AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR/栄光のミルザ
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[[AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR/壮大なるサディク]] *栄光のミルザ [#p8e7b67a] 地上における神の影、諸スルタンのスルタン、全アラビアの諸地方と 我らが剣をもって勝ち得た多くの諸国土の皇帝である、スルタン・セディクの子、 カリフ・ミルザによって、全てが正統に治まった。 -Ibn al-Juwayni- **西暦1039年 スルタン・ミルザ [#oa9e06cc] ファーティマ朝5代スルタン・サディクの死後、後を継いだのはサディクの長男ミルザであった。 #ref(miruzaq.png,wrap); モーリタニアの支配者にして全シーア派教徒の指導者たるカリフ・イクシの娘との間に生まれた子で、 即位時は15歳と若いスルタンであったが、その高貴さ故に服さぬ者はいなかったという。 首都ダマスカスでスルタン・ミルザの即位を祝う壮大な式典を行なわれる中、 スルタンミルザは父サディクの言葉を思い出していた。 「西はモーリタニア、東はペルシア、北はビザンティン、そして最後はイスラム世界の頂点へ」 **西暦1040年 威勢再び [#t77ca4b3] フランクの攻勢によってエルサレム領を再度消失したファーティマ朝ではあったが チグリス・ユーフラテス川流域からもたらされる莫大な富によって、すぐにファーティマ朝は力を取り戻した。 #ref(sirukuq.png,wrap); 西欧に達するシルクロードは3つあり ファーティマ朝はその内2つが領内にあり、 チグリス・ユーフラテス川の交易路は直轄領としていた。 首都をダマスカスからバグダッドに移したスルタンミルザは、それを内外に示すべく、 国内のすべての偉大な戦士を召集。フルシイヤ(Furusiyya)の開催を宣言した。 それまでも度々、同様の武闘大会は行われてきたが この年のものは、かつてない程の壮麗なものとなり諸将にファーティマ朝が未だ強盛である事を印象付けた。 また、同年にはハッジ(メッカへの巡礼)も行なわれたが、 こちらも例年よりスルタンの護衛・従者は多くされ、威容を示す目的として行われた意味が大きかった。 **西暦1041年 トリポリ遠征 [#f45cd591] 「未だアッバース朝に服するイフリーキヤのイズリを征討する」 #ref(toriporiq.png,wrap); この年、スルタンミルザは東マグリブのアグラブ朝に対して宣戦を布告。 アグラブ朝スルタン・イズリは陸路、海路から同時に攻め立てられ、碌な抵抗もできなかったという。 翌年にはファーティマ朝はトリポリ地方を完全に掌握。 トリポリ太守領の設立を宣言した。 #ref(agurabuq.png,wrap); アグラブ朝開祖イブラヒム・イブン・アグラブ アッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッ=ラシードの時代、カリフへの金貨の貢納を条件に イブラヒムがマグリブ東部の総督(アミール)となった。 このイブラヒムによってアッバース朝の宗主権を認める独立地方政権としてアグリブ朝は興り、 最盛期にはイタリア半島南部にまで勢力を拡げた。 ちなみにアグリブ朝を滅ぼしチュニスに興ったのが史実でのファーティマ朝の始まりである。 **西暦1047年 聖地奪還 [#sabf8c12] モーリタニアのスルタンにして、全シーア派の指導者であるカリフ・ウグワイスタン(Ugwistan)は、 エルサレムをキリスト教徒から再びイスラム教徒の手に取り戻す為に、全ての忠実なるシーア派教徒に この聖戦に参加するよう呼びかけが行われた。 ジハード宣言である。 これを受けて、スルタンミルザはエルサレムに向けて大軍を発し諸将に宣言した。 「父サディクの名誉を回復する。 