AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト6世の治世
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レオポルト6世の治世
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[[AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト5世の治世]] *七代目 オーストリア公レオポルト6世 [#gc26ad5f] **スタート時の状況 [#ya923424] &ref(王朝図_1194.jpg); &size(12){''レオポルト5世は妻との間に一男三女を残した。''}; |相続した公爵位|オーストリア、ケルンテン| |相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク| |領有州|保有する家名| |エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケルンテン、イストリア、セーケシュフェヘールバール|バベンベルグ(本家)| |ヴェグリア|バベンベルグ(・トリピミロヴィッチ。レオポルト4世の三女の末裔)| |パッソ―|ラポトネン| |ヴァシュ|チエムガウ| |クライン|ブルノーペン(レオポルト4世の長女の夫)| |ザルツブルグ、アキレア|司教領| &ref(摂政就任.jpg); > レオポルト6世は未だ8才という幼年であったため、摂政にはレオポルトの叔母ベアトリクスの夫であるベルトホルト・フォン・ルクセンブルクが就任。 父レオポルト5世が始めたパッソ―伯との内戦もうやむやなまま終了した。 **上ブルゴーニュ公領の相続 [#wff40bf5] > 1194年11月。スーザ公爵フィリップ1世からモンフェラート伯爵エンリーコとの内戦について参戦を求められた。 摂政ベルトホルトは元帥クライン伯ルドヴィクが率いる軍勢を北イタリアに送る。スーザ公爵家は同じバベンベルグ家であり、 その誼からの出兵であった。 &ref(スーザ内戦.jpg); &size(12){''1196年7月、スーザ公爵家の内戦は、フィリップ1世の勝利で終わった。''}; > 1196年11月。レオポルトの叔母にあたるコンスタンツェがサリアン家のプルシア公爵マインハルト2世と婚姻。 > 1197年12月。家令アルヌルフが衰弱により死去。享年81才であった。アルヌルフは1143年から54年間にわたり、 レオポルト4世とレオポルト5世の全治世を通じて家令を務めあげた。54年という期間は、かつての家令アマデウスの58年に次ぐ期間であった。 &ref(アルヌルフ死去.jpg); > 1198年4月。レオポルトの祖母である上ブルゴーニュ公爵エルメンガルトは、自国家臣のニュシャテル伯領剥奪の戦争を起こす。 エルメンガルトは、夫レオポルト4世の死後はウィーンの宮廷を訪れることはなく、バベンベルグ家の家臣として臣下の礼を 取りつつも、事実上、バベンベルグ家の掣肘を受けずに行動していた。 > 1199年10月。母ゲルヒルトとティロル家のアンドレアスが婿養子婚の婚約。レオポルト5世が早逝したこともあり、 母ゲルヒルトは未だ30才であった。 > 1201年6月。レオポルトの叔母にあたるクライン女伯爵ウルリケがぺクス州を要求し、神聖ローマ帝国がハンガリー王国に宣戦布告。 &ref(ぺクス要求.jpg); > 1201年7月。祖母エルメンガルトが梅毒により51才で死去した。 &ref(祖母死去.jpg); > エルメンガルトは約束通り、その領土の全てを孫のレオポルトに遺し、つつがなく相続手続きが行われた。 これにより、ついに、レオポルトは上ブルゴーニュ公爵領(アールガウ、ニュシャテル、ブルゴーニュ、シュウィッツ、 ブラウエン、ベルン、ケンプテン)の全8州を相続し、領土を倍増させた。 &ref(バイエルン王国.jpg); &size(12){''領土は足りるものの、バイエルン王国創設にはまだ信仰心が足りない''}; > 摂政ベルトホルトがまずしたことは、ベルンの宮廷にいたレンツブルグ家のゲプハルトと三番目の妹ハイルヴィヴァの結婚であった。 