AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452
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巻十二 オト公正帝 1434~1452
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[[AAR/デンマーク年代記]] 1435年8月12日、皇帝は一人の男を宮廷に召した。 その男は姓をド・ノートルダム、名をミシェルと謂い、1452年の12月の終わりに恐怖の大王が降臨し、世界が滅亡すると予言し、民衆から大いに崇敬を集めていた。 &ref(ノストラダムス.jpg); &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 信じられぬ。本当に1452年の12月の終わりに恐怖の大王なる物が降ってくるのか? &ref(顔ノス.jpg); 降りまする! &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 恐怖の大王とやらは一体どのような姿をしているのだ。 &ref(顔ノス.jpg); それは私にもわかりませぬ。姿が見えないのです… &ref(顔ノス.jpg); おそらくそれは非常に高い空の上に居り、物凄い速さで降ってくるのでしょう。 &ref(顔ノス.jpg); そのためかそれだけは私にもわかりませんでした。 &ref(顔ノス.jpg); 何でもないものでした…何でもないものが降るのです。 &ref(顔ノス.jpg); それが恐怖の大王なのです… &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); それを回避する方法はないのか。 &ref(顔ノス.jpg); 偉大なローマ皇帝と、その庇護下にある者のみが、大王に打ち勝つことが出来ます。 &ref(顔ノス.jpg); 臣の願いますに、ローマを復活なさいませ。恐怖の大王に打ち勝つ、偉大なローマを! 12月31日、マジャール女王"賢王"グレーテが崩御した。58歳であった。 デンマーク王イーレク7世の長女で、母親のマジャール女王アデリンデからマジャール王位を継いだ。 マジャール王位は宰相キプロス王シグルドが継いだ。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第二次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1436年2月3日-1437年7月8日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|134000|ジェノヴァ共和国          |20000| |>|-|ワラキア王国|5000| |>|-|ポラメニア公国|12000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|サヴォナ大市長エルミニオ| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|エンブリアコ市長オベルト| |>|トルトサ伯レインベルン|>|グリマルディ市長ロマーノ| |>|オヴェコ・デ・サン=クレメンテ|>|ニコシア公リトヴォイ| 1436年2月3日、ジェノヴァとワラキアのモンテリア、ポラメニアを手中に収めるべく軍を興した。 &ref(001.jpg); 来年になるとゲーム開始から100年が経ち、ランゴバルト王国のde jure領域からジェノヴァ共和国に移ってしまうのでそれを阻止するためという極めてゲーム的な動機 6月16日、モンテリアを平定した。 6月19日、コンスタンティノポリス郊外のヒエロンで帝国軍4万とジェノヴァ共和国軍2万が衝突した。 7月3日、帝国軍が勝利し、ジェノヴァ共和国はジェノヴァを帝国に割いて謝った。 1337年7月7日、アキテーヌ公アルナウト3世が事故死し、皇帝臣下のピサ公アルナウトがアルナウト4世として即位した。 皇帝はこれをもってアキテーヌ王を称し、アキテーヌ地方の独立諸侯は皆皇帝に臣従を誓った。 7月8日、ポラメニア公が臣従した。 &ref(002.jpg); この頃の図 9月27日、皇帝は以前にもまして酒を好まれるようになった。 &ref(003.jpg); 10月15日、皇帝はワラキア王位をヴォイエヴォダートから簒奪した。 12月12日、皇帝は詔し、未だ皇威に浴さない四つの諸侯に対し軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第三次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1437年12月12日-1437年7月8日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|134000|カタルーニャ王国          |5000| |ポーランド王国|12000|聖ジョージ共和国|6000| |ポルトガル王国|8000|ムテニア公国|5000| |ヌビア王国|5000|ボスニア公国|6000| |>|-|"カリフ"クッシル|8000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ムテニア公ヴィライク| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|カタルーニャ王ジョアン| |>|トルトサ伯レインベルン|>|| 2月10日、イバード派カリフクッシルが書を寄越し、宣戦布告してきた。 