AAR/デンマーク年代記/巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467
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巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十四 ヴァルデマ賢帝 [#gd1d528f] 1588年9月25日、皇帝はケルンに行幸された。 &ref(001.jpg); 10月26日、密偵頭イルミナ・ドーリアが暗殺された。 ドイツ人の皇帝の手にかかったという。 10月30日、死亡したはずのイルミナ・ドーリアが参内し、赴任地の貴族の不名誉な風聞を奏上した。 皇帝は密偵頭にその貴族に対する恫喝を詔したが、その後イルミナからの奏上はなかった。 &ref(002.jpg); 1459年1月1日、皇帝は宴の席で詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458]],nolink); 教皇、ドイツ人の皇帝、都市共和国、是こそ朕の心に適わぬものだ &ref(教皇.jpg); 教皇は対立教皇が立てられない状態がずっと続いている。 &ref(HRE.jpg); HREは一族に選挙権を持つ公爵位をばら撒いたが、皆自分自身に投票して帝位にはほど遠い &ref(共和国.jpg); 都市共和国は首都のclaimを取得できない。同じカトリックなので聖戦もできない。そう考えれば取るべき手段は一つしかない 2月14日、スエニク総督ボドネカルが帝国に戦を宣した。 皇帝はこの機にジェノヴァ共和国に対し戦を宣した。 6月22日、ジェノヴァ共和国は臣従し、封臣ジェノヴァ王となった。 7月19日、イルヒミアズィンの戦いで帝国は勝利し、ボドネカルは降伏した。 4月26日、皇帝はドイツ人の皇帝、ニーダーロ-ドリンゲン大公、ミンスク公らを平定すべく軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第七次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1460年4月26日-1462年10月13日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国          |240000|ドイツ人の帝国|30000| |>|-|ニーダーロードリンゲン王国|13000| |>|-|ミンスク公国|4000| |>|-|ウルビノ公国|8000| |>|-|モセレ公国|5000| |>|-|タルグ・ユ伯国|3000| |>|>|>|将軍| |>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|ウルビノ公ルイギ| |>|セルビア王ヴラスティミル|>|ニーダーザクセン公カスパー| |>|ムケリ公ホルムイェル|>|ワルター| 6月11日、帝国軍1万はドイツ軍1万7千とミンデンで遭遇したが、帝国軍は寡兵ながらよく支えた。 &ref(003.jpg); 7月27日、帝国軍の増援2万がミンデンに到着するとドイツ軍は大いに動揺し、そのまま壊走した。 &ref(004.jpg); 9月22日、敗走するドイツ軍をヒルデスハイムで破ると、ドイツ人の帝国は降伏し、ケルンテンを差し出した。 12月2日、ミンスクが陥落し、大した抵抗のないままミンスク公は降伏した。 1561年1月23日、宮廷司祭クリスティアンが奏上した。 &ref(司祭.jpg); 今や全地のほとんどを配下に収めました皇帝陛下にあられましては、ローマを支配することもまた責務でありましょう。 &ref(司祭.jpg); 今、臣と臣の顧問団の研究の見解によりますと教皇がローマを支配している根拠、コンスタンティヌスの寄進状は偽書であるとの結論を得ました。 &ref(司祭.jpg); 今でこそ教皇との関係は良くありますが、もし悪化されたときにはどうか御考慮の隅においていてくださいますよう。 &ref(007.jpg); なぜ擁立できるようになったのは謎。誰かわかる方がいらしたら教えてください 皇帝は喜ばれたが、戦争の最中であったので大して気に留められなかった 3月15日、タルグ・ユ伯は追放され、ワラキア公ヴィルフォードがその地を得た。 