先代のレオポルト5世は弟カルロマンが婿養子婚を破棄したことを許せなく思っており、祖母エレメンガルトとの約束を守るために、 いずれ、上ブルゴーニュ公爵はレンツブルグ家の男子に継がせようと考えており、そのことをベルトホルトに託していた。 ベルトホルトの狙いは将来のレンツブルグ家の当主となるゲプハルトとバベンベルグ家の間に姻戚関係を築くことであった。 > また、ベルトホルトは最後の仕事として、成人を目前に控えたレオポルトの結婚相手として、ツェーリング家の四姉妹の四女を選んだ。 ツェーリング家の四姉妹はエマを除いていずれも上ブルゴーニュ公爵領に伯領を持つ女伯爵であり、新領土との関係に 腐心した結果であった。しかし、この四姉妹との関係は、後に頭痛の種となっていく。 &ref(ツェーリング家四姉妹.jpg); > 1202年3月。早速、四姉妹の長女にして現ツェーリング家の当主ヌンツィアが上ブルゴーニュ公爵領の要求権ねつ造の陰謀を図ったが、 それが発覚すると表面上は断念し、謝罪の使者を送ってきたが、その真意は面従腹背であることは明らかであった。 &ref(ヌンツィア陰謀.jpg); **親政開始 [#l256ebf4] > 1202年6月。レオポルトは16才となり親政を開始する。 &ref(レオポルト6世.jpg); &size(12){''不屈の軍人、臆病、内向的、親切、勤勉持ち。能力はバベンベルグ家当主としてはいつもながらのいまいちっぷり。''}; &ref(妻エマ.jpg); &size(12){''いつの間にか同性愛持ちになっていた''}; > レオポルトは成人すると、かつて反乱を起こした叔父カルロマンをイストリア伯に、将来の上ブルゴーニュ公爵と目される 妹の夫ゲプハルト・フォン・レンツブルグをニュシャテル伯に封じた。 > 1202年6月。帝国とハンガリーの戦争が帝国の勝利で終結した。これにより、叔母ウルリケがハンガリー領のぺクス公爵となり、 フェイエール州とセーケリフェルド州を領する独立勢力となった。 &ref(ぺクス公爵ウルリケ.jpg); > 1202年7月。ベルトホルトは摂政を退いた後も、宮廷司祭として評議会に残り、レオポルトの相談役となっていた。 ベルトホルトは現在のオーストリア公の後継者である妹ゲルヒルトとの婿候補として、 フェララ公爵の従兄弟で 19才のマインハルト・フォン・ティロルを推薦した。 &ref(マインハルト.jpg); > ベルトホルトはマインハルトの才を高く評価し、ウィーンの宮廷に招くと、マインハルトはこれを承諾した。 レオポルトも、3才年上のマインハルトを頼りに思い密偵頭として評議会の一員に加えた。そして、後継者である妹ゲルヒルトと婿養子婚させ、 レオポルトにもしものことがあった場合には、当主の夫としてバベンベルグ家を支えることを期待した。 また、クレムス男爵の後継者でバベンベルグの一族でありアマデウスの末裔にあたるオルドゥルフをウィーンの宮廷に迎え、 二番目の妹ルイトガルトと婿養子婚させた。これも後継者対策の一環であった。 > 1203年11月。密偵頭マインハルトが突如、ウィーンの宮廷から出奔した。事情を調べてみると、フェララ公爵リュドゲールが急死し、 その後を継ぐために故郷に戻ったとのことであった。 &ref(マインハルト出奔.jpg); > しかし、リュドゲールは享年21才と若く、死因は事故死とのことであり、その裏にはマインハルトの影がちらついていた。 そして、マインハルトはフェララ公爵となると、ゲルヒルトとの婿養子婚の破棄を通告してきた。 ベルトホルトは、「マインハルトの野心の大きさを見誤っておりました」と言って、レオポルトに謝罪すると 宮廷司祭の職を辞して引退した。 &ref(リュドゲール.jpg); > こうして、ベルトホルトも引退し、評議会はレオポルト5世の時代より徐々に入れ替わっていった。 &ref(評議会_1204.jpg); > 宰相は、レオポルト6世が当主となった頃から務める下級貴族出身のハルトマン・フォン・ワギング。 元帥は、引退したクライン伯ルトヴィクの後を継いだのた、こちらも下級貴族のエギノルフ・フォン・ロフラナ。 家令はアルヌルフ亡き後、帝国の北部、ゲルレ州から招聘したロラン・フラメンス。 密偵頭はマインハルト出奔後、ボヘミア王国領から招聘したプレミスリド家に属するグントラム。 宮廷司祭は、ベルトホルト引退後、後を継いだのはアキレア司教フィリップであった。 > 1204年4月。新密偵頭のグントラムが陰謀を掴んだ。