2月16日、ポルトガルの"肥満王"パイオが援軍を申し出た。 3月3日にはヌビアの"冷酷王"マルツロフィロスが援軍を申し出た。 皇帝は大いに感激した。 二人は共に皇帝の義理の兄弟にあたり、ヴァルデマ聖帝の第三子アスタがヌビア王に、第七子グレーテがポルトガル王に嫁いだ。 3月7日、皇后にしてポルトガル女王ヤドヴィカが援軍を申し出た。 4月15日、テサロニカとコルシカを支配していた聖ジョージ共和国が臣従した。 5月25日、トルトサ伯レインベルンが卒去した。66歳であった。 先帝の代より仕え、多くの戦争に従軍し、武勇の才はあのオト1世さえ凌ぐと言われた。 27日、チュートン騎士団長を兼ねるノヴゴロド大公ゴーデンティが援軍を申し出た。 6月9日、ボスニア公イェリサヴェタは公爵位を返上して臣従した。 6月17日、サルカヴェトロとブルガリアの王スヴェンが戦場の傷がもとで薨去した。32歳であった。 ホルスティーン公ヘルギの子である。 6歳で王位を継ぎ、自ら聖戦を行う敬虔な人物で皇帝から大いに頼りにされていた。 王位は嫡子のヘンリキが継いだ。 9月23日、ムテニア公ヴィライクが臣従した。 1439年4月8日、"カリフ"クッシルは降伏を申し出た。 サラセン人は諸侯の数だけは多くそろえることが来たが、兵力は全く足りず、一万の大台に乗ることは一度として無かった &ref(004.jpg); &ref(005.jpg); ちなみに戦勝点60% 4月18日、カタルーニャ王ジョアンが降伏した。 &ref(006.jpg); 1440年2月8日、ドイツ人の皇帝コンスタンティヌス5世が事故死した。 帝位は5歳になる嫡子ブルカルドが継いだ。 諸侯はこの皇帝に反発し、翌年ボヘミア王位とニーダーロードリンゲン大公位を兼ねるハルトマンが独立した。 1440年2月19日、皇帝は北ブルターニュを掌握すべく軍を興した。 5月12日、ポルホエートの戦いでブルターニュ公爵軍を破り、平定した。 &ref(007.jpg); ブルターニュにこれだけの兵力は必要なかったかもしれないが、別にほかに攻める所がないので持て余している 1441年5月25日、皇帝はタロンをサラセン人から取り戻すべく戦を詔した。 &ref(008.jpg); 1442年8月25日、タロンの総督カラは一戦も交えぬまま敗北を認め、タロンを割譲した。 12月23日、シチリア王オジェルが薨去した。59歳であった。 皇帝によく仕え、軍をよく率いた。 皇帝の義兄弟にあたる。 息子のヴィヴァルドがシチリア王位を、長子の子オジェルがゴート王位を継いだ。 1443年2月19日、皇帝は自らの擁立した教皇カリクストゥス2世がキリスト教諸侯への領有主張に難色を示しがちなことを責め、教皇に勅使を送った。 &ref(009.jpg); 3月3日、教皇カリストゥス2世は皇帝の意向にマグレブへの十字軍として答えた。 皇帝は大いに喜び、十字軍に参戦すべく軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''マグレブ十字軍''| |>|>|>|年月日:1443年3月3日-1444年5月18日| |>|>|>|結果:マグレブの帝国編入| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラセン人''| |ノルド帝国|134000|バヌ=マリンスルタン国          |15000| |教皇庁|12000|>|-| |ポルトガル王国|8000|>|-| |ヴェネティア共和国|5000|>|-| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|バヌ=マリン"スルタン"アジム| |>|クズルム伯フローゼ|>|ツアート太守アティッシ| |>|ヴォルン公イマーム|>|シッソ総督サーラ| |>|イクミン伯ヨルゲン|>|ムザブ総督オウラフ| |>|カリン伯ニコレース|>|アダリッド総督アムベイ| 5月7日、シティ=アカチャの戦いでデンマーク王ゴズフレズが薨去した。39歳であった。 王位は嫡子のバヴォが継承した。 9日、シディ=アカチャの戦いは帝国軍の勝利に終わった。 8月2日、ラバットにおいて十字軍3万とサラセン人1万4千が衝突した。 8月14日、帝国軍が側翼包囲を成功させサラセン人は敗走した。 皇帝も大いにご活躍成され、 この戦いで十字軍の帰趨は決した。 &ref(010.jpg); &ref(011.jpg); 10月3日、皇后ヤドヴィカが崩御された。50歳であった。 時に皇后として、時にポーランド女王として皇帝をよく支えた。 王位は長子のヴァルデマが継承した。 &ref(012.jpg); 10月8日、皇帝はライン男爵家のイルムガルドを皇后に立てた。 1444年1月23日、皇帝の第二子クヌーズはジェノヴァ共和国の設立を宣言し、ジェノヴァ共和国が並立することになった。 &ref(014.jpg); 5月10日、皇帝の第四子クリストファは以下のように奏上した。 &ref(クリストファ4.jpg); 臣は四男で、到底帝位を継ぐとは思えません。事実、三人の兄と違い臣一人土地がないこともその証左でありましょう。 &ref(クリストファ4.jpg); もし皇帝陛下が慈悲深い大御心でお許しくださるのであれば、臣はヴァリャーギ親衛隊の一員となり陛下を守護し奉りたいを願います。