AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433
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巻十一 オト公正帝 1421~1433
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十一 オト公正帝 [#oa288c4d] オト公正帝は、先帝ヴァルデマ聖帝の子である。 皇帝は幼い時より聡明で、叡智を持っておられた。壮年になりて仁に寛く慈びが益し、故に公正帝と称せられた。 ティムール朝との戦争の最中にヴァルデマ聖帝が崩御され、帝位を継がれた。 &ref(オト公聖帝.jpg,nolink); &ref(001閣僚.jpg); 1421年11月5日、皇帝は宮廷長官セルビア王ポリンが公金を横領していると訝しみ、宮廷長官を問いただした。 宮廷長官はその罪を認め、金を返納し、地に伏して謝罪した。 &ref(002閣僚.jpg); 1422年1月17日、ベルツィエフにて皇帝御自ら敵6千を破られた。 &ref(003.jpg); 2月26日、ポーランド王マツラウが薨去した。48歳であった。 マツラウの長女にして、オト公正帝の皇后ヤドウィカが王位を継いだ。 &ref(003.jpg); 4月4日、カフル=タブにて皇帝は1万4千のティムール軍を破られ、敵将コグセグを捕えられた。 &ref(004.jpg); 5月7日、ティムールの可汗ナクフはダマスクを割いて降伏した。 12月24日、皇帝は即位祝いの宴を催した。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 朕はそもそもローマ皇帝にして、すべてのキリスト人を統べるべきものである。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 未だ皇化の及ばぬ地があることは、朕の不徳に由来するものであり、速やかに朕が天下を統べるべきではないだろうか。 1423年1月19日、皇帝は詔した。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); ヴァニン王フェガル、ミラン女公フローラ、ジェヴォダン女伯マドレーヌらはその心持卑しく、&ruby(おおみたから){百姓};を害し反省することがない。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); よって朕はすぐさまにこの者らを除き、正しい秩序を取り戻すべく軍を興さんと欲す。 &ref(006.jpg); ヴァニンとはマン島のゲール語地名らしい。HIPは治める人物の文化で国号が変わったりする 2月16日、義兄ヌビア王マルツォフィロスが上表し、サラセン人との戦いに力添えを請うた。 皇帝は許可し、トルトサ伯に2千の兵を持たせ討たしめた。 3月23日、聖ペーザ修道院にて帝国軍7千とミラン軍7千が交戦し、帝国軍がこれを破った。 4月17日、ピアーツにて帝国軍1万9千とヴァニン軍1万2千が交戦した。 5月16日、一か月にわたる戦いの果てに帝国軍はヴァニン軍1万を屠り、勝利は揺るぎないものとなった。 6月11日、敗走するヴァニン軍をフォルティンガルで討ち、ヴァニン王フェガルは降伏した。 7月13日、サカルトヴェロ王"単純王"アンドロニクが薨去し、外孫にあたるブルガリア王スヴェンがサカルトヴェロ王位を継承した。 スヴェンはスリースヴィ公ヘンリキの子である。 &ref(009.jpg); ウングリング家((ユングリング家、インリング家などと呼ばれるあの家。デンマーク語固有名詞カナ表記辞典曰くこの表記が一番近いらしい))のサガに曰くノルドの太祖オーディンはサカルトヴェロより出づるとされ、父祖の地を領有された皇帝は大いに喜ばれた。 10月23日、ミラン公フローラが降伏した。 