それは、レオポルトの暗殺計画であったが、陰謀主は何と、後継者である妹ゲルヒルトであった。 すかさず、引退後もバベンベルグ家の重鎮たるベルトホルトがゲルヒルトの元を訪れて説得し、陰謀を断念させた。 &ref(ゲルヒルト.jpg); &size(12){''能力高っ、レオポルトよりも全然当主向き''}; > 4月、19才のボヘミア王、ヴラティスラヴ2世がゲルヒルトの婚姻を提案してきた。しかし、レオポルトはこれを丁重に拒絶した。 ゲルヒルトはオーストリア公の第一後継者であり、他家に嫁にやるわけにはいかず、慎重に選ぶ必要があるからであった。 同年11月には、再度ボヘミア王からゲルヒルトとの婚姻話が持ち込まれた。今度の相手はボヘミア王の弟ツェネクだったが、同じく拒絶した。 **初めての敗戦 [#b1e91b08] > レオポルトは当主とになった後、まずは平穏な治世を送ってきた。上ブルゴーニュ公爵領を領土に加えたことにより、 後は教皇の許可さえ得られれば、バイエルン王国を再興し、王となることが出来る。すべては順風満帆であった。 何もかもうまく行きすぎていた故か、レオポルトはいつしか何をやってもうまくいくと思い込んでいた。 > 1205年10月。ヴァシュ伯ピーター・フォン・チエムガウがウィーンの宮廷を訪れ、隣国ハンガリーの内戦に付け込み、 エスターライヒ州の隣州であるソプロンに対する請求権を行使するよう進言した。レオポルトはそれを評議会に諮ると、 評議会はすんなりとその戦争に賛意を示した。今や神聖ローマ帝国随一の諸侯となったバベンベルグ家であれば、 たとえハンガリー一国を相手にしても戦えると誰もが思っていたのだった。 &ref(ソプロン要求.jpg); > 戦争には、ツリンギア公爵家も参戦し、元帥エギノルフに率いられたオーストリア公軍はハンガリー軍を一蹴し、早くも包囲戦に入った。 > 1206年7月。包囲戦を続けるオーストリア公軍の前に、突如5000を超えるハンガリー軍の主力が現れた。 油断していたオーストリア公軍は算を乱して敗走した。 &ref(ソプロン要求_2.jpg); > ハンガリー軍は追撃した勢いのままエスターライヒ州に突入し、ウィーンを囲んだ。元帥エギノルフは敗走した兵をまとめると共に、 未だ無傷のパッソー伯の軍と合流した。レオポルトはスタニスラヴ率いるルーシー兵団5000を雇い、再戦の準備を整えた。 > 1206年10月。戦争の最中、レオポルトの下に帝国からの使者が到着し、権威法の変更を告げた。 この変更が一年早ければ、こんな戦争を起こさずに済んだと、レオポルトは悔いた。 &ref(絶対的な権威法.jpg); &size(12){''強力な権威法の変更から25年後のことであった''}; > 1207年1月。ルーシー兵団と共にハンガリー軍との再戦に挑もうとした直前、ウィーンが陥落した。 ウィーンが陥落すると、ルーシー兵団への維持費の支払いが滞った。スタニスラヴは、レオポルトの下を訪れ、 兵を引き上げると冷徹に言い放った。ルーシー兵団を失ったオーストリア公軍は、再びハンガリー軍に敗れた。 &ref(ソプロン要求_3.jpg); > この敗戦で、レオポルトは、戦争継続をあっさりと諦めた。実際のところ、バベンベルグ家にはまだ余力があった。 上ブルゴーニュ公爵領の兵力を糾合すれば、戦うことは出来たはずであったが、労苦を知らないレオポルトは バベンベルグ家伝来の本拠地であるウィーン陥落のショックが大きすぎて、とても戦争を続ける気にはならなかった。 レオポルトは宰相ハルトマンを降伏の使者としハンガリー王の元に送った。 > バベンベルグ家はエルンスト1世以来、140年の間、戦争において負けを知らなかったが、初めて敗戦を喫した。 領土こそ失うことはなかったが、レオポルトはバベンベルグ家不敗の名声を失うと共に、莫大な賠償金を追うこととなった。 これにより、バイエルン王国再興の夢は、さらに遠のいた。 &ref(資金不足.jpg); **バイエルン王への道 [#be281e62] > 1207年5月。レオポルトは戦後処理の一環として、ハンガリー王国に対し敵意がないことを示すために、 ボヘミア王家から度重なる求婚を受けていた妹ゲルヒルトを17才の若きハンガリー王アルパド家のカロリィと婚姻させた。 また、元帥エギノルフが戦争の怪我が原因で死亡した。享年56才であった。 > 1208年1月。