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 我が息子クリストファよ、汝が土地を持たぬのは汝を退けているからではない。肥沃な土地を与えようと思ってのことだ。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); いま、サラセン人どもを屠り、マグレブの肥沃な土地が手に入ればそこを汝にやろう。どうか、考え直さぬか。 &ref(クリストファ4.jpg); 陛下の恩寵は臣の身に沁みわたるものでありますが、臣は封建諸侯として生きる平和な日々よりも、名誉を懸けて戦いに明け暮れる日々を強く求めます。 &ref(クリストファ4.jpg); 必ずや栄達をして参りますので、ヴァリャーギ親衛隊長として皇帝陛下の御前に見える日までしばし御暇をくださいませ。 皇帝はクリストファの望みを叶え、ヴァリャーギ親衛隊に入隊することを許可した。 &ref(015.jpg); 5月18日、マグレブのサラセン人を追放し、皇化させた。 皇帝は一族の者に多くの土地を賜り、ヴァリャーギ親衛隊に入隊したクリストファにも4伯領を賜った。 &ref(016.jpg); 7月1日、皇帝は八つの独立諸侯に戦を詔した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第四次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1444年7月1日-1437年7月8日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|164000|ジェノヴァ共和国          |20000| |>|-|ウラジミール大公国|5000| |>|-|聖ジョージ共和国|7000| |>|-|キエフ公国|3000| |>|-|ウルビノ公国|4000| |>|-|ラヴェンナ公国|4500| |>|-|ハンブルク共和国|12000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ジョノヴァ総督バルトロメオ| |>|クズルム伯フローゼ|>|サヴォナ大市長エルミニオ| |>|カリン伯ニコレース|>|グリマルディ市長ロマーノ| |>|アヴィラ伯グンツェル|>|ニコシア公リトヴォイ| 10月27日、聖ジョージ共和国が降伏した。 1445年1月13日、ハンブルグ共和国総督マティウス2世が降伏した。 1月14日、サラセン人のザイアがエジプトに侵入した。 皇帝はエジプトの諸侯に動員をかけ、これを撃破した。 &ref(018.jpg); 一時は危うかったが、この後逆転した。 4月23日、ラヴェンナ公は降伏し、ボログナ伯領を割いて自らの不明を詫びた。 4月28日、ウラディミール大公ヴィシャタが病没し、弟のフョードルが大公位に就いた。 フョードルは皇帝から伯領を賜り、皇帝がフョードルを軍をしてウラディミール大公に就ける代わりに大公となったのちも皇帝に臣従するという契約で戦争をしたが、 フョードルは大公位継承は相続で継承したものであり、皇帝の軍に依る物ではないとして臣従を拒否した。 &ref(019.jpg); 5月19日、ウルビノ公は降伏し、自らは伯になり、公爵位を献上した。 8月3日、ジェノヴァ共和国がボッビオ伯領を割いて降伏した。 9月11日、皇帝はヴァリャーギ親衛隊長スティルビョルンにアイルランド王位を賜り、皇帝直属とした。 &ref(020.jpg); スティルビョルンはこれを機に東方正教から全き道たるカトリックに改宗した。 12月16日、皇帝は宴を催した。 1446年4月9日、皇帝は神聖ローマ皇帝にデンマーク人のヘルガを就けるべく戦を宣し、また、ボヘミア王国、ブルターニュのブレッツ=イーゼル公国に向けて軍を興した。 9月6日、フランス女王エルヴィスが獄中で死亡した。 11月6日、ボヘミア王ハルトマンがリューツィッヒを割いて降伏した。 12月10日、デンマーク王バヴォはスリースヴィ公を兼ねるブルガリア王ヘンリキが不具となったのを見てスリースヴィ公位を取り戻すべく軍を興した。 12月31日、シチリア王ヴィヴァルドは甥にあたるゴートラント王オジェルに対し軍を興した。 1447年3月6日、ブレッツ=イーゼル公国を平定した。 5月24日、ドイツ人の皇帝ブルカルドが傷病死し、遠縁のマグヌスが帝位を継いだ。 7月27日、マグヌスは退位し、ヘルギが帝位を継いだ。 ヘルギの子は皇帝の従兄妹と女系結婚しており、このまま帝位を継承させ神聖ローマ皇帝位を一族の手中に収めるためであったという。 10月5日、皇帝はいつになく落ち込み、詔して曰く。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 朕は長きにわたり戦を宣し、軍を興してきたが、これは本当に朕のするべきことだったのだろうか。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); &ruby(おおみたから){百姓};を厚く養い、官臣を過ちなく統べるべきだったのではないだろうか。 &ref(021.jpg); 11月16日、ゴートラント王オジェルは王位を弟に譲り、ヴィヴァルドに和議を乞うた。 1448年3月5日、ロッビオで農民が反乱を起こした。 皇帝はこの背後にフョードルがいると怪しみ、フョードルの弟ウラディミールを新たなウラディミール大公に就けるべく軍を興した。 4月24日、皇帝は破門された。教皇カリストゥス2世はフョードルと同じくリューリク家の出身であり、彼らは共謀して皇帝を陥れる謀をこしらえていた。 