AAR/デンマーク年代記/巻十六 オト大胆帝 1473~1487
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巻十六 オト大胆帝 1473~1487
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十六 オト大胆帝 [#e1b35780] &ref(001.jpg); オト大胆帝は、先帝ヴァルデマの第一子である。 母親の薨去後メクレンブルク公爵となり、 驕る事無く、慈悲の心に満ち溢れた仁君であらせられた。 ヴェネツィア総督バルトロメオの娘カテリーナを皇后に立て、一男二女をもうけた。 第一子をルイトガルト、第二子をエアンスト、第三子をウィンフリダと申し上げる。 10月5日、イングランド王ライオネルを御馬長官に、ブルガリア王イーナルをさらにブルゴーニュ王に、嫡子エアンストをシチリアとランゴバルトの王に任じた。 1474年5月3日、バヌ=ハフス朝スルタン、スィッソは降伏し、トリポリタニア属州が帝国領に回復した。 &ref(002.jpg); 5月26日、ドンスコイにて帝国軍2万がティムール朝可汗コルマカンの率いるティムール軍1万7千を破り、コルマカンはカムイシンに逃れた。 &ref(003.jpg); 6月29日、帝国軍はカムイシンに逃れたティムール軍を破り、コルマカンは降伏し再びブルタシーにスオミ教徒領が回復した。 &ref(005.jpg); 8月18日、皇帝は森林を一人で御遊覧されたが、戻られた際に衣服が焦げ、ボロボロであったが玉体は御無事であった。 不審に思った臣下が訪ねたが皇帝は多くを語らず、ただ死の普遍性と、忽然性のみ語られた。 皇帝の霊妙さに人臣は感嘆し、のちに大胆帝と称される所以となった。 &ref(004.jpg); 9月23日、モルドヴァとモラヴィアの王、ホルスティーンの公爵プリドビョルンが薨去した。83歳の大往生であった。 ヴァルデマ聖帝以来四代にわたって仕え、帝国元帥として代々の皇帝を大いに支えた。 王位と公位は孫のプリドビョルンが継承した。 &ref(006.jpg); 11月29日、皇帝の命に従わず、コルドバ公ベルトレインが反乱を起こした。 12月29日、皇帝の命に従わず、ニーダーロードリンゲン王フィリペが反乱を起こした。 1475年3月12日、ブレートラント王ルズヴィグはデンマーク王位を簒奪しようと企み、皇帝はこれを察し王を捕えた。 6月7日、プスコフ公スィモンが皇帝の命に従わず叛いた。 7月7日、教皇エウゲニウス3世はイフリキアへの十字軍を唱えた。 皇帝はすぐに参戦する旨を伝え、諸侯に軍の召集を詔した。 &ref(007.jpg); &ref(008.jpg); 9月24日、教皇エウゲニウス3世は異教徒との戦いで命を落とした。 エウゲニス3世はリューリク家の出身で、後任に選ばれた教皇もまたリューリク家のレオ10世であった。 皇帝は弔問使を遣し、教皇を弔った。 &ref(009.jpg); 12月15日、コルドバ公デオダットが独立を宣言した。 デオダットは皇帝に叛いたベルトレインの子であり、相続と共に独立した。 皇帝は十字軍の対応で忙しく、公の独立に気付いたのは戦後であった。 &ref(010.jpg); 12月28日、ニーダーロードリンゲン王フィリペが降伏した。皇帝はニーダーロードリンゲン王位を剥奪し、フィリペを男爵に落とした。 1476年8月29日、皇帝の弟、イーレクが薨去し、皇帝がサムラント伯領らを継承した。 1477年3月7日、イフリキアを領するバヌ=ハフス朝スルタンスィッソは降伏し、イフリキア全域が帝国領となった。 &ref(011.jpg); 3月10日、皇帝は恩赦をし、ブレートラント王ルズヴィグらすべての囚人を解放した。 &ref(012.jpg); 3月18日、プレコフ公スィモンが降伏し、トレヴィソ伯領を剥奪した。 9月28日、皇帝はコルドバ公デオダットをレオン王ハルヴォルをして撃たしめると詔し、また同時にキリキア属州を回復すべくクアランリ朝に、カメリノ伯領を回復すべくマルケ共和国に対しても軍を興した。 11月17日、オシモの会戦においてマルケ軍7千は敗走し、カメリノを割いて降伏した。 &ref(013.jpg); 12月13日、コリコスにてサラセン人6千を破った。 1478年3月1日、皇帝の第一子ルイトガルトが成人され、ポラツク王ウィンセンティの下に嫁いだ。 9月28日、クアランリ朝スルタン、サルトゥクは降伏し、全キリキアを皇帝に献じた。 10月31日、皇帝の第一子ルイトガルトが皇帝を弑することを秘かに謀っていると密偵頭イフリキア公ホルガが奏上した。 皇帝はルイトガルトを捕え、諭したのちに釈放するつもりであったが、ポラツク王は身代金を払わず長らく牢獄にとどめ置かれることになった。 &ref(014.jpg); 1479年6月6日、王弟レオン王ハルヴォルが戦死された。36歳であった。 ハルヴォルは先帝ヴァルデマ賢帝の第五子で、皇帝と同じくドイツ文化に親しまれた。 兄弟の中でとりわけ忠孝の意が篤かったため王位を賜り、同族のヴィディン女公カタリナとの間に四女を設けた。 王位は長女のスィスィーリェが継承した。 6月12日、コルドバ公爵デオダットは降伏し、公爵位を皇帝に譲った。 7月17日、皇帝はウェクスフォード伯が君命に叛き従わないのを機に、伯のほかにマルケ共和国が不当に占有するフェルモと、帝国領の中に飛び地でサラセン人が支配するテオドシポリスの三つに対し軍を興した。 1480年2月18日、ウェクスフォード伯は臣従した。 5月25日、スルブ=カチの会戦でサラセン人9千を帝国軍9千5百が破り、テオドシポリス太守は降伏した。 7月4日、マルケ共和国総督サルヴォは降伏し、マルケ共和国はマルケ伯領一つの身となった。 1481年2月20日、皇帝はヌビア王位は先王マルツォフィロスの第一子ザカリアスではなく、第二子デーヴィズが継ぐべきであると詔しエジプト王ヨルンを将軍として撃たしめた。 また、シノペ伯領のみとなったカンダル朝を滅ぼすべくハリィーチ=ヴォリン王ヴィエリツラウを将軍として軍を興した。 7月10日、シンカットの会戦で帝国軍は勝利を収め、ヌビア王位はデーヴィズが継承した。 &ref(015.jpg); 7月24日、ティロル伯ロルフが薨去した。26歳であった。 ヴァルデマ賢帝の第九子である。 文治に優れ、先帝より将来を嘱望されていた。 子は無く、所領は帝室預かりとなった。 1482年2月10日、帝国軍はシノペ伯領を奪取しカンダル朝は滅亡した。 ヴィエリツラウは功を焦り敗北した責をとり更迭され、セルケイア伯が代わりに将軍となった。 &ref(016.jpg); &ref(018.jpg); 5月21日、教皇レオ10世が薨去した。51歳であった。 先の教皇の戦死により即位したが、皇帝の先兵として働いた。 性格は臆病にして小心でありながら誠実でなく、すぐに激高したと伝える。 211代教皇は、皇帝の弟ヤコブがボニファシウス7世として即位した。 エストリズセン家からの教皇は2例目である。 &ref(024.jpg); 9月22日、皇帝はローマに行幸され、弟である教皇とロンバルディア王たる息子を見えられた。 1483年3月11日、皇帝はティムール朝とオルトキド朝に対し軍を興した。 