AAR/デンマーク年代記/巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458
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巻十三 ヴァルデマ賢帝 1452~1458
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十三 ヴァルデマ賢帝 [#x440163d] &ref(001.jpg); ヴァルデマ賢帝は、先帝オト公正帝の第一子である。 知略に秀で、慈しみの心をもっておられた。 先帝に続き陣中で即位した。 皇帝の即位されたとき、未だポルトガル王をはじめ四つの諸侯との戦闘が続いていたが、皇帝は彼らを一年のうちに平伏せしめた。 1452年4月4日、デンマーク王バヴォがスリースヴィ公アストリズに対し軍を興した。 5月15日、皇后にしてメクレンブルク女公アデリンデが崩御した。40歳であった。 皇帝が成人されるとともに御成婚され、四男三女をもうけられた。 第一子をオト、第二子をヤコブ、第三子をルナ、第四子をエステル、第五子をハルヴォル、第六子をフローゼ、第七子をエストリズと申された。 晩年は子供の教育を巡り対立し、夫婦仲も疎遠になった。 メクレンブルク公位は長子オトが継承した。 11月3日、公妾スィーネが皇帝の子マーサを出産した。 皇帝はマーサを認知し、スィーネを皇后に立てられた。 皇帝はスィーネとの間に二男一女をもうけられ、第一子をマーサ、第二子をロルフ、第三子をイーレクと申された。 また、皇帝は公妾四人を立てられた。 第一はヘレナと申され、一男イーナルをもうけられた。第二をシャンナと申され、一男ヴィクトーリンをもうけられた。 第三をユダヤ人ヤコブの娘リヴカフと申され、一男エスベンをもうけられた。第四をファリンダと申され、一女ビントをもうけられた。 &ref(004.jpg); 11月11日、皇帝は臣下から爪楊枝を献上され、大いに喜ばれた。 &ref(003.jpg); 1453年1月1日、皇帝はド・ノートルダムに詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 汝はかつて我が父上に1452年12月に世界が終ると申し上げたそうだが、この通り朕は生きている。これはどういうことだろうか。 ノストラダムスが地に伏して奏上するに、 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); 畏れながら臣が申し上げますに、臣が先帝陛下奏し奉りし時は臣の予言は正しうございました。 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); それが外れたというのは、そののちの先帝陛下と皇帝陛下の御事績と御威光がすさまじき故でしょう。先帝陛下の御事績は山よりも高く、海よりも深うございました。 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); そして、その先帝陛下から王土王民の安寧の御意志をお受け継ぎになられた皇帝陛下は、先帝陛下の残された御事績を御完遂され、その威光を益々極まりないものとされました。 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); おそらく、恐怖の大王は皇帝陛下の威容に圧倒され、降臨を40年遅らせたのだと愚考いたします。これも一重に陛下の御威光の賜物でありましょう。 皇帝はド・ノートルダムの奏上の後、これ以上この事について問うことは無かった。 2月10日、イメレティアでグリゴリという男が農民を唆し叛いた。 皇帝はこの機に皇帝に未だ従わぬ諸侯を征することを思召し、 ドイツ人のローマ帝国、ジェノヴァ共和国、カレリアのみを有するノヴドロド王国、異端のリトアニア王国らに対しても軍を興した。 この時、皇帝の信心が少なく、チュートン騎士団に寄進することで教会の関心を買い、ようやくリトアニアへ宣戦できたという。