AAR/ヘカトンケイルの門番/ステファン2世の治世・前編
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ステファン2世の治世・前編
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[[AAR/ヘカトンケイルの門番]] *ステファン2世の治世 ・前編 [#v759d82c] **王の結婚 [#ye6a8224] 1206年8月15日 王妹エフィミヤとシチリア王フリードリヒの婚約が成立した。 フリードリヒは神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェの子で帝国の帝位請求権を持つ。 ステファン2世の治世におけるセルビアの強大化は巧みな婚姻政策が功を奏した点が大きいのであるが、その最大の功労者は大臣のブラズであった。 ブラズが次に取り組んだのは王妃候補の選定である。 白羽の矢を立てたのはブルガリア王カロヤンの第二王女マリヤである。 1208年1月11日 セルビア王ステファン2世とブルガリア王女マリヤは結婚した。 大国ハンガリーに対向するための後ろ盾を期待しての政略結婚である。 #ref(000_1208.jpg,nolink) 歴史を変えた結婚その1 1211年1月29日 エフィミアとシチリア王フリードリヒの結婚が成立した。 これでブルガリア・シチリアの両大国との同盟が成立した事になる。 1212年1月2日 セルビア宮廷に一人の若者がやってきた。 コンスタンティノスと名乗るその若者は名門コムネノス・ドゥーカス家の出身で、エピロス専制公国の継承権を有していた。 エピロスはビザンツ亡命政権の一つだったが、1211年にアカイア公国に併合され滅亡していたのである。 ステファンはコンスタンティノスを密偵長に任命した上で長女コミニアの婿とした。 2年後にはスヴェティ・スパス男爵領も与えている。 奇貨居くべし、である。 同じ頃、ステファンは大臣ブラズにダルマチア地方の都市ザダルの調査を命じている。 ザダルはどの勢力にも属していない独立伯領を形勢しており、領有権の証明する古文書さえ見つかれば簡単に占領できるのだ。 **クロアチア独立 [#v9295770] 1208年11月23日 クロアチア貴族たちはスラヴォニア公メルクリーイェを旗頭にクロアチア王国の独立を宣言した。 クロアチアはセルビアより3世紀も早く王国を樹立していたが、1102年にハンガリー王カールマーンに併合され独立を失って久しかった。 ハンガリーは現地の豪族をバン(太守)に任じて間接統治を敷いており、新たにクロアチア王を称したメルクリーイェもそうした太守の一人であった。その出身母体からこの王朝をスラヴォニア朝と呼ぶ。 #ref(001_1208.jpg,nolink) 第二次クロアチア王国の版図 ボスニア地方は独立に加わっていない 1209年5月31日 ブルガリア支配下にあったワラキア大首長エレトクが独立を求め反乱を起こした。 独立のうねりは東欧全体に広がりつつあったのだ。 1209年8月30日 ステファンの次女ジョヴァンカとクロアチア王子プロホルの婚約が成立した。 ハンガリーに対する備えとして将来の同盟関係を期待しての婚約であったのだが、結果としてそのアテは外れる事になる。 言うまでもないことであるが、独立は宣言しただけで達成出来るものではない。 ハンガリー王イムレは不埒な逆賊を懲らしめるべく追討軍を繰り出してきた。 第一次ハンガリー・クロアチア戦争の勃発である。 #ref(003_1212.jpg,nolink) クロアチアVSハンガリー・ボヘミア連合 勝負は見えている **ベオグラード再征服戦争 [#s3534abf] 1211年12月 ステファン2世は顧問会議を招集してハンガリー・クロアチア情勢について意見を求めた。 戦況はハンガリー優勢に推移しているが、ハンガリー国内にも独立を目論む諸侯がおり情勢はなお流動的である。 もっとも、多少の時間はかかるにせよ最終的にはハンガリーが勝つものと思われる。 密偵長コンスタンティノスの報告を受けて大臣ブラズは顔をしかめた。 >「クロアチアとの縁談は破棄した方がよいでしょうな」 >「いや、そうとも言えぬ」 王は今こそ長年の悲願を果たす好機であると考えていた。 セルビアの慣習的領域ベオグラードをハンガリー支配から解放するのである。 >「なりませぬぞ!ハンガリーは大国です。クロアチアが落ちれば我が国などあっという間に呑み込まれましょう」 >「勝てるのは今しかない!今ならブルガリアとの同盟もある。ハンガリーは3国を相手にする事になるのだ」 >「されど、資金がありませぬ」 家令ヴラディスラフに向かって、王はこう言い放ったと伝わる。 >「ユダヤ人どもに借りれば良い。奴らはその為に生きておる」 1212年1月13日 セルビア王ステファンはベオグラードの慣習的領有権を主張し、ハンガリーに対し宣戦を布告した。 ステファンの期待通りブルガリア王カロヤンも参戦を表明し、ここにベオグラード再征服戦争が勃発した。 #ref(004_1212.jpg,nolink) ベオグラード 古代から争奪戦が繰り返されてきたこの都市は140回もの戦火にさらされてきたと伝わる 元帥シメオン率いるセルビア軍4000が王都を出立した直後、ブルガリアの内乱が収束したとの知らせが届いた。 これでブルガリアの全面的な援軍が期待できるようになる。 1213年8月23日 ハンガリーからの独立を求めニトラ公ミクローシュが反乱を起こす。 イムレ王は4つの敵と同時に戦う事態に陥ったのである。 #ref(002_1213.jpg,nolink) ニトラ公の乱 ハンガリーは苦境に立たされている 当初、セルビア・ブルガリア連合軍はハンガリー領を一方的に荒らしまわっていたのだが、1214年に入り状況に変化が現れる。 ボヘミアとアラゴンがハンガリー側に立って参戦したのである。 1214年10月8日 両軍はクロアチアのクリジェーブツィで激突した。 #ref(025_1214.jpg,nolink) クリジェーブツィの戦い 両軍とも主力は同盟軍(ブルガリアとアラゴン)になっている この戦いでアラゴン軍の主力は壊滅した。 残すはボヘミア軍である。 ステファンは国庫の財宝を使い尽くす覚悟で傭兵部隊を雇用。遠征軍に合流させた。 #ref(005_1214.jpg,nolink) カロチャの戦い この戦いが戦争の趨勢を決した。 1215年1月10日 ハンガリー王イムレは降伏。 ベオグラードは正統な支配者の下に返ってきたのである。 **長子相続制 [#n9275c4d] 1214年2月18日 ステファンとマリヤの間に男子ステファンが誕生した。 長男ラドスラヴは夭折していたのでこの子が王位継承者という事になる。 1214年5月29日 セルビア総主教ラストコが逝去した。41歳であった。 彼はステファンの次兄(史実では弟)であり、後世、聖サヴァと呼ばれセルビアで最も偉大な聖人と讃えられる事になる人物である。 ステファンも深い哀悼の意を表し王国全土で追悼のミサが挙行された。 しかし政治に停滞は許されない。 ステファンはデカニ司祭シニシャを第二代総主教に任命し、セルビア教会の継続を内外に示した。 1215年1月11日 ステファンは長兄ヴカンをゼタ伯に叙した。 ゼタはヴカンの旧領であり、9年前にステファン自身が剥奪した土地である。 今や王の権威は全土に浸透しており、ヴカンの存在は脅威ではなくなっていたのである。 1216年7月13日 ステファン2世はドゥブロヴニクの王宮に国内の全ての成人王族を召集した。 王妃マリヤと長女コミニア。 長女の夫で密偵長のコンスタンティノス(女系結婚である) 王の兄、ゼタ伯ヴカンとその長男ジョルジェ、次男ヴラディン、三男ステファン。 従兄弟にあたるフム伯家一族はブルガリア王カロヤンのもとに身を寄せており、王国内の成人王族はこれで全てである。 この王族会議で、ステファンは王国の将来に決定的な影響を与える決定を下した。 これまでの分割相続を廃止し、長子相続を導入したのである。 王族会議を終え全員が帰途についた後、密偵長コンスタンティノスだけが王のもとに残った。 秘密の打ち合わせがあるのである。 近くに王妃マリヤがいないことを確認するといきなり本題に入った。 >「賛同者はあつまりそうか?」 >「手応えは十分あります。ビルヤナ様は家臣からはあまり好かれていないようですな」 ビルヤナはブルガリア王カロヤンの長女である。 カロヤンには男子がいないため現時点では彼女が王位継承者という事になる。 ところでカロヤンにはもう一人娘がいる。 次女の名はマリヤ。セルビアの王妃である。 #ref(008_1215.jpg,nolink) ビルヤナ暗殺計画 3年後、ビルヤナは不慮の事故で他界しマリヤが王位継承者となった。 **ザダル併合 [#l43d71a4] 1215年1月21日 セルビアは独立勢力だったダルマチア地方のザダル伯領に宣戦を布告した。 #ref(007_1215.jpg,nolink) ザダル伯領 ネマニッチ家がザダルの正統な統治者である事を証明する古文書が発見された事が大義名分とされたが、偽書である事は明白であろう。 尤も、偽物だと証明する方法があるわけでもないし、証明したところで手遅れだったろう。 1216年7月10日 ザダル伯領はセルビア王国に併合された。 **クロアチア情勢 [#ce97adc6] 1216年3月17日 ハンガリーはクロアチア全土を征服。 