12月4日、ヌビア王の下に向かったトルトサ伯の軍はサラセン人3千を破り、サラセン人の王族カヌンを捕虜とした。 1424年3月9日、オーゼル=ヴィク公クヌーズが弟のパウルに弑せられた。 皇帝はパウルを捕えたが、弟ヴァルデマは諸侯の評判が芳しくなく、公爵位は剥奪しなかった。 &ref(007.jpg); 4月7日、サムラントがデンマークの文化に転向した。 7月18日、皇帝はブルゴーニュ王位を兼ね、その地の諸侯を服属せしめた。 8月7日、ポゲサニアに冷雨が降り、今年は不作となった。 8月16日、デンマーク王イーレク8世が薨去した。22歳であった。 戦場での傷が化膿し、そこから病にかかったという。 王位は弟のドゴフリドが継いだ。 &ref(010.jpg); 10月4日、義弟ポルトガル王パイオがバヌ=マリンのスルタンニザム2世征伐に力添えを請うた。 皇帝は許可した。 12月23日、フランス女王ヘルヴィス、ハールィチ・ヴォルィーニ大公ゴーダンティ、ピサ公爵"陽気公"ボニファシオに戦を宣した。 1425年2月9日、バルティアが皇化に浴した。 &ref(011.jpg); 5月6日、レオン女王コンスタンティナが薨去した。6歳であった。 レオン王位は従姉弟にあたるカスティーリャ王ガリンドが継承した。 5月8日、陽気公ボニファシオはすべての領地を差し出し降伏した。 1426年1月29日、シャトーダンを陥落せしめた。皇帝は流行る将兵に対し軍規を正し、将兵を整然とさせて入城された。 この皇帝の立ち振る舞いは大いに人々を感嘆させ、皇帝は公正帝と称せられた。 &ref(012.jpg); 3月18日、フランス女王ヘルヴィスはサヴォイにフランス王位を譲り、トゥールーズ公爵に退いた。 8月17日、ハールィチ・ヴォルィーニ大公が降伏し、皇威に伏した。 9月14日、宰相キプロス王シグルドが帝冠を献上した。 &ref(顔宰相.jpg); この帝冠はかつてラテン皇帝ボードワン一世が即位される際に用いられた冠です。 &ref(顔宰相.jpg); ローマの皇帝たる陛下が着用するに相応しいものではないでしょうか。 &ref(013.jpg); この帝国はラテン帝国。history欄を見ると歴代ラテン皇帝が見える 皇帝は大いに喜ばれ、即位された。 &ref(014.jpg); 皇帝の詔に諸侯も大いに沸き、ブルガリア王スヴェンはアルバニア十字軍を宣言し、帝国諸侯はこぞって参加した。 &ref(015.jpg); 臣下のエストリズセン家は全員参加している 12月5日、皇帝は馬上槍試合を開かれた。 1427年2月23日、皇帝はカラマンリのスルタン、スレイマン3世に聖戦を宣言し、教皇庁がブルゴーニュに持つヴァネッサン伯領を帝国領とするべく軍を興した。 3月15日、皇帝は破門された。 &ref(016.jpg); これに対し皇帝は対立教皇を擁立することを考えられたが、教皇の権威は未だ高く立てることが出来なかった。 &ref(017.jpg); 6月13日、教皇軍3万とピサで会敵した。 &ref(018.jpg); 6月18日、民衆が皇帝を支援し183グルデンを献上した。 7月5日、皇太后グレミスラヴァが薨去された。 グレスミラヴァはキエフ公アレクサンドロフの娘である。 聡明で、先帝ヴァルデマをよく支えた。 7月24日、ピサの戦いは決着した。 8月13日、アルトパシオにのがれた教皇軍3千を追撃し、教皇シルヴェステル4世を捕え、ヴァネッサン伯領の割譲をみとめさせた。 &ref(019.jpg); これでも対立教皇は立てれなかった。おかしい。 9月17日、破門にも臆せず教皇に立ち向かう皇帝の威容に圧され、スレイマン3世が降伏した。 &ref(020.jpg); この時、戦勝点37% &ref(021.jpg); 1428年1月23日、皇帝は若い廷臣から首の傾け方を体得された。 或いは、この体得のために公正帝と称せられたともいうが、事実はわからない。 &ref(022.jpg); 4月11日、教皇シルヴェステル4世が崩御した。