AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383
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巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻六 ヴァルデマ聖帝 [#q9cb5e47] &ref(000ヴァルデマ聖帝.jpg,nolink); ヴァルデマ帝は先帝オトの第二子である。 母はカルヴナ公爵ミハイル2世の娘ペンカである。 オト皇帝の崩御なされたのち、ブルガリアのカルヴァナからノルウェーのヴィングルマークに遷宮された。 ヴァルデマ帝は全ノルドの守護者であったが未だ幼少であるため、 皇帝の祖母イヴァナが摂政として、ヴァルデマ再興王の息子イーレクがデンマーク王として共同統治をおこなう形となった。 &ref(000摂政イヴァナ.jpg,nolink); &ref(000国王イーレク.jpg,nolink); 多民族国家と化したノルド帝国はその内部で軋轢も生んだ。 特に摂政兼密偵頭にして皇帝の祖母であるブルガリア人のイヴァナと、 侍従長にしてノルマン人のファラモンドは先帝の葬儀の時より険悪であった。 ファラモンドが先帝を偲び太刀を佩いて奉ると、イヴァナが突如嘲笑い出して、 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); まるで矢の刺さった雀のようだ と述べた。 イヴァナが諸臣を代表して表文を読み上げるときその手足が震えた。ファラモンドは、 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 鈴をつければ、よく鳴るだろう と言い返した。 &ref(001即位.jpg,nolink); 1370年5月28日、皇帝は臣下より全ノルドの皇帝として推挙された。 即位式には官吏諸臣のほかに諸国の勅使も参列し、若き皇帝の即位を祝賀した。 その中で神聖ローマ皇帝ヴァルデマ5世の勅使は以下のように奏上した。 神により加冠されし至尊なる尊厳者、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治する西方正帝、 ドイツ王、イタリア王、バイエルン公、オーストリア公、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯たるルードヴィヒより、 神により加冠されし至尊なる尊厳者、平和をもたらすローマの東方正帝、全ノルドの保護者にして最高統治者、 ノルウェー王、スウェーデン王、エルサレム王、エストラント公たるヴァルデマに啓す。恙無きや。 かつて尊公の父にして我が兄弟、オトはその慈悲深い大御心によって全てのノルドと聖地の守護者として帝位に就かれた。 その勢いを継がれた尊公の叡智はアイスランドからインドにまで聞こえ、威光と権威はまさしく皇帝の資質である。 尊公が東方正帝として、朕が西方正帝として、両ローマ帝国に、 誠実な近縁関係ならびに変わらぬ平和と友好の努力の習慣とが力を栄えるよう。 この表文を聞いたビザンツ皇帝ヨハネス5世の勅使は大いに怒り、 &ref(顔ビザンツ.jpg,nolink); 正当たるわがローマ帝国を差し置いて、フランク人とノルド人が結託して帝位を簒奪するというのか。 &ref(顔ビザンツ.jpg,nolink); 貴公らの姑息な行為は天に居ます主の知るところであろう。 これに対し、摂政イヴァナの答えて曰く、 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); テッサロニキ専制侯、汝は今やアジアを失陥しギリシアもほぼ失っている。 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); 今やかつてのエピロス専制侯国と同じであるではないか。 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); その所領でなぜ皇帝と名乗ることが出来ようか。 勅使は専制侯呼ばわりされたことに憤激し、そのまま退席してしまった。 1371年1月1日、グズブランズダラーで農民が叛いた。 王はヴェスターゴトラント公爵アルンファストに7500の軍をもって討たしめた。 1371年9月28日、ビザンツ帝国はいよいよその権勢を傾け、皇帝ヨハネス5世は退位し自らをテッサロニキ専制侯と称した。 &ref(002廃位.jpg,nolink); 10月22日、ヴァルデマ再興王の王妃ビアトリクスが崩御された。 1372年1月21日、皇帝はヴィングルモルクにて宴を催した。 &ref(003いかん危ない危ない.jpg,nolink); 宴会の一幕。