これでダキア地方はすべて平定された。 3月25日、モセレ公は降伏し、公位は皇帝が得た。 6月22日、ニーダーロードリンゲン王ディエトポルドは降伏し、チェコ王に退いた。 ニーダーロードリンゲン王位は封臣フィリペが得た。 &ref(005.jpg); 10月23日、ウルビノ公はヴェロナを皇帝に割いて詫びた。 1562年6月2日、宮廷長官スィヴァルドが200グルデンを献上した。 6月7日、教皇マリヌス3世は皇帝に対し、すべての司祭の叙任権を教皇に譲り渡すよう使臣を遣わした。 &ref(006.jpg); 皇帝は大いに怒り、使者を追い返した。 &ref(顔賢帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458]],nolink); 朕はローマの悪教皇マリヌスに対し、痛撃を与えたい。臣らは何か名案があるか。 宮廷司祭クリスティアンが奏上した。 &ref(司祭.jpg); それはやはり対立教皇の擁立、マリヌスのローマからの追放以外に有り得ません。 &ref(司祭.jpg); コンスタンティヌスの寄進状は偽書、この事実を公表すれば諸侯はみな陛下を支持されるでしょう。 &ref(司祭.jpg); 対立教皇を立て、そののちにローマに進軍なさいませ。 皇帝は奏上を受け、ペーザを対立教皇に立てた。 8月22日、皇帝の弟、スヴェンが戦死した。36歳であった。 封臣同士の戦争に依る物である。 スヴェンはオト公正帝の三男で、エピロス公爵を賜っていた。 8月26日、リヴォニア王、ペルム王、ポツコフ公、そして教皇マリヌスを廃するべく軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第八次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1462年8月26日-1463年8月22日| |>|>|>|結果:帝国のローマ獲得、勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国          |240000|教皇庁|30000| |>|-|リヴォニア王国|13000| |>|-|ペルム王国|3000| |>|-|ポツコフ公国|2000| |>|>|>|将軍| |>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|リヴォニア王ルスラン| |>|セルビア王ヴラスティミル|>|ペルム王イングヴァル2世| |>|ムケリ公ホルムイェル|>|マツフェイ・ソスノゴルスク| 9月16日、第七子エストリズが僧籍に編入の希望を皇帝に奏上した。 皇帝はこれを許可し、テッサロニキ王との婚約は破棄された。 &ref(009.jpg); 10月20日、皇帝は9万の軍勢でローマを蹂躙し、教皇軍を撃破した。 &ref(008.jpg); 11月12日、アルケの戦いで教皇軍に勝利し、教皇マリヌスは廃位、ペーザが第209代教皇ウィクトル5世として即位した。 1563年4月4日、ウクタでペルム軍3千と交戦した。 &ref(011.jpg); 4月5日、リヴォニア王はヴィラント公領をホルムガルド王ゴーデンティ2世に明け渡し降伏した。 4月19日、ペルム軍は敗北したが、ペルム王は逃げ延びて抗戦を主張した。 8月1日、ポツコフ公は降伏し、公位は皇帝が得た。 8月2日、皇帝はキエフ王位を創設し、チェルニゴフ公に臣従を勅した。 &ref(010.jpg); 8月18日、チェルニゴフ公は臣従した。 8月22日、逃亡していたペルム王を捕え、ペルム王国が臣従した。 9月26日、リヴォニア王位をルスランより剥奪した。 これにより旧リヴォニア王国は公爵級諸侯に分裂した。 &ref(012.jpg); 12月1日、皇帝は宴を催した。 &ref(013.jpg); 1564年9月21日、皇帝はドイツ人の皇帝に宰相と教皇から得た領有権のある土地をすべて回収すべく軍を興した。 また、チュニスを領有するバヌ=ハフス朝、ゲルジケを有するヘルマンに対しても宣戦布告した。 &ref(014.jpg); 12月3日、宰相セヴェリンは新たにオルデンブルクも帝国の主張領土であるとした。 &ref(017.jpg); 戦争中もこのイベントが何度も起り、当初の予定より多くの土地を得ることが出来た 12月15日から1月13日まで続いたグレイヒェンの会戦で勝利のあと、帝国軍は勝利を確実にした。 &ref(015.jpg); 1466年2月13日、バディスの戦いでサラセン人軍1万を破り、スルタンの弟の首代を挙げた。 &ref(016.jpg); 3月26日、スルタンアル=ムタワッキは降伏し、チュニスを譲り渡した。 4月13日、ドイツ人の皇帝カスパーは降伏し、公領、伯領合わせて十領が皇帝の所領に加わった。 皇帝は一族にドイツ帝国領内の所領を配分した。 その中に、庶子のホルガがいる。 ブルガリア王スヴェンの弟ホルガの子で他に男子はいなかったが、彼が所領を継承することなく長女イリザベトが継承し、 部屋住みであったところを皇帝にその才覚を見込まれイフキリア公爵を賜った。 &ref(018.jpg); 6月12日、皇帝の第八子マーサが僧籍に入りたい旨を皇帝に奏上した。 皇帝は前例に則りこれを許した。 7月11日、皇帝はヴェネツィア・マルチェの両共和国を通商禁止とし、陰謀と企むデンマークとブレートラントの王バヴォに対し軍を差し向けた。 7月31日、ヴェネツィア軍8千はパドナの会戦で敗走し、この一撃でヴェネツィアは降伏した。 &ref(019.jpg); 9月15日、マルチェ軍8千をアンナコナの会戦で破ると、マルチェも降伏し、都市共和国はその勢力を大いに減退した。 &ref(020.jpg); 10月30日、ダルマチアのスプリトにてデンマーク軍7千と遭遇し、戦闘になった。 帝国軍はヴェネツィア・マルチェ征討軍を次々と差し向け、最終的に4万の軍をスプリトに集めた。 &ref(021.jpg); 1467年1月15日、デンマーク軍1万5千がダルマチアに上陸した。 帝国軍は8万をもって逆上陸を仕掛け、これを殲滅した。 その後デンマーク軍は組織的な抵抗を示さなくなり、帝国軍主力はブリテン島の占領に回った。 &ref(022.jpg); 7月2日、デンマーク王バヴォは降伏した。 皇帝はデンマーク王位を召し上げ、およそ百年の時を経て皇帝の下に北欧の三王冠が揃った。 &ref(023.jpg); 1370年に失って以来、97年ぶり *[[巻十五 ヴァルデマ賢帝 1468~1473>AAR/デンマーク年代記/巻十五 ヴァルデマ賢帝 1468~1473]] [#zab855d2]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十四 ヴァルデマ賢帝 [#gd1d528f] 1588年9月25日、皇帝はケルンに行幸された。 &ref(001.jpg); 10月26日、密偵頭イルミナ・ドーリアが暗殺された。 ドイツ人の皇帝の手にかかったという。 10月30日、死亡したはずのイルミナ・ドーリアが参内し、赴任地の貴族の不名誉な風聞を奏上した。 皇帝は密偵頭にその貴族に対する恫喝を詔したが、その後イルミナからの奏上はなかった。 &ref(002.jpg); 1459年1月1日、皇帝は宴の席で詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458]],nolink); 教皇、ドイツ人の皇帝、都市共和国、是こそ朕の心に適わぬものだ &ref(教皇.jpg); 教皇は対立教皇が立てられない状態がずっと続いている。 &ref(HRE.jpg); HREは一族に選挙権を持つ公爵位をばら撒いたが、皆自分自身に投票して帝位にはほど遠い &ref(共和国.jpg); 都市共和国は首都のclaimを取得できない。同じカトリックなので聖戦もできない。そう考えれば取るべき手段は一つしかない 2月14日、スエニク総督ボドネカルが帝国に戦を宣した。 皇帝はこの機にジェノヴァ共和国に対し戦を宣した。 6月22日、ジェノヴァ共和国は臣従し、封臣ジェノヴァ王となった。 7月19日、イルヒミアズィンの戦いで帝国は勝利し、ボドネカルは降伏した。 