メルクリーイェ王は退位しクロアチアはハンガリー王国に併合された。 わずか8年という短命な王朝であった。 #ref(009_1216.jpg,nolink) 画像はザダル併合後のものです これで大ハンガリー王国復活かと思われたが、事態は意外な展開をたどる事になる。 1217年3月28日 ハンガリー王イムレが暗殺され、長男ラースロー3世が王位を継承した。 翌3月29日、ボスニア公スチェパンがクロアチア王位を宣言。 前王メルクリーイェ以下クロアチア貴族たちもスチェパンの下に結集し、クロアチアは併合から1年で再独立を果たすことになった。 #ref(026_1217.jpg,nolink) 第三次クロアチア王国 王家の出自からボスニア朝とよぶこともある #ref(012_1217.jpg,nolink) クロアチア王スチェパン3世 ハンガリー王暗殺の翌日に独立宣言という絶妙なタイミングから、イムレ暗殺はスチェパンの差金ではないかと思われたが、事実はニトラ公ミクローシュによる犯行であった。 **エピロス継承戦争 [#ne47d935] 1216年8月6日 ステファンは家令ヴラディスラフを解任し、後任にはゼムン市長ラヨシュを任命した。 #ref(010_1216.jpg,nolink) 家令ゼムン市長ラヨシュ ハンガリー人である また10月17日には元帥シメオンを解任し、後任に同じく平民出身のストラツィミールを任命している。 1216年11月29日 セルビアはアカイア公国に宣戦を布告した。 密偵長コンスタンティノスの有するエピロス専制公国の継承権を行使したのである。 #ref(011_1216.jpg,nolink) アカイア公国とエピロス エピロスはアカイアに併合されていた 1217年4月21日 この日、セルビア王ステファンはガレー船上にいた。 セルビア・シチリア連合軍は海路でペロポネソス半島に向かい、一気に制圧するつもりなのだ。 ステファンの傍らには義弟である若きシチリア王フリードリヒがいる。 2人の話題の中心は目の前のアカイアではなく、昨月再独立を果たしたクロアチアの情勢であった。 >「独立間もないクロアチアでは王の権威が確立されておりません。またハンガリーに呑まれてしまうのではないですか?」 >「しかしハンガリーも王の交代とニトラ公の独立で混乱状態にある。しばらくは動けまいよ」 今回、ブルガリア王カロヤンはモルダウとの聖戦で援軍を出す余裕が無いと伝えてきたが、フリードリヒは律儀にも自ら兵を率いて参戦してくれた。 勿論、この義弟には彼の思惑がある。 彼は神聖ローマ皇帝の座を狙っており、その為に義兄の助力を当てにしているのだ。 そこに同船していた元帥ストラツィミールがやってきた。 >「陛下、お耳に入れたいことが…」 ストラツィミールは人払いを求めたが、ステファンはフリードリヒの同席を許した。 元帥は少し躊躇ったが、意を決して先ほど入った情報をそのまま報告した。 >「卑劣漢のクロアチア王が我が国に宣戦を布告しました。我が国の正統な領土であるザダル州の強奪を目論んでいるようです」 #ref(013_1217.jpg,nolink) 予想外の展開 >「外征で求心力を高めるつもりなのでしょうな」 したり顔で補足するフリードリヒに王は少し苛立ちを感じたが、今は心強い味方である。 >「義兄上はザダルの防衛に向かわれた方がよいのでは?アカイア公国など我がシチリア軍だけで十分下してみせますよ」 >「…恩に着る」 不愉快だがフリードリヒの言う通りだった。 ステファンはザダル防衛に4000の兵を割き、元帥率いる少数の精鋭だけを遠征軍に残留させた 1217年7月 アカイア公国軍がセルビア領ゼタに上陸したとの報を受けた遠征軍はこれを迎え撃つべく10000の軍勢を現地に急行させた。 その主力はシチリア軍である。 #ref(014_1217.jpg,nolink) コトルの戦い アカイア軍は壊滅した 同じ頃、ステファン王率いるセルビア王軍もザダルの地でクロアチア軍を撃退していた。 1218年4月26日 アカイア公アンドロニコスは降伏。 密偵長コンスタンティノスがエピロス公となり、セルビア王国の版図に組み込まれる事となった。 #ref(015_1218.jpg,nolink) 密偵長エピロス公コンスタンティノス ステファンの婿養子である 一方建国まもないクロアチアにはこれ以上セルビアと戦い続ける力は残っていなかった。 何よりもハンガリーがいつ攻めてきてもおかしくない状況だったのである。 1218年5月8日 クロアチア王スチェパンはセルビアの白紙和平の提案に応じた。 #ref(016_1218.jpg,nolink) このくらいで勘弁しといてやる **エルサレム [#f7ecd39b] クロアチアと和平が成った事で王国は当面の平和は約束された。 ハンガリーの目はクロアチアに向いているし、ブリガリア・シチリアと同盟関係にあるセルビアに手をだしてくる事はないだろう。 ステファンの野心はギリシャに向いていたが、それには大義名分を手に入れる必要がありまだ当分時間がかかると思われた。 実際、セルビアが次に外征を行うのは実に15年も先の話になるのである。 1220年2月25日 ステファンは大臣ブラズをサラノ男爵に叙した。 またブラズを嫡子ステファンの教育係に任命し、更には王の身に何かがあった時の摂政就任予定者に指名した。 ブラズはシチリアやブルガリアとの婚姻同盟締結に多大な功績を残した功臣である。 #ref(017_1220.jpg,nolink) 大臣サラノ男爵ブラズ 大臣を教育係にして後継者を外交型にします。次代以降は当主が直接教育する予定 1220年3月20日 ステファンはブラズに留守を任せ、長年の悲願だったエルサレム巡礼に出発した。 途中、病人に施しをしたり巡礼仲間と友情を育んだりしながら聖地に到着したのは5月4日の事だった。 #ref(018_1220.jpg,nolink) おお、エルサレム! 巡礼を終え帰国したステファンは彼の地がムスリムに支配されている現実に強い憤りを感じていた。 エルサレム王国を僭称するカトリック勢力も不愉快な存在だが異教徒よりはマシだ。 1222年5月30日 ステファンは元帥ストラツィミールをクラグイェヴァツ男爵に叙した。 1222年6月1日 ステファンは甥ステファンをザダル主教に叙し、さらにセルビア総主教に任命した。 伯領クラスの主教はセルビア史上初めてである。 #ref(021_1222.jpg,nolink) 元帥クラグイェヴァツ男爵ストラツィミール 平民出身である #ref(022_1222.jpg,nolink) 総主教ザダル主教ステファン 兄ヴカンの三男にあたる こうして統治体制を整備したステファンが次に考えたことは、嫡子ステファンの嫁探しである。 **ハンガリー動乱 [#c75d0238] 1220年7月1日 ハンガリー王ラースロー3世はクロアチアに侵攻。第二次ハンガリー・クロアチア戦争が勃発した。 常識的に考えれば今回もハンガリーが圧倒するはずであり、実際ハンガリー王軍は破竹の勢いでクロアチア領を攻略していた。 しかしある時期を境に状況は激変する。 1220年11月3日 ハンガリー王ラースロー3世が暗殺された。 下手人はクロアチア王スチェパン3世の放った刺客である。 長女ジョルジが王位を継承したが彼女はわずか4歳であり、トランシルヴァニア公ジュラが摂政として大権を代行する事になった。 #ref(019_1220.jpg,nolink) ハンガリー女王ジョルジ 画像は翌年のもの 更には神聖ローマ帝国がクロアチア側に立って参戦するに及び、ハンガリーは建国以来最大の危機を迎える事になったのである。 #ref(020_1221.jpg,nolink) 窮地に立つハンガリー ステファンはハンガリーとの「最終的提携」を視野にいれた交渉を大臣ブラズに命じた。 1223年6月4日 ステファンの次女ジョヴァンカとスラヴォニア公メルクリーイェの嫡子プロホルの結婚が成立した。 メルクリーイェは第二次クロアチア王国の王であったが、今は一介の諸侯にすぎない。 婚約を破棄するべきとの声もあったしステファンもそのつもりだったのだが、本人同士が断固として拒否したのである。 (実際にはプレイヤーが破棄するのを忘れただけ) 1224年5月7日 ブルガリア王カロヤンが54歳で崩御。 次女マリヤが王位を継承した。 #ref(023_1224.jpg,nolink) ブルガリア女王マリヤ セルビアの王妃である マリヤはステファン2世の王妃であり、その子ステファンはセルビアとブルガリア両国の王位継承者という事になる。 1225年2月27日 セルビア及びブルガリアの王太子ステファンとハンガリー女王ジョルジの婚約が成立した。 #ref(024_1225.jpg,nolink) 歴史を変えた結婚その2 この婚約を決めたのはハンガリーの摂政であるトランシルヴァニア公ジュラである。 普通結婚で、しかも相手が正教徒という事で心あるハンガリー貴族たちはジュラを売国奴と糾弾したが、ジュラの立場からすれば亡国を避ける為には誰でもいいから同盟者が欲しかったのである。 この縁談は遠くない将来にネマニッチ家が3つの王冠を獲得する事を意味していた。 孫の代にはセルビア・ブルガリア・ハンガリーが統合されるのである。 縁談に満足したステファンの目は憧れのギリシャに向いていた。 ステファン2世の治世・後編へ[[AAR/ヘカトンケイルの門番/ステファン2世の治世・後編]]