誘う方も誘う方だが四歳児についていく方もついていく方である 6月17日、皇帝は夏祭りを開かれた。 &ref(004摂政死す.jpg,nolink); 1374年4月18日、侍従長ファラモンドは摂政兼密偵頭のイヴァナを憎み、デンマーク王イーレク7世、オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世、宮廷長官(家令)サッカリア司教イーレクらとともに遂にイヴァナを弑するに至った。 皇帝はイヴァナの姿の見えないことをデンマーク国王イーレク7世に問うと、王は地に伏して皇帝に奏上された。 &ref(顔イーレク.jpg,nolink); イヴァナは国政を壟断し、皇家を滅ぼし、帝位を傾けんと欲していました。 &ref(顔イーレク.jpg,nolink); なぜ陛下を持ってイヴァナに変えれましょうか。 &ref(005新摂政.jpg,nolink); 太皇母摂政兼密偵頭宮イヴァナは崩御された。 摂政はファラモンド、密偵頭にはオーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世が任命された。 5月30日、摂政ファラモンドは宮廷長官(家令)サッカリア司教イーレクが要求するソロワ司教区をチュートン騎士団から取り戻すべく軍を起こした。 &ref(006チュートン戦争.jpg,nolink); 6月13日、イルビングで騎士団軍を破った。 1375年3月5日、チュートン騎士団は降伏し、ソロワを割譲した。 10月19日、テサロニカ専制侯イオアネスの長子、ヴァルデマ再興王の四女ソフィーイの夫であるアンドロニコスが戦死した。 彼女はそのままテサロニカ宮廷にとどまり、のちにアンドロニコスの弟ディオゲネスと再婚した。 &ref(010ソフィーイ.jpg,nolink); 父親とも愛人関係にある 1376年8月22日、皇帝はトランスヨルダンに対する聖戦を詔した。 摂政ファラモンドはほかのサラセン人が救援に駆けつけることを懸念していたが、 &ref(019金帳汗国の没落.jpg,nolink); 金帳汗国の可汗、イナンチャはその無様な戦歴からIll-Rulerなどと呼ばれている スンニ派の諸国はティムールに敗北を重ね、所領も威信も大きく減っていた。 トランスヨルダン太守は誰からも支援を受けられず、孤立無援のまま敗北した。 &ref(007ヨルダン戦争.jpg,nolink); 1376年9月12日、神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ5世が崩御した。 先帝オトの姉、マルガレーテの夫にあたる。 ルードヴィヒ4世の長子として帝位を継ぎ、その所領をよく守った。 奸臣により一時帝位を追放されるも、その公正かつ慈悲深い性格により諸臣より推挙され帝位に返り咲いた。 &ref(040新皇帝.jpg,nolink); 長子コンラートがコンラート5世として即位した。 皇帝は勅使を遣し西方皇帝と追認した。 1378年8月27日、スウェーデンのアツンザラントがデンマーク文化化した。 &ref(008デンマーク文化の拡大.jpg,nolink); 1378年12月4日、御前会議において通常の議案のすべて裁可された後、 宰相アイスランド公スィモンは陛下の名代として摂政兼侍従長オゼルにこう申し上げた。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 汝の功績は天聴に達し、皇帝陛下は大いに満足された。男爵領を汝に賜られた。」 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 陛下の御高配におかれましては、恐悦至極に存じます」 宰相は話を続けた。 「また、男爵領の経営と侍従長、摂政の三つを兼務されるのは難しいであろうと陛下はご考慮された。 摂政職を解任し、新たにオーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世密偵頭を摂政に任じる」 ファラモンド、これに大いに驚きて &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); なんと仰せられた。臣は君側の奸を取り除いた功はあれど、皇帝陛下と国家に長らく尽くしてきたではないか。 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 次に摂政となるという密偵頭は、公爵領を賜っておられる。なぜ臣が三職を兼務できないというのか。 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 第一、陛下が取り決められたというが、陛下は一言ものたまわれておられない。