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第六次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1453年2月10日-1454年2月2日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国          |214000|ドイツ人の帝国          |50000| |>|-|リトアニア王国|6000| |>|-|ノヴゴロド王国|14000| |>|-|ジェノヴァ共和国|15000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|グリゴリ| |>|クズルム伯フローゼ|>|テック公ヴィクトル| |>|カリン伯ニコレース|>|テオドシア伯チアフレード| |>|アヴィラ伯グンツェル|>|アルベンガ司教コシモ| 3月14日、グリゴリは捕えられ、イメレティアの農民反乱は終息した。 その後のグリゴリの消息についてはどの史料にも書かれていない。 4月3日、帝国軍はドアッピオにおいてジェノヴァ軍を破った。 &ref(005.jpg); 4月24日、帝国軍はリュクスにてリトアニア軍と衝突した。 5月9日、帝国軍はノヴゴロド王国と敵対していたリヴォニア軍1万とノヴゴロド領ヴェデルラクスで衝突した。 5月10日、リュクスの戦いは帝国軍の勝利に終わった。 異端軍は総崩れになり、リトアニア王マンギルダスは放伐され、リトアニアは皇帝の下に帰した。 &ref(006.jpg); 5月23日、リヴォニア軍をノヴゴロド領から追放し、彼らに代わって帝国軍がノヴゴロドの城街を包囲した。 6月10日、小アジアのコラーラにてドイツ皇帝軍3千を破り、テック公ヴィクトルを捕えた。 &ref(007.jpg); 9月23日、第209代教皇ヒラリウス2世が肺炎のため崩御した。66歳であった。 即位前は質実剛健で名を聞かせていたが、即位後に何の因果か''夕日を見る者''と称された。 &ref(008.jpg); 後任には 1454年1月7日、ジェノヴァとノヴゴロドの双方の首都を同日に陥落せしめ、ノヴゴロド王クリツィツォフを捕えた。 ノヴゴロドはカレリアを、ジェノヴァは沿岸地方をすべて喪失した。 &ref(009.jpg); 1月18日、皇帝御自ら率いられた2万5千の軍がドナウウォルスにてドイツ皇帝軍5千を破られた。 &ref(010.jpg); 1月29日、皇帝は見事に翼包囲を決められ、敵軍を撃滅せしめた。 2月2日、ドイツ皇帝はバーデン公領を割いて降伏した。 &ref(011.jpg); 3月25日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。 4月8日、皇帝は戦勝を祝い、馬上槍試合を開いた。 8月16日、テッサロニキ専制侯ニカレーテが死亡した。 彼女は諸侯を唆し帝国に対し叛く事を企んでおり、その懲罰で皇帝が見せしめにしたという。 &ref(013.jpg); 8月23日、皇帝の従兄弟にあたるシチリア王ヴィヴァルドがニカレーテの跡を継ぎ再び陰謀を企んだ。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第六次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1453年2月10日-1454年2月2日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''叛乱軍''| |ノルド帝国          |140000|叛徒共|450000| |>|>|>|将軍| |>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|シチリア王ヴィヴァルド| |>|セルビア王ヴラスティミル|>|ウラディミール王ミスティスラウ| |>|ハリィーチ=ヴォリン王ディトリク|>|レオン王ガリンド| |>|ブルガリア王イーナル|>|スコットランド王ファエラン| 9月7日、シチリア王ヴィヴァルドはイングランド王、ブレートラント王、スコットランド王、フランス王、ヴラディミール王、マジャール王、レオン王、カスティーリャ王、アラゴン王、ポルトガル王、ドゥブロヴニク王らと結託し、皇帝に叛いた。 &ref(014.jpg); &ref(顔シチリア王2.jpg); ノルドの皇帝ヴァルデマは、徒に国政を行い、その信心が少なく、あまつさえ諌言せんとしたテッサロニキ専制侯を弑した。 &ref(顔シチリア王2.jpg); 斯くの如き不徳の者を君に戴くことを良しとせず、臣として他の者に従うことも良しとしない。 &ref(顔シチリア王2.jpg); 我らは共に互いの独立を保障し、ノルドの皇帝に対し戦を宣するものである。 &ref(015.jpg); その兵力、帝国軍のおよそ3倍 皇帝は宰相ラルティア伯セヴェリン、元帥モルドヴァ王プリドビョルン、宮廷長官スヴェアラント公スィヴァルトら諸臣に詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 今、ヴィヴァルドが叛き、南の蛮しき地を有している。今誰か将となす者はいるか。 元帥モルドヴァ王プリドビョルンが申し上げるに曰く、 &ref(顔プリドビョルン.jpg); たいらにただしく仁み勇みて兵事に通じている者は、今セルビア王ヴラスティミルを置いて右に出る物がおりません。 皇帝、これを可(ゆる)し、詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); セルビア王ヴラスティミルよ、今、ヴィヴァルドが従わず叛いた。汝が行って征て。 セルビア王ヴラスティミル、謹みて再度拝みて申するに、 &ref(顔セルビア王.jpg); 其れヴィヴァルドは南の蛮の卑しき奴であります。 &ref(顔セルビア王.jpg); 川の阻むことをたのんでつかまつらず、山の険しきによりて乱を挙げ、徳を失いて道に反き、侮り驕りて自らを賢いと錯覚したのでしょう。 &ref(顔セルビア王.jpg); 臣の祖は在昔シニザより、ここにヴラディスラヴに至るまでに、皇帝を護りて討ちて参りました。 &ref(顔セルビア王.jpg); 民を塗炭より救うこと、かの時もこの時も一時でありましょう。 &ref(顔セルビア王.jpg); 唯主の助ける所は、臣が常に重く思う所です。よく謹んで征伐いたします。 皇帝、重ねて詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 優れたる将軍は、恩を施してうつくしびを推し、己を思いはかりて人を治める。 &ref(顔賢帝.jpg); 攻むること河のくくるが如しで、戦うこと風の発つが如しである。 とのたまわれ、また詔して曰はく、 &ref(顔賢帝.jpg); &ruby(おおいくさのきみ){大将};は民の司命である。国家の存亡、是にあると勤めよ。恭みて刑罰を行うように。 とのたまわれた。 1455年1月1日、ボヤーノにて叛徒1万2千を帝国軍2万3千が捕えた。 2月12日、ツヴェニゴロドにて敵3千を破った。 3月12日、ボヤーノから敗走する叛徒軍を追撃した帝国軍は、新たな敵軍の襲撃を受けた。 皇帝は海上の1万4千を急ぎ向かわしめ叛徒を撃滅せしめ、敵将ベッカ伯を捕えた。 &ref(016.jpg); 5月5日までにイベリア、イタリア、エルサレム、ブリテン島以外の叛徒は鎮圧され、帝国軍1万が北イタリアポモッサに上陸した。 5月18日、叛徒1万5千がポモッサを襲撃したが、沖合に居た帝国軍2万5千がポモッサに上陸し撃破した。 6月2日、帝国軍は兵をセルビア王とハリィーチ=ヴォリン王の麾下に二分し、セルビア王に敗走する叛徒軍を追撃させ、ハリィーチ=ヴォリン王は現地にとどまらせた。 6月27日、フィネルにおいてブレートラント王の率いる敵軍1万4千が襲来したが、沖合から2万を上陸させ、形勢を逆転させた。 &ref(017.jpg); 7月21日、フィネルに北から叛乱軍の増援1万が襲来したが、これを退けた。 8月5日、西方からウラディミール王の率いる1万5千の反乱軍がフィネルに到来し、敵に敗北する寸前にまで至った。 &ref(018.jpg); 8月10日、セルビア王の軍勢がフィネルに到着し、再び帝国軍が優勢となった。 &ref(019.jpg); 8月28日、フィネルの戦いに帝国軍は勝利した。 &ref(020.jpg); この後、セルビア王は9月18日に終結したモドナの戦いまで、北イタリアの叛乱軍を殲滅して回り、ハリィーチ=ヴォリン王はすぐさま他方の叛徒を鎮定すべく発った。 9月21日、皇帝は帝国領内のサーミ人1万を傭兵として招聘し、戦地に送った。 10月10日、叛徒共に対して反乱がおこった。 11月13日、ナルボナの戦いにおいてレオン王ガリンドの率いる1万の叛徒を破った。 レオン王は会敵するや否やすぐさまに逃亡し、敵軍は総崩れとなった。 帝国軍は敗走軍を追撃せず東進し、東から向かう叛徒を撃滅することとした。 &ref(022.jpg); 12月1日、エルサレムのギベレット城の戦いで、アラゴン王ガルケラ率いる1万2千を破った。 1456年2月15日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。 3月15日、モンペリエにて帝国軍3万9千と叛徒2万が会敵した。 3月23日、叛徒2万5千がモンペリエに到着した。 3月30日、帝国軍の増援2万8千が上陸し、モンペリエの叛徒どもを包囲し殲滅した。 &ref(021.jpg); 8月24日、ロヴィゴにてスコットランド王の率いる叛徒4万を殲滅すると、帝国軍は最後の叛徒の籠る地、アイルランド島に向かった。 &ref(023.jpg); &ref(024.jpg); ブリテン島の反乱軍はアイルランド島を荒らしまわり、戦勝点を一気にマイナスに持ち込んだ 1457年7月8日、帝国軍がアイルランド島に上陸した。 帝国軍は叛徒を次々と破り、ヴィヴァルドは白紙和平を申し出たが皇帝は使者を切り捨ててこれに応じた。 1458年1月9日、シチリア王ヴィヴァルドをセルビア王ヴラスティミルが捕えた。 皇帝は王に命じ、ヴィヴァルドを皇帝の地下牢に収監させた。 &ref(025.jpg); 皇帝は慈悲深い大御心により、ヴィヴァルドの王位返上ののち、その身は釈放しようと思召した。 しかし、嘗ての帝国領の一部が独立していることを知ると大いに怒り、ヴィヴァルドを詰問した。 &ref(026.jpg); ジェノヴァ以外は皆どさくさで独立した諸侯である。先の叛乱に対する反乱によるものらしい &ref(顔賢帝.jpg); 朕に対し悪心を抱いたのみでなく、畏れ多くも先帝陛下から賜りし封土を勝手に失うとは何事か。 &ref(顔賢帝.jpg); よもや王位の返上だけで済む物とは思ってはおるまい。 &ref(顔賢帝.jpg); 朕は信心が少ないということを知っていながら叛いたのであれば、叛いた後にどうなるか承知していたのであろう。 ヴィヴァルドの答えるに、 &ref(顔シチリア王.jpg); 臣の不明は、深く恥じております。我が君、どうか命だけはお助けくださりますようお願い申し上げます。 この言を聞いて皇帝は不機嫌になり、詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 未だに命を惜しむとは嘆かわしい。これが総大将の言葉だろうか。 &ref(顔賢帝.jpg); この者の首を刎ねよ。 ヴィヴァルドはシチリア王位を剥奪され、斬首刑に処せられた。 彼の所領は三人の子に分配され、子孫が二度と反逆できないよう弱められた。 このほかに所領を召し上げられ、処刑されたものに"ラ・マンチャの男"レオン王ガリンドがいた。 彼は先帝に対しても叛意を抱き、その後皇帝の即位の際に恩赦により釈放されたのちにすぐさま反乱に加わったため、節操のなさを咎められ処刑された。 レオン王位は皇帝の三男ハルヴォが賜った。 他に、エストリズセン家より唯一叛乱に加わったマジャール王シグルド二世がキプロス王位を、ウラディミール王ミティスラウがウラディミール王位を、アラゴン王エンリケがアラゴン王位を、フランス王ルーがオルレアン伯領を召し上げられ、 ブレートラント王ヘンリーとポルトガル王ペドロ三世、そしてスコットランドとマン島の王ファランが処刑された。 また、フランス王ルーは投獄されてほどなくして獄死した。 *[[巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467>AAR/デンマーク年代記/巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467]] [#cafe97a5]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十三 ヴァルデマ賢帝 [#x440163d] &ref(001.jpg); ヴァルデマ賢帝は、先帝オト公正帝の第一子である。 知略に秀で、慈しみの心をもっておられた。 先帝に続き陣中で即位した。 皇帝の即位されたとき、未だポルトガル王をはじめ四つの諸侯との戦闘が続いていたが、皇帝は彼らを一年のうちに平伏せしめた。 1452年4月4日、デンマーク王バヴォがスリースヴィ公アストリズに対し軍を興した。 5月15日、皇后にしてメクレンブルク女公アデリンデが崩御した。40歳であった。 皇帝が成人されるとともに御成婚され、四男三女をもうけられた。 第一子をオト、第二子をヤコブ、第三子をルナ、第四子をエステル、第五子をハルヴォル、第六子をフローゼ、第七子をエストリズと申された。 晩年は子供の教育を巡り対立し、夫婦仲も疎遠になった。 メクレンブルク公位は長子オトが継承した。 11月3日、公妾スィーネが皇帝の子マーサを出産した。 皇帝はマーサを認知し、スィーネを皇后に立てられた。 皇帝はスィーネとの間に二男一女をもうけられ、第一子をマーサ、第二子をロルフ、第三子をイーレクと申された。 また、皇帝は公妾四人を立てられた。 第一はヘレナと申され、一男イーナルをもうけられた。第二をシャンナと申され、一男ヴィクトーリンをもうけられた。 第三をユダヤ人ヤコブの娘リヴカフと申され、一男エスベンをもうけられた。第四をファリンダと申され、一女ビントをもうけられた。 &ref(004.jpg); 11月11日、皇帝は臣下から爪楊枝を献上され、大いに喜ばれた。 &ref(003.jpg); 1453年1月1日、皇帝はド・ノートルダムに詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 汝はかつて我が父上に1452年12月に世界が終ると申し上げたそうだが、この通り朕は生きている。これはどういうことだろうか。 ノストラダムスが地に伏して奏上するに、 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); 畏れながら臣が申し上げますに、臣が先帝陛下奏し奉りし時は臣の予言は正しうございました。 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); それが外れたというのは、そののちの先帝陛下と皇帝陛下の御事績と御威光がすさまじき故でしょう。先帝陛下の御事績は山よりも高く、海よりも深うございました。 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); そして、その先帝陛下から王土王民の安寧の御意志をお受け継ぎになられた皇帝陛下は、先帝陛下の残された御事績を御完遂され、その威光を益々極まりないものとされました。 &ref(顔ノス.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]],nolink); おそらく、恐怖の大王は皇帝陛下の威容に圧倒され、降臨を40年遅らせたのだと愚考いたします。これも一重に陛下の御威光の賜物でありましょう。 皇帝はド・ノートルダムの奏上の後、これ以上この事について問うことは無かった。 2月10日、イメレティアでグリゴリという男が農民を唆し叛いた。 皇帝はこの機に皇帝に未だ従わぬ諸侯を征することを思召し、 ドイツ人のローマ帝国、ジェノヴァ共和国、カレリアのみを有するノヴドロド王国、異端のリトアニア王国らに対しても軍を興した。 この時、皇帝の信心が少なく、チュートン騎士団に寄進することで教会の関心を買い、ようやくリトアニアへ宣戦できたという。