3月21日、先々帝オト公正帝の皇后、スィスィーリェが崩御された。57歳であった。 公正帝の三番目の皇后であり、エジプト王ヨルンの母であらせられる。 その実直にして慈悲深い性格により、長らく帝室の財務管理を成された。 10月25日、オルトキド朝はアミダ伯領を失い滅亡した。 12月29日、テッサロニキ王の率いる帝国軍3万がティムール朝可汗コルマカンの率いるティムール軍1万8千を破った。 帝国軍はこれを追撃し、ウギティスの戦いで殲滅し、ティムール朝は降伏しティグリス川流域を帝国に割譲した。 &ref(020.jpg); 1484年4月20日、教皇ボニファシウス7世が644グルデンを寄進した。 5月3日、皇帝に53グルデンが献上された。 &ref(021.jpg); 7月22日、皇帝はシチリアとランゴバルトの王エアンストは自身の臣ではなく、一独立諸侯であると詔された。 &ref(022.jpg); 8月7日、シチリアとランゴバルトの王エアンストはローマの副帝たるイタリア皇帝と自ら称した。 &ref(023.jpg); 皇帝はこの由の奏上を受けると、先帝以来の懸案が解消したことを大いに喜ばれた。 8月9日、皇帝は長雨を心配された。 8月11日、教皇が605グルデンを寄進した。 8月13日、先帝ヴァルデマ賢帝の第八子マーサが薨去した。31歳であった。 僧籍に入っていた。 9月5日、カラマンリ朝からカラマン王位を簒奪し、カラマンリ朝はいくつかの総督に分裂した。 12月16日、皇帝の第三子ウィンフィルタが成人された。 1485年2月8日、イタリア皇帝エアンストはヴェネツィアに対し戦を宣した。 皇帝はすぐさまこれに同調し、軍を派遣し、同時にハラブ太守ムクハタルに戦を宣した。 5月20日、皇帝はカラマン王位をアビシニア王子テスファイェに賜った。 11月1日、アビシニア王ネガシュは毒蛇に噛まれ死亡した。 アビシニア王位はテスファイェが継承した。 12月26日、ヴェネツィアはイタリア皇帝の一伯領となった。 1486年1月1日、教皇ボニファシウス7世が天に召された。51歳であった。 その治世は短かったが、その慈悲深さと社交性でキリスト教をよく率いた。 皇帝は弟の死を大いに悲しまれたとされる。 後任はリューリク家のシルヴェステル5世である。 &ref(025.jpg); 5月13日、皇帝は騎乗槍試合を開催した。 5月19日、ティムール朝可汗コルマカン"大帝"が死亡した。67歳であった。 &ref(026.jpg); 9月13日、皇后カテリーナが崩御された。55歳であった。 ヴェネツィアのファリエロ家の出身で、弟は聖ヨハネ騎士団長にまで栄達を重ねた。 皇帝は皇后の死を深く悲しまれたという。 &ref(027.jpg); 10月4日、皇帝はザカリアスに対し、ヌビア王位に続きアロディア王位をデーヴィズに譲るよう詔し、軍を興した。 10月5日、恩赦されていたブレートラント王ルズヴィグがまたしても王位簒奪を企み、投獄された。 皇帝は懲罰として東シェラン島を召し上げた。 12月1日、124グルデンがコンスタンティノポリスより寄進された。 12月4日、イタリア帝国内で叛乱が起こった。 皇帝はすぐさま軍を向かわせしめ、これを鎮めた。 &ref(028.jpg); 1487年2月5日、アロディア王位はデーヴィズが継承し、アフリカのキリスト教徒はすべて帝国領内に編入された。 3月18日、皇帝は崩御された。 唯一の男子イタリア皇帝エアンストがすべての帝位を継承された。 &ref(029.jpg); *[[巻十七 エアンスト一世 1487~1492>AAR/デンマーク年代記/巻十七 エアンスト一世 1487~1492]] [#p1e99bc9]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十六 オト大胆帝 [#e1b35780] &ref(001.jpg); オト大胆帝は、先帝ヴァルデマの第一子である。 母親の薨去後メクレンブルク公爵となり、 驕る事無く、慈悲の心に満ち溢れた仁君であらせられた。 ヴェネツィア総督バルトロメオの娘カテリーナを皇后に立て、一男二女をもうけた。 第一子をルイトガルト、第二子をエアンスト、第三子をウィンフリダと申し上げる。 10月5日、イングランド王ライオネルを御馬長官に、ブルガリア王イーナルをさらにブルゴーニュ王に、嫡子エアンストをシチリアとランゴバルトの王に任じた。 1474年5月3日、バヌ=ハフス朝スルタン、スィッソは降伏し、トリポリタニア属州が帝国領に回復した。 &ref(002.jpg); 5月26日、ドンスコイにて帝国軍2万がティムール朝可汗コルマカンの率いるティムール軍1万7千を破り、コルマカンはカムイシンに逃れた。 &ref(003.jpg); 6月29日、帝国軍はカムイシンに逃れたティムール軍を破り、コルマカンは降伏し再びブルタシーにスオミ教徒領が回復した。 &ref(005.jpg); 8月18日、皇帝は森林を一人で御遊覧されたが、戻られた際に衣服が焦げ、ボロボロであったが玉体は御無事であった。 不審に思った臣下が訪ねたが皇帝は多くを語らず、ただ死の普遍性と、忽然性のみ語られた。 皇帝の霊妙さに人臣は感嘆し、のちに大胆帝と称される所以となった。 &ref(004.jpg); 9月23日、モルドヴァとモラヴィアの王、ホルスティーンの公爵プリドビョルンが薨去した。83歳の大往生であった。 ヴァルデマ聖帝以来四代にわたって仕え、帝国元帥として代々の皇帝を大いに支えた。 王位と公位は孫のプリドビョルンが継承した。 &ref(006.jpg); 11月29日、皇帝の命に従わず、コルドバ公ベルトレインが反乱を起こした。 12月29日、皇帝の命に従わず、ニーダーロードリンゲン王フィリペが反乱を起こした。 1475年3月12日、ブレートラント王ルズヴィグはデンマーク王位を簒奪しようと企み、皇帝はこれを察し王を捕えた。 6月7日、プスコフ公スィモンが皇帝の命に従わず叛いた。 7月7日、教皇エウゲニウス3世はイフリキアへの十字軍を唱えた。 皇帝はすぐに参戦する旨を伝え、諸侯に軍の召集を詔した。 &ref(007.jpg); &ref(008.jpg); 9月24日、教皇エウゲニウス3世は異教徒との戦いで命を落とした。 エウゲニス3世はリューリク家の出身で、後任に選ばれた教皇もまたリューリク家のレオ10世であった。 皇帝は弔問使を遣し、教皇を弔った。 &ref(009.jpg); 12月15日、コルドバ公デオダットが独立を宣言した。 デオダットは皇帝に叛いたベルトレインの子であり、相続と共に独立した。 皇帝は十字軍の対応で忙しく、公の独立に気付いたのは戦後であった。 &ref(010.jpg); 12月28日、ニーダーロードリンゲン王フィリペが降伏した。皇帝はニーダーロードリンゲン王位を剥奪し、フィリペを男爵に落とした。 1476年8月29日、皇帝の弟、イーレクが薨去し、皇帝がサムラント伯領らを継承した。 1477年3月7日、イフリキアを領するバヌ=ハフス朝スルタンスィッソは降伏し、イフリキア全域が帝国領となった。 &ref(011.jpg); 3月10日、皇帝は恩赦をし、ブレートラント王ルズヴィグらすべての囚人を解放した。 &ref(012.jpg); 3月18日、プレコフ公スィモンが降伏し、トレヴィソ伯領を剥奪した。 9月28日、皇帝はコルドバ公デオダットをレオン王ハルヴォルをして撃たしめると詔し、また同時にキリキア属州を回復すべくクアランリ朝に、カメリノ伯領を回復すべくマルケ共和国に対しても軍を興した。 11月17日、オシモの会戦においてマルケ軍7千は敗走し、カメリノを割いて降伏した。 &ref(013.jpg); 12月13日、コリコスにてサラセン人6千を破った。 1478年3月1日、皇帝の第一子ルイトガルトが成人され、ポラツク王ウィンセンティの下に嫁いだ。 9月28日、クアランリ朝スルタン、サルトゥクは降伏し、全キリキアを皇帝に献じた。 10月31日、皇帝の第一子ルイトガルトが皇帝を弑することを秘かに謀っていると密偵頭イフリキア公ホルガが奏上した。 皇帝はルイトガルトを捕え、諭したのちに釈放するつもりであったが、ポラツク王は身代金を払わず長らく牢獄にとどめ置かれることになった。 &ref(014.jpg); 1479年6月6日、王弟レオン王ハルヴォルが戦死された。36歳であった。 ハルヴォルは先帝ヴァルデマ賢帝の第五子で、皇帝と同じくドイツ文化に親しまれた。 兄弟の中でとりわけ忠孝の意が篤かったため王位を賜り、同族のヴィディン女公カタリナとの間に四女を設けた。 王位は長女のスィスィーリェが継承した。 6月12日、コルドバ公爵デオダットは降伏し、公爵位を皇帝に譲った。 7月17日、皇帝はウェクスフォード伯が君命に叛き従わないのを機に、伯のほかにマルケ共和国が不当に占有するフェルモと、帝国領の中に飛び地でサラセン人が支配するテオドシポリスの三つに対し軍を興した。 1480年2月18日、ウェクスフォード伯は臣従した。 5月25日、スルブ=カチの会戦でサラセン人9千を帝国軍9千5百が破り、テオドシポリス太守は降伏した。 7月4日、マルケ共和国総督サルヴォは降伏し、マルケ共和国はマルケ伯領一つの身となった。 1481年2月20日、皇帝はヌビア王位は先王マルツォフィロスの第一子ザカリアスではなく、第二子デーヴィズが継ぐべきであると詔しエジプト王ヨルンを将軍として撃たしめた。 また、シノペ伯領のみとなったカンダル朝を滅ぼすべくハリィーチ=ヴォリン王ヴィエリツラウを将軍として軍を興した。 7月10日、シンカットの会戦で帝国軍は勝利を収め、ヌビア王位はデーヴィズが継承した。 &ref(015.jpg); 7月24日、ティロル伯ロルフが薨去した。26歳であった。 ヴァルデマ賢帝の第九子である。 文治に優れ、先帝より将来を嘱望されていた。 子は無く、所領は帝室預かりとなった。 1482年2月10日、帝国軍はシノペ伯領を奪取しカンダル朝は滅亡した。 ヴィエリツラウは功を焦り敗北した責をとり更迭され、セルケイア伯が代わりに将軍となった。 &ref(016.jpg); &ref(018.jpg); 5月21日、教皇レオ10世が薨去した。51歳であった。 先の教皇の戦死により即位したが、皇帝の先兵として働いた。 性格は臆病にして小心でありながら誠実でなく、すぐに激高したと伝える。 211代教皇は、皇帝の弟ヤコブがボニファシウス7世として即位した。 エストリズセン家からの教皇は2例目である。 &ref(024.jpg); 9月22日、皇帝はローマに行幸され、弟である教皇とロンバルディア王たる息子を見えられた。 1483年3月11日、皇帝はティムール朝とオルトキド朝に対し軍を興した。 3月21日、先々帝オト公正帝の皇后、スィスィーリェが崩御された。57歳であった。 公正帝の三番目の皇后であり、エジプト王ヨルンの母であらせられる。 