AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァルデマ聖帝 1396~1407
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巻八 ヴァルデマ聖帝 1396~1407
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻八 ヴァルデマ聖帝 [#z6ad4461] 1396年1月1日、皇帝は教会分裂修復を祝い宴を催した。 &ref(005評議会議員.jpg,nolink); この頃の帝国の顧問団 1396年2月27日、皇帝は詔し、シチリア・ジハードに参戦するとともに、チュートン騎士団からプロイセンを強奪した異端のリトアニアを討伐すべく軍を進めた。 5月29日、ウィツグロドの戦いでリトアニア軍を破り、せむしのミンスク公ヨヴァラスを捕えた。 6月7日、先の戦闘で敗走したリトアニア軍を追撃し、カルシュヴァで交戦した。 皇帝は、敵の将軍が父の代まで異教に帰依していたことを御高聴され、嘆息して &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 異教のままであるか、全き道を歩んでいれば刃を交えることもなかっただろう。 とのたまわれた。 &ref(001異教と異端.jpg,nolink); 左が父、右が息子 8月29日、サラセン人の一団6千がオリエントからコンスタンティノポリスに襲来した。 帝国近衛軍2千がこれに応戦したが、敗北した。 サラセン人は近隣の田畑を荒らして食料を収奪すると、コンスタンティノポリスを素通りした。 &ref(002サラセン人来る.jpg,nolink); リトアニアにかまけてたら完全にやっちまった感がある光景 9月10日、ヴァルデマ再興王の長女マグダレーネが薨去した。58歳であった。 成人後、スウェーデンとノルウェーの王であったマグヌスの弟ハーコンと結婚するも先立たれ、子はいなかった。 後にポーランド王子カジミエルツと再婚し一男一女を生んだが、夫は戦死、息子はポーランド王に投獄され獄中死、娘にも病疫で先立たれ、孫の宮廷で息を引き取ったという。 これで再興王の存命の子はデンマーク王イーレク7世のみとなった。 9月27日、サラセン人の一団をテッサロニキ専制公領内で再発見した。 皇帝は追撃軍8千に追撃を命じたが、兵力の集結に手間取り会敵できなかった。 &ref(003サラセン人来る2.jpg,nolink); 10月15日、サラセン人たちがドゥブロヴニク王領に侵入した。 11月19日、サラセン人たちはドゥブロヴニク王領を抜け、セルビアに至った。 皇帝は追撃をとりやめた。 12月24日、異端リトアニアからプロイセンを奪還した。 &ref(004サラセン人来る3.jpg,nolink); 1397年6月17日、ジェノヴァ共和国軍とシチリア王国軍がサラセン人の一団を捕捉し、これを破った。 1398年1月9日、皇帝はドゥブロヴニクとセルビアの合一を宣言し、御自ら指揮をとられてセルビアへ軍をすすめられた。 1月27日、皇帝の娘、ヘレナが薨去した。0歳であった。 &ref(006セルビア戦争.jpg,nolink); 2月25日、マグリクにおいて5千のセルビア軍と交戦した。 &ref(007セルビア戦争2.jpg,nolink); 3月10日、皇帝はセルビア王の近習にして敵右翼指揮官のプルヴォアフに一騎打ちを挑まれた。 &ref(顔敵.jpg,nolink); 遠からん者は耳にこそ聞け、近き者は目にも見よ。我こそはセルビア王ポリンの直臣、プルヴォアフ也。 &ref(顔敵.jpg,nolink); 権勢を笠に着て我が祖地を荒らす非道の者を征伐するためにここに参った。いざ、尋常に勝負されよ。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕は神の恩寵を賜りしノルドの皇帝にして、八紘一の丈夫と名高いオトの子である。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); その朕に対し挑むとは軽慮浅謀の極み。汝の愚考を地獄で省みよ。 皇帝はこれを受け入れた。 皇帝は1合目でプルヴォアフの左腕を切り落とし、2合目でその首を刎ねた。 &ref(008セルビア戦争3.jpg,nolink); &ref(009セルビア戦争4.jpg,nolink); セルビア軍は大いに動揺し、撃破を時間の問題だと考えられた皇帝はスコピエに下がられた。 &ref(010セルビア戦争5.jpg,nolink); 3月20日、中央を支えていたトルトサ伯爵レインベルンが壊走した。 3月29日、帝国軍は敗走した。 スコピエに下がっていた皇帝は帝国元帥からその報せを聞き、大いに驚かれた。 元帥の奏上するに、 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 皇帝陛下御自ら出撃され、兵卒らと共に戦い敵を討たれたというのに、その功を失せるほどの大敗を喫した事を臣ら一同は深く恥じ、どのような厳罰でも受ける覚悟があります。 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 中でもトルトサ伯は自らの指揮の稚拙を恥じ、今や陛下に合わせる顔もなくただ死を望んでおります。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕はかつて敗戦の度にイルムラント伯爵、オディンサルル男爵を立て続けに失った。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); ここでまたトルトサ伯爵や汝を失うようなことがあれば、朕は誰に兵を頼めばよいのだろうか。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝らはいたずらに命をなげうつことなく、王家に世々侍うように、汝らに強く命ずる。 &ref(012金帳汗国の崩壊.jpg,nolink); 3月31日、金帳汗のイナンチャは全ての所領を差し出してティムールの軍門に下り、 ティムールの一封臣となった。 9月19日、プロシア等から徴兵された第二陣がセルビアに迫った。 &ref(034アデリンデ.jpg,nolink); 11月6日、デンマーク王イーレク7世の王妃にしてマジャール女王のアデリンデが崩御した。 アデリンデはthe accursed、"呪われた"アデリンデと呼ばれ、臣下からの評判は芳しくなかった。 長子グレーテが王位を継いだ。 