AAR/デンマーク年代記/巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416
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巻九 ヴァルデマ聖帝 1408~1416
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻九 ヴァルデマ聖帝 [#offa9d7a] 1409年1月23日、皇太子オトがポーランド女王ヤドヴィカと成婚された。 &ref(001息子.jpg,nolink); &ref(001嫁さん.jpg,nolink); 1409年2月1日、ポーランド王マツラウの勅使が参上し、上表した。 僭主マツレウが我がグラニスクを奪取せんと謀り、イングランド王の後援を受けジャージー島で蜂起いたしました。 奴は多大な兵力をイングランド王から貰い受け、臣だけでは敵いません。 どうかお力をかしていただけないでしょうか。 皇帝は許可され、デンマーク王イーレク7世に征伐を命じた。 5月15日、デンマーク王イーレク7世はジャージ島に上陸することなく帰投し、皇帝に奏上した。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); マツレウは一万を超える兵力を持ち、おそらく勝利は難しいでしょう。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 彼にはそれに見合うだけの舟がなく、おそらく攻めてくることもありますまい。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); あの者は放置しておくべきだと愚考いたします。 &ref(002なにこれ.jpg,nolink); 舟がないので動けないようだ 皇帝は奏上を受け入れた。 9月16日、皇帝はリトアニア領サモギティアに対する聖戦を詔された。 &ref(003十字軍.jpg,nolink); 1410年2月5日、トラカイの戦いで帝国軍2万3千とリトアニア軍1万6千が会戦した。 3月14日、リトアニア軍は敗走した。 3月20日、ヴィリュニスにて帝国軍はリトアニア軍に追いつき、これを殲滅した。 3月27日、異端はサモギティアから追放され、帝国領となった。 皇帝はサモフィティアに武勇の秀たデンマーク人を置いたほか、宮廷に招いていた第二皇女ビアギタの婿、シチリア王太子オジェを伯にした。 デンマーク王イーレク7世が彼に対して仰せられるに、 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 嘗て我らの同祖の中には南方に王国を建てた者がおり、彼らはその祖地の名を取って自らゴート人と称したという。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 彼らの中にはアルプスの山々から、汝の父の治めるシチリアをも治めた者もいたが、汝はそれとかかわりがあるのだろうか。 &ref(顔オジェ.jpg,nolink); 臣の家、デラ・スカラ家は三代前にシチリア王位を受け継ぎましたが、それ以前は北イタリアを出自に持ち、都市商人でありました。 &ref(顔オジェ.jpg,nolink); その初代ヤコピノは東ゴート王国の王、トーティラの後裔であり、それゆえに北イタリアに地盤を得たといいます。((オジェの言は一行目は事実だが、二行目は嘘。オジェが系譜を仮冒したのだと脳内補完してください)) このことを聞いたイーレクは大いに感嘆し、 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 千5百年も前に分かれた同族と、私の代で再会できるとはなんと幸せなのだろうか。 と仰せられ、すぐさま皇帝に奏上された。 皇帝はこのことに大いに興味を示され、オジェにゴート王位を賜った。 &ref(004ゴート王位.jpg,nolink); ゴトラント地方領有が条件だが、別にde jureがあるわけではない &ref(005ゴート王位2.jpg,nolink); 1410年7月7日、デンマーク王太子バヴォが薨去した。31歳であった。 バヴォは非嫡出子であったが、当時イーレク7世には男子がいなかったため嫡子として迎えられた。 彼の薨去をもって皇帝はデンマーク王位の継承を望まれたが、 イーレク7世はバヴォの子イーレクを王太孫とし、皇帝には継承させない旨を示した。 &ref(006バヴォ薨去.jpg,nolink); &ref(007ブルガリア戦争.jpg,nolink); 1411年6月10日、皇帝はブルガリア王に即位された。 皇帝は即位の儀において、未だ皇威の及ばぬタルノヴォとポレツラウをすぐさま皇化に浴するべしとのたまわれた。 &ref(008ブルガリア戦争.jpg,nolink); 諸臣はすぐさま兵を集め、ブルガリアへ進発した。 8月30日、セウトポリスの戦いで最後の敵軍を破ると、タルノヴォとポレツラウを包囲した。 