AAR/デンマーク年代記/巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421
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巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十 ヴァルデマ聖帝 [#qf0cfff3] 1417年1月17日、第四皇女カロリーネの婿、シグルドにキプロス王位を賜った。 4月12日、皇帝はテッサロニキ専制侯を臣従させるべく軍を起こした。 6月10日、トルトサ伯の率いる帝国軍1万6千と専制侯軍1万千がセリンブリアで会戦した。 &ref(032ギリシャ戦争.jpg,nolink); 23日、皇帝自ら率いる5千の増援が到着した。 &ref(033ギリシャ戦争.jpg,nolink); 27日、皇帝はティガニ市長フィラレトスに一騎打ちを挑まれた。 皇帝は了承し、フィラレトスを鎧袖一触で切り捨てた。 このあと専制侯軍は総崩れとなり、翼側包囲が成功し1万3千人が殲滅された。 7月12日、専制侯アナスタシウスはニカイア公に退き、ニコラオスが新しくテッサロニキ専制侯になった。 &ref(034ギリシャ戦争.jpg,nolink); 旧ビザンツ領が一つにまとまってすっきり 7月13日、長雨が続き、皇帝は民衆の心配をされた。 &ref(035雨.jpg,nolink); &ref(036教皇.jpg,nolink); 主の受肉より1417年10月26日、教皇ヨハネス23世が崩御した。 非常に敬虔で人当たりがよく、誰しもが教皇を愛した。 この時代に外は異教の中で脅威であったティムールとバフリ朝の勢いを削ぐことに成功し、 内にも対立教皇を廃し、多くの異端を全き道に改宗せしめ、信徒から「神の祝福を受けたお方」と呼ばれた。 後任はリューリク家のニキータがマルケルス3世として即位された。 これ以後、何代にもわたってリューリク家出身の教皇が続き、リューリク教皇時代と呼ばれるようになる。 &ref(037教皇.jpg,nolink); HIPの教皇選挙は家柄がとても反映されるので、リューリク家がカトリック化すると教皇位を寡占してしまう 18日、第三皇女アスタの婿マルツォフィロスの父王が、マルツォフィロスの母をアロディア王位につけるべく起こした戦で戦死しした。 マルツォフィロスはヌビアに発つ前の日に参内し、是非とも皇帝の力添えがほしいと奏上した。 皇帝は許可し、宴を中止した。 &ref(040ヌビア.jpg,nolink); この頃、イングランドはかつて対立教皇を建てたイングランド王オーブレーがイングランド王位を追われ、 ウェールズ王を称したのちに崖から飛び降りて死亡し、長女エリザベスが王位を継いだ。 1418年1月12日、皇帝はエリザベスの叔父ジョーフレーをウェールズ王にすべくウェールズ女王エリザベスに戦を宣した。 2月29日、バンブルーの戦いにおいて帝国軍8千がウェールズ軍3千を打ち破った。 4月5日、長雨が降り皇帝は民衆の心配をされた。 5月19日、スタンフォードにおいてウェールズ軍1万千を帝国軍2万3千が攻撃した。 &ref(041ウェールズ.jpg,nolink); 7月13日、ミドルハムにてウェールズ軍9千が帝国軍9千に攻撃してきた 帝国軍は近隣の兵1万6千を急ぎ向かわせた。 &ref(042ウェールズ.jpg,nolink); 7月28日、ミドルハムの戦いに勝利し、捕虜を三人得た。 8月13日、ウェールズ女王エリザベスは降伏し、ジョーフレーがウェールズ王位に就いた。 ブリテン島の中腹にノルド人の領地が現れたことに、ノルドとブリテン島の民衆はデーンロウの復活だと大いに噂した。 &ref(043ウェールズ.jpg,nolink); 主の受肉より1818年8月28日、教皇マルケルス3世が崩御した。 在位が一年に満たず、大した事績はなかった。 同じくリューリク家のパヴェルがシルウェステル8世として即位した。 &ref(044教皇.jpg,nolink); 1419年1月19日、皇帝はレオンとカスティーリャを治める6歳の幼君ウラカにの従兄妹にあたるガリンドをカスティーリャ王にすべく兵を起こした。 2月22日、ホルスティーン公イーレクが卒去した。59歳だった。 スリースヴィ公ヴァルデマ5世の第三子である。 6月17日、アストルガの戦いでトルトサ伯率いる帝国軍がレオン軍 9月12日、マドリッドにて帝国軍8千がレオン王国軍6千と会敵。 &ref(045カスティーリャ.jpg,nolink); 28日、ミランダ・デ・エブロにいる帝国軍4千にレオン軍4千が襲撃した。 10月5日、マドリッドの戦いは帝国軍の勝利に終わった。 &ref(046カスティーリャ.jpg,nolink); 30日、ミランダ・デ・エブロの戦いは際どい所で帝国軍が勝利した。 1419年1月18日、帝国軍はマドリッドを陥落せしめた。 &ref(047カスティーリャ.jpg,nolink); 2月28日、レオン女王ウラカはカスティーリャ王位をガリンドにゆずった。 カスティーリャ王ガリンドは、即位するとともにラ・マンチャ公領を回復すべくレオン王国と開戦した。 この戦争はガリンドの敗北に終わったが、この一件から宮廷内でガリンドはラ・マンチャの男と呼ばれるようになった。 4月28日、アロディア王にヌビア王マルツォフィロスの母クリスティナが即位した。 &ref(048ヌビア.jpg,nolink); 1421年5月28日、シチリア王ピエトロが戦死し、ゴート王オジェがシチリア王位を兼ねた。 これにより南イタリアまでも帝国領となり、上は王から下は民衆に至るまですべての臣民が皇帝が正当なローマ皇帝となられることを望まれた。 &ref(049帝国.jpg,nolink); イングランド兼ウェールズ王がフランス王を兼ね、後にフランス、イングランド王位を喪失した関係で南フランスにも帝国領がある だが、皇帝は即位されなかった。 一説には、ノルド人の皇帝という立場を非常に気に入っていたからであるというが、分からない。 人智の知れない事情があったのかもしれない。 &ref(050帝国.jpg,nolink); ローマ皇帝の奉じるべき宗教は正教であるべきらしい。パラド史観ならぬHIP史観だろうか 6月1日、皇帝はティムール朝の治めるダマスクへの聖戦を詔された。 9月11日、帝国は5万の軍勢を上陸させたが、ティムール朝の反撃は全く来なかった。 &ref(051聖戦.jpg,nolink); 9月21日、皇帝はアル=グタフを包囲されている中、崩御された。 皇帝は崩御される前、死後の戦争について策を講じ、申し付けられた。 翌22日、敵将オゴデイは皇帝崩御の報を聞き出撃し、アル=ダクフの包囲軍に降伏を勧めた。 &ref(顔オゴデイ.jpg,nolink); 汝らの奉じた皇帝はすでに居ない。わが軍に攻め滅ぼされる前に包囲を開け、降伏せよ。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 何を言うか。皇帝陛下は存命である。汝らの方こそ降伏せよ。 &ref(顔オゴデイ.jpg,nolink); 何を言うかとはこちらの言だ。皇帝の死んだ奴らに何が出来るのか。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 今でも疑うのであれば、これを見よ。 &ref(052聖戦.jpg,nolink); アル=ダクフを包囲していたのは、確かに聖帝ヴァルデマであった。これを見たオゴデイは、 &ref(顔オゴデイ.jpg,nolink); なんということか。皇帝はまだ生きていたのか。 と述べると馬を返して逃走し、ティムールの部隊は敗走した。 この故事を以て、死せる聖帝、生きるオゴデイを走らすと云う。 *[[巻十一 オト公正帝 1421~1433>AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]] [#x821ffaf]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻十 ヴァルデマ聖帝 [#qf0cfff3] 1417年1月17日、第四皇女カロリーネの婿、シグルドにキプロス王位を賜った。 