後任は同じくリューリク家のニキータがヴィクトル4世として即位した。 7月8日、皇帝はホラントを帝国に割譲するよう神聖ローマ皇帝に詔したが、コンスタンティノス6世はこれを拒否し、戦争になった。 &ref(023.jpg); 8月30日、テクレンブルクの帝国軍に敵軍が攻撃を仕掛けてきた。 大将の は増援1万5千の到着と共に中央に攻勢を仕掛け、敵軍を二分して背面に展開し、これを包囲撃滅した。 &ref(024.jpg); 11月21日、ホルスティーン公プリドビョルン率いる2万4千の軍勢がトレントで敵軍1万を打ち破った。 1429年3月9日、シチリア王オジェがヴィケンサで敵1万を破り、神聖ローマ皇帝が降伏し、ホラントを帝国に割譲した。 4月9日、皇太子ヴァルデマが成人し、メクレンブルク公アデリンデと成婚された。 4月29日、教皇ヴィクトル4世が皇帝の破門を解いた。 5月16日、フランス女王に重祚したヘルヴィスらが反乱を起こした。 ヘルヴィスと共謀したものの中には"ラ・マンチャの男"カスティーリャとレオンの王ガリンド、ブリートラント王((旧ウェールズ。王の君主がデンマーク文化であるため古ノルド語由来の名に変わったらしい))ジョーフレイらもいた。 &ref(025.jpg); 帝国の西半分が反乱を起こした。 8月25日、アスカロンにて叛徒1万と戦闘中、叛徒の別部隊1万2千が南下し、帝国軍は挟撃の危機に陥った。 8月28日、叛徒の別動隊がアスカロンで合流した。 &ref(026.jpg); 9月4日、アスカロンの叛乱軍は数の優位を生かせず、帝国軍の繞回運動の前に敵左翼が崩壊した。 &ref(027.jpg); 9月11日、ムスクロンにて叛徒1万4千を誅した。 9月26日、民衆が188グルデンを献上した。 1430年1月6日、トルトサ伯がトーレンで敵軍1万5千を破った。 3月1日、トルトサ伯がニールポールトで敵軍2万4千を破った。 3月7日、ティムール朝の可汗ナクフが戦場で討たれ、死亡した。 先帝ヴァルデマにナザレで敗北したのち諸侯の独立を次々と許し、"無思慮の"ナクフと後世呼ばれるようになった。帝位は孫のコルマカンが継いだ。 4月14日、スランス女王ヘルヴィグが和議を申し出たが、皇帝は一蹴した。 &ref(028.jpg); 9月3日、元帥ホルスティーン公プリドビョルンの指揮するオルレアン包囲軍1万6千をル・ピュイセにて叛乱軍1万5千が襲撃した。 &ref(029.jpg); 帝国軍の将軍はすべてエストリズセン家一門である 皇帝は急ぎトルトサ伯の率いる5千の軍を増援で向かわせた。 10月3日、ル・ピュイセの戦いは帝国軍の勝利に終わり、叛徒らは皆投獄された。 皇帝はフランス女王ヘルヴィグに王位を献上するよう要求したが、法学者からフランスの国内法に反すると奏上され、諦めた。 代わりにガリンドからカスティーリャ王位を剥奪し、また兄弑逆ののちずっと牢に繋がれていたパウルからオーゼル=ヴィク公爵位を剥奪した。 1431年1月1日、皇帝は戦勝祝いの宴を開いた。 1月3日、獄中にいたフランス女王ヘルヴィグが父親のわからない子供を出生した。 宴会の最中であったので、酒に酔った諸侯がフランスの風俗について有る事無い事を伝聞し、皇帝の下に奏上されるまでに話に尾鰭が付いた。 皇帝は大いに驚き、 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); &ruby(はしため){婢};の座る玉座があるとは知らなかった。世の中は広いものだ と仰せられた。 2月23日、皇帝はサンティアゴに巡礼することを欲し、アスワン伯爵ヘミングを摂政として行幸された。 3月1日、スリースヴィ公ヘンリキがデンマーク王ゴドフレズの牢獄で薨去した。 歴代デンマーク王の圧迫を受け、スリースヴィ公爵領内の伯領はほとんど剥奪された。 公爵位は長子のブルガリア王スヴェンが継承した。 3月18日、皇帝は行幸中に警護を担当したカラトラヴァ騎士団のオヴェコ・デ・サン=クレメンテと親しくなられた。 &ref(030.jpg); 3月24日、皇帝はサンティアゴに行幸された。 &ref(031.jpg); 皇帝は行幸先でバクラヴァを振る舞われた。 &ref(032.jpg); 4月8日、皇帝は還幸された。 6月27日、皇帝はアラゴン王をはじめ多くの諸侯に戦を宣した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第一次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1414年3月5日-1415年9月18日| |>|>|>|結果:-| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|114000|アラゴン王国          |20000| |>|-|グロッセート公国|15000| |>|-|コモ公国|12000| |>|-|ライーン大司教領|13000| |>|-|デス=モンハイン王国|9000| |>|-|オ=ニール公国|8000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|アラゴン公ダルマウ=ベレングエル| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|ヴィク司教ヤウメ| |>|トルトサ伯レインベルン|>|ヨルン・ロルフセン| |>|オヴェコ・デ・サン=クレメンテ|>|バティスタ・スピノラ| &ref(033.jpg); 8月20日、ピオンビーノにて1万5千の敵軍をトルトサ伯率いる帝国軍2万が破った。 10月12日、タウントンのブレートラント7千軍対イングランド軍1万2千の戦いに帝国軍2万が参戦し、イングランド軍を破った。 イングランド軍はアラゴン王の援軍として参戦していたが、それ以前にブレートラント王と領土問題で争っていた。 &ref(034.jpg); 1432年5月13日、ヌビア王マルツロフィロスがまた奏上し、叛乱に対する援軍を乞うた。 皇帝は許可し、2千の軍を向かわせた。 6月13日、ライーン大司教ショーンがロッチ=ガルマンを割いて降伏した。 8月20日、デス=モンハイン王ルアークが降伏し、王位を退いた。 9月21日、コモ公爵フローナが捕えられ、降伏した。 かくして、残るはアラゴン王のみとなった。 残存アラゴン軍1万4千は同盟国ジェノヴァ軍1万9千と共にオクシタニアにあり、アラゴン本土を占有する帝国軍を撃破するべくオクシタニアを西進していた。 10月23日、皇帝は大本営にて将軍らに対して、向かってくる3万の軍に対し、帝国側から攻勢をかけるか、アラゴンに引き込んでからの迎撃をすべきか、 最後の決戦に相応しい策について意見を問われた。 &ref(035.jpg); 将軍らは皆思い思いの作戦を奏上したが、中でもトルトサ伯のエレナの地において敵に攻勢を掛け、敵兵力を拉ぎ潰すという作戦が皇帝の意に叶い、 伯を先陣として3万5千の軍を北上させた。 11月2日、帝国軍1万7千とアラゴン軍1万6千がエレナにて開戦した。 &ref(037.jpg); 11月22日、帝国軍、アラゴン軍ともに増援が到着し、帝国軍3万、アラゴン軍2万4千にまで増えた。 12月1日、トルトサ伯が中央を破り、大勢は決した。 12月10日、敗走するアラゴン軍を撃破し、アラゴン王ジョアンは降伏し、アラゴン王位をエンリケに譲った。 未だ尚ジョアンは二つの王位を持ち、皇帝はそのうちコルシカ=サルデーニャ王位を簒奪しさらにジョアンの力を削いだ。 &ref(036.jpg); 1433年12月14日、シナイ伯爵ウルフが叛意を抱いたため、これを征伐した。 後任のシナイ伯爵にはイングランド王の長子ゲラルドが封じられ、またコルシカ=サルデーニャ王位も賜られた。 &ref(000.jpg); 1433年暮れの世界地図 *[[巻十二 オト公正帝 1434~1452>AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]] [#k9db86b6]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十一 オト公正帝 [#oa288c4d] オト公正帝は、先帝ヴァルデマ聖帝の子である。 皇帝は幼い時より聡明で、叡智を持っておられた。壮年になりて仁に寛く慈びが益し、故に公正帝と称せられた。 ティムール朝との戦争の最中にヴァルデマ聖帝が崩御され、帝位を継がれた。 &ref(オト公聖帝.jpg,nolink); &ref(001閣僚.jpg); 1421年11月5日、皇帝は宮廷長官セルビア王ポリンが公金を横領していると訝しみ、宮廷長官を問いただした。 宮廷長官はその罪を認め、金を返納し、地に伏して謝罪した。 &ref(002閣僚.jpg); 1422年1月17日、ベルツィエフにて皇帝御自ら敵6千を破られた。 &ref(003.jpg); 2月26日、ポーランド王マツラウが薨去した。48歳であった。 マツラウの長女にして、オト公正帝の皇后ヤドウィカが王位を継いだ。 &ref(003.jpg); 4月4日、カフル=タブにて皇帝は1万4千のティムール軍を破られ、敵将コグセグを捕えられた。 &ref(004.jpg); 5月7日、ティムールの可汗ナクフはダマスクを割いて降伏した。 12月24日、皇帝は即位祝いの宴を催した。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 朕はそもそもローマ皇帝にして、すべてのキリスト人を統べるべきものである。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 未だ皇化の及ばぬ地があることは、朕の不徳に由来するものであり、速やかに朕が天下を統べるべきではないだろうか。 1423年1月19日、皇帝は詔した。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); ヴァニン王フェガル、ミラン女公フローラ、ジェヴォダン女伯マドレーヌらはその心持卑しく、&ruby(おおみたから){百姓};を害し反省することがない。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); よって朕はすぐさまにこの者らを除き、正しい秩序を取り戻すべく軍を興さんと欲す。 &ref(006.jpg); ヴァニンとはマン島のゲール語地名らしい。HIPは治める人物の文化で国号が変わったりする 2月16日、義兄ヌビア王マルツォフィロスが上表し、サラセン人との戦いに力添えを請うた。 皇帝は許可し、トルトサ伯に2千の兵を持たせ討たしめた。 3月23日、聖ペーザ修道院にて帝国軍7千とミラン軍7千が交戦し、帝国軍がこれを破った。 4月17日、ピアーツにて帝国軍1万9千とヴァニン軍1万2千が交戦した。 5月16日、一か月にわたる戦いの果てに帝国軍はヴァニン軍1万を屠り、勝利は揺るぎないものとなった。 6月11日、敗走するヴァニン軍をフォルティンガルで討ち、ヴァニン王フェガルは降伏した。 7月13日、サカルトヴェロ王"単純王"アンドロニクが薨去し、外孫にあたるブルガリア王スヴェンがサカルトヴェロ王位を継承した。 スヴェンはスリースヴィ公ヘンリキの子である。 &ref(009.jpg); ウングリング家((ユングリング家、インリング家などと呼ばれるあの家。デンマーク語固有名詞カナ表記辞典曰くこの表記が一番近いらしい))のサガに曰くノルドの太祖オーディンはサカルトヴェロより出づるとされ、父祖の地を領有された皇帝は大いに喜ばれた。 10月23日、ミラン公フローラが降伏した。 12月4日、ヌビア王の下に向かったトルトサ伯の軍はサラセン人3千を破り、サラセン人の王族カヌンを捕虜とした。 1424年3月9日、オーゼル=ヴィク公クヌーズが弟のパウルに弑せられた。 