11月7日、ズィカにセルビアと同盟を結ぶブルガリア王国軍5千が襲来した。 デンマーク王イーレク7世がこれを迎撃し、ブルガリア王子スヴェティラフを捕虜にした。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第二次ティムール戦役''| |>|>|>|年月日:1398年11月16日-1400年3月18日| |>|>|>|結果:アル=ジャリル地方の失陥| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''キリスト教徒''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''ティムール陣営''| |ノルド帝国|74000|ティムール朝          |127000| |テッサロニキ専制侯国|6500||-| |マジャール王国|0|>|-| |ワラキア王国|0|>|-| |ポーランド王国|0|>|-| |アルバ王国|0|>|-| |ノヴゴロド大公国|0|>|-| |キリキア・アルメニア公国|0|>|-| |ポモルスク公国|0|>|-| |>|>|>|将軍| |>|ヴァルデマ聖帝|>|"可汗"ナクフ| |>|デンマーク王イーレク7世|>|マクラン太守トグトガ| |>|コポリェ伯カルル|>|アティル太守イェスゲイ| ※戦場に到達していない軍は計上していない &ref(011ティムール来る.jpg,nolink); 11月16日、騎馬民族の皇帝、ティムールの子ナクフが使者を遣した。 &ref(顔ティムール.jpg,nolink); 幸運な二つの星が交わるとき生まれた支配者ティムールの子、ナクフがノルド人の皇帝たるヴァルデマに申しわたす。 &ref(顔ティムール.jpg,nolink); 汝はノルド人の皇帝であるから、アラブ人の土地を持つべきではない。 &ref(顔ティムール.jpg,nolink); 正当なる皇帝である朕、ナクフに速やかに譲られるように。 皇帝はこれを拒否し、すべての封臣に出兵させ、さらに聖ヨハネ騎士団とサンティアゴ騎士団も招聘した。第二次ティムール戦役の始まりである。 12月1日、マジャール女王グレーテ、ワラキア王ガヴリ、キリキア・アルメニア侯アトルネルセフが皇帝の側に立って参戦した。 12月4日、ノヴゴロド大公イングヴァル賢公が参戦した。 12月14日、アルバ王アイリル大王が参戦した。 12月26日、ポモルスク公ヴラティスラフ3世が参戦した。 1399年3月14日、ポーランド王マツラヴが参戦した。 3月18日、黒海に展開した帝国軍ガレー船が、騎馬兵12万がコーカサスを南下中と報告してきた。 &ref(013ティムール来る.jpg,nolink); ティムール軍は10万人いても補給制限を受けない。どこまでも卑怯な連中である 7月18日、皇帝の公妾であったマグダレーネが薨去した。40歳であった。聡明であり、話術と機智に富んだ。 皇帝との間に一児イリザベトを設けたが、イリザベトは7歳で両親より先に薨去した。 &ref(014公妾薨去.jpg,nolink); 8月7日、帝国軍がヒムスを落とした。 戦勝点13点に達し、皇帝は慈悲深く双方の主力が衝突し多くの血が流れる前に和平を提案したが、 ナクフはその残忍な性格と卑しい心持により拒否した。 &ref(015停戦.jpg,nolink); 9月8日、メシュタイェにおいて帝国軍6万がティムール軍11万と衝突した。 9月24日、この日デンマーク王イーレクの左翼軍は大いに奮戦し、一日で千人を屠った。 &ref(016激戦.jpg,nolink); 10月25日、帝国軍はメシュタイェから退却した。 11月15日、メシュタイェから退却した帝国軍はスィドンで追撃を受けた。 11月17日、シチリアへのジハードの失敗をカリフ、アフマド2世が宣言し、サラセン人たちがアフリカに引き上げた。 1400年1月21日、テッサロニキ専制侯ディオゲネスがティムールの専横に憤り参戦した。 2月2日、神聖ローマ皇帝ルートベルトが参戦した、 3月4日、テッサロニキ専制侯は6500の兵力を揚陸したが、もはや敗北は明らかであった。 &ref(017遅いよ.jpg,nolink); 3月17日、皇帝はアル=ジャリル地方の統治権をナクフに譲った。 &ref(018敗戦.jpg,nolink); 3月18日、宰相スィモンは今回の戦役において教皇庁がなんら支援をしなかったことを訝しみ、奏上した。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); この度のティムールとの戦役は、多くのキリスト者の加勢を受けることが出来ましたが、教皇フェリクス4世は何もせず、ただ傍観するばかりでした。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); かつてコノン2世教皇の御世、サラセン人のジハードを受けた際にはコノン2世は我が国に資金を提供して下さりました。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); それに比べ、今の教皇は皇帝陛下の御力添えがあってこそ即位されたのに、その恩に報いる気が全くなく、著しく教皇としての自覚に欠けるところがあるでしょう。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 今こそ、対立教皇を擁立してローマを手中に収め、より従順な人物を立てるべきではないでしょうか。 皇帝の答えるに、 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝の奏上は尤もである。だが、フェリクスはコノン2世以来の北欧出身の教皇だ。朕はこの者を排除する気が起きない。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 対立教皇を立てる機会はこれからもあるだろうし、なにもそう急ぐべきでもないだろう。 とのたまわれた。 &ref(019教皇.jpg,nolink); のちにこの決定を悔やむことになる &ref(020兵力.jpg,nolink); 3月29日、帝国元帥コポリェ伯カルルが第二次ティムール戦役の戦果について奏上し、ティムールの騎射兵およそ2万を殺したと奏上した。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); しかし、未だティムールの兵の方が多い。かの騎射兵は精悍で、我が方の将兵は奴らに近づくこともできない。