皇帝は大いに怒り、6月12日にローマに3万の軍勢をもって上陸しローマを包囲した。 &ref(022.jpg); フョードルはこれにも懲りず、トドゲンというサラセン人をそそのかし帝国に宣戦布告させた。 6月24日、シチリア王ヴィヴァルドはオジェルの弟、ドートラント王アドルフに戦を宣した。 12月24日、皇帝はサラセン人をケイランピナルにて破った。 トドゲンは490グルデンもの資金を有しており、皇帝はこれをすべて没収したのち彼を追放した。 1449年3月10日、皇帝の第四子クリストファがウラディミール大公との戦いで命を落とした。 皇帝は大いに悲しみ、いよいよ宸襟を悪化された。 &ref(025.jpg); 6月24日、教皇カリストゥス2世は過食で死んだ。 &ref(026.jpg); 清貧であるべき教皇が過食で死んだという事実は諸侯を失望させ、彼と組んだフョードルの権威は落ち、破門された皇帝に対する期待は高まった。 後任はピャスト家のヒラルス2世である。 また、フョードルは敗北を認め、弟ウラディミールにウラディミール大公位を譲った。 8月3日、ヒラルス2世は皇帝の破門を解いた。 10月6日、皇后イムルガルドが崩御した。34歳であった。 10月27日、ブルガリア王ヘンリキが薨去した。19歳であった。 若くして不具となり、その隙にデンマーク王バヴォにスリースヴィ公領を奪われる等苦難に満ちた人生だった。 王位は弟のイーナルが継承した。 11月12日、皇帝はスィスィーリェ・フォン・アイセルステインを皇后に立てた。 内向的だが、性格は温和であった。 &ref(027.jpg); 1450年4月27日、皇帝は詔した。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 恐怖の大王の降臨が近づいている。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 朕はローマの皇帝として、一人でも多くの&ruby(おおみたから){百姓};を救うことは朕の義務であろう。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 未だ皇化に浴さぬ諸侯には鎮定に将軍を命じ、臣従させようと思う。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); また、異教徒に囚われたローマの属州も皇帝の手に戻すべきである。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 故にアフリカ属州を回収せんと欲す。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第五次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1450年4月27日-1452年9月18日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|214000|ドイツ人のローマを僭称する帝国          |50000| |>|-|バヌ=ハフス朝|14000| |>|-|ノヴゴロド王国|3000| |>|-|リヴォニア王国|8000| |>|-|ポルトガル王国|7000| |>|-|ペルム王国|3000| |>|-|ログヴォルド公国|6500| |>|-|ポモルスコ公国|6500| |>|-|フェラーラ伯国|3000| |>|-|リミニ伯国|80| |>|-|ラヴェンナ伯国|120| |>|-|テオドシオポリス太守国|3800| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|"スルタン"ブワイフ| |>|クズルム伯フローゼ|>|ベナヴェンテ司教フランシスコ| |>|カリン伯ニコレース|>|シュゼント市長イェドルセイ| |>|アヴィラ伯グンツェル|>|-| 9月18日、カイラワンの戦いで帝国軍5万がスルタン自ら率いるサラセン人1万を破った。 9月29日、プティビルの戦いで、敵4千を破った。 12月10日、テオドシオポリス太守ベルケが帝国に宣戦布告した。 &ref(028.jpg); 1451年1月4日、皇后スィスィーリェがイョルンを出産した。 3月24日、バヌ=ハフス朝の"スルタン"ブワイフは地に伏して詫び、アフリカ属州を割譲した。 4月25日、ノヴゴロド王国がコゼルスクを割譲し降伏した。 5月11日、皇帝に一冊の本が献上された。名をアルス・モリエンディと云う。 &ref(029.jpg); 5月11日、ペルム王イングヴァルがズィリャネを割いて降伏した。 6月29日、神聖ローマ帝国からプアルツグラフシャフト=ベイ=ラインを得た。 7月20日、ポモルスコ公国が公爵位を皇帝に譲り臣従した。 8月3日、フェラーラー伯が臣従した。 8月20日、レミニ伯が臣従した。 11月24日、皇帝は崩御された。58歳であった。 陣中で即位し、陣中で御隠れになられた。 だかその大御心は常に&ruby(おおみたから){百姓};の方を向いておられた。 &ref(030.jpg); 長子であるポーランド王ヴァルデマが帝位を継いだ。 エジプトとマグレブの王位は末子ヨルンが、モルドヴァ王位は一族の長老ホルスティーン公プリドビョルンが継承した。 *[[巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458>AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458]] [#x61fd1ae]