幼少の天子を頂いて国政を専横するにも度があるではないか」 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 待たれよ、男爵、いま臣らが陛下を蔑ろにして国政を専横していると申されたが、此度の決断はすべて陛下の行われたことである。幼少の天子とは何事か」 ファラモンドは言い返すことが出来ず、男爵領を賜ると同時に摂政職を辞した。 密偵頭オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世が摂政に就いた。 &ref(009新摂政.jpg,nolink); 12月5日、顛末を知った皇帝はファラモンドを憐み帝国元帥に任じ、イルムラント伯領を賜った。 デンマーク王イーレク7世とハンガリー女王アデリンデの間にはアデリンデが30になっても女子しか生まれず、ハンガリー王にエストリゼン家に継承させるという再興王の目論見は崩れかけていた。 1379年1月1日、イーレク7世はウトランデ総督夫人ビルントニスの出産した子を自身の子であると認知した。 &ref(011庶子誕生.jpg,nolink); この時、イーレク27歳 &ref(012庶子誕生2.jpg,nolink); 総督は反発している &ref(013もはや権威はうなぎのぼり.jpg,nolink); 1380年1月1日、新年の公儀において宰相スィモンはカトリック教会の権威は開闢以来の値を記録し、他の異教・異端の類を大きく突き放したと奏上した。 1月16日、皇帝は国庫金の不足を怪しみ、摂政兼密偵頭ヴァルデマを疑った。 1月27日、ヴァルデマ再興王の三女イリザベトが肺炎のため薨去した。35歳であった。 イリザベトはイングランド王ギルバートの王妃となり二男二女を設けた。 5月16日、またしても国庫の金の不足を知った皇帝はヴァルデマによる物であると確信したが、密偵頭の今までの功績に鑑み任用し続けた。 &ref(014代を経るごとに劣化する摂政.jpg,nolink); 5月19日、皇帝はノヴゴロド大公領のイングリア分領公国(udelnoe knyazhestvo ゲームでは伯爵領に相当)を奪還すべく詔された。 &ref(015イングリア戦争.jpg,nolink); ヴァルデマ皇帝は慈悲に満ちた方であらせられる |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''アンティオキア十字軍''| |>|>|>|年月日:1380年9月26日-1381年12月26日| |>|>|>|結果:アンティオキアの帝国領編入| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラセン人''| |ノルド帝国|36000|バフリ朝|27000| |イングランド王国|34000|          |16000| |ポーランド王国|16000|>|-| |教皇庁|15000|>|-| |アルバ王国|12000|>|-| |マツォウヅェ公国|4000|>|-| |キプロス公国|4000|>|-| |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''将軍''| |>|教皇ゲラシウス3世|>|"スルタン"サバア| |>|デンマーク王イーレク7世|>|アルウッドゥーン太守アライ| |>|イルムラント伯ファラモンド|>|アラン騎士団長バズク| |>|コポリェ伯カルル|>|マンスラ市長ムサ| |>|リミゾル伯ピエール|>|>| |>|バス司教ポール|>|>| &ref(016アンティオキア十字軍.jpg,nolink); 9月26日、教皇ゲラシウス三世猊下はアンティオキアに対する十字軍を詔され、諸侯に集結を呼びかけた。 皇帝はエルサレムの直ぐ北のアンティオキアを領有されることに興味を示され、ノヴゴロド大公との戦時中ではあったがすぐさま参戦の詔をされた。 &ref(017スオミの乱.jpg,nolink); 11月1日、スオミ人が反乱を起こした。皇帝は十字軍のために徴兵した兵の一部をさし向け討たしめた。 &ref(018アンティオキア十字軍2.jpg,nolink); バフリ朝はティムール朝とも対立しており、主力は十字軍の前にティムール騎兵に殲滅されたため戦争は戦闘がなく占領が進んだ。 ''ブイッセラの戦い''5000VS4000 &ref(020アンティオキア十字軍3.jpg,nolink); 1381年3月15日、ティムールに敗北後体勢を立て直したバフリ朝は4000の軍をもって北上した。 ディートウィンの子が将軍の帝国軍3000はヴェネツィア共和国軍と共にブイッセラで迎え撃ちこれを撃破した。 &ref(021スオミ戦争2.jpg,nolink); 3月21日、スオミ人を誅した。 