敗戦に付け込んで、妻の姉であるアールガウ伯ヌンツィアがレオポルトに対し宣戦布告してきた。 &ref(ヌンツィア反乱.jpg); > 幸いにも、ヌンツィアに呼応する家臣は他にいなかった。また、スーザ公爵家が14年前の内戦の時に レオポルトが同盟軍として参戦した恩を返すべく、ヌンツィア討伐の軍に参戦を表明した。 ヌンツィアは東と南から攻め込まれることとなり、窮地に陥った。 &ref(ヌンツィア反乱_2.jpg); > 2月。宰相ハルトマンが心労が祟ったのかうつにより死亡した。享年47才であった。レオポルトは相次いで評議会のメンバーを失うこととなった。 > 1210年4月。レオポルトは内戦に勝利し、ヌンツィアを投獄した。この勝利でわずかではあるが、 ハンガリー王に完膚なきまでに叩きのめされた敗戦から精神的に立ち直ることが出来た。 > 1210年8月。レオポルトとエマの間には、エマが同性愛者であるにも関わらず、これまで4人の女の子が産まれていたが、つ いに待望の長男レオポルトが産まれた。 &ref(長男誕生.jpg); > 1211年5月。敗戦から4年、ハンガリー王国への賠償金支払いのために陥っていた資金不足がようやく解消された。 これもバベンベルグ家を支えてきた先人達が内政に力を入れて、税収を高めて来たおかげであり、レオポルトは先祖に感謝した。 &ref(資金不足解消.jpg); > 1212年10月16日。ついに、バイエルン王国成立の準備が整った。教皇の許可と皇帝の勅令を得て、 レオポルトはウィーンの宮廷に家臣と廷臣を集め、王冠を頭上に載せて宣言した。 「余は本日より、バイエルン王を名乗る。諸卿らは今日よりバイエルン王の臣下である」 家臣と廷臣たちは、これに歓呼で応じた。レオポルトはこの時26才。未だ過去よりも未来に多くの時間を残していた。 &ref(バイエルン王国創設.jpg); &ref(王国領土.jpg); &ref(経歴.jpg); &size(12){''カロリング朝の最後の王から301年ぶりにバイエルン王国再興''}; ~続く~ **あとがき [#m92a7741] スタートから約150年、七代でついにバイエルン王国が出来ました。 ちなみに、バベンベルグ家は大諸侯ですが、当主の能力がしょぼいせいか 元帥とかの役職や名誉職にすら誰も就任していません。 皇帝候補にもほとんどならないし。帝国内では空気感はんぱない。
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[[AAR/バべンベルグ家興亡史/レオポルト5世の治世]] *七代目 オーストリア公レオポルト6世 [#gc26ad5f] **スタート時の状況 [#ya923424] &ref(王朝図_1194.jpg); &size(12){''レオポルト5世は妻との間に一男三女を残した。''}; |相続した公爵位|オーストリア、ケルンテン| |相続した伯爵位|エスターライヒ、シュタイアーマルク| |領有州|保有する家名| |エスターライヒ、シュタイアーマルク、ケルンテン、イストリア、セーケシュフェヘールバール|バベンベルグ(本家)| |ヴェグリア|バベンベルグ(・トリピミロヴィッチ。レオポルト4世の三女の末裔)| |パッソ―|ラポトネン| |ヴァシュ|チエムガウ| |クライン|ブルノーペン(レオポルト4世の長女の夫)| |ザルツブルグ、アキレア|司教領| &ref(摂政就任.jpg); > レオポルト6世は未だ8才という幼年であったため、摂政にはレオポルトの叔母ベアトリクスの夫であるベルトホルト・フォン・ルクセンブルクが就任。 父レオポルト5世が始めたパッソ―伯との内戦もうやむやなまま終了した。 **上ブルゴーニュ公領の相続 [#wff40bf5] > 1194年11月。スーザ公爵フィリップ1世からモンフェラート伯爵エンリーコとの内戦について参戦を求められた。 摂政ベルトホルトは元帥クライン伯ルドヴィクが率いる軍勢を北イタリアに送る。スーザ公爵家は同じバベンベルグ家であり、 その誼からの出兵であった。 &ref(スーザ内戦.jpg); &size(12){''1196年7月、スーザ公爵家の内戦は、フィリップ1世の勝利で終わった。''}; > 1196年11月。レオポルトの叔母にあたるコンスタンツェがサリアン家のプルシア公爵マインハルト2世と婚姻。 > 1197年12月。