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); さらに、我が国はノルドとオリエントに分かれており、ノルドの兵とオリエントの兵が各個撃破されやすい。オリエントの統治は諦め、ノルドのみを治めた方が良いのだろうか。 &ref(帝国オリエント領.jpg,nolink); 外祖父からの継承でブルガリアの大部分を、十字軍でエルサレムとアンティオキア、聖戦でアレクサンドリア、臣下の請求権行使でコンスタンティノポリスとドゥブロヴニクを得た 皇帝がそうのたまわれると、隣に居られた皇后が仰せられた。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); 畏れながら、皇帝陛下は今や権威も兵力も他の諸侯から一等地を抜き、ローマ皇帝として全てのキリスト者らを導く立場にあらせられます。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); さらに、陛下はその叡智により東西の教会分裂を合一され、今や陛下無くして教会は成り立ちません。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); ここで陛下が弱気になられ、聖地を放棄するような事をされれば、全地のキリスト者は誰を頼りに生きていけばよいのでしょうか。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); また、先に申し上げましたように、今やティムールに対抗できる方は陛下以外にはおられません。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); オリエントを放棄しても、それは問題の先送りにしかすぎず、そのうちノルドのみの弱くなった帝国でティムールに立ち向かわなければいけないでしょう。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); 陛下はローマ皇帝として他のキリスト教諸侯を保護する権利と義務があります。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); すみやかにセルビアを併合なされ、キリスト教諸侯をティムールより先に保護し、国力を増強なさいませ。 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 皇后陛下の仰せられるとおりです。ティムールを倒すのは皇帝陛下の他に居りません。 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 臣らは国家と陛下のために身を粉にして奉職いたします。どうか異教打倒のために手を尽くされてください。 皇帝は皇后と元帥の奏上を聞き入れられ、また、次のティムールの襲来に備えて諸侯と同盟を結ぶべく 第二皇女ビアギタをシチリア王太子オジェと、第三皇女アスタをレオン王太子ゴンザロと、皇太子オトをポーランド王女ヤドヴィガと婚約させた。 &ref(021合一.jpg,nolink); 1401年7月8日、皇帝はセルビアを平定しドゥブロヴニク王ヴカスィンはセルビア王を兼ねた。 12月5日、皇帝は教皇フェリクス4世に親書を送られた。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 神の恩寵による全ノルドの保護者、ローマの皇帝にして、コンスタンティノポリスの守護者たるヴァルデマは、聖地防衛のために身を粉にして働き、エルサレムを御祖から受け継ぎ、 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); サラセン人の地であったアンティオキアとアレクサンドリアを取戻し、果てにはコンスタンティノポリスさえも治め、東方にも全き教えを広めるのに尽くしてまいりました。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); それであるのに、教皇猊下はローマから一歩も動かず、全ての物を飲み込もうとする騎兵の束が迫っても一兵も出さず、一銭も出さず、結果として御祖の土地を失うこととなりました。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); もし猊下に人の心がお有りであれば、どうか所領を失った諸侯と戦死した兵士への弔問金を肩代わりしていただけますよう。 12月25日、フェリクス4世から返書が届いた。 &ref(顔フェリクス.jpg,nolink); 偉大なローマの皇帝陛下のご考慮により今の教会があることは疑いようもなく、私が病に臥せっていたためにティムールに対し何もできなかったことは痛切の極みです。 &ref(顔フェリクス.jpg,nolink); 陛下と陛下の諸臣におかせられましては、今更ながらわずかばかりの金を送らせていただきます。 &ref(顔フェリクス.jpg,nolink); どうか皇帝陛下と私の間に一層の親密がありますよう願います。 &ref(022金.jpg,nolink); 皇帝は教皇が450グルデンを献じたため満足され、対立教皇を立てなかった。 その代わり、この後から度々教皇に上納を求めるようになった。 1402年3月5日、マジャール女王グレーテから勅使が参り、上表した。 &ref(023参戦要請.jpg,nolink); &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 慈悲に満ちた最も聡明なるローマの皇帝陛下、臣グレーテがマルケの総督カミロの非道を奏上いたします。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); カミロはその地位を利用してアドリア海の交易を不当に支配し、その利益をすべて彼と彼の取り巻きに分け与え民に分け与えることをしません。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 臣はカミロを排するべく兵を起こしましたが、どうか陛下の深い御慈悲によりカミロの征伐にお力添えをいただけないでしょうか。 皇帝は快諾し、兵力8千をもってマルケに上陸した。 &ref(024参戦.jpg,nolink); 11月22日、総督カミロはマジャール王国内における交易を諦める旨を申し出て、和議を乞うた。 1月9日、マジャール女王グレーテから勅使が参り、上表した。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 慈悲に満ちた最も聡明なるローマの皇帝陛下、臣グレーテが奏上いたします。