AAR/バべンベルグ家興亡史/王シモン1世の治世
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王シモン1世の治世
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[[AAR/バべンベルグ家興亡史/王ジグフリート1世の治世]] *十代目 バイエルン王シモン1世 [#s06cc367] **スタート時の状況 [#e46d5e54] &ref(周辺状況_1329.jpg); &size(12){''帝国は内乱中''}; &ref(王朝図_1329.jpg); &size(12){''ジグフリート1世は3人の男子、2人の女子を設け、孫が12人、ひ孫が4人。''}; |相続した王位|バイエルン、クロアチア| |相続した公爵位|オーストリア| |相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケンプテン、ザグレブ| |相続した男爵位|ステイル| &size(12){''即位時に称号なし''}; > 1329年10月。シモン世は49才でバイエルン・クロアチア王に即位した。妻は、元々サヴォイエ女公爵フリードリカであったが、 既に亡くなっており、後妻にセシリエ・フォン・ソルシー・サン・マルタン。 &ref(シモン1世.jpg); &size(12){''稚拙な策謀家、庭師、野心的、傲慢、内向的、強欲、臆病。能力は通常のバベンベルグ家当主のもの。名声は何と65''}; **短い治世 [#dc785aa0] > シモン1世は即位すると、ジュネーヴからウィーンにやって来た。シモンは1299年に妻がサヴォイエ公爵を継いだ際に ウィーンを離れて以来、30年ぶりの帰還であった。この間、妻から領土を任されることもなく、 評議会の一員として執務をすることもなく、帝国内はもとより、バイエルン王国内においても無名と言うほかなかった。 > 即位直後から王国内では内戦の気配に満ち満ちていた。シモンは内戦を避けるために、封建税を下げ、 諸侯たちに金を配るなどしたが、1330年5月にスロヴェニア公爵フラニスラヴ1世がスロヴェニア公爵家の伝統に則り、 曽祖父ルップレヒト1世、父ルップレヒト2世に続き、反乱を起こした。フラニスラヴはドイツ貴族である ガスタイン男爵ポッポの元で教育を受けたものの、結局、クロアチア貴族となっていた。 反乱には、メクレンブルク公爵の他、シモンの従兄弟であるヴェグリア伯エギノルフ、クロアチア公爵ドロテアも加わった。 &ref(内戦_1330.jpg); > 1330年9月。シモンは、大王国を率いる心労がたたったのか、ある時、気を失うと無能力者となっていた。 摂政には密偵頭のグントラムが就任した。 &ref(無能力.jpg); > 1330年10月16日。シモンは長期昏睡により死亡した。1329年10月6日に即位してから1年後のことであった。 &ref(シモン死去.jpg); > 元々、シモンにはバイエルン王国を背負うことは荷が重すぎたのであり、早すぎる死はウィーンの宮廷では、 密かに歓迎さえされた。王国の行く末は、シモンの孫であるサヴォイエ公爵シモンに託された。 ~続く~ **あとがき [#x1e43525] あっさりすぎる死。かえって良かったかなと思います。 ちなみに、このゲーム自体は1453年まで進んで終わっています。 残る当主は後4人です。何とか完走したいと思います。
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[[AAR/バべンベルグ家興亡史/王ジグフリート1世の治世]] *十代目 バイエルン王シモン1世 [#s06cc367] **スタート時の状況 [#e46d5e54] &ref(周辺状況_1329.jpg); &size(12){''帝国は内乱中''}; &ref(王朝図_1329.jpg); &size(12){''ジグフリート1世は3人の男子、2人の女子を設け、孫が12人、ひ孫が4人。''}; |相続した王位|バイエルン、クロアチア| |相続した公爵位|オーストリア| |相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケンプテン、ザグレブ| |相続した男爵位|ステイル| &size(12){''即位時に称号なし''}; > 1329年10月。シモン世は49才でバイエルン・クロアチア王に即位した。妻は、元々サヴォイエ女公爵フリードリカであったが、 既に亡くなっており、後妻にセシリエ・フォン・ソルシー・サン・マルタン。 &ref(シモン1世.jpg); &size(12){''稚拙な策謀家、庭師、野心的、傲慢、内向的、強欲、臆病。能力は通常のバベンベルグ家当主のもの。名声は何と65''}; **短い治世 [#dc785aa0] > シモン1世は即位すると、ジュネーヴからウィーンにやって来た。シモンは1299年に妻がサヴォイエ公爵を継いだ際に ウィーンを離れて以来、30年ぶりの帰還であった。この間、妻から領土を任されることもなく、 評議会の一員として執務をすることもなく、帝国内はもとより、バイエルン王国内においても無名と言うほかなかった。 > 即位直後から王国内では内戦の気配に満ち満ちていた。シモンは内戦を避けるために、封建税を下げ、 諸侯たちに金を配るなどしたが、1330年5月にスロヴェニア公爵フラニスラヴ1世がスロヴェニア公爵家の伝統に則り、 曽祖父ルップレヒト1世、父ルップレヒト2世に続き、反乱を起こした。フラニスラヴはドイツ貴族である ガスタイン男爵ポッポの元で教育を受けたものの、結局、クロアチア貴族となっていた。 反乱には、メクレンブルク公爵の他、シモンの従兄弟であるヴェグリア伯エギノルフ、クロアチア公爵ドロテアも加わった。 &ref(内戦_1330.jpg); > 1330年9月。シモンは、大王国を率いる心労がたたったのか、ある時、気を失うと無能力者となっていた。 摂政には密偵頭のグントラムが就任した。 &ref(無能力.jpg); > 1330年10月16日。シモンは長期昏睡により死亡した。1329年10月6日に即位してから1年後のことであった。 &ref(シモン死去.jpg); > 元々、シモンにはバイエルン王国を背負うことは荷が重すぎたのであり、早すぎる死はウィーンの宮廷では、 密かに歓迎さえされた。王国の行く末は、シモンの孫であるサヴォイエ公爵シモンに託された。 ~続く~ **あとがき [#x1e43525] あっさりすぎる死。かえって良かったかなと思います。 ちなみに、このゲーム自体は1453年まで進んで終わっています。 残る当主は後4人です。何とか完走したいと思います。
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添付ファイル:
内戦_1330.jpg
808件
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無能力.jpg
854件
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シモン死去.jpg
974件
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周辺状況_1329.jpg
874件
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シモン1世.jpg
819件
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王朝図_1329.jpg
939件
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