家令アルヌルフが衰弱により死去。享年81才であった。アルヌルフは1143年から54年間にわたり、 レオポルト4世とレオポルト5世の全治世を通じて家令を務めあげた。54年という期間は、かつての家令アマデウスの58年に次ぐ期間であった。 &ref(アルヌルフ死去.jpg); > 1198年4月。レオポルトの祖母である上ブルゴーニュ公爵エルメンガルトは、自国家臣のニュシャテル伯領剥奪の戦争を起こす。 エルメンガルトは、夫レオポルト4世の死後はウィーンの宮廷を訪れることはなく、バベンベルグ家の家臣として臣下の礼を 取りつつも、事実上、バベンベルグ家の掣肘を受けずに行動していた。 > 1199年10月。母ゲルヒルトとティロル家のアンドレアスが婿養子婚の婚約。レオポルト5世が早逝したこともあり、 母ゲルヒルトは未だ30才であった。 > 1201年6月。レオポルトの叔母にあたるクライン女伯爵ウルリケがぺクス州を要求し、神聖ローマ帝国がハンガリー王国に宣戦布告。 &ref(ぺクス要求.jpg); > 1201年7月。祖母エルメンガルトが梅毒により51才で死去した。 &ref(祖母死去.jpg); > エルメンガルトは約束通り、その領土の全てを孫のレオポルトに遺し、つつがなく相続手続きが行われた。 これにより、ついに、レオポルトは上ブルゴーニュ公爵領(アールガウ、ニュシャテル、ブルゴーニュ、シュウィッツ、 ブラウエン、ベルン、ケンプテン)の全8州を相続し、領土を倍増させた。 &ref(バイエルン王国.jpg); &size(12){''領土は足りるものの、バイエルン王国創設にはまだ信仰心が足りない''}; > 摂政ベルトホルトがまずしたことは、ベルンの宮廷にいたレンツブルグ家のゲプハルトと三番目の妹ハイルヴィヴァの結婚であった。 先代のレオポルト5世は弟カルロマンが婿養子婚を破棄したことを許せなく思っており、祖母エレメンガルトとの約束を守るために、 いずれ、上ブルゴーニュ公爵はレンツブルグ家の男子に継がせようと考えており、そのことをベルトホルトに託していた。 ベルトホルトの狙いは将来のレンツブルグ家の当主となるゲプハルトとバベンベルグ家の間に姻戚関係を築くことであった。 > また、ベルトホルトは最後の仕事として、成人を目前に控えたレオポルトの結婚相手として、ツェーリング家の四姉妹の四女を選んだ。 ツェーリング家の四姉妹はエマを除いていずれも上ブルゴーニュ公爵領に伯領を持つ女伯爵であり、新領土との関係に 腐心した結果であった。しかし、この四姉妹との関係は、後に頭痛の種となっていく。 &ref(ツェーリング家四姉妹.jpg); > 1202年3月。早速、四姉妹の長女にして現ツェーリング家の当主ヌンツィアが上ブルゴーニュ公爵領の要求権ねつ造の陰謀を図ったが、 それが発覚すると表面上は断念し、謝罪の使者を送ってきたが、その真意は面従腹背であることは明らかであった。 &ref(ヌンツィア陰謀.jpg); **親政開始 [#l256ebf4] > 1202年6月。レオポルトは16才となり親政を開始する。 &ref(レオポルト6世.jpg); &size(12){''不屈の軍人、臆病、内向的、親切、勤勉持ち。能力はバベンベルグ家当主としてはいつもながらのいまいちっぷり。''}; &ref(妻エマ.jpg); &size(12){''いつの間にか同性愛持ちになっていた''}; > レオポルトは成人すると、かつて反乱を起こした叔父カルロマンをイストリア伯に、将来の上ブルゴーニュ公爵と目される 妹の夫ゲプハルト・フォン・レンツブルグをニュシャテル伯に封じた。 > 1202年6月。帝国とハンガリーの戦争が帝国の勝利で終結した。これにより、叔母ウルリケがハンガリー領のぺクス公爵となり、 フェイエール州とセーケリフェルド州を領する独立勢力となった。 &ref(ぺクス公爵ウルリケ.jpg); > 1202年7月。ベルトホルトは摂政を退いた後も、宮廷司祭として評議会に残り、レオポルトの相談役となっていた。 ベルトホルトは現在のオーストリア公の後継者である妹ゲルヒルトとの婿候補として、 フェララ公爵の従兄弟で 19才のマインハルト・フォン・ティロルを推薦した。 &ref(マインハルト.jpg); > ベルトホルトはマインハルトの才を高く評価し、ウィーンの宮廷に招くと、マインハルトはこれを承諾した。 