4月26日、皇帝はドイツ人の皇帝、ニーダーロ-ドリンゲン大公、ミンスク公らを平定すべく軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第七次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1460年4月26日-1462年10月13日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国          |240000|ドイツ人の帝国|30000| |>|-|ニーダーロードリンゲン王国|13000| |>|-|ミンスク公国|4000| |>|-|ウルビノ公国|8000| |>|-|モセレ公国|5000| |>|-|タルグ・ユ伯国|3000| |>|>|>|将軍| |>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|ウルビノ公ルイギ| |>|セルビア王ヴラスティミル|>|ニーダーザクセン公カスパー| |>|ムケリ公ホルムイェル|>|ワルター| 6月11日、帝国軍1万はドイツ軍1万7千とミンデンで遭遇したが、帝国軍は寡兵ながらよく支えた。 &ref(003.jpg); 7月27日、帝国軍の増援2万がミンデンに到着するとドイツ軍は大いに動揺し、そのまま壊走した。 &ref(004.jpg); 9月22日、敗走するドイツ軍をヒルデスハイムで破ると、ドイツ人の帝国は降伏し、ケルンテンを差し出した。 12月2日、ミンスクが陥落し、大した抵抗のないままミンスク公は降伏した。 1561年1月23日、宮廷司祭クリスティアンが奏上した。 &ref(司祭.jpg); 今や全地のほとんどを配下に収めました皇帝陛下にあられましては、ローマを支配することもまた責務でありましょう。 &ref(司祭.jpg); 今、臣と臣の顧問団の研究の見解によりますと教皇がローマを支配している根拠、コンスタンティヌスの寄進状は偽書であるとの結論を得ました。 &ref(司祭.jpg); 今でこそ教皇との関係は良くありますが、もし悪化されたときにはどうか御考慮の隅においていてくださいますよう。 &ref(007.jpg); なぜ擁立できるようになったのは謎。誰かわかる方がいらしたら教えてください 皇帝は喜ばれたが、戦争の最中であったので大して気に留められなかった 3月15日、タルグ・ユ伯は追放され、ワラキア公ヴィルフォードがその地を得た。 これでダキア地方はすべて平定された。 3月25日、モセレ公は降伏し、公位は皇帝が得た。 6月22日、ニーダーロードリンゲン王ディエトポルドは降伏し、チェコ王に退いた。 ニーダーロードリンゲン王位は封臣フィリペが得た。 &ref(005.jpg); 10月23日、ウルビノ公はヴェロナを皇帝に割いて詫びた。 1562年6月2日、宮廷長官スィヴァルドが200グルデンを献上した。 6月7日、教皇マリヌス3世は皇帝に対し、すべての司祭の叙任権を教皇に譲り渡すよう使臣を遣わした。 &ref(006.jpg); 皇帝は大いに怒り、使者を追い返した。 &ref(顔賢帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458]],nolink); 朕はローマの悪教皇マリヌスに対し、痛撃を与えたい。臣らは何か名案があるか。 宮廷司祭クリスティアンが奏上した。 &ref(司祭.jpg); それはやはり対立教皇の擁立、マリヌスのローマからの追放以外に有り得ません。 &ref(司祭.jpg); コンスタンティヌスの寄進状は偽書、この事実を公表すれば諸侯はみな陛下を支持されるでしょう。 &ref(司祭.jpg); 対立教皇を立て、そののちにローマに進軍なさいませ。 皇帝は奏上を受け、ペーザを対立教皇に立てた。 8月22日、皇帝の弟、スヴェンが戦死した。36歳であった。 封臣同士の戦争に依る物である。 スヴェンはオト公正帝の三男で、エピロス公爵を賜っていた。 8月26日、リヴォニア王、ペルム王、ポツコフ公、そして教皇マリヌスを廃するべく軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第八次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1462年8月26日-1463年8月22日| |>|>|>|結果:帝国のローマ獲得、勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国          |240000|教皇庁|30000| |>|-|リヴォニア王国|13000| |>|-|ペルム王国|3000| |>|-|ポツコフ公国|2000| |>|>|>|将軍| |>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|リヴォニア王ルスラン| |>|セルビア王ヴラスティミル|>|ペルム王イングヴァル2世| |>|ムケリ公ホルムイェル|>|マツフェイ・ソスノゴルスク| 9月16日、第七子エストリズが僧籍に編入の希望を皇帝に奏上した。 