皇帝はパウルを捕えたが、弟ヴァルデマは諸侯の評判が芳しくなく、公爵位は剥奪しなかった。 &ref(007.jpg); 4月7日、サムラントがデンマークの文化に転向した。 7月18日、皇帝はブルゴーニュ王位を兼ね、その地の諸侯を服属せしめた。 8月7日、ポゲサニアに冷雨が降り、今年は不作となった。 8月16日、デンマーク王イーレク8世が薨去した。22歳であった。 戦場での傷が化膿し、そこから病にかかったという。 王位は弟のドゴフリドが継いだ。 &ref(010.jpg); 10月4日、義弟ポルトガル王パイオがバヌ=マリンのスルタンニザム2世征伐に力添えを請うた。 皇帝は許可した。 12月23日、フランス女王ヘルヴィス、ハールィチ・ヴォルィーニ大公ゴーダンティ、ピサ公爵"陽気公"ボニファシオに戦を宣した。 1425年2月9日、バルティアが皇化に浴した。 &ref(011.jpg); 5月6日、レオン女王コンスタンティナが薨去した。6歳であった。 レオン王位は従姉弟にあたるカスティーリャ王ガリンドが継承した。 5月8日、陽気公ボニファシオはすべての領地を差し出し降伏した。 1426年1月29日、シャトーダンを陥落せしめた。皇帝は流行る将兵に対し軍規を正し、将兵を整然とさせて入城された。 この皇帝の立ち振る舞いは大いに人々を感嘆させ、皇帝は公正帝と称せられた。 &ref(012.jpg); 3月18日、フランス女王ヘルヴィスはサヴォイにフランス王位を譲り、トゥールーズ公爵に退いた。 8月17日、ハールィチ・ヴォルィーニ大公が降伏し、皇威に伏した。 9月14日、宰相キプロス王シグルドが帝冠を献上した。 &ref(顔宰相.jpg); この帝冠はかつてラテン皇帝ボードワン一世が即位される際に用いられた冠です。 &ref(顔宰相.jpg); ローマの皇帝たる陛下が着用するに相応しいものではないでしょうか。 &ref(013.jpg); この帝国はラテン帝国。history欄を見ると歴代ラテン皇帝が見える 皇帝は大いに喜ばれ、即位された。 &ref(014.jpg); 皇帝の詔に諸侯も大いに沸き、ブルガリア王スヴェンはアルバニア十字軍を宣言し、帝国諸侯はこぞって参加した。 &ref(015.jpg); 臣下のエストリズセン家は全員参加している 12月5日、皇帝は馬上槍試合を開かれた。 1427年2月23日、皇帝はカラマンリのスルタン、スレイマン3世に聖戦を宣言し、教皇庁がブルゴーニュに持つヴァネッサン伯領を帝国領とするべく軍を興した。 3月15日、皇帝は破門された。 &ref(016.jpg); これに対し皇帝は対立教皇を擁立することを考えられたが、教皇の権威は未だ高く立てることが出来なかった。 &ref(017.jpg); 6月13日、教皇軍3万とピサで会敵した。 &ref(018.jpg); 6月18日、民衆が皇帝を支援し183グルデンを献上した。 7月5日、皇太后グレミスラヴァが薨去された。 グレスミラヴァはキエフ公アレクサンドロフの娘である。 聡明で、先帝ヴァルデマをよく支えた。 7月24日、ピサの戦いは決着した。 8月13日、アルトパシオにのがれた教皇軍3千を追撃し、教皇シルヴェステル4世を捕え、ヴァネッサン伯領の割譲をみとめさせた。 &ref(019.jpg); これでも対立教皇は立てれなかった。おかしい。 9月17日、破門にも臆せず教皇に立ち向かう皇帝の威容に圧され、スレイマン3世が降伏した。 &ref(020.jpg); この時、戦勝点37% &ref(021.jpg); 1428年1月23日、皇帝は若い廷臣から首の傾け方を体得された。 或いは、この体得のために公正帝と称せられたともいうが、事実はわからない。 &ref(022.jpg); 4月11日、教皇シルヴェステル4世が崩御した。後任は同じくリューリク家のニキータがヴィクトル4世として即位した。 7月8日、皇帝はホラントを帝国に割譲するよう神聖ローマ皇帝に詔したが、コンスタンティノス6世はこれを拒否し、戦争になった。 &ref(023.jpg); 8月30日、テクレンブルクの帝国軍に敵軍が攻撃を仕掛けてきた。 大将の は増援1万5千の到着と共に中央に攻勢を仕掛け、敵軍を二分して背面に展開し、これを包囲撃滅した。 &ref(024.jpg); 11月21日、ホルスティーン公プリドビョルン率いる2万4千の軍勢がトレントで敵軍1万を打ち破った。 1429年3月9日、シチリア王オジェがヴィケンサで敵1万を破り、神聖ローマ皇帝が降伏し、ホラントを帝国に割譲した。 4月9日、皇太子ヴァルデマが成人し、メクレンブルク公アデリンデと成婚された。 4月29日、教皇ヴィクトル4世が皇帝の破門を解いた。 5月16日、フランス女王に重祚したヘルヴィスらが反乱を起こした。 ヘルヴィスと共謀したものの中には"ラ・マンチャの男"カスティーリャとレオンの王ガリンド、ブリートラント王((旧ウェールズ。王の君主がデンマーク文化であるため古ノルド語由来の名に変わったらしい))ジョーフレイらもいた。 &ref(025.jpg); 帝国の西半分が反乱を起こした。 8月25日、アスカロンにて叛徒1万と戦闘中、叛徒の別部隊1万2千が南下し、帝国軍は挟撃の危機に陥った。 8月28日、叛徒の別動隊がアスカロンで合流した。 &ref(026.jpg); 9月4日、アスカロンの叛乱軍は数の優位を生かせず、帝国軍の繞回運動の前に敵左翼が崩壊した。 &ref(027.jpg); 9月11日、ムスクロンにて叛徒1万4千を誅した。 9月26日、民衆が188グルデンを献上した。 1430年1月6日、トルトサ伯がトーレンで敵軍1万5千を破った。 3月1日、トルトサ伯がニールポールトで敵軍2万4千を破った。 3月7日、ティムール朝の可汗ナクフが戦場で討たれ、死亡した。 先帝ヴァルデマにナザレで敗北したのち諸侯の独立を次々と許し、"無思慮の"ナクフと後世呼ばれるようになった。帝位は孫のコルマカンが継いだ。 4月14日、スランス女王ヘルヴィグが和議を申し出たが、皇帝は一蹴した。 &ref(028.jpg); 9月3日、元帥ホルスティーン公プリドビョルンの指揮するオルレアン包囲軍1万6千をル・ピュイセにて叛乱軍1万5千が襲撃した。 &ref(029.jpg); 帝国軍の将軍はすべてエストリズセン家一門である 皇帝は急ぎトルトサ伯の率いる5千の軍を増援で向かわせた。 10月3日、ル・ピュイセの戦いは帝国軍の勝利に終わり、叛徒らは皆投獄された。 皇帝はフランス女王ヘルヴィグに王位を献上するよう要求したが、法学者からフランスの国内法に反すると奏上され、諦めた。 代わりにガリンドからカスティーリャ王位を剥奪し、また兄弑逆ののちずっと牢に繋がれていたパウルからオーゼル=ヴィク公爵位を剥奪した。 1431年1月1日、皇帝は戦勝祝いの宴を開いた。 1月3日、獄中にいたフランス女王ヘルヴィグが父親のわからない子供を出生した。 宴会の最中であったので、酒に酔った諸侯がフランスの風俗について有る事無い事を伝聞し、皇帝の下に奏上されるまでに話に尾鰭が付いた。 皇帝は大いに驚き、 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); &ruby(はしため){婢};の座る玉座があるとは知らなかった。世の中は広いものだ と仰せられた。 2月23日、皇帝はサンティアゴに巡礼することを欲し、アスワン伯爵ヘミングを摂政として行幸された。 3月1日、スリースヴィ公ヘンリキがデンマーク王ゴドフレズの牢獄で薨去した。 歴代デンマーク王の圧迫を受け、スリースヴィ公爵領内の伯領はほとんど剥奪された。 公爵位は長子のブルガリア王スヴェンが継承した。 3月18日、皇帝は行幸中に警護を担当したカラトラヴァ騎士団のオヴェコ・デ・サン=クレメンテと親しくなられた。 &ref(030.jpg); 3月24日、皇帝はサンティアゴに行幸された。 &ref(031.jpg); 皇帝は行幸先でバクラヴァを振る舞われた。 &ref(032.jpg); 4月8日、皇帝は還幸された。 