9月3日、スリースヴィ公ヘンリキの子にして枢機卿、ケラク司教ヴァルデマが卒去した。54歳であった。 生まれつき物覚えが悪く、素行にも品がなかったので皇帝は彼を寺院に入れた。 教会側からエストリズセン家を支えることを期待されたが、彼は一族の直面する問題に構うこともなく堕落した生活を送り、ことあるごとに教皇側に付いた。 家柄は良かったので年を経て枢機卿にまで上ったが、その品行が問題視され教皇候補となることは一度もなかった。 &ref(009枢機卿.jpg,nolink); |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''エジプト十字軍''| |>|>|>|年月日:1412年2月9日-1412年12月25日| |>|>|>|結果:エジプトの帝国編入| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラセン人''| |ノルド帝国|110000|バフリ朝          |12000| |教皇庁|7000|>|-| |トスカナ公国|7000|>|-| |>|>|>|将軍| |>|トルトサ伯レインベルン|>|"スルタン"アンティノス| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|アルニダウラ太守ハカムエ| |>|バフリヤ伯ギゼルベルト|>|ネケル総督アガトニコス| 調べてみたらなぜかサラセン人にギリシャっぽい名前が多い。ルネサンスだろうか &ref(010十字軍.jpg,nolink); 1412年2月9日、教皇ヨハネス23世は、エジプトへの十字軍を宣言された。 すでにアレクサンドリア地方は帝国領であったが、未だ多くの土地を持つバフリ朝スルタンはティムールの次に脅威となる異教の王朝であった。 ブルガリア戦争は終結していなかったが皇帝はすぐに十字軍への賛成を決め、オリエントだけでなくノルド地方の兵力も挙げ、出撃された。 5月6日、ポレツラウの伯コセリィが降伏し、伯領を明け渡した。 皇帝はスヴェンにヴィディン伯領を賜られた。 5月16日、宮廷長官スィスィーリェが十字軍への協力として民衆から140グルデンの献上があったと奏上した。 &ref(011十字軍.jpg,nolink); ''セヤンの戦い'' 6月1日、トルトサ伯の率いる帝国軍と教皇庁の併せて2万1千の軍が、バフリ朝の1万の軍をセヤンで撃破した。 8月7日、今年の夏が例年に比べて冷夏であることが皇帝に奏上された。 &ref(012冷夏.jpg,nolink); 8月13日、前のブルガリア王、リディヤが降伏し、ブルガリア王冠領内はすべて帝国領となった。 ''ラ・サフォリェの戦い'' 9月17日、エルサレムを荒らしていたバフリ朝2千の軍を率いる6千の軍が包囲し、撃滅した。 ''ファユームの戦い'' 12月2日、トスカナ公爵と教皇庁の率いる1万4千の軍勢がサラセン人4千人を打ち破った。 &ref(013十字軍.jpg,nolink); この後、帝国軍はエジプトの主要な城壁を次々と落とし、勝利を揺るぎないものにされた。 12月25日、主の受肉の日、サラセン人はエジプトから追放され、教皇は十字軍の成功を宣言した。 &ref(014十字軍.jpg,nolink); 皇帝はバフリ朝のスルタンからエジプト王位を簒奪すると、皇太子オトをカイロ伯に封じたほか、 各地の伯領に武勇に秀でたるもの、著名な家系のものを封じた。 1413年1月5日、ジェノヴァ総督某が奏上し、エジプトにおけるヴェネツィアの利権を譲ることがあれば、帝国に利便を図ると奏上した。 皇帝は関心を示され、ヴェネツィア所属の舟を出港停止に処し、兵を挙げた。 &ref(015十字軍.jpg,nolink); 1月13日、デンマーク王イーレク7世が薨御された。61歳であった。 イーレクはヴァルデマ再興王の子で、マジャール女王アデリンデと成婚され女子二人を設けられ、 アデリンデの崩御後、アスタと再婚され一男三女をもうけられた。 また、ウトランデ総督夫人ビルントニスの間にバヴォを設け、バヴォの子イーレクが王位を継いだ。 武勇を誇り、帝室一門として皇帝に代わり前線に出向くことが多かった。 &ref(016イーレク薨去.jpg,nolink); 4月6日、イオアニアでヴェネツィア軍2千5百を破った。 &ref(017鄭和.jpg,nolink); 5月1日、アラビア海沖に、異国の巨大船が見えた。 巨大船は帝国領内に寄港し、その地の伯に謁見して、祖国の名を民、名を鄭和と申した。 彼らは帝国が千年前から彼らの祖国と交流のあった大秦国であると知ると大いに感嘆し、 上表文と宝物を献じ、此方からの表文と宝物を受け取ると、また長い航海に旅立った。 6月27日、ストンにて帝国軍1万5千がヴェネツィア軍5千を捕捉した。 のちに敵の増援3千が来たがこれをなんなく打ち破り、 皇帝御自ら前線で剣を振られ、勝利を収めた。 &ref(018十字軍.jpg,nolink); この戦いの勝利でヴェネツィア軍は戦意を喪失し、エジプトにおける利権をすべてジェノヴァに譲った。 