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[[AAR/デンマーク年代記]] 1435年8月12日、皇帝は一人の男を宮廷に召した。 その男は姓をド・ノートルダム、名をミシェルと謂い、1452年の12月の終わりに恐怖の大王が降臨し、世界が滅亡すると予言し、民衆から大いに崇敬を集めていた。 &ref(ノストラダムス.jpg); &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 信じられぬ。本当に1452年の12月の終わりに恐怖の大王なる物が降ってくるのか? &ref(顔ノス.jpg); 降りまする! &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 恐怖の大王とやらは一体どのような姿をしているのだ。 &ref(顔ノス.jpg); それは私にもわかりませぬ。姿が見えないのです… &ref(顔ノス.jpg); おそらくそれは非常に高い空の上に居り、物凄い速さで降ってくるのでしょう。 &ref(顔ノス.jpg); そのためかそれだけは私にもわかりませんでした。 &ref(顔ノス.jpg); 何でもないものでした…何でもないものが降るのです。 &ref(顔ノス.jpg); それが恐怖の大王なのです… &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); それを回避する方法はないのか。 &ref(顔ノス.jpg); 偉大なローマ皇帝と、その庇護下にある者のみが、大王に打ち勝つことが出来ます。 &ref(顔ノス.jpg); 臣の願いますに、ローマを復活なさいませ。恐怖の大王に打ち勝つ、偉大なローマを! 12月31日、マジャール女王"賢王"グレーテが崩御した。58歳であった。 デンマーク王イーレク7世の長女で、母親のマジャール女王アデリンデからマジャール王位を継いだ。 マジャール王位は宰相キプロス王シグルドが継いだ。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第二次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1436年2月3日-1437年7月8日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|134000|ジェノヴァ共和国          |20000| |>|-|ワラキア王国|5000| |>|-|ポラメニア公国|12000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|サヴォナ大市長エルミニオ| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|エンブリアコ市長オベルト| |>|トルトサ伯レインベルン|>|グリマルディ市長ロマーノ| |>|オヴェコ・デ・サン=クレメンテ|>|ニコシア公リトヴォイ| 1436年2月3日、ジェノヴァとワラキアのモンテリア、ポラメニアを手中に収めるべく軍を興した。 &ref(001.jpg); 来年になるとゲーム開始から100年が経ち、ランゴバルト王国のde jure領域からジェノヴァ共和国に移ってしまうのでそれを阻止するためという極めてゲーム的な動機 6月16日、モンテリアを平定した。 6月19日、コンスタンティノポリス郊外のヒエロンで帝国軍4万とジェノヴァ共和国軍2万が衝突した。 7月3日、帝国軍が勝利し、ジェノヴァ共和国はジェノヴァを帝国に割いて謝った。 1337年7月7日、アキテーヌ公アルナウト3世が事故死し、皇帝臣下のピサ公アルナウトがアルナウト4世として即位した。 皇帝はこれをもってアキテーヌ王を称し、アキテーヌ地方の独立諸侯は皆皇帝に臣従を誓った。 7月8日、ポラメニア公が臣従した。 &ref(002.jpg); この頃の図 9月27日、皇帝は以前にもまして酒を好まれるようになった。 &ref(003.jpg); 10月15日、皇帝はワラキア王位をヴォイエヴォダートから簒奪した。 12月12日、皇帝は詔し、未だ皇威に浴さない四つの諸侯に対し軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第三次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1437年12月12日-1437年7月8日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|134000|カタルーニャ王国          |5000| |ポーランド王国|12000|聖ジョージ共和国|6000| |ポルトガル王国|8000|ムテニア公国|5000| |ヌビア王国|5000|ボスニア公国|6000| |>|-|"カリフ"クッシル|8000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ムテニア公ヴィライク| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|カタルーニャ王ジョアン| |>|トルトサ伯レインベルン|>|| 2月10日、イバード派カリフクッシルが書を寄越し、宣戦布告してきた。 2月16日、ポルトガルの"肥満王"パイオが援軍を申し出た。 