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 我が国は皇帝陛下の慈悲に満ちた御働きにより、マルケ総督カミロの野望を挫き平穏を取り戻したのですが、 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); カミロの下で不当に利益に預かっていた公爵やそのものに付き従う賊徒らが臣に叛意を示し、国内が多いに揺らいでおります。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 公爵らが万が一勝利し、またしてもアドリア海の利権をカミロらが握るようなことがあれば、それは皇帝陛下のなされた功績に泥を塗る行為でありましょう。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); どうか公爵どもを討ち果たすためにも、していただけないでしょうか。 皇帝はこれを許可し、7千の征伐軍を編成した。 征伐軍の将軍を決める際になってトルトサ伯爵レインベルンが奏上し、 &ref(顔トルトサ伯.jpg,nolink); 臣は先のセルビア戦争での不明を長らく恥じて生きてまいりました。 &ref(顔トルトサ伯.jpg,nolink); 願わくば、この度の戦の将軍を任され、名誉を回復する機会を下さらないでしょうか。 皇帝はトルトサ伯の奏上を聞き入れ、伯を大将とした。 &ref(026マジャル.jpg,nolink); 主の受肉より1403年2月15日、第203代教皇フェリクス4世が崩御した。61歳であった。 非常に怠惰的で、自らは何もせず、ティムールの侵略にも無関心であり、教皇としての資質を疑う声も多かったが、 皇帝からの金銭の催促にはすぐ応じたので皇帝はこの者を廃することがなかった。 204代教皇にはアレラミシ家のイザーコがヨハネス23世として即位した。 この者の即位には皇帝の後援があった。 &ref(025教皇.jpg,nolink); 4月4日、マジャールの反乱は今やほとんど鎮められようとしていた。 皇帝はマジャール女王グレーテに親書を送られた。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 全ノルド人の皇帝、エルサレムとアンティオキアの王たるヴァルデマがマジャール女王グレーテに申し告げる。恙無きや。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝は朕と同じくエストリズセン家であるが、汝はスドレイム家の者と婚姻したためこのままではマジャールの王朝がまた変わることとなる。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝の長男シグルドと朕の娘、カロリーネとを母系結婚をさせ、我らが御親の名を受け継がせるべきではないだろうか。 4月23日、グレーテからの勅使が参り、上表した。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 慈悲に満ちた最も聡明なるローマの皇帝陛下、臣グレーテが奏上いたします。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 皇帝陛下の恩寵は臣の心にも沁み渡り、まさしく天にも昇る気持ちです。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 臣は父から受け継いだこの家名を後代に伝えたいと長らく思っておりました。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 皇帝陛下の御高配により、マジャールに我が家名が長く続くことができとてもありがたく思います。 8月27日、イングランド王ギルバートは教皇ヨハネス23世の帝国と親しいことを恨み、レディングの司教をロマヌス2世対立教皇として立てた。 ギルバートは教皇庁の権威失墜を目論んだが、教皇の誠実な人柄によりほかの諸侯は誰も追従せず、教皇庁は変わらず敬慕された。 &ref(027対立教皇.jpg,nolink); 帝国内の僧侶たちすら30年以上治めている皇帝より即位半年の教皇の方を慕った 1404年8月15日、南キプロスで異端を信奉する一団を改宗させるべく、十字軍を宣言した。 &ref(028南キプロス十字軍.jpg,nolink); 11月11日、キトロイでトルトサ伯率いる帝国軍4千が異端軍千を破った。 異端軍は王自ら出陣していたが、帝国軍の敵ではなかった。 12月15日、南キプロスは全き信仰に帰した。 1405年3月26日、イングリアの公ハンスが公領内のすべての土地を公の下に治めることを願い奏上した。 皇帝はイングリア公領内の帝室領の国家経営における前線基地としての重要性を述べ、公を納得させて返した。 &ref(029ハンスエエグ.jpg,nolink); イーイ家は代々武門に秀で、一族は多くの土地を賜った 5月7日、例年になく雨が降り、皇帝は民衆の心配をされた。 &ref(030長雨.jpg,nolink); 1406年2月5日、皇帝は免罪符を買われた。 6月28日、プロイセンのポゲサニア伯領がデンマーク文化になった。 &ref(031宰相薨去.jpg,nolink); 9月23日、宰相アイスランド公スィモンが薨去した。60歳であった。 スィモン・カシュマツはスコーネ大司教ペーザに仕えたユダヤ人の子で、その才を見抜いたオト一世により宰相に抜擢された。 爵位はハーススル伯爵、のちにアイスランド公爵に昇った。オト一世の崩御後、ヴァルデマ聖帝の幼年期の教育係となり、皇帝の人となりに大いに影響を与えた。 宰相として長年あり、諸侯との執成しに非常に功があった。晩年はハーススル伯領をデンマーク王イーレク7世に奪われるなど恵まれなかったが、皇帝は彼を案じ侍従長とした。 公位は長子クレスチャンが継ぎ、宰相はエストラント公ゴトフリドが就いた。 &ref(032宰相薨去2.jpg,nolink); クレスチャンは父と違い財務に長じた 10月1日、スリースヴィ公ヴァルデマ5世の長男の長男ヘンレクとバグラチオン家のタプロの間にに長子ホルガが生まれた。 10月5日、皇后グレミスラヴァが双子を出生した。ベネディクデとグレーテと名付けられたが、そのうちグレーテは先天的に白痴であった。 &ref(033出生.jpg,nolink); 12月10日、アイスランド公クレスチャンが薨去した。33歳、不審死であった。 *[[巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416>AAR/デンマーク年代記/巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416]] [#d78fc7ca]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻八 ヴァルデマ聖帝 [#z6ad4461] 1396年1月1日、皇帝は教会分裂修復を祝い宴を催した。 &ref(005評議会議員.jpg,nolink); この頃の帝国の顧問団 1396年2月27日、皇帝は詔し、シチリア・ジハードに参戦するとともに、チュートン騎士団からプロイセンを強奪した異端のリトアニアを討伐すべく軍を進めた。 5月29日、ウィツグロドの戦いでリトアニア軍を破り、せむしのミンスク公ヨヴァラスを捕えた。 6月7日、先の戦闘で敗走したリトアニア軍を追撃し、カルシュヴァで交戦した。 皇帝は、敵の将軍が父の代まで異教に帰依していたことを御高聴され、嘆息して &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 異教のままであるか、全き道を歩んでいれば刃を交えることもなかっただろう。 とのたまわれた。 &ref(001異教と異端.jpg,nolink); 左が父、右が息子 8月29日、サラセン人の一団6千がオリエントからコンスタンティノポリスに襲来した。 帝国近衛軍2千がこれに応戦したが、敗北した。 サラセン人は近隣の田畑を荒らして食料を収奪すると、コンスタンティノポリスを素通りした。 &ref(002サラセン人来る.jpg,nolink); リトアニアにかまけてたら完全にやっちまった感がある光景 9月10日、ヴァルデマ再興王の長女マグダレーネが薨去した。58歳であった。 成人後、スウェーデンとノルウェーの王であったマグヌスの弟ハーコンと結婚するも先立たれ、子はいなかった。 後にポーランド王子カジミエルツと再婚し一男一女を生んだが、夫は戦死、息子はポーランド王に投獄され獄中死、娘にも病疫で先立たれ、孫の宮廷で息を引き取ったという。 これで再興王の存命の子はデンマーク王イーレク7世のみとなった。 9月27日、サラセン人の一団をテッサロニキ専制公領内で再発見した。 皇帝は追撃軍8千に追撃を命じたが、兵力の集結に手間取り会敵できなかった。 &ref(003サラセン人来る2.jpg,nolink); 10月15日、サラセン人たちがドゥブロヴニク王領に侵入した。 11月19日、サラセン人たちはドゥブロヴニク王領を抜け、セルビアに至った。 皇帝は追撃をとりやめた。 12月24日、異端リトアニアからプロイセンを奪還した。 &ref(004サラセン人来る3.jpg,nolink); 1397年6月17日、ジェノヴァ共和国軍とシチリア王国軍がサラセン人の一団を捕捉し、これを破った。 1398年1月9日、皇帝はドゥブロヴニクとセルビアの合一を宣言し、御自ら指揮をとられてセルビアへ軍をすすめられた。 1月27日、皇帝の娘、ヘレナが薨去した。0歳であった。 &ref(006セルビア戦争.jpg,nolink); 2月25日、マグリクにおいて5千のセルビア軍と交戦した。 &ref(007セルビア戦争2.jpg,nolink); 3月10日、皇帝はセルビア王の近習にして敵右翼指揮官のプルヴォアフに一騎打ちを挑まれた。 &ref(顔敵.jpg,nolink); 遠からん者は耳にこそ聞け、近き者は目にも見よ。我こそはセルビア王ポリンの直臣、プルヴォアフ也。 &ref(顔敵.jpg,nolink); 権勢を笠に着て我が祖地を荒らす非道の者を征伐するためにここに参った。いざ、尋常に勝負されよ。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕は神の恩寵を賜りしノルドの皇帝にして、八紘一の丈夫と名高いオトの子である。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); その朕に対し挑むとは軽慮浅謀の極み。汝の愚考を地獄で省みよ。 皇帝はこれを受け入れた。 皇帝は1合目でプルヴォアフの左腕を切り落とし、2合目でその首を刎ねた。 &ref(008セルビア戦争3.jpg,nolink); &ref(009セルビア戦争4.jpg,nolink); セルビア軍は大いに動揺し、撃破を時間の問題だと考えられた皇帝はスコピエに下がられた。 &ref(010セルビア戦争5.jpg,nolink); 3月20日、中央を支えていたトルトサ伯爵レインベルンが壊走した。 3月29日、帝国軍は敗走した。 スコピエに下がっていた皇帝は帝国元帥からその報せを聞き、大いに驚かれた。 元帥の奏上するに、 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 皇帝陛下御自ら出撃され、兵卒らと共に戦い敵を討たれたというのに、その功を失せるほどの大敗を喫した事を臣ら一同は深く恥じ、どのような厳罰でも受ける覚悟があります。 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 中でもトルトサ伯は自らの指揮の稚拙を恥じ、今や陛下に合わせる顔もなくただ死を望んでおります。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 朕はかつて敗戦の度にイルムラント伯爵、オディンサルル男爵を立て続けに失った。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); ここでまたトルトサ伯爵や汝を失うようなことがあれば、朕は誰に兵を頼めばよいのだろうか。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝らはいたずらに命をなげうつことなく、王家に世々侍うように、汝らに強く命ずる。 &ref(012金帳汗国の崩壊.jpg,nolink); 3月31日、金帳汗のイナンチャは全ての所領を差し出してティムールの軍門に下り、 ティムールの一封臣となった。 9月19日、プロシア等から徴兵された第二陣がセルビアに迫った。 &ref(034アデリンデ.jpg,nolink); 11月6日、デンマーク王イーレク7世の王妃にしてマジャール女王のアデリンデが崩御した。 アデリンデはthe accursed、"呪われた"アデリンデと呼ばれ、臣下からの評判は芳しくなかった。 長子グレーテが王位を継いだ。 11月7日、ズィカにセルビアと同盟を結ぶブルガリア王国軍5千が襲来した。 デンマーク王イーレク7世がこれを迎撃し、ブルガリア王子スヴェティラフを捕虜にした。