4月12日、皇帝はテッサロニキ専制侯を臣従させるべく軍を起こした。 6月10日、トルトサ伯の率いる帝国軍1万6千と専制侯軍1万千がセリンブリアで会戦した。 &ref(032ギリシャ戦争.jpg,nolink); 23日、皇帝自ら率いる5千の増援が到着した。 &ref(033ギリシャ戦争.jpg,nolink); 27日、皇帝はティガニ市長フィラレトスに一騎打ちを挑まれた。 皇帝は了承し、フィラレトスを鎧袖一触で切り捨てた。 このあと専制侯軍は総崩れとなり、翼側包囲が成功し1万3千人が殲滅された。 7月12日、専制侯アナスタシウスはニカイア公に退き、ニコラオスが新しくテッサロニキ専制侯になった。 &ref(034ギリシャ戦争.jpg,nolink); 旧ビザンツ領が一つにまとまってすっきり 7月13日、長雨が続き、皇帝は民衆の心配をされた。 &ref(035雨.jpg,nolink); &ref(036教皇.jpg,nolink); 主の受肉より1417年10月26日、教皇ヨハネス23世が崩御した。 非常に敬虔で人当たりがよく、誰しもが教皇を愛した。 この時代に外は異教の中で脅威であったティムールとバフリ朝の勢いを削ぐことに成功し、 内にも対立教皇を廃し、多くの異端を全き道に改宗せしめ、信徒から「神の祝福を受けたお方」と呼ばれた。 後任はリューリク家のニキータがマルケルス3世として即位された。 これ以後、何代にもわたってリューリク家出身の教皇が続き、リューリク教皇時代と呼ばれるようになる。 &ref(037教皇.jpg,nolink); HIPの教皇選挙は家柄がとても反映されるので、リューリク家がカトリック化すると教皇位を寡占してしまう 18日、第三皇女アスタの婿マルツォフィロスの父王が、マルツォフィロスの母をアロディア王位につけるべく起こした戦で戦死しした。 マルツォフィロスはヌビアに発つ前の日に参内し、是非とも皇帝の力添えがほしいと奏上した。 皇帝は許可し、宴を中止した。 &ref(040ヌビア.jpg,nolink); この頃、イングランドはかつて対立教皇を建てたイングランド王オーブレーがイングランド王位を追われ、 ウェールズ王を称したのちに崖から飛び降りて死亡し、長女エリザベスが王位を継いだ。 1418年1月12日、皇帝はエリザベスの叔父ジョーフレーをウェールズ王にすべくウェールズ女王エリザベスに戦を宣した。 2月29日、バンブルーの戦いにおいて帝国軍8千がウェールズ軍3千を打ち破った。 4月5日、長雨が降り皇帝は民衆の心配をされた。 5月19日、スタンフォードにおいてウェールズ軍1万千を帝国軍2万3千が攻撃した。 &ref(041ウェールズ.jpg,nolink); 7月13日、ミドルハムにてウェールズ軍9千が帝国軍9千に攻撃してきた 帝国軍は近隣の兵1万6千を急ぎ向かわせた。 &ref(042ウェールズ.jpg,nolink); 7月28日、ミドルハムの戦いに勝利し、捕虜を三人得た。 8月13日、ウェールズ女王エリザベスは降伏し、ジョーフレーがウェールズ王位に就いた。 ブリテン島の中腹にノルド人の領地が現れたことに、ノルドとブリテン島の民衆はデーンロウの復活だと大いに噂した。 &ref(043ウェールズ.jpg,nolink); 主の受肉より1818年8月28日、教皇マルケルス3世が崩御した。 在位が一年に満たず、大した事績はなかった。 同じくリューリク家のパヴェルがシルウェステル8世として即位した。 &ref(044教皇.jpg,nolink); 1419年1月19日、皇帝はレオンとカスティーリャを治める6歳の幼君ウラカにの従兄妹にあたるガリンドをカスティーリャ王にすべく兵を起こした。 2月22日、ホルスティーン公イーレクが卒去した。59歳だった。 スリースヴィ公ヴァルデマ5世の第三子である。 