私自ら陣頭に立ちホスピタル騎士団、イングランド王ヘアバート、アスカロン伯クララ。 そのことごとくを討ち破りフランク人をエルサレムから永久に追放する。」 この戦いに際し、復讐に燃えるファーティマ朝とは違いキリスト勢力は振るわなかった。 エルサレムの地に立ち戦ったのは、エルサレムの地に領土を持つ領主達だけであり、 ホスピタル騎士団さえ、根拠地のアンダルシアから援軍を送る事はなかった。 唯一、イングランド王ヘアバートは度々援軍を派兵したが、海岸で待ち構えるファーティマ朝の軍隊に 阻まれ、上陸しては屍を増やすだけとなっていた。 そして西暦1051年、全シーア派の指導者であるカリフ・ウグワイスタンはジハードの勝利を宣言した。 フランク人によって奪われていたエルサレムは、当然ながらスルタンミルザに与えられる事となり、 ファーティマ朝はアスカロン太守領およびエルサレム太守領を回復した。 #ref(yurusarenuq.png,wrap); アルカラク、アクレ、ダルムを除く諸都市を奪還 このフランク人に対する勝利に、人々は口々にスルタンミルザを讃え、この時の尊称の一つとして 「栄光の」ミルザの名は歴史上に現れ、後世この名が定着する事となる。 **西暦1054年 チュニス遠征 [#aa3f3f85] この年、スルタンミルザはアグラブ朝チュニス領に侵攻し、2年後チュニス共和国を設立しバグダッドに帰還した。 #ref(tradezonesq.png,wrap);チュニス近郊の商業圏 チュニス共和国は、シナイ共和国同様にジェノバやヴェネツィアに代表されるフランク商人達に対抗し、 イスラム商業圏を拡大する事を期待されていたが、その商業圏はチュニス近郊に留まり、 対岸への影響力は微々たるものであった。 西地中海はフランク商人達の牙城と化しており、 それに食い込むのは至難の業といっていい状況だった。 一方、東地中海ではシナイ共和国が商業圏を大きく広げ、チュニスと併せれば フランク商人達と十分に渡り合える力をつけつつあった。 **西暦1063年 地上における神の影 [#h06eca32] この年、モーリタニアのスルタンにして、全シーア派教徒の指導者であるカリフ・イクシ2世が逝去した。 後を継いで第18代カリフの地位についたのは、わずか9歳の少年ティファンであった。 だが、この継承を認めない者がいた。 先々代カリフの孫であったスルタンミルザである。 スルタンミルザは自身のカリフ位継承権を主張し、アレクサンドリアから大船団を率いてモーリタニアに進軍。 エルリフ(ElRif)の地に上陸すると、あっという間にモーリタニアの首都マラケシュを落とした。 スルタンミルザは、ティファンを玉座から引きずり降ろすと、居並ぶ諸将を前に 第18代カリフの継承を宣言した。 しかし、名目上とはいえ第3代スルタン・タリブの代から イドリース朝のカリフ位を承認してきた事もあり、ファーティマ朝のシーア派教徒の少なくない数が、 この簒奪劇に不満を露にした。 スルタンミルザは、自身が12代イマーム・アリーの子孫であり、 これは本来あるべき姿、すなわち正統への回帰である と諸将に弁明し、その気持ちを宥めたという。 #ref(ketuq.png,wrap);預言者の系図 **西暦1066年 全アラビアの皇帝 [#eab429cd] この年、アラビア皇帝にして全スンニ派教徒の指導者であるカリフ・ファルークが、 シリアとモーリタニアのスルタンにして、全シーア派教徒の指導者であるカリフ・ミルザに帝位を禅譲するという 歴史的な出来事があった。 かつてバグダッドを追われ、アゼルバイジャンに逃れていたアッバース朝アラビア帝国は そこから一時はアルメニア・グルジアに勢力を拡げ、再興の兆しを見せたが、 遊牧民マジャール族の襲撃やグルジア王国の反攻により一気に衰退。 遊牧民やキリスト教徒に滅ぼされるよりはと、宿敵であるファーティマ朝の庇護を求めたという経緯であった。 カリフ・ファルークはアッバース家によるアゼルバイジャンでの支配の安堵と、自身の信仰の保障を求め、 代わりにカリフ・ミルザへの帝位の禅譲と、ファーティマ朝の宗主権を承認する事を条件とした。 