皇帝はこれを許可し、テッサロニキ王との婚約は破棄された。 &ref(009.jpg); 10月20日、皇帝は9万の軍勢でローマを蹂躙し、教皇軍を撃破した。 &ref(008.jpg); 11月12日、アルケの戦いで教皇軍に勝利し、教皇マリヌスは廃位、ペーザが第209代教皇ウィクトル5世として即位した。 1563年4月4日、ウクタでペルム軍3千と交戦した。 &ref(011.jpg); 4月5日、リヴォニア王はヴィラント公領をホルムガルド王ゴーデンティ2世に明け渡し降伏した。 4月19日、ペルム軍は敗北したが、ペルム王は逃げ延びて抗戦を主張した。 8月1日、ポツコフ公は降伏し、公位は皇帝が得た。 8月2日、皇帝はキエフ王位を創設し、チェルニゴフ公に臣従を勅した。 &ref(010.jpg); 8月18日、チェルニゴフ公は臣従した。 8月22日、逃亡していたペルム王を捕え、ペルム王国が臣従した。 9月26日、リヴォニア王位をルスランより剥奪した。 これにより旧リヴォニア王国は公爵級諸侯に分裂した。 &ref(012.jpg); 12月1日、皇帝は宴を催した。 &ref(013.jpg); 1564年9月21日、皇帝はドイツ人の皇帝に宰相と教皇から得た領有権のある土地をすべて回収すべく軍を興した。 また、チュニスを領有するバヌ=ハフス朝、ゲルジケを有するヘルマンに対しても宣戦布告した。 &ref(014.jpg); 12月3日、宰相セヴェリンは新たにオルデンブルクも帝国の主張領土であるとした。 &ref(017.jpg); 戦争中もこのイベントが何度も起り、当初の予定より多くの土地を得ることが出来た 12月15日から1月13日まで続いたグレイヒェンの会戦で勝利のあと、帝国軍は勝利を確実にした。 &ref(015.jpg); 1466年2月13日、バディスの戦いでサラセン人軍1万を破り、スルタンの弟の首代を挙げた。 &ref(016.jpg); 3月26日、スルタンアル=ムタワッキは降伏し、チュニスを譲り渡した。 4月13日、ドイツ人の皇帝カスパーは降伏し、公領、伯領合わせて十領が皇帝の所領に加わった。 皇帝は一族にドイツ帝国領内の所領を配分した。 その中に、庶子のホルガがいる。 ブルガリア王スヴェンの弟ホルガの子で他に男子はいなかったが、彼が所領を継承することなく長女イリザベトが継承し、 部屋住みであったところを皇帝にその才覚を見込まれイフキリア公爵を賜った。 &ref(018.jpg); 6月12日、皇帝の第八子マーサが僧籍に入りたい旨を皇帝に奏上した。 皇帝は前例に則りこれを許した。 7月11日、皇帝はヴェネツィア・マルチェの両共和国を通商禁止とし、陰謀と企むデンマークとブレートラントの王バヴォに対し軍を差し向けた。 7月31日、ヴェネツィア軍8千はパドナの会戦で敗走し、この一撃でヴェネツィアは降伏した。 &ref(019.jpg); 9月15日、マルチェ軍8千をアンナコナの会戦で破ると、マルチェも降伏し、都市共和国はその勢力を大いに減退した。 &ref(020.jpg); 10月30日、ダルマチアのスプリトにてデンマーク軍7千と遭遇し、戦闘になった。 帝国軍はヴェネツィア・マルチェ征討軍を次々と差し向け、最終的に4万の軍をスプリトに集めた。 &ref(021.jpg); 1467年1月15日、デンマーク軍1万5千がダルマチアに上陸した。 帝国軍は8万をもって逆上陸を仕掛け、これを殲滅した。 その後デンマーク軍は組織的な抵抗を示さなくなり、帝国軍主力はブリテン島の占領に回った。 &ref(022.jpg); 7月2日、デンマーク王バヴォは降伏した。 皇帝はデンマーク王位を召し上げ、およそ百年の時を経て皇帝の下に北欧の三王冠が揃った。 &ref(023.jpg); 1370年に失って以来、97年ぶり *[[巻十五 ヴァルデマ賢帝 1468~1473>AAR/デンマーク年代記/巻十五 ヴァルデマ賢帝 1468~1473]] [#zab855d2]
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