10月19日、スリースヴィの公ヘルギが薨去した。 先代の公ヘンリキの子で、ヴァルデマの弟にあたる。 11月10日、皇帝はその立ち振る舞いが公正であると諸臣から貴ばれた。 &ref(019公正.jpg,nolink); 11月11日、皇帝はアルバ王フェルガルに対し戦を宣し、王の弟、ケルメ男爵デンマンを王位につけんと詔した。 &ref(020アルバ戦争.jpg,nolink); 12月2日、マオル=ロスにて帝国軍9千がアルバ軍9千を破った。 &ref(020アルバ戦争.jpg,nolink); 12月27日、マオル=ロスに帝国軍増援1万5千が到着し、敵を殲滅した。 フォルティンガル司祭イォーガンを捕え、組織だった抵抗は全く見られなくなった。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第三次ティムール戦役''| |>|>|>|年月日:1414年3月5日-1415年9月18日| |>|>|>|結果:-| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''キリスト教徒''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''ティムール陣営''| |ノルド帝国|114000|ティムール朝          |127000| |テッサロニキ専制侯国|6500|>|-| |シチリア王国|22000|>|-| |マジャール王国|16000|>|-| |ポーランド王国|12000|>|-| |>|>|>|将軍| |>|トルトサ伯レインベルン|>|ダイラム"汗"バブル| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|アゾフ太守ブギダイ| |>|バフリヤ伯ギゼルベルト|>|ボルガール太守クルァート| 1414年3月5日、ティムール朝のナクフがまたも国土を侵した。 &ref(顔トルトサ伯.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァルデマ聖帝 1396~1407]],nolink); 今、ティムールがアンティオキアを侵し、オリエントの信徒らが危険にさらされております。 &ref(顔トルトサ伯.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァルデマ聖帝 1396~1407]],nolink); どうか今すぐ防備の態勢を取られ、アルバを早く滅ぼし、反撃に転じることが重要であると存じます。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 汝のいうことは尤もである。今朕がする詔を、すべての諸臣は心して聞け。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 諸臣はすぐさま兵を挙げ、ティムールに撃破されないようエルサレムに集結せよ。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); オリエントの者はノルドの兵が着くまで決してティムールと戦端を開かず、 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); もし敵が向かってきた場合は退き続け、時間を稼ぐように。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); オリエント軍の大将軍はトルトサ伯、ノルド軍の大将軍はバフリヤ伯とする。 5月17日、アルバ王フェギルは戦いで敗北し、王位をデンマンに譲った。 &ref(030第三次ティムール戦役2.jpg,nolink); 9月14日、ティムール軍が南下していたが、途中で北に引き返した。 未だノルドの軍は来ておらず、もし攻撃を受ければ各個撃破の憂き目に会うところであった。 10月29日、傭兵1万5千を含めたノルド軍6万7千がレヴァンティネ海に集結した。 ''ナザレの勝利'' &ref(022第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 11月12日、ナザレに陣を構えたトルトサ伯の率いる1万4千の軍勢に、 ティムール朝4万の軍が向かっているという知らせを受けたバフリヤ伯は兵をお越し、 ナザレに上陸を仕掛けた。 &ref(023第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 11月16日、バフリヤ伯軍はナザレに上陸し、一機に敵の倍の兵力となった。 &ref(024第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 敵の将軍、アル=ジャズィー汗ラトロルチが無能であったことも幸いし、 12月10日には大勢は決した。 &ref(025第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 12月11日、敵将グバツを討ち取った。 &ref(026第三次ティムール戦役.jpg,nolink); ロシア顔のモンゴル人である 敵の別動隊がベルヴォイルまで迫ったが、ナザレでの敗北を受けて進軍を止めていた。 ナザレの戦いにおける敗残兵もベルヴォイルに向かっていたので、 皇帝は帝国軍8万をもってティムール騎射兵を殲滅する事を勅した。 ''ベルヴォイルの戦い'' 12月21日、ベルヴォイルに帝国軍先遣隊2万が到着した。 23日には本体も到着し、帝国軍が優勢になった。 12月29日、中央を率いていたヤムタラント公ニクラス2世が敵の将軍と相打ちになった。 &ref(027第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 正直割に合わない戦死 1415年1月2日、宮廷に招かれていた第三皇女アスタの婿、レオン王太子ゴンザロが戦死した。 途中で父の死により帝国の封臣でないレオン王となったが、そのまま帝国に従軍していたためである。 1月9日、ヌビア王が王太子マルツォフィロスと第三皇女アスタの婚姻を願い出た。 皇帝は許可し、マルツォフィロスを宮廷に招いた。 1月17日、マルツォフィロスがコプト正教会からカトリックに改宗した。 &ref(031ヌビア2.jpg,nolink); 1月25日、ベルヴォイルの戦いは終わった。 この戦いでは双方多くの将官の戦死者を出した。 &ref(028第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 2月13日、ナザレに逃れたティムール軍1万を殲滅した。 &ref(029第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 4月23日、チュートン騎士団がティムールとの戦争に参加せず、ノヴゴロド大公国に侵攻した。 5月21日、スリースヴィ公ヘンレクの子ヴィディン伯スヴェンにブルガリア王位を賜った。 5月26日、教皇ヨハネス23世が664グルデンを寄進した。 9月18日、ティムールに占領されていたアンティオキアの土地を次々に開放し、ティムールは降伏した。 ティムールはその兵力を6万にまで減らし、もはや再征服は不可能なところにまで落ち込んだ。 &ref(030第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 9月20日、皇帝はたまわれた。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 朕は御親より帝位を継ぐも、その力なきにより夷の者に勝てず、徳を四方に綏することが出来なかった。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 朕が心を入れ替えて神祇を篤く敬い、兵を興して夷を討つこと幾許年、今、再び王土と王民に平穏が訪れた。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 最早オリエントの民も騎兵の襲撃におそれることもない。これからは安らかに暮らせるであろう。 天下は大いに安らぎ家に人足りて、民は皇帝の偉大な業績を称え、皇帝を&ruby(ひじりのみかど){聖帝};と謂せられた。 11月1日、ティムール朝は諸侯をつなぎとめておくことが出来ず、次々と独立を許した。 &ref(038ティムールの落日.jpg,nolink); 11月16日、ティムール朝から独立したエデッサ女伯ヨハネが皇化に浴した。 &ref(039ティムールの落日.jpg,nolink); ヨハネは皇帝に謁えて奏上し、 &ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 臣は長きにわたり異教の民に囚われ、長らく不遇の日々を過ごして参りましたが、 &ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 皇帝陛下の恩寵により忌々しき異教の楔から解き放たれ、 &ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 今こうしてまた御前に謁えることが出来、誠に至上の喜びです。 皇帝の答えるに、 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 汝は幼いときからティムールに捕えられ、今まで塗炭の苦しみを味わってこられた。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); これからは楽にされ、余生を楽しまれよ。何か望みがあれば申し上げるように。 12月2日、皇帝はティムールへの勝利とエデッサ女伯の帰順を祝い宴を行うよう詔した。 *[[巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421>AAR/デンマーク年代記/巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421]] [#d78fc7ca]