シーア派教徒の諸将達はカリフミルザに対して口々に反対の意見を述べたが これらをカリフミルザは抑え、カリフ・ファルークからの提案を快く受け入れた。 かくしてカリフ・ファルークからの帝位禅譲を受け、第35代アラビア皇帝にカリフミルザが即位した。 アッバース朝の宗主権下にあった各地の太守達は、このカリフ・ファルークの振る舞いに激怒し、 特にスンニ派のモスル太守、ケルマンシャー太守などは、あくまでファーティマ朝には 従わない事を表明し独立してまで交戦を続けたが、後年ファーティマ朝によって滅ぼされた。 帝位についたカリフミルザは、その後もイスラム世界を統一すべくサッファール朝からペルシアを奪い、これを服属させ、 ファーティマ朝にとっては4度目となる十字軍も退け、イスラム世界の守護者として振舞った。 #ref(ck2_map_1q.png,wrap); ファーティマ朝最盛期の世界地図 *その後 [#u7db9c07] カリフミルザは晩年に、高名な神学者でありイブン・アル=ジュワイニーを招聘し、 初代スルタン・フサインの代から自身の代までのシリアの歴史書を編纂させ、ファーティマによるシリアの物語を終わりとした。 そして、これから刻まれるファーティマによるアラビアの歴史に思いを馳せ、 死んでいったという。 だがミルザの死後、ファーティマ朝アラビア帝国はあっという間に崩壊した。 というのもミルザの後を継いだカリフ・ファドルは 評議会開催を要求する諸侯との戦いに敗れ、これ以降ファーティマ朝は それまでの絶対君主制を維持できずに、かつてアッバース朝がそうであったように 徐々に力を失っていき、独立した地方政権が跋扈する事態となっていった。 ファーティマ朝の栄光はミルザによってもたらされ、ミルザの死によって失われたという事になる。 ただ、かつてとは違い地方に跋扈した者達はスンニ派ではなくシーア派のイスラム教徒達であった。 ここからファーティマ朝の歴史的な役割は、現代のイスラム世界においてシーア派が主流派となる流れを産んだ点にあるとされる。 完
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[[AAR/ファーティマ朝シリア王国AAR/壮大なるサディク]] *栄光のミルザ [#p8e7b67a] 地上における神の影、諸スルタンのスルタン、全アラビアの諸地方と 我らが剣をもって勝ち得た多くの諸国土の皇帝である、スルタン・セディクの子、 カリフ・ミルザによって、全てが正統に治まった。 -Ibn al-Juwayni- **西暦1039年 スルタン・ミルザ [#oa9e06cc] ファーティマ朝5代スルタン・サディクの死後、後を継いだのはサディクの長男ミルザであった。 #ref(miruzaq.png,wrap); モーリタニアの支配者にして全シーア派教徒の指導者たるカリフ・イクシの娘との間に生まれた子で、 即位時は15歳と若いスルタンであったが、その高貴さ故に服さぬ者はいなかったという。 首都ダマスカスでスルタン・ミルザの即位を祝う壮大な式典を行なわれる中、 スルタンミルザは父サディクの言葉を思い出していた。 「西はモーリタニア、東はペルシア、北はビザンティン、そして最後はイスラム世界の頂点へ」 **西暦1040年 威勢再び [#t77ca4b3] フランクの攻勢によってエルサレム領を再度消失したファーティマ朝ではあったが チグリス・ユーフラテス川流域からもたらされる莫大な富によって、すぐにファーティマ朝は力を取り戻した。 #ref(sirukuq.png,wrap); 西欧に達するシルクロードは3つあり ファーティマ朝はその内2つが領内にあり、 チグリス・ユーフラテス川の交易路は直轄領としていた。 首都をダマスカスからバグダッドに移したスルタンミルザは、それを内外に示すべく、 国内のすべての偉大な戦士を召集。フルシイヤ(Furusiyya)の開催を宣言した。 