8月21日、ノヴゴロド大公はイングリア分領公国を帝国に割いて和を乞うた。 ''ボトロンの戦い''10000VS3000 &ref(022アンティオキア十字軍4.jpg,nolink); 6月23日、サラセン人が3000の軍をもって北上してきたところをイーレク王自ら指揮を執る10000の兵力で敵前上陸し、これを撃滅した。 &ref(023アンティオキア十字軍5.jpg,nolink); バイログリヴィン公爵トレがスルタン、サバアに一騎打ちを挑んで敗北したが、我が方もアル=ウルドゥン太守アライを討ち取った。 この頃になると各地の諸侯がアンティオキアにまいるようになり、戦勝点が急速にたまるようになった。 &ref(024ティムール死す.jpg,nolink); 8月27日、一代で大帝国を築きあげたティムールが没した。 ''ベルサフの戦い''20000VS8000 10月24日、9000のサラセン人をベルサフで捕捉した。 教皇猊下御自ら指揮される8000の軍が到着するとサラセン人はその威光に怖気づき壊走した。 &ref(025アンティオキア十字軍6.jpg,nolink); &ref(026アンティオキア十字軍7.jpg,nolink); 12月28日、アンティオキアが陥落し、バフリ朝スルタンのサバアは和を乞うた。 皇帝はアンティオキアの各地の伯爵に武に秀たデンマーク人を任じた。 &ref(027ティムールの汚さ.jpg,nolink); Misrはバフリ朝。ティムールは代替わりがあるとイベント兵が追加される鬼畜仕様 &ref(028続アンティオキア十字軍.jpg,nolink); 12月31日、コルシカの総督ヤコブが見え、アンティオキアの交易をジェノヴァ共和国からコルシカ共和国に変更すれば便宜を図る用意があると症状した。 公儀においては元帥ファラモンドがその意見に大いに賛同し、帝国はジェノヴァに対し全領において取引停止を通告した。 &ref(029続アンティオキア十字軍2.jpg,nolink); 1382年1月1日、東方正教系のアンティオキア総主教を追放し、カトリックの者を立てた。 &ref(030続アンティオキア十字軍3.jpg,nolink); 1月5日、教皇ゲラシウス3世はまたも叙任権を譲り渡すよう要求してきたが、 皇帝はこれを突っぱねた。 5月1日、ヘルシングラント公爵ニルスがアプロンドゥン公爵の権勢が強すぎると奏上し、一部所領の割譲を奏上したが、王は取り合わなかった。 &ref(031公爵策謀.jpg,nolink); ''カリカラの戦い''帝国軍2万VS共和国軍1万6千 &ref(032続アンティオキア十字軍4.jpg,nolink); 8月1日、ブルガリア領カリガラにて元帥ファラモンドの軍がジェノヴァ軍と交戦した。 帝国軍は数の優位を頼みに突撃をしたが、士気の高い共和国軍はまったく崩れず、 帝国軍の攻勢を面で受け、逆に押し返し始めた。 &ref(033続アンティオキア十字軍5.jpg,nolink); 8月29日、帝国軍は総崩れになり敗残兵は海上の舟に逃れた。 敗北の責任を取り大将ファラモンドは自刃した。 &ref(034続アンティオキア十字軍6.jpg,nolink); 帝国軍2万壊走、元帥自刃の報を受けた帝国大本営の諸官は激高し、仇討を叫んだ。 皇帝はこれを認可されすぐさま諸侯の兵1万5千を集め、後任の帝国元帥オディンサルル男爵セルモン自ら大将とし討たしめた。 ''オヴェクの戦い''1万7千VS1万1千 &ref(035続アンティオキア十字軍7.jpg,nolink); 1383年5月9日、オヴェクにおいて帝国・コルシカ両軍はジェノヴァと戦端を開いた。 両翼を帝国封臣、中央をコルシカ人が担当したが、 &ref(036続アンティオキア十字軍8.jpg,nolink); シナルカ伯爵はその戦闘の最中に稚拙な行動が目立ち、共和国軍に中央突破を許した。 両翼は数においては帝国軍が優位で、中央がもう少し持ちこたえることが出来れば戦闘の帰趨は変わったかもしれない。 6月3日に中央突破を許したのち、5日には左翼、8日には右翼が敗走し、帝国軍は壊滅た。 &ref(037続アンティオキア十字軍9.jpg,nolink); 6月11日、帝国派遣軍大将オディンサルル男爵が戦死した。。 6月16日、皇帝は領内におけるジェノヴァ共和国の利権をコルシカ共和国に移行させることは今後一切ないと宣言した。 &ref(038続アンティオキア十字軍10.jpg,nolink); この戦争はデンマーク王国再興以来初の敗北であり、帝国中枢に大きな衝撃を与えた。 &ref(039ハンザ戦争の提案.jpg,nolink); ハンブルク市長がハンザ同盟に対し戦を宣する事を奏上したが、領民は未だ先の戦争の傷が癒えないとして皇帝は許可しなかった。 *[[巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395>AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]] [#d78fc7ca]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻六 ヴァルデマ聖帝 [#q9cb5e47] &ref(000ヴァルデマ聖帝.jpg,nolink); ヴァルデマ帝は先帝オトの第二子である。 母はカルヴナ公爵ミハイル2世の娘ペンカである。 オト皇帝の崩御なされたのち、ブルガリアのカルヴァナからノルウェーのヴィングルマークに遷宮された。 ヴァルデマ帝は全ノルドの守護者であったが未だ幼少であるため、 皇帝の祖母イヴァナが摂政として、ヴァルデマ再興王の息子イーレクがデンマーク王として共同統治をおこなう形となった。 &ref(000摂政イヴァナ.jpg,nolink); &ref(000国王イーレク.jpg,nolink); 多民族国家と化したノルド帝国はその内部で軋轢も生んだ。 特に摂政兼密偵頭にして皇帝の祖母であるブルガリア人のイヴァナと、 侍従長にしてノルマン人のファラモンドは先帝の葬儀の時より険悪であった。 ファラモンドが先帝を偲び太刀を佩いて奉ると、イヴァナが突如嘲笑い出して、 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); まるで矢の刺さった雀のようだ と述べた。 イヴァナが諸臣を代表して表文を読み上げるときその手足が震えた。ファラモンドは、 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 鈴をつければ、よく鳴るだろう と言い返した。 &ref(001即位.jpg,nolink); 1370年5月28日、皇帝は臣下より全ノルドの皇帝として推挙された。 即位式には官吏諸臣のほかに諸国の勅使も参列し、若き皇帝の即位を祝賀した。 その中で神聖ローマ皇帝ヴァルデマ5世の勅使は以下のように奏上した。 神により加冠されし至尊なる尊厳者、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治する西方正帝、 ドイツ王、イタリア王、バイエルン公、オーストリア公、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯たるルードヴィヒより、 神により加冠されし至尊なる尊厳者、平和をもたらすローマの東方正帝、全ノルドの保護者にして最高統治者、 ノルウェー王、スウェーデン王、エルサレム王、エストラント公たるヴァルデマに啓す。恙無きや。 かつて尊公の父にして我が兄弟、オトはその慈悲深い大御心によって全てのノルドと聖地の守護者として帝位に就かれた。 その勢いを継がれた尊公の叡智はアイスランドからインドにまで聞こえ、威光と権威はまさしく皇帝の資質である。 尊公が東方正帝として、朕が西方正帝として、両ローマ帝国に、 誠実な近縁関係ならびに変わらぬ平和と友好の努力の習慣とが力を栄えるよう。 この表文を聞いたビザンツ皇帝ヨハネス5世の勅使は大いに怒り、 &ref(顔ビザンツ.jpg,nolink); 正当たるわがローマ帝国を差し置いて、フランク人とノルド人が結託して帝位を簒奪するというのか。 &ref(顔ビザンツ.jpg,nolink); 貴公らの姑息な行為は天に居ます主の知るところであろう。 これに対し、摂政イヴァナの答えて曰く、 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); テッサロニキ専制侯、汝は今やアジアを失陥しギリシアもほぼ失っている。 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); 今やかつてのエピロス専制侯国と同じであるではないか。 &ref(顔イヴァナ.jpg,nolink); その所領でなぜ皇帝と名乗ることが出来ようか。 勅使は専制侯呼ばわりされたことに憤激し、そのまま退席してしまった。 1371年1月1日、グズブランズダラーで農民が叛いた。 王はヴェスターゴトラント公爵アルンファストに7500の軍をもって討たしめた。 1371年9月28日、ビザンツ帝国はいよいよその権勢を傾け、皇帝ヨハネス5世は退位し自らをテッサロニキ専制侯と称した。 &ref(002廃位.jpg,nolink); 10月22日、ヴァルデマ再興王の王妃ビアトリクスが崩御された。 1372年1月21日、皇帝はヴィングルモルクにて宴を催した。 &ref(003いかん危ない危ない.jpg,nolink); 宴会の一幕。誘う方も誘う方だが四歳児についていく方もついていく方である 6月17日、皇帝は夏祭りを開かれた。 &ref(004摂政死す.jpg,nolink); 1374年4月18日、侍従長ファラモンドは摂政兼密偵頭のイヴァナを憎み、デンマーク王イーレク7世、オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世、宮廷長官(家令)サッカリア司教イーレクらとともに遂にイヴァナを弑するに至った。 皇帝はイヴァナの姿の見えないことをデンマーク国王イーレク7世に問うと、王は地に伏して皇帝に奏上された。 &ref(顔イーレク.jpg,nolink); イヴァナは国政を壟断し、皇家を滅ぼし、帝位を傾けんと欲していました。 &ref(顔イーレク.jpg,nolink); なぜ陛下を持ってイヴァナに変えれましょうか。 &ref(005新摂政.jpg,nolink); 太皇母摂政兼密偵頭宮イヴァナは崩御された。 摂政はファラモンド、密偵頭にはオーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世が任命された。 5月30日、摂政ファラモンドは宮廷長官(家令)サッカリア司教イーレクが要求するソロワ司教区をチュートン騎士団から取り戻すべく軍を起こした。 &ref(006チュートン戦争.jpg,nolink); 6月13日、イルビングで騎士団軍を破った。 1375年3月5日、チュートン騎士団は降伏し、ソロワを割譲した。 10月19日、テサロニカ専制侯イオアネスの長子、ヴァルデマ再興王の四女ソフィーイの夫であるアンドロニコスが戦死した。 彼女はそのままテサロニカ宮廷にとどまり、のちにアンドロニコスの弟ディオゲネスと再婚した。 &ref(010ソフィーイ.jpg,nolink); 父親とも愛人関係にある 1376年8月22日、皇帝はトランスヨルダンに対する聖戦を詔した。 摂政ファラモンドはほかのサラセン人が救援に駆けつけることを懸念していたが、 &ref(019金帳汗国の没落.jpg,nolink); 金帳汗国の可汗、イナンチャはその無様な戦歴からIll-Rulerなどと呼ばれている スンニ派の諸国はティムールに敗北を重ね、所領も威信も大きく減っていた。 トランスヨルダン太守は誰からも支援を受けられず、孤立無援のまま敗北した。 &ref(007ヨルダン戦争.jpg,nolink); 1376年9月12日、神聖ローマ皇帝ルードヴィヒ5世が崩御した。 先帝オトの姉、マルガレーテの夫にあたる。 ルードヴィヒ4世の長子として帝位を継ぎ、その所領をよく守った。 奸臣により一時帝位を追放されるも、その公正かつ慈悲深い性格により諸臣より推挙され帝位に返り咲いた。 &ref(040新皇帝.jpg,nolink); 長子コンラートがコンラート5世として即位した。 皇帝は勅使を遣し西方皇帝と追認した。 1378年8月27日、スウェーデンのアツンザラントがデンマーク文化化した。 &ref(008デンマーク文化の拡大.jpg,nolink); 1378年12月4日、御前会議において通常の議案のすべて裁可された後、 宰相アイスランド公スィモンは陛下の名代として摂政兼侍従長オゼルにこう申し上げた。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 汝の功績は天聴に達し、皇帝陛下は大いに満足された。男爵領を汝に賜られた。」 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 陛下の御高配におかれましては、恐悦至極に存じます」 宰相は話を続けた。 「また、男爵領の経営と侍従長、摂政の三つを兼務されるのは難しいであろうと陛下はご考慮された。 摂政職を解任し、新たにオーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世密偵頭を摂政に任じる」 ファラモンド、これに大いに驚きて &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); なんと仰せられた。臣は君側の奸を取り除いた功はあれど、皇帝陛下と国家に長らく尽くしてきたではないか。 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 次に摂政となるという密偵頭は、公爵領を賜っておられる。なぜ臣が三職を兼務できないというのか。 &ref(顔ファラモンド.jpg,nolink); 第一、陛下が取り決められたというが、陛下は一言ものたまわれておられない。幼少の天子を頂いて国政を専横するにも度があるではないか」 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 待たれよ、男爵、いま臣らが陛下を蔑ろにして国政を専横していると申されたが、此度の決断はすべて陛下の行われたことである。