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第二次ティムール戦役''| |>|>|>|年月日:1398年11月16日-1400年3月18日| |>|>|>|結果:アル=ジャリル地方の失陥| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''キリスト教徒''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''ティムール陣営''| |ノルド帝国|74000|ティムール朝          |127000| |テッサロニキ専制侯国|6500||-| |マジャール王国|0|>|-| |ワラキア王国|0|>|-| |ポーランド王国|0|>|-| |アルバ王国|0|>|-| |ノヴゴロド大公国|0|>|-| |キリキア・アルメニア公国|0|>|-| |ポモルスク公国|0|>|-| |>|>|>|将軍| |>|ヴァルデマ聖帝|>|"可汗"ナクフ| |>|デンマーク王イーレク7世|>|マクラン太守トグトガ| |>|コポリェ伯カルル|>|アティル太守イェスゲイ| ※戦場に到達していない軍は計上していない &ref(011ティムール来る.jpg,nolink); 11月16日、騎馬民族の皇帝、ティムールの子ナクフが使者を遣した。 &ref(顔ティムール.jpg,nolink); 幸運な二つの星が交わるとき生まれた支配者ティムールの子、ナクフがノルド人の皇帝たるヴァルデマに申しわたす。 &ref(顔ティムール.jpg,nolink); 汝はノルド人の皇帝であるから、アラブ人の土地を持つべきではない。 &ref(顔ティムール.jpg,nolink); 正当なる皇帝である朕、ナクフに速やかに譲られるように。 皇帝はこれを拒否し、すべての封臣に出兵させ、さらに聖ヨハネ騎士団とサンティアゴ騎士団も招聘した。第二次ティムール戦役の始まりである。 12月1日、マジャール女王グレーテ、ワラキア王ガヴリ、キリキア・アルメニア侯アトルネルセフが皇帝の側に立って参戦した。 12月4日、ノヴゴロド大公イングヴァル賢公が参戦した。 12月14日、アルバ王アイリル大王が参戦した。 12月26日、ポモルスク公ヴラティスラフ3世が参戦した。 1399年3月14日、ポーランド王マツラヴが参戦した。 3月18日、黒海に展開した帝国軍ガレー船が、騎馬兵12万がコーカサスを南下中と報告してきた。 &ref(013ティムール来る.jpg,nolink); ティムール軍は10万人いても補給制限を受けない。どこまでも卑怯な連中である 7月18日、皇帝の公妾であったマグダレーネが薨去した。40歳であった。聡明であり、話術と機智に富んだ。 皇帝との間に一児イリザベトを設けたが、イリザベトは7歳で両親より先に薨去した。 &ref(014公妾薨去.jpg,nolink); 8月7日、帝国軍がヒムスを落とした。 戦勝点13点に達し、皇帝は慈悲深く双方の主力が衝突し多くの血が流れる前に和平を提案したが、 ナクフはその残忍な性格と卑しい心持により拒否した。 &ref(015停戦.jpg,nolink); 9月8日、メシュタイェにおいて帝国軍6万がティムール軍11万と衝突した。 9月24日、この日デンマーク王イーレクの左翼軍は大いに奮戦し、一日で千人を屠った。 &ref(016激戦.jpg,nolink); 10月25日、帝国軍はメシュタイェから退却した。 11月15日、メシュタイェから退却した帝国軍はスィドンで追撃を受けた。 11月17日、シチリアへのジハードの失敗をカリフ、アフマド2世が宣言し、サラセン人たちがアフリカに引き上げた。 1400年1月21日、テッサロニキ専制侯ディオゲネスがティムールの専横に憤り参戦した。 2月2日、神聖ローマ皇帝ルートベルトが参戦した、 3月4日、テッサロニキ専制侯は6500の兵力を揚陸したが、もはや敗北は明らかであった。 &ref(017遅いよ.jpg,nolink); 3月17日、皇帝はアル=ジャリル地方の統治権をナクフに譲った。 &ref(018敗戦.jpg,nolink); 3月18日、宰相スィモンは今回の戦役において教皇庁がなんら支援をしなかったことを訝しみ、奏上した。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); この度のティムールとの戦役は、多くのキリスト者の加勢を受けることが出来ましたが、教皇フェリクス4世は何もせず、ただ傍観するばかりでした。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); かつてコノン2世教皇の御世、サラセン人のジハードを受けた際にはコノン2世は我が国に資金を提供して下さりました。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); それに比べ、今の教皇は皇帝陛下の御力添えがあってこそ即位されたのに、その恩に報いる気が全くなく、著しく教皇としての自覚に欠けるところがあるでしょう。 &ref(顔アイスランド公.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻五 オト一世 1364~1370]],nolink); 今こそ、対立教皇を擁立してローマを手中に収め、より従順な人物を立てるべきではないでしょうか。 皇帝の答えるに、 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝の奏上は尤もである。だが、フェリクスはコノン2世以来の北欧出身の教皇だ。朕はこの者を排除する気が起きない。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 対立教皇を立てる機会はこれからもあるだろうし、なにもそう急ぐべきでもないだろう。 とのたまわれた。 &ref(019教皇.jpg,nolink); のちにこの決定を悔やむことになる &ref(020兵力.jpg,nolink); 3月29日、帝国元帥コポリェ伯カルルが第二次ティムール戦役の戦果について奏上し、ティムールの騎射兵およそ2万を殺したと奏上した。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); しかし、未だティムールの兵の方が多い。かの騎射兵は精悍で、我が方の将兵は奴らに近づくこともできない。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); さらに、我が国はノルドとオリエントに分かれており、ノルドの兵とオリエントの兵が各個撃破されやすい。