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[[AAR/デンマーク年代記]] *巻九 ヴァルデマ聖帝 [#offa9d7a] 1409年1月23日、皇太子オトがポーランド女王ヤドヴィカと成婚された。 &ref(001息子.jpg,nolink); &ref(001嫁さん.jpg,nolink); 1409年2月1日、ポーランド王マツラウの勅使が参上し、上表した。 僭主マツレウが我がグラニスクを奪取せんと謀り、イングランド王の後援を受けジャージー島で蜂起いたしました。 奴は多大な兵力をイングランド王から貰い受け、臣だけでは敵いません。 どうかお力をかしていただけないでしょうか。 皇帝は許可され、デンマーク王イーレク7世に征伐を命じた。 5月15日、デンマーク王イーレク7世はジャージ島に上陸することなく帰投し、皇帝に奏上した。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); マツレウは一万を超える兵力を持ち、おそらく勝利は難しいでしょう。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 彼にはそれに見合うだけの舟がなく、おそらく攻めてくることもありますまい。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); あの者は放置しておくべきだと愚考いたします。 &ref(002なにこれ.jpg,nolink); 舟がないので動けないようだ 皇帝は奏上を受け入れた。 9月16日、皇帝はリトアニア領サモギティアに対する聖戦を詔された。 &ref(003十字軍.jpg,nolink); 1410年2月5日、トラカイの戦いで帝国軍2万3千とリトアニア軍1万6千が会戦した。 3月14日、リトアニア軍は敗走した。 3月20日、ヴィリュニスにて帝国軍はリトアニア軍に追いつき、これを殲滅した。 3月27日、異端はサモギティアから追放され、帝国領となった。 皇帝はサモフィティアに武勇の秀たデンマーク人を置いたほか、宮廷に招いていた第二皇女ビアギタの婿、シチリア王太子オジェを伯にした。 デンマーク王イーレク7世が彼に対して仰せられるに、 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 嘗て我らの同祖の中には南方に王国を建てた者がおり、彼らはその祖地の名を取って自らゴート人と称したという。 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 彼らの中にはアルプスの山々から、汝の父の治めるシチリアをも治めた者もいたが、汝はそれとかかわりがあるのだろうか。 &ref(顔オジェ.jpg,nolink); 臣の家、デラ・スカラ家は三代前にシチリア王位を受け継ぎましたが、それ以前は北イタリアを出自に持ち、都市商人でありました。 &ref(顔オジェ.jpg,nolink); その初代ヤコピノは東ゴート王国の王、トーティラの後裔であり、それゆえに北イタリアに地盤を得たといいます。((オジェの言は一行目は事実だが、二行目は嘘。オジェが系譜を仮冒したのだと脳内補完してください)) このことを聞いたイーレクは大いに感嘆し、 &ref(顔イーレク.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻六 ヴァルデマ聖帝 1370~1383]],nolink); 千5百年も前に分かれた同族と、私の代で再会できるとはなんと幸せなのだろうか。 と仰せられ、すぐさま皇帝に奏上された。 皇帝はこのことに大いに興味を示され、オジェにゴート王位を賜った。 &ref(004ゴート王位.jpg,nolink); ゴトラント地方領有が条件だが、別にde jureがあるわけではない &ref(005ゴート王位2.jpg,nolink); 1410年7月7日、デンマーク王太子バヴォが薨去した。31歳であった。 バヴォは非嫡出子であったが、当時イーレク7世には男子がいなかったため嫡子として迎えられた。 彼の薨去をもって皇帝はデンマーク王位の継承を望まれたが、 イーレク7世はバヴォの子イーレクを王太孫とし、皇帝には継承させない旨を示した。 &ref(006バヴォ薨去.jpg,nolink); &ref(007ブルガリア戦争.jpg,nolink); 1411年6月10日、皇帝はブルガリア王に即位された。 皇帝は即位の儀において、未だ皇威の及ばぬタルノヴォとポレツラウをすぐさま皇化に浴するべしとのたまわれた。 &ref(008ブルガリア戦争.jpg,nolink); 諸臣はすぐさま兵を集め、ブルガリアへ進発した。 8月30日、セウトポリスの戦いで最後の敵軍を破ると、タルノヴォとポレツラウを包囲した。 9月3日、スリースヴィ公ヘンリキの子にして枢機卿、ケラク司教ヴァルデマが卒去した。