6月27日、皇帝はアラゴン王をはじめ多くの諸侯に戦を宣した。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第一次欧州征伐''| |>|>|>|年月日:1414年3月5日-1415年9月18日| |>|>|>|結果:-| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''帝国軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''反帝国軍''| |ノルド帝国|114000|アラゴン王国          |20000| |>|-|グロッセート公国|15000| |>|-|コモ公国|12000| |>|-|ライーン大司教領|13000| |>|-|デス=モンハイン王国|9000| |>|-|オ=ニール公国|8000| |>|>|>|将軍| |>|ホルスティーン公プリドビョルン|>|アラゴン公ダルマウ=ベレングエル| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|ヴィク司教ヤウメ| |>|トルトサ伯レインベルン|>|ヨルン・ロルフセン| |>|オヴェコ・デ・サン=クレメンテ|>|バティスタ・スピノラ| &ref(033.jpg); 8月20日、ピオンビーノにて1万5千の敵軍をトルトサ伯率いる帝国軍2万が破った。 10月12日、タウントンのブレートラント7千軍対イングランド軍1万2千の戦いに帝国軍2万が参戦し、イングランド軍を破った。 イングランド軍はアラゴン王の援軍として参戦していたが、それ以前にブレートラント王と領土問題で争っていた。 &ref(034.jpg); 1432年5月13日、ヌビア王マルツロフィロスがまた奏上し、叛乱に対する援軍を乞うた。 皇帝は許可し、2千の軍を向かわせた。 6月13日、ライーン大司教ショーンがロッチ=ガルマンを割いて降伏した。 8月20日、デス=モンハイン王ルアークが降伏し、王位を退いた。 9月21日、コモ公爵フローナが捕えられ、降伏した。 かくして、残るはアラゴン王のみとなった。 残存アラゴン軍1万4千は同盟国ジェノヴァ軍1万9千と共にオクシタニアにあり、アラゴン本土を占有する帝国軍を撃破するべくオクシタニアを西進していた。 10月23日、皇帝は大本営にて将軍らに対して、向かってくる3万の軍に対し、帝国側から攻勢をかけるか、アラゴンに引き込んでからの迎撃をすべきか、 最後の決戦に相応しい策について意見を問われた。 &ref(035.jpg); 将軍らは皆思い思いの作戦を奏上したが、中でもトルトサ伯のエレナの地において敵に攻勢を掛け、敵兵力を拉ぎ潰すという作戦が皇帝の意に叶い、 伯を先陣として3万5千の軍を北上させた。 11月2日、帝国軍1万7千とアラゴン軍1万6千がエレナにて開戦した。 &ref(037.jpg); 11月22日、帝国軍、アラゴン軍ともに増援が到着し、帝国軍3万、アラゴン軍2万4千にまで増えた。 12月1日、トルトサ伯が中央を破り、大勢は決した。 12月10日、敗走するアラゴン軍を撃破し、アラゴン王ジョアンは降伏し、アラゴン王位をエンリケに譲った。 未だ尚ジョアンは二つの王位を持ち、皇帝はそのうちコルシカ=サルデーニャ王位を簒奪しさらにジョアンの力を削いだ。 &ref(036.jpg); 1433年12月14日、シナイ伯爵ウルフが叛意を抱いたため、これを征伐した。 後任のシナイ伯爵にはイングランド王の長子ゲラルドが封じられ、またコルシカ=サルデーニャ王位も賜られた。 &ref(000.jpg); 1433年暮れの世界地図 *[[巻十二 オト公正帝 1434~1452>AAR/デンマーク年代記/巻十二 オト公正帝 1434~1452]] [#k9db86b6]
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