レオポルトも、3才年上のマインハルトを頼りに思い密偵頭として評議会の一員に加えた。そして、後継者である妹ゲルヒルトと婿養子婚させ、 レオポルトにもしものことがあった場合には、当主の夫としてバベンベルグ家を支えることを期待した。 また、クレムス男爵の後継者でバベンベルグの一族でありアマデウスの末裔にあたるオルドゥルフをウィーンの宮廷に迎え、 二番目の妹ルイトガルトと婿養子婚させた。これも後継者対策の一環であった。 > 1203年11月。密偵頭マインハルトが突如、ウィーンの宮廷から出奔した。事情を調べてみると、フェララ公爵リュドゲールが急死し、 その後を継ぐために故郷に戻ったとのことであった。 &ref(マインハルト出奔.jpg); > しかし、リュドゲールは享年21才と若く、死因は事故死とのことであり、その裏にはマインハルトの影がちらついていた。 そして、マインハルトはフェララ公爵となると、ゲルヒルトとの婿養子婚の破棄を通告してきた。 ベルトホルトは、「マインハルトの野心の大きさを見誤っておりました」と言って、レオポルトに謝罪すると 宮廷司祭の職を辞して引退した。 &ref(リュドゲール.jpg); > こうして、ベルトホルトも引退し、評議会はレオポルト5世の時代より徐々に入れ替わっていった。 &ref(評議会_1204.jpg); > 宰相は、レオポルト6世が当主となった頃から務める下級貴族出身のハルトマン・フォン・ワギング。 元帥は、引退したクライン伯ルトヴィクの後を継いだのた、こちらも下級貴族のエギノルフ・フォン・ロフラナ。 家令はアルヌルフ亡き後、帝国の北部、ゲルレ州から招聘したロラン・フラメンス。 密偵頭はマインハルト出奔後、ボヘミア王国領から招聘したプレミスリド家に属するグントラム。 宮廷司祭は、ベルトホルト引退後、後を継いだのはアキレア司教フィリップであった。 > 1204年4月。新密偵頭のグントラムが陰謀を掴んだ。それは、レオポルトの暗殺計画であったが、陰謀主は何と、後継者である妹ゲルヒルトであった。 すかさず、引退後もバベンベルグ家の重鎮たるベルトホルトがゲルヒルトの元を訪れて説得し、陰謀を断念させた。 &ref(ゲルヒルト.jpg); &size(12){''能力高っ、レオポルトよりも全然当主向き''}; > 4月、19才のボヘミア王、ヴラティスラヴ2世がゲルヒルトの婚姻を提案してきた。しかし、レオポルトはこれを丁重に拒絶した。 ゲルヒルトはオーストリア公の第一後継者であり、他家に嫁にやるわけにはいかず、慎重に選ぶ必要があるからであった。 同年11月には、再度ボヘミア王からゲルヒルトとの婚姻話が持ち込まれた。今度の相手はボヘミア王の弟ツェネクだったが、同じく拒絶した。 **初めての敗戦 [#b1e91b08] > レオポルトは当主とになった後、まずは平穏な治世を送ってきた。上ブルゴーニュ公爵領を領土に加えたことにより、 後は教皇の許可さえ得られれば、バイエルン王国を再興し、王となることが出来る。すべては順風満帆であった。 何もかもうまく行きすぎていた故か、レオポルトはいつしか何をやってもうまくいくと思い込んでいた。 > 1205年10月。ヴァシュ伯ピーター・フォン・チエムガウがウィーンの宮廷を訪れ、隣国ハンガリーの内戦に付け込み、 エスターライヒ州の隣州であるソプロンに対する請求権を行使するよう進言した。レオポルトはそれを評議会に諮ると、 評議会はすんなりとその戦争に賛意を示した。今や神聖ローマ帝国随一の諸侯となったバベンベルグ家であれば、 たとえハンガリー一国を相手にしても戦えると誰もが思っていたのだった。 &ref(ソプロン要求.jpg); > 戦争には、ツリンギア公爵家も参戦し、元帥エギノルフに率いられたオーストリア公軍はハンガリー軍を一蹴し、早くも包囲戦に入った。 > 1206年7月。包囲戦を続けるオーストリア公軍の前に、突如5000を超えるハンガリー軍の主力が現れた。 油断していたオーストリア公軍は算を乱して敗走した。 &ref(ソプロン要求_2.jpg); > ハンガリー軍は追撃した勢いのままエスターライヒ州に突入し、ウィーンを囲んだ。元帥エギノルフは敗走した兵をまとめると共に、 未だ無傷のパッソー伯の軍と合流した。レオポルトはスタニスラヴ率いるルーシー兵団5000を雇い、再戦の準備を整えた。 > 1206年10月。戦争の最中、レオポルトの下に帝国からの使者が到着し、権威法の変更を告げた。 