3月3日にはヌビアの"冷酷王"マルツロフィロスが援軍を申し出た。 皇帝は大いに感激した。 二人は共に皇帝の義理の兄弟にあたり、ヴァルデマ聖帝の第三子アスタがヌビア王に、第七子グレーテがポルトガル王に嫁いだ。 3月7日、皇后にしてポルトガル女王ヤドヴィカが援軍を申し出た。 4月15日、テサロニカとコルシカを支配していた聖ジョージ共和国が臣従した。 5月25日、トルトサ伯レインベルンが卒去した。66歳であった。 先帝の代より仕え、多くの戦争に従軍し、武勇の才はあのオト1世さえ凌ぐと言われた。 27日、チュートン騎士団長を兼ねるノヴゴロド大公ゴーデンティが援軍を申し出た。 6月9日、ボスニア公イェリサヴェタは公爵位を返上して臣従した。 6月17日、サルカヴェトロとブルガリアの王スヴェンが戦場の傷がもとで薨去した。32歳であった。 ホルスティーン公ヘルギの子である。 6歳で王位を継ぎ、自ら聖戦を行う敬虔な人物で皇帝から大いに頼りにされていた。 王位は嫡子のヘンリキが継いだ。 9月23日、ムテニア公ヴィライクが臣従した。 1439年4月8日、"カリフ"クッシルは降伏を申し出た。 サラセン人は諸侯の数だけは多くそろえることが来たが、兵力は全く足りず、一万の大台に乗ることは一度として無かった &ref(004.jpg); &ref(005.jpg); ちなみに戦勝点60% 4月18日、カタルーニャ王ジョアンが降伏した。 &ref(006.jpg); 1440年2月8日、ドイツ人の皇帝コンスタンティヌス5世が事故死した。 帝位は5歳になる嫡子ブルカルドが継いだ。 諸侯はこの皇帝に反発し、翌年ボヘミア王位とニーダーロードリンゲン大公位を兼ねるハルトマンが独立した。 1440年2月19日、皇帝は北ブルターニュを掌握すべく軍を興した。 5月12日、ポルホエートの戦いでブルターニュ公爵軍を破り、平定した。 &ref(007.jpg); ブルターニュにこれだけの兵力は必要なかったかもしれないが、別にほかに攻める所がないので持て余している 1441年5月25日、皇帝はタロンをサラセン人から取り戻すべく戦を詔した。 &ref(008.jpg); 1442年8月25日、タロンの総督カラは一戦も交えぬまま敗北を認め、タロンを割譲した。 12月23日、シチリア王オジェルが薨去した。59歳であった。 皇帝によく仕え、軍をよく率いた。 皇帝の義兄弟にあたる。 息子のヴィヴァルドがシチリア王位を、長子の子オジェルがゴート王位を継いだ。 1443年2月19日、皇帝は自らの擁立した教皇カリクストゥス2世がキリスト教諸侯への領有主張に難色を示しがちなことを責め、教皇に勅使を送った。 &ref(009.jpg); 3月3日、教皇カリストゥス2世は皇帝の意向にマグレブへの十字軍として答えた。 皇帝は大いに喜び、十字軍に参戦すべく軍を興した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''マグレブ十字軍''| |>|>|>|年月日:1443年3月3日-1444年5月18日| |>|>|>|結果:マグレブの帝国編入| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラセン人''| |ノルド帝国|134000|バヌ=マリンスルタン国          |15000| |教皇庁|12000|>|-| |ポルトガル王国|8000|>|-| |ヴェネティア共和国|5000|>|-| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|バヌ=マリン"スルタン"アジム| |>|クズルム伯フローゼ|>|ツアート太守アティッシ| |>|ヴォルン公イマーム|>|シッソ総督サーラ| |>|イクミン伯ヨルゲン|>|ムザブ総督オウラフ| |>|カリン伯ニコレース|>|アダリッド総督アムベイ| 5月7日、シティ=アカチャの戦いでデンマーク王ゴズフレズが薨去した。39歳であった。 王位は嫡子のバヴォが継承した。 9日、シディ=アカチャの戦いは帝国軍の勝利に終わった。 8月2日、ラバットにおいて十字軍3万とサラセン人1万4千が衝突した。 8月14日、帝国軍が側翼包囲を成功させサラセン人は敗走した。 皇帝も大いにご活躍成され、 この戦いで十字軍の帰趨は決した。 &ref(010.jpg); &ref(011.jpg); 10月3日、皇后ヤドヴィカが崩御された。50歳であった。 時に皇后として、時にポーランド女王として皇帝をよく支えた。 王位は長子のヴァルデマが継承した。 &ref(012.jpg); 10月8日、皇帝はライン男爵家のイルムガルドを皇后に立てた。 1444年1月23日、皇帝の第二子クヌーズはジェノヴァ共和国の設立を宣言し、ジェノヴァ共和国が並立することになった。 &ref(014.jpg); 5月10日、皇帝の第四子クリストファは以下のように奏上した。 &ref(クリストファ4.jpg); 臣は四男で、到底帝位を継ぐとは思えません。事実、三人の兄と違い臣一人土地がないこともその証左でありましょう。 &ref(クリストファ4.jpg); もし皇帝陛下が慈悲深い大御心でお許しくださるのであれば、臣はヴァリャーギ親衛隊の一員となり陛下を守護し奉りたいを願います。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 我が息子クリストファよ、汝が土地を持たぬのは汝を退けているからではない。肥沃な土地を与えようと思ってのことだ。