幼少の天子とは何事か」 ファラモンドは言い返すことが出来ず、男爵領を賜ると同時に摂政職を辞した。 密偵頭オーゼル=ヴィク公ヴァルデマ2世が摂政に就いた。 &ref(009新摂政.jpg,nolink); 12月5日、顛末を知った皇帝はファラモンドを憐み帝国元帥に任じ、イルムラント伯領を賜った。 デンマーク王イーレク7世とハンガリー女王アデリンデの間にはアデリンデが30になっても女子しか生まれず、ハンガリー王にエストリゼン家に継承させるという再興王の目論見は崩れかけていた。 1379年1月1日、イーレク7世はウトランデ総督夫人ビルントニスの出産した子を自身の子であると認知した。 &ref(011庶子誕生.jpg,nolink); この時、イーレク27歳 &ref(012庶子誕生2.jpg,nolink); 総督は反発している &ref(013もはや権威はうなぎのぼり.jpg,nolink); 1380年1月1日、新年の公儀において宰相スィモンはカトリック教会の権威は開闢以来の値を記録し、他の異教・異端の類を大きく突き放したと奏上した。 1月16日、皇帝は国庫金の不足を怪しみ、摂政兼密偵頭ヴァルデマを疑った。 1月27日、ヴァルデマ再興王の三女イリザベトが肺炎のため薨去した。35歳であった。 イリザベトはイングランド王ギルバートの王妃となり二男二女を設けた。 5月16日、またしても国庫の金の不足を知った皇帝はヴァルデマによる物であると確信したが、密偵頭の今までの功績に鑑み任用し続けた。 &ref(014代を経るごとに劣化する摂政.jpg,nolink); 5月19日、皇帝はノヴゴロド大公領のイングリア分領公国(udelnoe knyazhestvo ゲームでは伯爵領に相当)を奪還すべく詔された。 &ref(015イングリア戦争.jpg,nolink); ヴァルデマ皇帝は慈悲に満ちた方であらせられる |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''アンティオキア十字軍''| |>|>|>|年月日:1380年9月26日-1381年12月26日| |>|>|>|結果:アンティオキアの帝国領編入| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラセン人''| |ノルド帝国|36000|バフリ朝|27000| |イングランド王国|34000|          |16000| |ポーランド王国|16000|>|-| |教皇庁|15000|>|-| |アルバ王国|12000|>|-| |マツォウヅェ公国|4000|>|-| |キプロス公国|4000|>|-| |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''将軍''| |>|教皇ゲラシウス3世|>|"スルタン"サバア| |>|デンマーク王イーレク7世|>|アルウッドゥーン太守アライ| |>|イルムラント伯ファラモンド|>|アラン騎士団長バズク| |>|コポリェ伯カルル|>|マンスラ市長ムサ| |>|リミゾル伯ピエール|>|>| |>|バス司教ポール|>|>| &ref(016アンティオキア十字軍.jpg,nolink); 9月26日、教皇ゲラシウス三世猊下はアンティオキアに対する十字軍を詔され、諸侯に集結を呼びかけた。 皇帝はエルサレムの直ぐ北のアンティオキアを領有されることに興味を示され、ノヴゴロド大公との戦時中ではあったがすぐさま参戦の詔をされた。 &ref(017スオミの乱.jpg,nolink); 11月1日、スオミ人が反乱を起こした。皇帝は十字軍のために徴兵した兵の一部をさし向け討たしめた。 &ref(018アンティオキア十字軍2.jpg,nolink); バフリ朝はティムール朝とも対立しており、主力は十字軍の前にティムール騎兵に殲滅されたため戦争は戦闘がなく占領が進んだ。 ''ブイッセラの戦い''5000VS4000 &ref(020アンティオキア十字軍3.jpg,nolink); 1381年3月15日、ティムールに敗北後体勢を立て直したバフリ朝は4000の軍をもって北上した。 ディートウィンの子が将軍の帝国軍3000はヴェネツィア共和国軍と共にブイッセラで迎え撃ちこれを撃破した。 &ref(021スオミ戦争2.jpg,nolink); 3月21日、スオミ人を誅した。 8月21日、ノヴゴロド大公はイングリア分領公国を帝国に割いて和を乞うた。 ''ボトロンの戦い''10000VS3000 &ref(022アンティオキア十字軍4.jpg,nolink); 6月23日、サラセン人が3000の軍をもって北上してきたところをイーレク王自ら指揮を執る10000の兵力で敵前上陸し、これを撃滅した。 &ref(023アンティオキア十字軍5.jpg,nolink); バイログリヴィン公爵トレがスルタン、サバアに一騎打ちを挑んで敗北したが、我が方もアル=ウルドゥン太守アライを討ち取った。 この頃になると各地の諸侯がアンティオキアにまいるようになり、戦勝点が急速にたまるようになった。 &ref(024ティムール死す.jpg,nolink); 8月27日、一代で大帝国を築きあげたティムールが没した。 ''ベルサフの戦い''20000VS8000 10月24日、9000のサラセン人をベルサフで捕捉した。 教皇猊下御自ら指揮される8000の軍が到着するとサラセン人はその威光に怖気づき壊走した。 &ref(025アンティオキア十字軍6.jpg,nolink); &ref(026アンティオキア十字軍7.jpg,nolink); 12月28日、アンティオキアが陥落し、バフリ朝スルタンのサバアは和を乞うた。 皇帝はアンティオキアの各地の伯爵に武に秀たデンマーク人を任じた。 &ref(027ティムールの汚さ.jpg,nolink); Misrはバフリ朝。ティムールは代替わりがあるとイベント兵が追加される鬼畜仕様 &ref(028続アンティオキア十字軍.jpg,nolink); 12月31日、コルシカの総督ヤコブが見え、アンティオキアの交易をジェノヴァ共和国からコルシカ共和国に変更すれば便宜を図る用意があると症状した。 公儀においては元帥ファラモンドがその意見に大いに賛同し、帝国はジェノヴァに対し全領において取引停止を通告した。 &ref(029続アンティオキア十字軍2.jpg,nolink); 1382年1月1日、東方正教系のアンティオキア総主教を追放し、カトリックの者を立てた。 &ref(030続アンティオキア十字軍3.jpg,nolink); 1月5日、教皇ゲラシウス3世はまたも叙任権を譲り渡すよう要求してきたが、 皇帝はこれを突っぱねた。 5月1日、ヘルシングラント公爵ニルスがアプロンドゥン公爵の権勢が強すぎると奏上し、一部所領の割譲を奏上したが、王は取り合わなかった。 &ref(031公爵策謀.jpg,nolink); ''カリカラの戦い''帝国軍2万VS共和国軍1万6千 &ref(032続アンティオキア十字軍4.jpg,nolink); 8月1日、ブルガリア領カリガラにて元帥ファラモンドの軍がジェノヴァ軍と交戦した。 帝国軍は数の優位を頼みに突撃をしたが、士気の高い共和国軍はまったく崩れず、 帝国軍の攻勢を面で受け、逆に押し返し始めた。 &ref(033続アンティオキア十字軍5.jpg,nolink); 8月29日、帝国軍は総崩れになり敗残兵は海上の舟に逃れた。 敗北の責任を取り大将ファラモンドは自刃した。 &ref(034続アンティオキア十字軍6.jpg,nolink); 帝国軍2万壊走、元帥自刃の報を受けた帝国大本営の諸官は激高し、仇討を叫んだ。 皇帝はこれを認可されすぐさま諸侯の兵1万5千を集め、後任の帝国元帥オディンサルル男爵セルモン自ら大将とし討たしめた。 ''オヴェクの戦い''1万7千VS1万1千 &ref(035続アンティオキア十字軍7.jpg,nolink); 1383年5月9日、オヴェクにおいて帝国・コルシカ両軍はジェノヴァと戦端を開いた。 両翼を帝国封臣、中央をコルシカ人が担当したが、 &ref(036続アンティオキア十字軍8.jpg,nolink); シナルカ伯爵はその戦闘の最中に稚拙な行動が目立ち、共和国軍に中央突破を許した。 両翼は数においては帝国軍が優位で、中央がもう少し持ちこたえることが出来れば戦闘の帰趨は変わったかもしれない。 6月3日に中央突破を許したのち、5日には左翼、8日には右翼が敗走し、帝国軍は壊滅た。 &ref(037続アンティオキア十字軍9.jpg,nolink); 6月11日、帝国派遣軍大将オディンサルル男爵が戦死した。。 6月16日、皇帝は領内におけるジェノヴァ共和国の利権をコルシカ共和国に移行させることは今後一切ないと宣言した。 &ref(038続アンティオキア十字軍10.jpg,nolink); この戦争はデンマーク王国再興以来初の敗北であり、帝国中枢に大きな衝撃を与えた。 &ref(039ハンザ戦争の提案.jpg,nolink); ハンブルク市長がハンザ同盟に対し戦を宣する事を奏上したが、領民は未だ先の戦争の傷が癒えないとして皇帝は許可しなかった。 *[[巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395>AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]] [#d78fc7ca]
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