この変更が一年早ければ、こんな戦争を起こさずに済んだと、レオポルトは悔いた。 &ref(絶対的な権威法.jpg); &size(12){''強力な権威法の変更から25年後のことであった''}; > 1207年1月。ルーシー兵団と共にハンガリー軍との再戦に挑もうとした直前、ウィーンが陥落した。 ウィーンが陥落すると、ルーシー兵団への維持費の支払いが滞った。スタニスラヴは、レオポルトの下を訪れ、 兵を引き上げると冷徹に言い放った。ルーシー兵団を失ったオーストリア公軍は、再びハンガリー軍に敗れた。 &ref(ソプロン要求_3.jpg); > この敗戦で、レオポルトは、戦争継続をあっさりと諦めた。実際のところ、バベンベルグ家にはまだ余力があった。 上ブルゴーニュ公爵領の兵力を糾合すれば、戦うことは出来たはずであったが、労苦を知らないレオポルトは バベンベルグ家伝来の本拠地であるウィーン陥落のショックが大きすぎて、とても戦争を続ける気にはならなかった。 レオポルトは宰相ハルトマンを降伏の使者としハンガリー王の元に送った。 > バベンベルグ家はエルンスト1世以来、140年の間、戦争において負けを知らなかったが、初めて敗戦を喫した。 領土こそ失うことはなかったが、レオポルトはバベンベルグ家不敗の名声を失うと共に、莫大な賠償金を追うこととなった。 これにより、バイエルン王国再興の夢は、さらに遠のいた。 &ref(資金不足.jpg); **バイエルン王への道 [#be281e62] > 1207年5月。レオポルトは戦後処理の一環として、ハンガリー王国に対し敵意がないことを示すために、 ボヘミア王家から度重なる求婚を受けていた妹ゲルヒルトを17才の若きハンガリー王アルパド家のカロリィと婚姻させた。 また、元帥エギノルフが戦争の怪我が原因で死亡した。享年56才であった。 > 1208年1月。敗戦に付け込んで、妻の姉であるアールガウ伯ヌンツィアがレオポルトに対し宣戦布告してきた。 &ref(ヌンツィア反乱.jpg); > 幸いにも、ヌンツィアに呼応する家臣は他にいなかった。また、スーザ公爵家が14年前の内戦の時に レオポルトが同盟軍として参戦した恩を返すべく、ヌンツィア討伐の軍に参戦を表明した。 ヌンツィアは東と南から攻め込まれることとなり、窮地に陥った。 &ref(ヌンツィア反乱_2.jpg); > 2月。宰相ハルトマンが心労が祟ったのかうつにより死亡した。享年47才であった。レオポルトは相次いで評議会のメンバーを失うこととなった。 > 1210年4月。レオポルトは内戦に勝利し、ヌンツィアを投獄した。この勝利でわずかではあるが、 ハンガリー王に完膚なきまでに叩きのめされた敗戦から精神的に立ち直ることが出来た。 > 1210年8月。レオポルトとエマの間には、エマが同性愛者であるにも関わらず、これまで4人の女の子が産まれていたが、つ いに待望の長男レオポルトが産まれた。 &ref(長男誕生.jpg); > 1211年5月。敗戦から4年、ハンガリー王国への賠償金支払いのために陥っていた資金不足がようやく解消された。 これもバベンベルグ家を支えてきた先人達が内政に力を入れて、税収を高めて来たおかげであり、レオポルトは先祖に感謝した。 &ref(資金不足解消.jpg); > 1212年10月16日。ついに、バイエルン王国成立の準備が整った。教皇の許可と皇帝の勅令を得て、 レオポルトはウィーンの宮廷に家臣と廷臣を集め、王冠を頭上に載せて宣言した。 「余は本日より、バイエルン王を名乗る。諸卿らは今日よりバイエルン王の臣下である」 家臣と廷臣たちは、これに歓呼で応じた。レオポルトはこの時26才。未だ過去よりも未来に多くの時間を残していた。 &ref(バイエルン王国創設.jpg); &ref(王国領土.jpg); &ref(経歴.jpg); &size(12){''カロリング朝の最後の王から301年ぶりにバイエルン王国再興''}; ~続く~ **あとがき [#m92a7741] スタートから約150年、七代でついにバイエルン王国が出来ました。 ちなみに、バベンベルグ家は大諸侯ですが、当主の能力がしょぼいせいか 元帥とかの役職や名誉職にすら誰も就任していません。 皇帝候補にもほとんどならないし。帝国内では空気感はんぱない。
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添付ファイル:
王国領土.jpg
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レオポルト6世.jpg
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ヌンツィア陰謀.jpg
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リュドゲール.jpg
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ぺクス要求.jpg
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ソプロン要求.jpg
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王朝図_1194.jpg
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評議会_1204.jpg
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長男誕生.jpg
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アルヌルフ死去.jpg
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資金不足解消.jpg
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バイエルン王国創設.jpg
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ゲルヒルト.jpg
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バイエルン王国.jpg
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ぺクス公爵ウルリケ.jpg
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ソプロン要求_3.jpg
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経歴.jpg
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ヌンツィア反乱_2.jpg
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ツェーリング家四姉妹.jpg
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妻エマ.jpg
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資金不足.jpg
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ヌンツィア反乱.jpg
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祖母死去.jpg
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スーザ内戦.jpg
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マインハルト.jpg
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摂政就任.jpg
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絶対的な権威法.jpg
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ソプロン要求_2.jpg
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マインハルト出奔.jpg
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