それまでも度々、同様の武闘大会は行われてきたが この年のものは、かつてない程の壮麗なものとなり諸将にファーティマ朝が未だ強盛である事を印象付けた。 また、同年にはハッジ(メッカへの巡礼)も行なわれたが、 こちらも例年よりスルタンの護衛・従者は多くされ、威容を示す目的として行われた意味が大きかった。 **西暦1041年 トリポリ遠征 [#f45cd591] 「未だアッバース朝に服するイフリーキヤのイズリを征討する」 #ref(toriporiq.png,wrap); この年、スルタンミルザは東マグリブのアグラブ朝に対して宣戦を布告。 アグラブ朝スルタン・イズリは陸路、海路から同時に攻め立てられ、碌な抵抗もできなかったという。 翌年にはファーティマ朝はトリポリ地方を完全に掌握。 トリポリ太守領の設立を宣言した。 #ref(agurabuq.png,wrap); アグラブ朝開祖イブラヒム・イブン・アグラブ アッバース朝第5代カリフ・ハールーン・アッ=ラシードの時代、カリフへの金貨の貢納を条件に イブラヒムがマグリブ東部の総督(アミール)となった。 このイブラヒムによってアッバース朝の宗主権を認める独立地方政権としてアグリブ朝は興り、 最盛期にはイタリア半島南部にまで勢力を拡げた。 ちなみにアグリブ朝を滅ぼしチュニスに興ったのが史実でのファーティマ朝の始まりである。 **西暦1047年 聖地奪還 [#sabf8c12] モーリタニアのスルタンにして、全シーア派の指導者であるカリフ・ウグワイスタン(Ugwistan)は、 エルサレムをキリスト教徒から再びイスラム教徒の手に取り戻す為に、全ての忠実なるシーア派教徒に この聖戦に参加するよう呼びかけが行われた。 ジハード宣言である。 これを受けて、スルタンミルザはエルサレムに向けて大軍を発し諸将に宣言した。 「父サディクの名誉を回復する。 私自ら陣頭に立ちホスピタル騎士団、イングランド王ヘアバート、アスカロン伯クララ。 そのことごとくを討ち破りフランク人をエルサレムから永久に追放する。」 この戦いに際し、復讐に燃えるファーティマ朝とは違いキリスト勢力は振るわなかった。 エルサレムの地に立ち戦ったのは、エルサレムの地に領土を持つ領主達だけであり、 ホスピタル騎士団さえ、根拠地のアンダルシアから援軍を送る事はなかった。 唯一、イングランド王ヘアバートは度々援軍を派兵したが、海岸で待ち構えるファーティマ朝の軍隊に 阻まれ、上陸しては屍を増やすだけとなっていた。 そして西暦1051年、全シーア派の指導者であるカリフ・ウグワイスタンはジハードの勝利を宣言した。 フランク人によって奪われていたエルサレムは、当然ながらスルタンミルザに与えられる事となり、 ファーティマ朝はアスカロン太守領およびエルサレム太守領を回復した。 #ref(yurusarenuq.png,wrap); アルカラク、アクレ、ダルムを除く諸都市を奪還 このフランク人に対する勝利に、人々は口々にスルタンミルザを讃え、この時の尊称の一つとして 「栄光の」ミルザの名は歴史上に現れ、後世この名が定着する事となる。 **西暦1054年 チュニス遠征 [#aa3f3f85] この年、スルタンミルザはアグラブ朝チュニス領に侵攻し、2年後チュニス共和国を設立しバグダッドに帰還した。 #ref(tradezonesq.png,wrap);チュニス近郊の商業圏 チュニス共和国は、シナイ共和国同様にジェノバやヴェネツィアに代表されるフランク商人達に対抗し、 イスラム商業圏を拡大する事を期待されていたが、その商業圏はチュニス近郊に留まり、 対岸への影響力は微々たるものであった。 西地中海はフランク商人達の牙城と化しており、 それに食い込むのは至難の業といっていい状況だった。 一方、東地中海ではシナイ共和国が商業圏を大きく広げ、チュニスと併せれば フランク商人達と十分に渡り合える力をつけつつあった。 **西暦1063年 地上における神の影 [#h06eca32] この年、モーリタニアのスルタンにして、全シーア派教徒の指導者であるカリフ・イクシ2世が逝去した。 