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); いま、サラセン人どもを屠り、マグレブの肥沃な土地が手に入ればそこを汝にやろう。どうか、考え直さぬか。 &ref(クリストファ4.jpg); 陛下の恩寵は臣の身に沁みわたるものでありますが、臣は封建諸侯として生きる平和な日々よりも、名誉を懸けて戦いに明け暮れる日々を強く求めます。 &ref(クリストファ4.jpg); 必ずや栄達をして参りますので、ヴァリャーギ親衛隊長として皇帝陛下の御前に見える日までしばし御暇をくださいませ。 皇帝はクリストファの望みを叶え、ヴァリャーギ親衛隊に入隊することを許可した。 &ref(015.jpg); 5月18日、マグレブのサラセン人を追放し、皇化させた。 皇帝は一族の者に多くの土地を賜り、ヴァリャーギ親衛隊に入隊したクリストファにも4伯領を賜った。 &ref(016.jpg); 7月1日、皇帝は八つの独立諸侯に戦を詔した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第四次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1444年7月1日-1437年7月8日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|164000|ジェノヴァ共和国          |20000| |>|-|ウラジミール大公国|5000| |>|-|聖ジョージ共和国|7000| |>|-|キエフ公国|3000| |>|-|ウルビノ公国|4000| |>|-|ラヴェンナ公国|4500| |>|-|ハンブルク共和国|12000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|ジョノヴァ総督バルトロメオ| |>|クズルム伯フローゼ|>|サヴォナ大市長エルミニオ| |>|カリン伯ニコレース|>|グリマルディ市長ロマーノ| |>|アヴィラ伯グンツェル|>|ニコシア公リトヴォイ| 10月27日、聖ジョージ共和国が降伏した。 1445年1月13日、ハンブルグ共和国総督マティウス2世が降伏した。 1月14日、サラセン人のザイアがエジプトに侵入した。 皇帝はエジプトの諸侯に動員をかけ、これを撃破した。 &ref(018.jpg); 一時は危うかったが、この後逆転した。 4月23日、ラヴェンナ公は降伏し、ボログナ伯領を割いて自らの不明を詫びた。 4月28日、ウラディミール大公ヴィシャタが病没し、弟のフョードルが大公位に就いた。 フョードルは皇帝から伯領を賜り、皇帝がフョードルを軍をしてウラディミール大公に就ける代わりに大公となったのちも皇帝に臣従するという契約で戦争をしたが、 フョードルは大公位継承は相続で継承したものであり、皇帝の軍に依る物ではないとして臣従を拒否した。 &ref(019.jpg); 5月19日、ウルビノ公は降伏し、自らは伯になり、公爵位を献上した。 8月3日、ジェノヴァ共和国がボッビオ伯領を割いて降伏した。 9月11日、皇帝はヴァリャーギ親衛隊長スティルビョルンにアイルランド王位を賜り、皇帝直属とした。 &ref(020.jpg); スティルビョルンはこれを機に東方正教から全き道たるカトリックに改宗した。 12月16日、皇帝は宴を催した。 1446年4月9日、皇帝は神聖ローマ皇帝にデンマーク人のヘルガを就けるべく戦を宣し、また、ボヘミア王国、ブルターニュのブレッツ=イーゼル公国に向けて軍を興した。 9月6日、フランス女王エルヴィスが獄中で死亡した。 11月6日、ボヘミア王ハルトマンがリューツィッヒを割いて降伏した。 12月10日、デンマーク王バヴォはスリースヴィ公を兼ねるブルガリア王ヘンリキが不具となったのを見てスリースヴィ公位を取り戻すべく軍を興した。 12月31日、シチリア王ヴィヴァルドは甥にあたるゴートラント王オジェルに対し軍を興した。 1447年3月6日、ブレッツ=イーゼル公国を平定した。 5月24日、ドイツ人の皇帝ブルカルドが傷病死し、遠縁のマグヌスが帝位を継いだ。 7月27日、マグヌスは退位し、ヘルギが帝位を継いだ。 ヘルギの子は皇帝の従兄妹と女系結婚しており、このまま帝位を継承させ神聖ローマ皇帝位を一族の手中に収めるためであったという。 10月5日、皇帝はいつになく落ち込み、詔して曰く。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 朕は長きにわたり戦を宣し、軍を興してきたが、これは本当に朕のするべきことだったのだろうか。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); &ruby(おおみたから){百姓};を厚く養い、官臣を過ちなく統べるべきだったのではないだろうか。 &ref(021.jpg); 11月16日、ゴートラント王オジェルは王位を弟に譲り、ヴィヴァルドに和議を乞うた。 1448年3月5日、ロッビオで農民が反乱を起こした。 皇帝はこの背後にフョードルがいると怪しみ、フョードルの弟ウラディミールを新たなウラディミール大公に就けるべく軍を興した。 4月24日、皇帝は破門された。教皇カリストゥス2世はフョードルと同じくリューリク家の出身であり、彼らは共謀して皇帝を陥れる謀をこしらえていた。 皇帝は大いに怒り、6月12日にローマに3万の軍勢をもって上陸しローマを包囲した。 &ref(022.jpg); フョードルはこれにも懲りず、トドゲンというサラセン人をそそのかし帝国に宣戦布告させた。 