54歳であった。 生まれつき物覚えが悪く、素行にも品がなかったので皇帝は彼を寺院に入れた。 教会側からエストリズセン家を支えることを期待されたが、彼は一族の直面する問題に構うこともなく堕落した生活を送り、ことあるごとに教皇側に付いた。 家柄は良かったので年を経て枢機卿にまで上ったが、その品行が問題視され教皇候補となることは一度もなかった。 &ref(009枢機卿.jpg,nolink); |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''エジプト十字軍''| |>|>|>|年月日:1412年2月9日-1412年12月25日| |>|>|>|結果:エジプトの帝国編入| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''十字軍''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''サラセン人''| |ノルド帝国|110000|バフリ朝          |12000| |教皇庁|7000|>|-| |トスカナ公国|7000|>|-| |>|>|>|将軍| |>|トルトサ伯レインベルン|>|"スルタン"アンティノス| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|アルニダウラ太守ハカムエ| |>|バフリヤ伯ギゼルベルト|>|ネケル総督アガトニコス| 調べてみたらなぜかサラセン人にギリシャっぽい名前が多い。ルネサンスだろうか &ref(010十字軍.jpg,nolink); 1412年2月9日、教皇ヨハネス23世は、エジプトへの十字軍を宣言された。 すでにアレクサンドリア地方は帝国領であったが、未だ多くの土地を持つバフリ朝スルタンはティムールの次に脅威となる異教の王朝であった。 ブルガリア戦争は終結していなかったが皇帝はすぐに十字軍への賛成を決め、オリエントだけでなくノルド地方の兵力も挙げ、出撃された。 5月6日、ポレツラウの伯コセリィが降伏し、伯領を明け渡した。 皇帝はスヴェンにヴィディン伯領を賜られた。 5月16日、宮廷長官スィスィーリェが十字軍への協力として民衆から140グルデンの献上があったと奏上した。 &ref(011十字軍.jpg,nolink); ''セヤンの戦い'' 6月1日、トルトサ伯の率いる帝国軍と教皇庁の併せて2万1千の軍が、バフリ朝の1万の軍をセヤンで撃破した。 8月7日、今年の夏が例年に比べて冷夏であることが皇帝に奏上された。 &ref(012冷夏.jpg,nolink); 8月13日、前のブルガリア王、リディヤが降伏し、ブルガリア王冠領内はすべて帝国領となった。 ''ラ・サフォリェの戦い'' 9月17日、エルサレムを荒らしていたバフリ朝2千の軍を率いる6千の軍が包囲し、撃滅した。 ''ファユームの戦い'' 12月2日、トスカナ公爵と教皇庁の率いる1万4千の軍勢がサラセン人4千人を打ち破った。 &ref(013十字軍.jpg,nolink); この後、帝国軍はエジプトの主要な城壁を次々と落とし、勝利を揺るぎないものにされた。 12月25日、主の受肉の日、サラセン人はエジプトから追放され、教皇は十字軍の成功を宣言した。 &ref(014十字軍.jpg,nolink); 皇帝はバフリ朝のスルタンからエジプト王位を簒奪すると、皇太子オトをカイロ伯に封じたほか、 各地の伯領に武勇に秀でたるもの、著名な家系のものを封じた。 1413年1月5日、ジェノヴァ総督某が奏上し、エジプトにおけるヴェネツィアの利権を譲ることがあれば、帝国に利便を図ると奏上した。 皇帝は関心を示され、ヴェネツィア所属の舟を出港停止に処し、兵を挙げた。 &ref(015十字軍.jpg,nolink); 1月13日、デンマーク王イーレク7世が薨御された。61歳であった。 イーレクはヴァルデマ再興王の子で、マジャール女王アデリンデと成婚され女子二人を設けられ、 アデリンデの崩御後、アスタと再婚され一男三女をもうけられた。 また、ウトランデ総督夫人ビルントニスの間にバヴォを設け、バヴォの子イーレクが王位を継いだ。 武勇を誇り、帝室一門として皇帝に代わり前線に出向くことが多かった。 &ref(016イーレク薨去.jpg,nolink); 4月6日、イオアニアでヴェネツィア軍2千5百を破った。 &ref(017鄭和.jpg,nolink); 5月1日、アラビア海沖に、異国の巨大船が見えた。 巨大船は帝国領内に寄港し、その地の伯に謁見して、祖国の名を民、名を鄭和と申した。 彼らは帝国が千年前から彼らの祖国と交流のあった大秦国であると知ると大いに感嘆し、 上表文と宝物を献じ、此方からの表文と宝物を受け取ると、また長い航海に旅立った。 6月27日、ストンにて帝国軍1万5千がヴェネツィア軍5千を捕捉した。 のちに敵の増援3千が来たがこれをなんなく打ち破り、 皇帝御自ら前線で剣を振られ、勝利を収めた。 &ref(018十字軍.jpg,nolink); この戦いの勝利でヴェネツィア軍は戦意を喪失し、エジプトにおける利権をすべてジェノヴァに譲った。 10月19日、スリースヴィの公ヘルギが薨去した。 先代の公ヘンリキの子で、ヴァルデマの弟にあたる。 11月10日、皇帝はその立ち振る舞いが公正であると諸臣から貴ばれた。 &ref(019公正.jpg,nolink); 11月11日、皇帝はアルバ王フェルガルに対し戦を宣し、王の弟、ケルメ男爵デンマンを王位につけんと詔した。 &ref(020アルバ戦争.jpg,nolink); 12月2日、マオル=ロスにて帝国軍9千がアルバ軍9千を破った。 &ref(020アルバ戦争.jpg,nolink); 12月27日、マオル=ロスに帝国軍増援1万5千が到着し、敵を殲滅した。 フォルティンガル司祭イォーガンを捕え、組織だった抵抗は全く見られなくなった。 |LEFT:|CENTER:|LEFT:|CENTER:|c |>|>|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''第三次ティムール戦役''| |>|>|>|年月日:1414年3月5日-1415年9月18日| |>|>|>|結果:-| |>|BGCOLOR(#C0C0C0):''キリスト教徒''|>|BGCOLOR(#C0C0C0):''ティムール陣営''| |ノルド帝国|114000|ティムール朝          |127000| |テッサロニキ専制侯国|6500|>|-| |シチリア王国|22000|>|-| |マジャール王国|16000|>|-| |ポーランド王国|12000|>|-| |>|>|>|将軍| |>|トルトサ伯レインベルン|>|ダイラム"汗"バブル| |>|ヤムタラント公ニクラス|>|アゾフ太守ブギダイ| |>|バフリヤ伯ギゼルベルト|>|ボルガール太守クルァート| 1414年3月5日、ティムール朝のナクフがまたも国土を侵した。 &ref(顔トルトサ伯.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァルデマ聖帝 1396~1407]],nolink); 今、ティムールがアンティオキアを侵し、オリエントの信徒らが危険にさらされております。 &ref(顔トルトサ伯.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻八 ヴァルデマ聖帝 1396~1407]],nolink); どうか今すぐ防備の態勢を取られ、アルバを早く滅ぼし、反撃に転じることが重要であると存じます。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 汝のいうことは尤もである。今朕がする詔を、すべての諸臣は心して聞け。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 諸臣はすぐさま兵を挙げ、ティムールに撃破されないようエルサレムに集結せよ。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); オリエントの者はノルドの兵が着くまで決してティムールと戦端を開かず、 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); もし敵が向かってきた場合は退き続け、時間を稼ぐように。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); オリエント軍の大将軍はトルトサ伯、ノルド軍の大将軍はバフリヤ伯とする。 5月17日、アルバ王フェギルは戦いで敗北し、王位をデンマンに譲った。 &ref(030第三次ティムール戦役2.jpg,nolink); 9月14日、ティムール軍が南下していたが、途中で北に引き返した。 未だノルドの軍は来ておらず、もし攻撃を受ければ各個撃破の憂き目に会うところであった。 10月29日、傭兵1万5千を含めたノルド軍6万7千がレヴァンティネ海に集結した。 ''ナザレの勝利'' &ref(022第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 11月12日、ナザレに陣を構えたトルトサ伯の率いる1万4千の軍勢に、 ティムール朝4万の軍が向かっているという知らせを受けたバフリヤ伯は兵をお越し、 ナザレに上陸を仕掛けた。 &ref(023第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 11月16日、バフリヤ伯軍はナザレに上陸し、一機に敵の倍の兵力となった。 &ref(024第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 敵の将軍、アル=ジャズィー汗ラトロルチが無能であったことも幸いし、 12月10日には大勢は決した。 &ref(025第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 12月11日、敵将グバツを討ち取った。 &ref(026第三次ティムール戦役.jpg,nolink); ロシア顔のモンゴル人である 敵の別動隊がベルヴォイルまで迫ったが、ナザレでの敗北を受けて進軍を止めていた。 ナザレの戦いにおける敗残兵もベルヴォイルに向かっていたので、 皇帝は帝国軍8万をもってティムール騎射兵を殲滅する事を勅した。 ''ベルヴォイルの戦い'' 12月21日、ベルヴォイルに帝国軍先遣隊2万が到着した。 23日には本体も到着し、帝国軍が優勢になった。 12月29日、中央を率いていたヤムタラント公ニクラス2世が敵の将軍と相打ちになった。 &ref(027第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 正直割に合わない戦死 1415年1月2日、宮廷に招かれていた第三皇女アスタの婿、レオン王太子ゴンザロが戦死した。 途中で父の死により帝国の封臣でないレオン王となったが、そのまま帝国に従軍していたためである。 1月9日、ヌビア王が王太子マルツォフィロスと第三皇女アスタの婚姻を願い出た。 皇帝は許可し、マルツォフィロスを宮廷に招いた。 1月17日、マルツォフィロスがコプト正教会からカトリックに改宗した。 &ref(031ヌビア2.jpg,nolink); 1月25日、ベルヴォイルの戦いは終わった。 この戦いでは双方多くの将官の戦死者を出した。 &ref(028第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 2月13日、ナザレに逃れたティムール軍1万を殲滅した。 &ref(029第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 4月23日、チュートン騎士団がティムールとの戦争に参加せず、ノヴゴロド大公国に侵攻した。 5月21日、スリースヴィ公ヘンレクの子ヴィディン伯スヴェンにブルガリア王位を賜った。 5月26日、教皇ヨハネス23世が664グルデンを寄進した。 9月18日、ティムールに占領されていたアンティオキアの土地を次々に開放し、ティムールは降伏した。 ティムールはその兵力を6万にまで減らし、もはや再征服は不可能なところにまで落ち込んだ。 &ref(030第三次ティムール戦役.jpg,nolink); 9月20日、皇帝はたまわれた。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 朕は御親より帝位を継ぐも、その力なきにより夷の者に勝てず、徳を四方に綏することが出来なかった。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 朕が心を入れ替えて神祇を篤く敬い、兵を興して夷を討つこと幾許年、今、再び王土と王民に平穏が訪れた。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 最早オリエントの民も騎兵の襲撃におそれることもない。これからは安らかに暮らせるであろう。 天下は大いに安らぎ家に人足りて、民は皇帝の偉大な業績を称え、皇帝を&ruby(ひじりのみかど){聖帝};と謂せられた。 11月1日、ティムール朝は諸侯をつなぎとめておくことが出来ず、次々と独立を許した。 &ref(038ティムールの落日.jpg,nolink); 11月16日、ティムール朝から独立したエデッサ女伯ヨハネが皇化に浴した。 &ref(039ティムールの落日.jpg,nolink); ヨハネは皇帝に謁えて奏上し、 &ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 臣は長きにわたり異教の民に囚われ、長らく不遇の日々を過ごして参りましたが、 &ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 皇帝陛下の恩寵により忌々しき異教の楔から解き放たれ、 &ref(顔ヨハネ.jpg,nolink); 今こうしてまた御前に謁えることが出来、誠に至上の喜びです。 皇帝の答えるに、 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); 汝は幼いときからティムールに捕えられ、今まで塗炭の苦しみを味わってこられた。 &ref(顔聖帝.jpg,[[AAR/デンマーク年代記/巻七 ヴァルデマ聖帝 1384~1395]],nolink); これからは楽にされ、余生を楽しまれよ。何か望みがあれば申し上げるように。 12月2日、皇帝はティムールへの勝利とエデッサ女伯の帰順を祝い宴を行うよう詔した。 *[[巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421>AAR/デンマーク年代記/巻十 ヴァルデマ聖帝 1417~1421]] [#d78fc7ca]
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