オリエントの統治は諦め、ノルドのみを治めた方が良いのだろうか。 &ref(帝国オリエント領.jpg,nolink); 外祖父からの継承でブルガリアの大部分を、十字軍でエルサレムとアンティオキア、聖戦でアレクサンドリア、臣下の請求権行使でコンスタンティノポリスとドゥブロヴニクを得た 皇帝がそうのたまわれると、隣に居られた皇后が仰せられた。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); 畏れながら、皇帝陛下は今や権威も兵力も他の諸侯から一等地を抜き、ローマ皇帝として全てのキリスト者らを導く立場にあらせられます。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); さらに、陛下はその叡智により東西の教会分裂を合一され、今や陛下無くして教会は成り立ちません。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); ここで陛下が弱気になられ、聖地を放棄するような事をされれば、全地のキリスト者は誰を頼りに生きていけばよいのでしょうか。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); また、先に申し上げましたように、今やティムールに対抗できる方は陛下以外にはおられません。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); オリエントを放棄しても、それは問題の先送りにしかすぎず、そのうちノルドのみの弱くなった帝国でティムールに立ち向かわなければいけないでしょう。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); 陛下はローマ皇帝として他のキリスト教諸侯を保護する権利と義務があります。 &ref(顔嫁.jpg,nolink); すみやかにセルビアを併合なされ、キリスト教諸侯をティムールより先に保護し、国力を増強なさいませ。 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 皇后陛下の仰せられるとおりです。ティムールを倒すのは皇帝陛下の他に居りません。 &ref(顔コポリェ伯.jpg,nolink); 臣らは国家と陛下のために身を粉にして奉職いたします。どうか異教打倒のために手を尽くされてください。 皇帝は皇后と元帥の奏上を聞き入れられ、また、次のティムールの襲来に備えて諸侯と同盟を結ぶべく 第二皇女ビアギタをシチリア王太子オジェと、第三皇女アスタをレオン王太子ゴンザロと、皇太子オトをポーランド王女ヤドヴィガと婚約させた。 &ref(021合一.jpg,nolink); 1401年7月8日、皇帝はセルビアを平定しドゥブロヴニク王ヴカスィンはセルビア王を兼ねた。 12月5日、皇帝は教皇フェリクス4世に親書を送られた。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 神の恩寵による全ノルドの保護者、ローマの皇帝にして、コンスタンティノポリスの守護者たるヴァルデマは、聖地防衛のために身を粉にして働き、エルサレムを御祖から受け継ぎ、 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); サラセン人の地であったアンティオキアとアレクサンドリアを取戻し、果てにはコンスタンティノポリスさえも治め、東方にも全き教えを広めるのに尽くしてまいりました。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); それであるのに、教皇猊下はローマから一歩も動かず、全ての物を飲み込もうとする騎兵の束が迫っても一兵も出さず、一銭も出さず、結果として御祖の土地を失うこととなりました。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); もし猊下に人の心がお有りであれば、どうか所領を失った諸侯と戦死した兵士への弔問金を肩代わりしていただけますよう。 12月25日、フェリクス4世から返書が届いた。 &ref(顔フェリクス.jpg,nolink); 偉大なローマの皇帝陛下のご考慮により今の教会があることは疑いようもなく、私が病に臥せっていたためにティムールに対し何もできなかったことは痛切の極みです。 &ref(顔フェリクス.jpg,nolink); 陛下と陛下の諸臣におかせられましては、今更ながらわずかばかりの金を送らせていただきます。 &ref(顔フェリクス.jpg,nolink); どうか皇帝陛下と私の間に一層の親密がありますよう願います。 &ref(022金.jpg,nolink); 皇帝は教皇が450グルデンを献じたため満足され、対立教皇を立てなかった。 その代わり、この後から度々教皇に上納を求めるようになった。 1402年3月5日、マジャール女王グレーテから勅使が参り、上表した。 &ref(023参戦要請.jpg,nolink); &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 慈悲に満ちた最も聡明なるローマの皇帝陛下、臣グレーテがマルケの総督カミロの非道を奏上いたします。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); カミロはその地位を利用してアドリア海の交易を不当に支配し、その利益をすべて彼と彼の取り巻きに分け与え民に分け与えることをしません。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 臣はカミロを排するべく兵を起こしましたが、どうか陛下の深い御慈悲によりカミロの征伐にお力添えをいただけないでしょうか。 皇帝は快諾し、兵力8千をもってマルケに上陸した。 &ref(024参戦.jpg,nolink); 11月22日、総督カミロはマジャール王国内における交易を諦める旨を申し出て、和議を乞うた。 1月9日、マジャール女王グレーテから勅使が参り、上表した。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 慈悲に満ちた最も聡明なるローマの皇帝陛下、臣グレーテが奏上いたします。