後を継いで第18代カリフの地位についたのは、わずか9歳の少年ティファンであった。 だが、この継承を認めない者がいた。 先々代カリフの孫であったスルタンミルザである。 スルタンミルザは自身のカリフ位継承権を主張し、アレクサンドリアから大船団を率いてモーリタニアに進軍。 エルリフ(ElRif)の地に上陸すると、あっという間にモーリタニアの首都マラケシュを落とした。 スルタンミルザは、ティファンを玉座から引きずり降ろすと、居並ぶ諸将を前に 第18代カリフの継承を宣言した。 しかし、名目上とはいえ第3代スルタン・タリブの代から イドリース朝のカリフ位を承認してきた事もあり、ファーティマ朝のシーア派教徒の少なくない数が、 この簒奪劇に不満を露にした。 スルタンミルザは、自身が12代イマーム・アリーの子孫であり、 これは本来あるべき姿、すなわち正統への回帰である と諸将に弁明し、その気持ちを宥めたという。 #ref(ketuq.png,wrap);預言者の系図 **西暦1066年 全アラビアの皇帝 [#eab429cd] この年、アラビア皇帝にして全スンニ派教徒の指導者であるカリフ・ファルークが、 シリアとモーリタニアのスルタンにして、全シーア派教徒の指導者であるカリフ・ミルザに帝位を禅譲するという 歴史的な出来事があった。 かつてバグダッドを追われ、アゼルバイジャンに逃れていたアッバース朝アラビア帝国は そこから一時はアルメニア・グルジアに勢力を拡げ、再興の兆しを見せたが、 遊牧民マジャール族の襲撃やグルジア王国の反攻により一気に衰退。 遊牧民やキリスト教徒に滅ぼされるよりはと、宿敵であるファーティマ朝の庇護を求めたという経緯であった。 カリフ・ファルークはアッバース家によるアゼルバイジャンでの支配の安堵と、自身の信仰の保障を求め、 代わりにカリフ・ミルザへの帝位の禅譲と、ファーティマ朝の宗主権を承認する事を条件とした。 シーア派教徒の諸将達はカリフミルザに対して口々に反対の意見を述べたが これらをカリフミルザは抑え、カリフ・ファルークからの提案を快く受け入れた。 かくしてカリフ・ファルークからの帝位禅譲を受け、第35代アラビア皇帝にカリフミルザが即位した。 アッバース朝の宗主権下にあった各地の太守達は、このカリフ・ファルークの振る舞いに激怒し、 特にスンニ派のモスル太守、ケルマンシャー太守などは、あくまでファーティマ朝には 従わない事を表明し独立してまで交戦を続けたが、後年ファーティマ朝によって滅ぼされた。 帝位についたカリフミルザは、その後もイスラム世界を統一すべくサッファール朝からペルシアを奪い、これを服属させ、 ファーティマ朝にとっては4度目となる十字軍も退け、イスラム世界の守護者として振舞った。 #ref(ck2_map_1q.png,wrap); ファーティマ朝最盛期の世界地図 *その後 [#u7db9c07] カリフミルザは晩年に、高名な神学者でありイブン・アル=ジュワイニーを招聘し、 初代スルタン・フサインの代から自身の代までのシリアの歴史書を編纂させ、ファーティマによるシリアの物語を終わりとした。 そして、これから刻まれるファーティマによるアラビアの歴史に思いを馳せ、 死んでいったという。 だがミルザの死後、ファーティマ朝アラビア帝国はあっという間に崩壊した。 というのもミルザの後を継いだカリフ・ファドルは 評議会開催を要求する諸侯との戦いに敗れ、これ以降ファーティマ朝は それまでの絶対君主制を維持できずに、かつてアッバース朝がそうであったように 徐々に力を失っていき、独立した地方政権が跋扈する事態となっていった。 ファーティマ朝の栄光はミルザによってもたらされ、ミルザの死によって失われたという事になる。 ただ、かつてとは違い地方に跋扈した者達はスンニ派ではなくシーア派のイスラム教徒達であった。 ここからファーティマ朝の歴史的な役割は、現代のイスラム世界においてシーア派が主流派となる流れを産んだ点にあるとされる。 完
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