その実直にして慈悲深い性格により、長らく帝室の財務管理を成された。 10月25日、オルトキド朝はアミダ伯領を失い滅亡した。 12月29日、テッサロニキ王の率いる帝国軍3万がティムール朝可汗コルマカンの率いるティムール軍1万8千を破った。 帝国軍はこれを追撃し、ウギティスの戦いで殲滅し、ティムール朝は降伏しティグリス川流域を帝国に割譲した。 &ref(020.jpg); 1484年4月20日、教皇ボニファシウス7世が644グルデンを寄進した。 5月3日、皇帝に53グルデンが献上された。 &ref(021.jpg); 7月22日、皇帝はシチリアとランゴバルトの王エアンストは自身の臣ではなく、一独立諸侯であると詔された。 &ref(022.jpg); 8月7日、シチリアとランゴバルトの王エアンストはローマの副帝たるイタリア皇帝と自ら称した。 &ref(023.jpg); 皇帝はこの由の奏上を受けると、先帝以来の懸案が解消したことを大いに喜ばれた。 8月9日、皇帝は長雨を心配された。 8月11日、教皇が605グルデンを寄進した。 8月13日、先帝ヴァルデマ賢帝の第八子マーサが薨去した。31歳であった。 僧籍に入っていた。 9月5日、カラマンリ朝からカラマン王位を簒奪し、カラマンリ朝はいくつかの総督に分裂した。 12月16日、皇帝の第三子ウィンフィルタが成人された。 1485年2月8日、イタリア皇帝エアンストはヴェネツィアに対し戦を宣した。 皇帝はすぐさまこれに同調し、軍を派遣し、同時にハラブ太守ムクハタルに戦を宣した。 5月20日、皇帝はカラマン王位をアビシニア王子テスファイェに賜った。 11月1日、アビシニア王ネガシュは毒蛇に噛まれ死亡した。 アビシニア王位はテスファイェが継承した。 12月26日、ヴェネツィアはイタリア皇帝の一伯領となった。 1486年1月1日、教皇ボニファシウス7世が天に召された。51歳であった。 その治世は短かったが、その慈悲深さと社交性でキリスト教をよく率いた。 皇帝は弟の死を大いに悲しまれたとされる。 後任はリューリク家のシルヴェステル5世である。 &ref(025.jpg); 5月13日、皇帝は騎乗槍試合を開催した。 5月19日、ティムール朝可汗コルマカン"大帝"が死亡した。67歳であった。 &ref(026.jpg); 9月13日、皇后カテリーナが崩御された。55歳であった。 ヴェネツィアのファリエロ家の出身で、弟は聖ヨハネ騎士団長にまで栄達を重ねた。 皇帝は皇后の死を深く悲しまれたという。 &ref(027.jpg); 10月4日、皇帝はザカリアスに対し、ヌビア王位に続きアロディア王位をデーヴィズに譲るよう詔し、軍を興した。 10月5日、恩赦されていたブレートラント王ルズヴィグがまたしても王位簒奪を企み、投獄された。 皇帝は懲罰として東シェラン島を召し上げた。 12月1日、124グルデンがコンスタンティノポリスより寄進された。 12月4日、イタリア帝国内で叛乱が起こった。 皇帝はすぐさま軍を向かわせしめ、これを鎮めた。 &ref(028.jpg); 1487年2月5日、アロディア王位はデーヴィズが継承し、アフリカのキリスト教徒はすべて帝国領内に編入された。 3月18日、皇帝は崩御された。 唯一の男子イタリア皇帝エアンストがすべての帝位を継承された。 &ref(029.jpg); *[[巻十七 エアンスト一世 1487~1492>AAR/デンマーク年代記/巻十七 エアンスト一世 1487~1492]] [#p1e99bc9]
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