.jpg,nolink); アウソニオはアフリカ王国としてようやく独立を遂げた。 彼の後継者は神聖ローマ、東ローマ、教皇、そしてイスラム王朝全てを敵に回して戦うことになる。 **世界情勢 [#ode95391] >&ref(parma23.jpg,left,50%); 神聖ローマ帝国が南仏を併合、イングランドがノルマンディーに上陸、またブルターニュ王国が成立しフランスが弱体化。 東ではエジプトがエチオピアとペルシアを吸収し巨大化、ついにプロヴィンス数で神聖ローマ帝国を上回る。
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[[AAR/教皇は太陽、皇帝は月]] **西のローマから東のローマへ [#yfe3974b] >&ref(parma017.jpg,left,50%); この頃の東ローマ帝国は領土こそ神聖ローマ帝国に次ぐ大きさであるものの、王権limited、おまけにエジプトから侵略を受け存亡の危機に立たされた斜陽の帝国である。 アウソニオは東ローマの助力をはなから期待しておらず、神聖ローマより自由に行動できるというただ一点において宗旨替えしたと言っていい。 今や帝国内の最大勢力となったジェノバ公に対して東ローマは強く意見することはできず、アウソニオの東方正教への改宗は終ぞ行われることは無かった。 アウソニオは、公国の移籍を機に親族への大規模な領土分与を行った。 長男はデンマークの女公へ嫁ぎ、優秀な次男にはシエナ州を与え後継者に指名した。またイタリア南部とチュニジアの州を甥や叔父に一州ずつ与えた。 これまで全ての伯領を直轄地としていたアウソニオだが、領土分与によって非効率な統治が改善され、収入が倍増、動因兵力も増加した。 **王位簒奪 [#h65dd10d] '''王位が欲しい。神聖ローマ帝国と対決せねばならないイタリア王は不可能、教皇と戦争せねばならないシチリア王も論外だ。''' '''異教徒の僭称するアフリカ王位ならば不可能ではないが、仇敵モロッコとの衝突は避けられないだろう。''' -アウソニオの手記 1150年、アフリカ王位創設に必要な領土を得るためトリポリに宣戦。他国の参戦も無く、つつがなく占領して併合。 1151年、トリポリを求めてアフリカ王国に聖戦。さして抵抗もなくトリポリを併合し、アフリカ王国は滅亡。 1155年、最後の障害であるモロッコ王国の持つカビリアを求めて聖戦を宣言。 先ほどの領土分与で兵が増え、傭兵とあわせれば兵力はモロッコ王国とほぼ対等。 更にはイタリア全土の船を動員、モロッコ軍の主力が合流する前に船による機動戦で各個撃破を図り、これに成功。 アフリカ王国のDe jure上にあるイスラム領土を全て回収し、先のサルディーニャ戦争の復讐を果たした。 >&ref(parma018.jpg,nolink); 二つの戦争によってアフリカの大半の州をその支配下に収めたアウソニオは、アフリカ王国の建国を宣言し、その初代キリスト教国王となる。 >&ref(parma019.jpg,nolink); アフリカ王国は継承法が分割相続だったため選挙法へ変更をもくろむが、法の変更には10年を待たねばならない。 アウソニオは高齢でいつ死ぬともわからなかったため、息子にはヴェネチアやジェノバなど豊かな領土をあらかじめ譲渡しておく。 ところが譲渡した矢先に息子が死んでしまい、領土は成人したばかりの孫へ継承される。 **皇帝戦争 [#j67921a3] 1159年、アウソニオの持つチュニジア領の一つであるメジェルダ州をめぐって神聖ローマが東ローマに宣戦、数万の皇帝軍がイタリアを南下し集結中との知らせが入る。 正面からぶつかれば勝機は無いとみたアウソニオは、モロッコ戦争と同様、艦隊を使った機動戦によって終結中の軍を各個撃破しつつ白紙講和にを模索した。 ところ開始半年で東ローマが降伏、メジェルダ州は神聖ローマに割譲されてしまう。 >&ref(parma020.jpg,nolink); '''どの皇帝も自らの保身ばかりを考える。''' '''東ローマ皇帝にとっては無益な戦争を回避し、同時に私の力を削ぐことができ一石二鳥といったところであろう。''' '''だが長い目で見れば、いたずらに臣下のの叛意を煽りイスラムへ対抗する兵力も減るばかりだとどうしてわからないのか。''' '''東も西も、どちらを向いてもまともな王がおらぬ。なれば自ら王にならねばならぬ。''' -アウソニオの手記 **アフリカ独立戦争 [#eb31820b] 1170年、皇帝が死去。 次いで即位した息子が幼君だったことで、継承戦争が勃発。 複数の臣下の反乱で東ローマ全土が荒れていた。 >&ref(parma21.jpg,left,50%); 義弟であった先の皇帝にこそ忠誠を誓えど、その息子となればもはや帝国に服従する義務はない。 諸侯の一人から反乱参加の誘いが来たのを機に、アウソニオは遂に皇帝を見限り東ローマ帝国からの独立を宣言。 しかし東ローマは腐っても帝国である。継承戦争を白紙講和に終わらせると、それまで内乱で戦っていた全軍がイタリアへ侵攻する。 倍以上の領土差を考えると厳しい戦いではあったが、皇帝も臣下との仲の悪さが原因か思うように兵が動員できなかったようで、実際の戦力差は大きくは無かった。 交戦をなるべく避け、独立の既成事実を作るべく時間を稼ぎ、開戦から3年後の1173年、アウソニオはついに独立を達成した。 アウソニオは晩年、更なる戦争は控え直轄地の城の改修を行い、アフリカ全土に都市を建設し、この功績を讃えられてアウソニオ賢王と呼ばれるようになった。 1182年の冬、アウソニオは静かに息を引き取った。享年86歳の大往生であった。 >&ref(parma22.jpg,nolink); アウソニオはアフリカ王国としてようやく独立を遂げた。 彼の後継者は神聖ローマ、東ローマ、教皇、そしてイスラム王朝全てを敵に回して戦うことになる。 **世界情勢 [#ode95391] >&ref(parma23.jpg,left,50%); 神聖ローマ帝国が南仏を併合、イングランドがノルマンディーに上陸、またブルターニュ王国が成立しフランスが弱体化。 東ではエジプトがエチオピアとペルシアを吸収し巨大化、ついにプロヴィンス数で神聖ローマ帝国を上回る。
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