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[[AAR/ヘカトンケイルの門番]] *ステファン2世の治世 ・前編 [#v759d82c] **王の結婚 [#ye6a8224] 1206年8月15日 王妹エフィミヤとシチリア王フリードリヒの婚約が成立した。 フリードリヒは神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェの子で帝国の帝位請求権を持つ。 ステファン2世の治世におけるセルビアの強大化は巧みな婚姻政策が功を奏した点が大きいのであるが、その最大の功労者は大臣のブラズであった。 ブラズが次に取り組んだのは王妃候補の選定である。 白羽の矢を立てたのはブルガリア王カロヤンの第二王女マリヤである。 1208年1月11日 セルビア王ステファン2世とブルガリア王女マリヤは結婚した。 大国ハンガリーに対向するための後ろ盾を期待しての政略結婚である。 #ref(000_1208.jpg,nolink) 歴史を変えた結婚その1 1211年1月29日 エフィミアとシチリア王フリードリヒの結婚が成立した。 これでブルガリア・シチリアの両大国との同盟が成立した事になる。 1212年1月2日 セルビア宮廷に一人の若者がやってきた。 コンスタンティノスと名乗るその若者は名門コムネノス・ドゥーカス家の出身で、エピロス専制公国の継承権を有していた。 エピロスはビザンツ亡命政権の一つだったが、1211年にアカイア公国に併合され滅亡していたのである。 ステファンはコンスタンティノスを密偵長に任命した上で長女コミニアの婿とした。 2年後にはスヴェティ・スパス男爵領も与えている。 奇貨居くべし、である。 同じ頃、ステファンは大臣ブラズにダルマチア地方の都市ザダルの調査を命じている。 ザダルはどの勢力にも属していない独立伯領を形勢しており、領有権の証明する古文書さえ見つかれば簡単に占領できるのだ。 **クロアチア独立 [#v9295770] 1208年11月23日 クロアチア貴族たちはスラヴォニア公メルクリーイェを旗頭にクロアチア王国の独立を宣言した。 クロアチアはセルビアより3世紀も早く王国を樹立していたが、1102年にハンガリー王カールマーンに併合され独立を失って久しかった。 ハンガリーは現地の豪族をバン(太守)に任じて間接統治を敷いており、新たにクロアチア王を称したメルクリーイェもそうした太守の一人であった。その出身母体からこの王朝をスラヴォニア朝と呼ぶ。 #ref(001_1208.jpg,nolink) 第二次クロアチア王国の版図 ボスニア地方は独立に加わっていない 1209年5月31日 ブルガリア支配下にあったワラキア大首長エレトクが独立を求め反乱を起こした。 独立のうねりは東欧全体に広がりつつあったのだ。 1209年8月30日 ステファンの次女ジョヴァンカとクロアチア王子プロホルの婚約が成立した。 ハンガリーに対する備えとして将来の同盟関係を期待しての婚約であったのだが、結果としてそのアテは外れる事になる。 言うまでもないことであるが、独立は宣言しただけで達成出来るものではない。 ハンガリー王イムレは不埒な逆賊を懲らしめるべく追討軍を繰り出してきた。 第一次ハンガリー・クロアチア戦争の勃発である。 #ref(003_1212.jpg,nolink) クロアチアVSハンガリー・ボヘミア連合 勝負は見えている **ベオグラード再征服戦争 [#s3534abf] 1211年12月 ステファン2世は顧問会議を招集してハンガリー・クロアチア情勢について意見を求めた。 戦況はハンガリー優勢に推移しているが、ハンガリー国内にも独立を目論む諸侯がおり情勢はなお流動的である。 もっとも、多少の時間はかかるにせよ最終的にはハンガリーが勝つものと思われる。 密偵長コンスタンティノスの報告を受けて大臣ブラズは顔をしかめた。 >「クロアチアとの縁談は破棄した方がよいでしょうな」 >「いや、そうとも言えぬ」 王は今こそ長年の悲願を果たす好機であると考えていた。 セルビアの慣習的領域ベオグラードをハンガリー支配から解放するのである。 >「なりませぬぞ!ハンガリーは大国です。クロアチアが落ちれば我が国などあっという間に呑み込まれましょう」 >「勝てるのは今しかない!今ならブルガリアとの同盟もある。ハンガリーは3国を相手にする事になるのだ」 >「されど、資金がありませぬ」 家令ヴラディスラフに向かって、王はこう言い放ったと伝わる。 >「ユダヤ人どもに借りれば良い。奴らはその為に生きておる」 1212年1月13日 セルビア王ステファンはベオグラードの慣習的領有権を主張し、ハンガリーに対し宣戦を布告した。 