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第六次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1453年2月10日-1454年2月2日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国          |214000|ドイツ人の帝国          |50000| |>|-|リトアニア王国|6000| |>|-|ノヴゴロド王国|14000| |>|-|ジェノヴァ共和国|15000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|グリゴリ| |>|クズルム伯フローゼ|>|テック公ヴィクトル| |>|カリン伯ニコレース|>|テオドシア伯チアフレード| |>|アヴィラ伯グンツェル|>|アルベンガ司教コシモ| 3月14日、グリゴリは捕えられ、イメレティアの農民反乱は終息した。 その後のグリゴリの消息についてはどの史料にも書かれていない。 4月3日、帝国軍はドアッピオにおいてジェノヴァ軍を破った。 &ref(005.jpg); 4月24日、帝国軍はリュクスにてリトアニア軍と衝突した。 5月9日、帝国軍はノヴゴロド王国と敵対していたリヴォニア軍1万とノヴゴロド領ヴェデルラクスで衝突した。 5月10日、リュクスの戦いは帝国軍の勝利に終わった。 異端軍は総崩れになり、リトアニア王マンギルダスは放伐され、リトアニアは皇帝の下に帰した。 &ref(006.jpg); 5月23日、リヴォニア軍をノヴゴロド領から追放し、彼らに代わって帝国軍がノヴゴロドの城街を包囲した。 6月10日、小アジアのコラーラにてドイツ皇帝軍3千を破り、テック公ヴィクトルを捕えた。 &ref(007.jpg); 9月23日、第209代教皇ヒラリウス2世が肺炎のため崩御した。66歳であった。 即位前は質実剛健で名を聞かせていたが、即位後に何の因果か''夕日を見る者''と称された。 &ref(008.jpg); 後任には 1454年1月7日、ジェノヴァとノヴゴロドの双方の首都を同日に陥落せしめ、ノヴゴロド王クリツィツォフを捕えた。 ノヴゴロドはカレリアを、ジェノヴァは沿岸地方をすべて喪失した。 &ref(009.jpg); 1月18日、皇帝御自ら率いられた2万5千の軍がドナウウォルスにてドイツ皇帝軍5千を破られた。 &ref(010.jpg); 1月29日、皇帝は見事に翼包囲を決められ、敵軍を撃滅せしめた。 2月2日、ドイツ皇帝はバーデン公領を割いて降伏した。 &ref(011.jpg); 3月25日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。 4月8日、皇帝は戦勝を祝い、馬上槍試合を開いた。 8月16日、テッサロニキ専制侯ニカレーテが死亡した。 彼女は諸侯を唆し帝国に対し叛く事を企んでおり、その懲罰で皇帝が見せしめにしたという。 &ref(013.jpg); 8月23日、皇帝の従兄弟にあたるシチリア王ヴィヴァルドがニカレーテの跡を継ぎ再び陰謀を企んだ。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第六次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1453年2月10日-1454年2月2日| |>|>|>|結果:帝国軍の勝利| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''叛乱軍''| |ノルド帝国          |140000|叛徒共|450000| |>|>|>|将軍| |>|モルドヴァ王プリドビョルン|>|シチリア王ヴィヴァルド| |>|セルビア王ヴラスティミル|>|ウラディミール王ミスティスラウ| |>|ハリィーチ=ヴォリン王ディトリク|>|レオン王ガリンド| |>|ブルガリア王イーナル|>|スコットランド王ファエラン| 9月7日、シチリア王ヴィヴァルドはイングランド王、ブレートラント王、スコットランド王、フランス王、ヴラディミール王、マジャール王、レオン王、カスティーリャ王、アラゴン王、ポルトガル王、ドゥブロヴニク王らと結託し、皇帝に叛いた。 &ref(014.jpg); &ref(顔シチリア王2.jpg); ノルドの皇帝ヴァルデマは、徒に国政を行い、その信心が少なく、あまつさえ諌言せんとしたテッサロニキ専制侯を弑した。 &ref(顔シチリア王2.jpg); 斯くの如き不徳の者を君に戴くことを良しとせず、臣として他の者に従うことも良しとしない。 &ref(顔シチリア王2.jpg); 我らは共に互いの独立を保障し、ノルドの皇帝に対し戦を宣するものである。 &ref(015.jpg); その兵力、帝国軍のおよそ3倍 皇帝は宰相ラルティア伯セヴェリン、元帥モルドヴァ王プリドビョルン、宮廷長官スヴェアラント公スィヴァルトら諸臣に詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 今、ヴィヴァルドが叛き、南の蛮しき地を有している。今誰か将となす者はいるか。 元帥モルドヴァ王プリドビョルンが申し上げるに曰く、 &ref(顔プリドビョルン.jpg); たいらにただしく仁み勇みて兵事に通じている者は、今セルビア王ヴラスティミルを置いて右に出る物がおりません。 皇帝、これを可(ゆる)し、詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); セルビア王ヴラスティミルよ、今、ヴィヴァルドが従わず叛いた。汝が行って征て。 セルビア王ヴラスティミル、謹みて再度拝みて申するに、 &ref(顔セルビア王.jpg); 其れヴィヴァルドは南の蛮の卑しき奴であります。 &ref(顔セルビア王.jpg); 川の阻むことをたのんでつかまつらず、山の険しきによりて乱を挙げ、徳を失いて道に反き、侮り驕りて自らを賢いと錯覚したのでしょう。 &ref(顔セルビア王.jpg); 臣の祖は在昔シニザより、ここにヴラディスラヴに至るまでに、皇帝を護りて討ちて参りました。 &ref(顔セルビア王.jpg); 民を塗炭より救うこと、かの時もこの時も一時でありましょう。 &ref(顔セルビア王.jpg); 唯主の助ける所は、臣が常に重く思う所です。よく謹んで征伐いたします。 皇帝、重ねて詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 優れたる将軍は、恩を施してうつくしびを推し、己を思いはかりて人を治める。 &ref(顔賢帝.jpg); 攻むること河のくくるが如しで、戦うこと風の発つが如しである。 とのたまわれ、また詔して曰はく、 &ref(顔賢帝.jpg); &ruby(おおいくさのきみ){大将};は民の司命である。国家の存亡、是にあると勤めよ。恭みて刑罰を行うように。 とのたまわれた。 1455年1月1日、ボヤーノにて叛徒1万2千を帝国軍2万3千が捕えた。 2月12日、ツヴェニゴロドにて敵3千を破った。 3月12日、ボヤーノから敗走する叛徒軍を追撃した帝国軍は、新たな敵軍の襲撃を受けた。 皇帝は海上の1万4千を急ぎ向かわしめ叛徒を撃滅せしめ、敵将ベッカ伯を捕えた。 &ref(016.jpg); 5月5日までにイベリア、イタリア、エルサレム、ブリテン島以外の叛徒は鎮圧され、帝国軍1万が北イタリアポモッサに上陸した。 5月18日、叛徒1万5千がポモッサを襲撃したが、沖合に居た帝国軍2万5千がポモッサに上陸し撃破した。 6月2日、帝国軍は兵をセルビア王とハリィーチ=ヴォリン王の麾下に二分し、セルビア王に敗走する叛徒軍を追撃させ、ハリィーチ=ヴォリン王は現地にとどまらせた。 6月27日、フィネルにおいてブレートラント王の率いる敵軍1万4千が襲来したが、沖合から2万を上陸させ、形勢を逆転させた。 &ref(017.jpg); 7月21日、フィネルに北から叛乱軍の増援1万が襲来したが、これを退けた。 8月5日、西方からウラディミール王の率いる1万5千の反乱軍がフィネルに到来し、敵に敗北する寸前にまで至った。 &ref(018.jpg); 8月10日、セルビア王の軍勢がフィネルに到着し、再び帝国軍が優勢となった。 &ref(019.jpg); 8月28日、フィネルの戦いに帝国軍は勝利した。 &ref(020.jpg); この後、セルビア王は9月18日に終結したモドナの戦いまで、北イタリアの叛乱軍を殲滅して回り、ハリィーチ=ヴォリン王はすぐさま他方の叛徒を鎮定すべく発った。 9月21日、皇帝は帝国領内のサーミ人1万を傭兵として招聘し、戦地に送った。 10月10日、叛徒共に対して反乱がおこった。 11月13日、ナルボナの戦いにおいてレオン王ガリンドの率いる1万の叛徒を破った。 レオン王は会敵するや否やすぐさまに逃亡し、敵軍は総崩れとなった。 帝国軍は敗走軍を追撃せず東進し、東から向かう叛徒を撃滅することとした。 &ref(022.jpg); 12月1日、エルサレムのギベレット城の戦いで、アラゴン王ガルケラ率いる1万2千を破った。 1456年2月15日、ドイツ人の帝国で反乱がおこった。 3月15日、モンペリエにて帝国軍3万9千と叛徒2万が会敵した。 3月23日、叛徒2万5千がモンペリエに到着した。 3月30日、帝国軍の増援2万8千が上陸し、モンペリエの叛徒どもを包囲し殲滅した。 &ref(021.jpg); 8月24日、ロヴィゴにてスコットランド王の率いる叛徒4万を殲滅すると、帝国軍は最後の叛徒の籠る地、アイルランド島に向かった。 &ref(023.jpg); &ref(024.jpg); ブリテン島の反乱軍はアイルランド島を荒らしまわり、戦勝点を一気にマイナスに持ち込んだ 1457年7月8日、帝国軍がアイルランド島に上陸した。 帝国軍は叛徒を次々と破り、ヴィヴァルドは白紙和平を申し出たが皇帝は使者を切り捨ててこれに応じた。 1458年1月9日、シチリア王ヴィヴァルドをセルビア王ヴラスティミルが捕えた。 皇帝は王に命じ、ヴィヴァルドを皇帝の地下牢に収監させた。 &ref(025.jpg); 皇帝は慈悲深い大御心により、ヴィヴァルドの王位返上ののち、その身は釈放しようと思召した。 しかし、嘗ての帝国領の一部が独立していることを知ると大いに怒り、ヴィヴァルドを詰問した。 &ref(026.jpg); ジェノヴァ以外は皆どさくさで独立した諸侯である。先の叛乱に対する反乱によるものらしい &ref(顔賢帝.jpg); 朕に対し悪心を抱いたのみでなく、畏れ多くも先帝陛下から賜りし封土を勝手に失うとは何事か。 &ref(顔賢帝.jpg); よもや王位の返上だけで済む物とは思ってはおるまい。 &ref(顔賢帝.jpg); 朕は信心が少ないということを知っていながら叛いたのであれば、叛いた後にどうなるか承知していたのであろう。 ヴィヴァルドの答えるに、 &ref(顔シチリア王.jpg); 臣の不明は、深く恥じております。我が君、どうか命だけはお助けくださりますようお願い申し上げます。 この言を聞いて皇帝は不機嫌になり、詔して曰く、 &ref(顔賢帝.jpg); 未だに命を惜しむとは嘆かわしい。これが総大将の言葉だろうか。 &ref(顔賢帝.jpg); この者の首を刎ねよ。 ヴィヴァルドはシチリア王位を剥奪され、斬首刑に処せられた。 彼の所領は三人の子に分配され、子孫が二度と反逆できないよう弱められた。 このほかに所領を召し上げられ、処刑されたものに"ラ・マンチャの男"レオン王ガリンドがいた。 彼は先帝に対しても叛意を抱き、その後皇帝の即位の際に恩赦により釈放されたのちにすぐさま反乱に加わったため、節操のなさを咎められ処刑された。 レオン王位は皇帝の三男ハルヴォが賜った。 他に、エストリズセン家より唯一叛乱に加わったマジャール王シグルド二世がキプロス王位を、ウラディミール王ミティスラウがウラディミール王位を、アラゴン王エンリケがアラゴン王位を、フランス王ルーがオルレアン伯領を召し上げられ、 ブレートラント王ヘンリーとポルトガル王ペドロ三世、そしてスコットランドとマン島の王ファランが処刑された。 また、フランス王ルーは投獄されてほどなくして獄死した。 *[[巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467>AAR/デンマーク年代記/巻十四 ヴァルデマ賢帝 1458~1467]] [#cafe97a5]
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