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 我が国は皇帝陛下の慈悲に満ちた御働きにより、マルケ総督カミロの野望を挫き平穏を取り戻したのですが、 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); カミロの下で不当に利益に預かっていた公爵やそのものに付き従う賊徒らが臣に叛意を示し、国内が多いに揺らいでおります。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 公爵らが万が一勝利し、またしてもアドリア海の利権をカミロらが握るようなことがあれば、それは皇帝陛下のなされた功績に泥を塗る行為でありましょう。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); どうか公爵どもを討ち果たすためにも、していただけないでしょうか。 皇帝はこれを許可し、7千の征伐軍を編成した。 征伐軍の将軍を決める際になってトルトサ伯爵レインベルンが奏上し、 &ref(顔トルトサ伯.jpg,nolink); 臣は先のセルビア戦争での不明を長らく恥じて生きてまいりました。 &ref(顔トルトサ伯.jpg,nolink); 願わくば、この度の戦の将軍を任され、名誉を回復する機会を下さらないでしょうか。 皇帝はトルトサ伯の奏上を聞き入れ、伯を大将とした。 &ref(026マジャル.jpg,nolink); 主の受肉より1403年2月15日、第203代教皇フェリクス4世が崩御した。61歳であった。 非常に怠惰的で、自らは何もせず、ティムールの侵略にも無関心であり、教皇としての資質を疑う声も多かったが、 皇帝からの金銭の催促にはすぐ応じたので皇帝はこの者を廃することがなかった。 204代教皇にはアレラミシ家のイザーコがヨハネス23世として即位した。 この者の即位には皇帝の後援があった。 &ref(025教皇.jpg,nolink); 4月4日、マジャールの反乱は今やほとんど鎮められようとしていた。 皇帝はマジャール女王グレーテに親書を送られた。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 全ノルド人の皇帝、エルサレムとアンティオキアの王たるヴァルデマがマジャール女王グレーテに申し告げる。恙無きや。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝は朕と同じくエストリズセン家であるが、汝はスドレイム家の者と婚姻したためこのままではマジャールの王朝がまた変わることとなる。 &ref(顔聖帝.jpg,nolink); 汝の長男シグルドと朕の娘、カロリーネとを母系結婚をさせ、我らが御親の名を受け継がせるべきではないだろうか。 4月23日、グレーテからの勅使が参り、上表した。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 慈悲に満ちた最も聡明なるローマの皇帝陛下、臣グレーテが奏上いたします。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 皇帝陛下の恩寵は臣の心にも沁み渡り、まさしく天にも昇る気持ちです。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 臣は父から受け継いだこの家名を後代に伝えたいと長らく思っておりました。 &ref(顔グレーテ.jpg,nolink); 皇帝陛下の御高配により、マジャールに我が家名が長く続くことができとてもありがたく思います。 8月27日、イングランド王ギルバートは教皇ヨハネス23世の帝国と親しいことを恨み、レディングの司教をロマヌス2世対立教皇として立てた。 ギルバートは教皇庁の権威失墜を目論んだが、教皇の誠実な人柄によりほかの諸侯は誰も追従せず、教皇庁は変わらず敬慕された。 &ref(027対立教皇.jpg,nolink); 帝国内の僧侶たちすら30年以上治めている皇帝より即位半年の教皇の方を慕った 1404年8月15日、南キプロスで異端を信奉する一団を改宗させるべく、十字軍を宣言した。 &ref(028南キプロス十字軍.jpg,nolink); 11月11日、キトロイでトルトサ伯率いる帝国軍4千が異端軍千を破った。 異端軍は王自ら出陣していたが、帝国軍の敵ではなかった。 12月15日、南キプロスは全き信仰に帰した。 1405年3月26日、イングリアの公ハンスが公領内のすべての土地を公の下に治めることを願い奏上した。 皇帝はイングリア公領内の帝室領の国家経営における前線基地としての重要性を述べ、公を納得させて返した。 &ref(029ハンスエエグ.jpg,nolink); イーイ家は代々武門に秀で、一族は多くの土地を賜った 5月7日、例年になく雨が降り、皇帝は民衆の心配をされた。 &ref(030長雨.jpg,nolink); 1406年2月5日、皇帝は免罪符を買われた。 6月28日、プロイセンのポゲサニア伯領がデンマーク文化になった。 &ref(031宰相薨去.jpg,nolink); 9月23日、宰相アイスランド公スィモンが薨去した。60歳であった。 スィモン・カシュマツはスコーネ大司教ペーザに仕えたユダヤ人の子で、その才を見抜いたオト一世により宰相に抜擢された。 爵位はハーススル伯爵、のちにアイスランド公爵に昇った。オト一世の崩御後、ヴァルデマ聖帝の幼年期の教育係となり、皇帝の人となりに大いに影響を与えた。 宰相として長年あり、諸侯との執成しに非常に功があった。晩年はハーススル伯領をデンマーク王イーレク7世に奪われるなど恵まれなかったが、皇帝は彼を案じ侍従長とした。 公位は長子クレスチャンが継ぎ、宰相はエストラント公ゴトフリドが就いた。 &ref(032宰相薨去2.jpg,nolink); クレスチャンは父と違い財務に長じた 10月1日、スリースヴィ公ヴァルデマ5世の長男の長男ヘンレクとバグラチオン家のタプロの間にに長子ホルガが生まれた。 10月5日、皇后グレミスラヴァが双子を出生した。ベネディクデとグレーテと名付けられたが、そのうちグレーテは先天的に白痴であった。 &ref(033出生.jpg,nolink); 12月10日、アイスランド公クレスチャンが薨去した。33歳、不審死であった。 *[[巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416>AAR/デンマーク年代記/巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416]] [#d78fc7ca]
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