6月17日、アストルガの戦いでトルトサ伯率いる帝国軍がレオン軍 9月12日、マドリッドにて帝国軍8千がレオン王国軍6千と会敵。 &ref(045カスティーリャ.jpg,nolink); 28日、ミランダ・デ・エブロにいる帝国軍4千にレオン軍4千が襲撃した。 10月5日、マドリッドの戦いは帝国軍の勝利に終わった。 &ref(046カスティーリャ.jpg,nolink); 30日、ミランダ・デ・エブロの戦いは際どい所で帝国軍が勝利した。 1419年1月18日、帝国軍はマドリッドを陥落せしめた。 &ref(047カスティーリャ.jpg,nolink); 2月28日、レオン女王ウラカはカスティーリャ王位をガリンドにゆずった。 カスティーリャ王ガリンドは、即位するとともにラ・マンチャ公領を回復すべくレオン王国と開戦した。 この戦争はガリンドの敗北に終わったが、この一件から宮廷内でガリンドはラ・マンチャの男と呼ばれるようになった。 4月28日、アロディア王にヌビア王マルツォフィロスの母クリスティナが即位した。 &ref(048ヌビア.jpg,nolink); 1421年5月28日、シチリア王ピエトロが戦死し、ゴート王オジェがシチリア王位を兼ねた。 これにより南イタリアまでも帝国領となり、上は王から下は民衆に至るまですべての臣民が皇帝が正当なローマ皇帝となられることを望まれた。 &ref(049帝国.jpg,nolink); イングランド兼ウェールズ王がフランス王を兼ね、後にフランス、イングランド王位を喪失した関係で南フランスにも帝国領がある だが、皇帝は即位されなかった。 一説には、ノルド人の皇帝という立場を非常に気に入っていたからであるというが、分からない。 人智の知れない事情があったのかもしれない。 &ref(050帝国.jpg,nolink); ローマ皇帝の奉じるべき宗教は正教であるべきらしい。パラド史観ならぬHIP史観だろうか 6月1日、皇帝はティムール朝の治めるダマスクへの聖戦を詔された。 9月11日、帝国は5万の軍勢を上陸させたが、ティムール朝の反撃は全く来なかった。 &ref(051聖戦.jpg,nolink); 9月21日、皇帝はアル=グタフを包囲されている中、崩御された。 皇帝は崩御される前、死後の戦争について策を講じ、申し付けられた。 翌22日、敵将オゴデイは皇帝崩御の報を聞き出撃し、アル=ダクフの包囲軍に降伏を勧めた。 &ref(顔オゴデイ.jpg,nolink); 汝らの奉じた皇帝はすでに居ない。わが軍に攻め滅ぼされる前に包囲を開け、降伏せよ。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 何を言うか。皇帝陛下は存命である。汝らの方こそ降伏せよ。 &ref(顔オゴデイ.jpg,nolink); 何を言うかとはこちらの言だ。皇帝の死んだ奴らに何が出来るのか。 &ref(顔オト公正帝.jpg,nolink); 今でも疑うのであれば、これを見よ。 &ref(052聖戦.jpg,nolink); アル=ダクフを包囲していたのは、確かに聖帝ヴァルデマであった。これを見たオゴデイは、 &ref(顔オゴデイ.jpg,nolink); なんということか。皇帝はまだ生きていたのか。 と述べると馬を返して逃走し、ティムールの部隊は敗走した。 この故事を以て、死せる聖帝、生きるオゴデイを走らすと云う。 *[[巻十一 オト公正帝 1421~1433>AAR/デンマーク年代記/巻十一 オト公正帝 1421~1433]] [#x821ffaf]
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045カスティーリャ.jpg
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044教皇.jpg
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顔オト公正帝.jpg
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