ステファンの期待通りブルガリア王カロヤンも参戦を表明し、ここにベオグラード再征服戦争が勃発した。 #ref(004_1212.jpg,nolink) ベオグラード 古代から争奪戦が繰り返されてきたこの都市は140回もの戦火にさらされてきたと伝わる 元帥シメオン率いるセルビア軍4000が王都を出立した直後、ブルガリアの内乱が収束したとの知らせが届いた。 これでブルガリアの全面的な援軍が期待できるようになる。 1213年8月23日 ハンガリーからの独立を求めニトラ公ミクローシュが反乱を起こす。 イムレ王は4つの敵と同時に戦う事態に陥ったのである。 #ref(002_1213.jpg,nolink) ニトラ公の乱 ハンガリーは苦境に立たされている 当初、セルビア・ブルガリア連合軍はハンガリー領を一方的に荒らしまわっていたのだが、1214年に入り状況に変化が現れる。 ボヘミアとアラゴンがハンガリー側に立って参戦したのである。 1214年10月8日 両軍はクロアチアのクリジェーブツィで激突した。 #ref(025_1214.jpg,nolink) クリジェーブツィの戦い 両軍とも主力は同盟軍(ブルガリアとアラゴン)になっている この戦いでアラゴン軍の主力は壊滅した。 残すはボヘミア軍である。 ステファンは国庫の財宝を使い尽くす覚悟で傭兵部隊を雇用。遠征軍に合流させた。 #ref(005_1214.jpg,nolink) カロチャの戦い この戦いが戦争の趨勢を決した。 1215年1月10日 ハンガリー王イムレは降伏。 ベオグラードは正統な支配者の下に返ってきたのである。 **長子相続制 [#n9275c4d] 1214年2月18日 ステファンとマリヤの間に男子ステファンが誕生した。 長男ラドスラヴは夭折していたのでこの子が王位継承者という事になる。 1214年5月29日 セルビア総主教ラストコが逝去した。41歳であった。 彼はステファンの次兄(史実では弟)であり、後世、聖サヴァと呼ばれセルビアで最も偉大な聖人と讃えられる事になる人物である。 ステファンも深い哀悼の意を表し王国全土で追悼のミサが挙行された。 しかし政治に停滞は許されない。 ステファンはデカニ司祭シニシャを第二代総主教に任命し、セルビア教会の継続を内外に示した。 1215年1月11日 ステファンは長兄ヴカンをゼタ伯に叙した。 ゼタはヴカンの旧領であり、9年前にステファン自身が剥奪した土地である。 今や王の権威は全土に浸透しており、ヴカンの存在は脅威ではなくなっていたのである。 1216年7月13日 ステファン2世はドゥブロヴニクの王宮に国内の全ての成人王族を召集した。 王妃マリヤと長女コミニア。 長女の夫で密偵長のコンスタンティノス(女系結婚である) 王の兄、ゼタ伯ヴカンとその長男ジョルジェ、次男ヴラディン、三男ステファン。 従兄弟にあたるフム伯家一族はブルガリア王カロヤンのもとに身を寄せており、王国内の成人王族はこれで全てである。 この王族会議で、ステファンは王国の将来に決定的な影響を与える決定を下した。 これまでの分割相続を廃止し、長子相続を導入したのである。 王族会議を終え全員が帰途についた後、密偵長コンスタンティノスだけが王のもとに残った。 秘密の打ち合わせがあるのである。 近くに王妃マリヤがいないことを確認するといきなり本題に入った。 >「賛同者はあつまりそうか?」 >「手応えは十分あります。ビルヤナ様は家臣からはあまり好かれていないようですな」 ビルヤナはブルガリア王カロヤンの長女である。 カロヤンには男子がいないため現時点では彼女が王位継承者という事になる。 ところでカロヤンにはもう一人娘がいる。 次女の名はマリヤ。セルビアの王妃である。 #ref(008_1215.jpg,nolink) ビルヤナ暗殺計画 3年後、ビルヤナは不慮の事故で他界しマリヤが王位継承者となった。 **ザダル併合 [#l43d71a4] 1215年1月21日 セルビアは独立勢力だったダルマチア地方のザダル伯領に宣戦を布告した。 #ref(007_1215.jpg,nolink) ザダル伯領 ネマニッチ家がザダルの正統な統治者である事を証明する古文書が発見された事が大義名分とされたが、偽書である事は明白であろう。 尤も、偽物だと証明する方法があるわけでもないし、証明したところで手遅れだったろう。 1216年7月10日 ザダル伯領はセルビア王国に併合された。 **クロアチア情勢 [#ce97adc6] 1216年3月17日 ハンガリーはクロアチア全土を征服。 メルクリーイェ王は退位しクロアチアはハンガリー王国に併合された。 わずか8年という短命な王朝であった。 #ref(009_1216.jpg,nolink) 画像はザダル併合後のものです これで大ハンガリー王国復活かと思われたが、事態は意外な展開をたどる事になる。 1217年3月28日 ハンガリー王イムレが暗殺され、長男ラースロー3世が王位を継承した。 翌3月29日、ボスニア公スチェパンがクロアチア王位を宣言。 前王メルクリーイェ以下クロアチア貴族たちもスチェパンの下に結集し、クロアチアは併合から1年で再独立を果たすことになった。 #ref(026_1217.jpg,nolink) 第三次クロアチア王国 王家の出自からボスニア朝とよぶこともある #ref(012_1217.jpg,nolink) クロアチア王スチェパン3世 ハンガリー王暗殺の翌日に独立宣言という絶妙なタイミングから、イムレ暗殺はスチェパンの差金ではないかと思われたが、事実はニトラ公ミクローシュによる犯行であった。 **エピロス継承戦争 [#ne47d935] 1216年8月6日 ステファンは家令ヴラディスラフを解任し、後任にはゼムン市長ラヨシュを任命した。 #ref(010_1216.jpg,nolink) 家令ゼムン市長ラヨシュ ハンガリー人である また10月17日には元帥シメオンを解任し、後任に同じく平民出身のストラツィミールを任命している。 1216年11月29日 セルビアはアカイア公国に宣戦を布告した。 密偵長コンスタンティノスの有するエピロス専制公国の継承権を行使したのである。 #ref(011_1216.jpg,nolink) アカイア公国とエピロス エピロスはアカイアに併合されていた 1217年4月21日 この日、セルビア王ステファンはガレー船上にいた。 セルビア・シチリア連合軍は海路でペロポネソス半島に向かい、一気に制圧するつもりなのだ。 ステファンの傍らには義弟である若きシチリア王フリードリヒがいる。 2人の話題の中心は目の前のアカイアではなく、昨月再独立を果たしたクロアチアの情勢であった。 >「独立間もないクロアチアでは王の権威が確立されておりません。またハンガリーに呑まれてしまうのではないですか?」 >「しかしハンガリーも王の交代とニトラ公の独立で混乱状態にある。しばらくは動けまいよ」 今回、ブルガリア王カロヤンはモルダウとの聖戦で援軍を出す余裕が無いと伝えてきたが、フリードリヒは律儀にも自ら兵を率いて参戦してくれた。 勿論、この義弟には彼の思惑がある。 彼は神聖ローマ皇帝の座を狙っており、その為に義兄の助力を当てにしているのだ。 そこに同船していた元帥ストラツィミールがやってきた。 >「陛下、お耳に入れたいことが…」 ストラツィミールは人払いを求めたが、ステファンはフリードリヒの同席を許した。 元帥は少し躊躇ったが、意を決して先ほど入った情報をそのまま報告した。 >「卑劣漢のクロアチア王が我が国に宣戦を布告しました。我が国の正統な領土であるザダル州の強奪を目論んでいるようです」 #ref(013_1217.jpg,nolink) 予想外の展開 >「外征で求心力を高めるつもりなのでしょうな」 したり顔で補足するフリードリヒに王は少し苛立ちを感じたが、今は心強い味方である。 >「義兄上はザダルの防衛に向かわれた方がよいのでは?アカイア公国など我がシチリア軍だけで十分下してみせますよ」 >「…恩に着る」 不愉快だがフリードリヒの言う通りだった。 ステファンはザダル防衛に4000の兵を割き、元帥率いる少数の精鋭だけを遠征軍に残留させた 1217年7月 アカイア公国軍がセルビア領ゼタに上陸したとの報を受けた遠征軍はこれを迎え撃つべく10000の軍勢を現地に急行させた。 その主力はシチリア軍である。 #ref(014_1217.jpg,nolink) コトルの戦い アカイア軍は壊滅した 同じ頃、ステファン王率いるセルビア王軍もザダルの地でクロアチア軍を撃退していた。 1218年4月26日 アカイア公アンドロニコスは降伏。 密偵長コンスタンティノスがエピロス公となり、セルビア王国の版図に組み込まれる事となった。 #ref(015_1218.jpg,nolink) 密偵長エピロス公コンスタンティノス ステファンの婿養子である 一方建国まもないクロアチアにはこれ以上セルビアと戦い続ける力は残っていなかった。 何よりもハンガリーがいつ攻めてきてもおかしくない状況だったのである。 1218年5月8日 クロアチア王スチェパンはセルビアの白紙和平の提案に応じた。 #ref(016_1218.jpg,nolink) このくらいで勘弁しといてやる **エルサレム [#f7ecd39b] クロアチアと和平が成った事で王国は当面の平和は約束された。 