6月24日、シチリア王ヴィヴァルドはオジェルの弟、ドートラント王アドルフに戦を宣した。 12月24日、皇帝はサラセン人をケイランピナルにて破った。 トドゲンは490グルデンもの資金を有しており、皇帝はこれをすべて没収したのち彼を追放した。 1449年3月10日、皇帝の第四子クリストファがウラディミール大公との戦いで命を落とした。 皇帝は大いに悲しみ、いよいよ宸襟を悪化された。 &ref(025.jpg); 6月24日、教皇カリストゥス2世は過食で死んだ。 &ref(026.jpg); 清貧であるべき教皇が過食で死んだという事実は諸侯を失望させ、彼と組んだフョードルの権威は落ち、破門された皇帝に対する期待は高まった。 後任はピャスト家のヒラルス2世である。 また、フョードルは敗北を認め、弟ウラディミールにウラディミール大公位を譲った。 8月3日、ヒラルス2世は皇帝の破門を解いた。 10月6日、皇后イムルガルドが崩御した。34歳であった。 10月27日、ブルガリア王ヘンリキが薨去した。19歳であった。 若くして不具となり、その隙にデンマーク王バヴォにスリースヴィ公領を奪われる等苦難に満ちた人生だった。 王位は弟のイーナルが継承した。 11月12日、皇帝はスィスィーリェ・フォン・アイセルステインを皇后に立てた。 内向的だが、性格は温和であった。 &ref(027.jpg); 1450年4月27日、皇帝は詔した。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 恐怖の大王の降臨が近づいている。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 朕はローマの皇帝として、一人でも多くの&ruby(おおみたから){百姓};を救うことは朕の義務であろう。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 未だ皇化に浴さぬ諸侯には鎮定に将軍を命じ、臣従させようと思う。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); また、異教徒に囚われたローマの属州も皇帝の手に戻すべきである。 &ref(顔オト公正帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]],nolink); 故にアフリカ属州を回収せんと欲す。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第五次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1450年4月27日-1452年9月18日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|214000|ドイツ人のローマを僭称する帝国          |50000| |>|-|バヌ=ハフス朝|14000| |>|-|ノヴゴロド王国|3000| |>|-|リヴォニア王国|8000| |>|-|ポルトガル王国|7000| |>|-|ペルム王国|3000| |>|-|ログヴォルド公国|6500| |>|-|ポモルスコ公国|6500| |>|-|フェラーラ伯国|3000| |>|-|リミニ伯国|80| |>|-|ラヴェンナ伯国|120| |>|-|テオドシオポリス太守国|3800| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|"スルタン"ブワイフ| |>|クズルム伯フローゼ|>|ベナヴェンテ司教フランシスコ| |>|カリン伯ニコレース|>|シュゼント市長イェドルセイ| |>|アヴィラ伯グンツェル|>|-| 9月18日、カイラワンの戦いで帝国軍5万がスルタン自ら率いるサラセン人1万を破った。 9月29日、プティビルの戦いで、敵4千を破った。 12月10日、テオドシオポリス太守ベルケが帝国に宣戦布告した。 &ref(028.jpg); 1451年1月4日、皇后スィスィーリェがイョルンを出産した。 3月24日、バヌ=ハフス朝の"スルタン"ブワイフは地に伏して詫び、アフリカ属州を割譲した。 4月25日、ノヴゴロド王国がコゼルスクを割譲し降伏した。 5月11日、皇帝に一冊の本が献上された。名をアルス・モリエンディと云う。 &ref(029.jpg); 5月11日、ペルム王イングヴァルがズィリャネを割いて降伏した。 6月29日、神聖ローマ帝国からプアルツグラフシャフト=ベイ=ラインを得た。 7月20日、ポモルスコ公国が公爵位を皇帝に譲り臣従した。 8月3日、フェラーラー伯が臣従した。 8月20日、レミニ伯が臣従した。 11月24日、皇帝は崩御された。58歳であった。 陣中で即位し、陣中で御隠れになられた。 だかその大御心は常に&ruby(おおみたから){百姓};の方を向いておられた。 &ref(030.jpg); 長子であるポーランド王ヴァルデマが帝位を継いだ。 エジプトとマグレブの王位は末子ヨルンが、モルドヴァ王位は一族の長老ホルスティーン公プリドビョルンが継承した。 *[[巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458>AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458]] [#x61fd1ae]
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