ハンガリーの目はクロアチアに向いているし、ブリガリア・シチリアと同盟関係にあるセルビアに手をだしてくる事はないだろう。 ステファンの野心はギリシャに向いていたが、それには大義名分を手に入れる必要がありまだ当分時間がかかると思われた。 実際、セルビアが次に外征を行うのは実に15年も先の話になるのである。 1220年2月25日 ステファンは大臣ブラズをサラノ男爵に叙した。 またブラズを嫡子ステファンの教育係に任命し、更には王の身に何かがあった時の摂政就任予定者に指名した。 ブラズはシチリアやブルガリアとの婚姻同盟締結に多大な功績を残した功臣である。 #ref(017_1220.jpg,nolink) 大臣サラノ男爵ブラズ 大臣を教育係にして後継者を外交型にします。次代以降は当主が直接教育する予定 1220年3月20日 ステファンはブラズに留守を任せ、長年の悲願だったエルサレム巡礼に出発した。 途中、病人に施しをしたり巡礼仲間と友情を育んだりしながら聖地に到着したのは5月4日の事だった。 #ref(018_1220.jpg,nolink) おお、エルサレム! 巡礼を終え帰国したステファンは彼の地がムスリムに支配されている現実に強い憤りを感じていた。 エルサレム王国を僭称するカトリック勢力も不愉快な存在だが異教徒よりはマシだ。 1222年5月30日 ステファンは元帥ストラツィミールをクラグイェヴァツ男爵に叙した。 1222年6月1日 ステファンは甥ステファンをザダル主教に叙し、さらにセルビア総主教に任命した。 伯領クラスの主教はセルビア史上初めてである。 #ref(021_1222.jpg,nolink) 元帥クラグイェヴァツ男爵ストラツィミール 平民出身である #ref(022_1222.jpg,nolink) 総主教ザダル主教ステファン 兄ヴカンの三男にあたる こうして統治体制を整備したステファンが次に考えたことは、嫡子ステファンの嫁探しである。 **ハンガリー動乱 [#c75d0238] 1220年7月1日 ハンガリー王ラースロー3世はクロアチアに侵攻。第二次ハンガリー・クロアチア戦争が勃発した。 常識的に考えれば今回もハンガリーが圧倒するはずであり、実際ハンガリー王軍は破竹の勢いでクロアチア領を攻略していた。 しかしある時期を境に状況は激変する。 1220年11月3日 ハンガリー王ラースロー3世が暗殺された。 下手人はクロアチア王スチェパン3世の放った刺客である。 長女ジョルジが王位を継承したが彼女はわずか4歳であり、トランシルヴァニア公ジュラが摂政として大権を代行する事になった。 #ref(019_1220.jpg,nolink) ハンガリー女王ジョルジ 画像は翌年のもの 更には神聖ローマ帝国がクロアチア側に立って参戦するに及び、ハンガリーは建国以来最大の危機を迎える事になったのである。 #ref(020_1221.jpg,nolink) 窮地に立つハンガリー ステファンはハンガリーとの「最終的提携」を視野にいれた交渉を大臣ブラズに命じた。 1223年6月4日 ステファンの次女ジョヴァンカとスラヴォニア公メルクリーイェの嫡子プロホルの結婚が成立した。 メルクリーイェは第二次クロアチア王国の王であったが、今は一介の諸侯にすぎない。 婚約を破棄するべきとの声もあったしステファンもそのつもりだったのだが、本人同士が断固として拒否したのである。 (実際にはプレイヤーが破棄するのを忘れただけ) 1224年5月7日 ブルガリア王カロヤンが54歳で崩御。 次女マリヤが王位を継承した。 #ref(023_1224.jpg,nolink) ブルガリア女王マリヤ セルビアの王妃である マリヤはステファン2世の王妃であり、その子ステファンはセルビアとブルガリア両国の王位継承者という事になる。 1225年2月27日 セルビア及びブルガリアの王太子ステファンとハンガリー女王ジョルジの婚約が成立した。 #ref(024_1225.jpg,nolink) 歴史を変えた結婚その2 この婚約を決めたのはハンガリーの摂政であるトランシルヴァニア公ジュラである。 普通結婚で、しかも相手が正教徒という事で心あるハンガリー貴族たちはジュラを売国奴と糾弾したが、ジュラの立場からすれば亡国を避ける為には誰でもいいから同盟者が欲しかったのである。 この縁談は遠くない将来にネマニッチ家が3つの王冠を獲得する事を意味していた。 孫の代にはセルビア・ブルガリア・ハンガリーが統合されるのである。 縁談に満足したステファンの目は憧れのギリシャに向いていた。 ステファン2世の治世・後編へ[[AAR/ヘカトンケイルの門番/ステファン2世の治世・後編]]
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