AAR/スクショで見る十字軍物語/バグラトゥニ家/タマラ1世
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[[AAR/スクショで見る十字軍物語/バグラトゥニ家]] #ref(6.jpg,nolink) タマラ1世。在位1185-1236 &br; *11世紀から12世紀にかけての東地中海の政治情勢 [#qfeeb770] バグラト4世ののちも、グルジア王国はカフカース山脈でその命脈を保った。 ビザンツ帝国は幾度のもの政変と陰謀のあと、12世紀にはコムネノス家が帝位をおさめた。 ラテンの異端たちは11世紀の終わり頃から二度にわたる十字軍を敢行し、パレスチナにイェルサレム王国を建国した。 #ref(7.jpg,nolink) 1185年の東地中海。 1185年、タマル女王が即位したときも、バルカン半島からカフカース山脈にかけて大きな勢力の変化はなかった。 ビザンツとアラニア公国はグルジア王国のよき同盟国だった。ただ、ムスリムの王朝は栄枯盛衰がすくなからずあった。アナトリア半島にはルームスルタンが誕生しており、代わりにセルジュークが没落して、エジプトからシリアにかけてはアユビット朝が統一政権をつくっていた。 *コムネノス家とバグラトゥニ家 [#k2386bfa] グルジア王ギオルギ3世には二人の娘がいた。 長女ルスダンと次女タマルである。 #ref(8.jpg,nolink) ルスダンとタマル。 ギオルギは長女ルスダンをビザンツ皇帝の長男に嫁がせ、次女タマルを共同統治者に任命してグルジア女王とした。 このときのビザンツ皇帝は、史実ではコムネノス朝最後の皇帝となったアンドロニコス1世。史実では国内改革のために恐怖政治をしいて民心を離反させ、イサキオス・アンゲロス((アンゲロス朝の最初の皇帝。))の反乱をまねいて帝位を追われた人物である。コムネノス家はその後、グルジア王国の助力に頼って1204年の第四回十字軍の際にアナトリア半島にトレビゾント帝国を建国するが、これは事実上グルジア女王タマルの傀儡国家だった。 さて、こうした史実からも分かるように、コムネノス家とバグラトゥニ家は縁浅からぬ関係にある。 このようなビザンツ帝国とグルジア王国の関係は、のちのち重要になってくるので、ぜひ頭の片隅にいれておいてほしい。 #ref(9.jpg,nolink) グルジア女王タマル1世。「影の実力者」。 タマル女王はまだ未婚であり、結婚相手をさがさなければならない。 史実のようにロシア人貴族などから花婿候補を見つけてきてもよかったのだが、ビザンツ皇帝に一人、適齢期の男子がいたのでもらいうけることにした。 #ref(10.jpg,nolink) 花婿アレクシオスは皇帝の二番目の息子であったが、私生児だったため宮廷では冷遇された。そのため皇帝は彼の母系結婚を容認した。 グルジア王女タマル1世とビザンツ皇帝の庶子アレクシオスの結婚式はトビリシの宮廷で盛大に行われた。 タマルはこれによってビザンツとの同盟関係が強化されたことを喜び、ムスリムのジハードに対抗できる強力な安全保障を手に入れたと確信した。 しかし史実と同じくコムネノス家は陰謀と謀略にまみれた宮廷だった。 暗殺、中傷、肉刑、戦争はコムネノス朝ビザンツ帝国にとっては日常茶飯事だった。 こうした事件にまきこまれることはタマルにとっても本意ではなかった。 とはいえ、幸いアレクシオスは私生児だったために継承順位も低く、謀略の中心からは離れた位置にいた。 問題は皇帝アンドロニコス1世と、継承順位第一位の皇太子マヌエルである。 彼らの周囲ではつねに陰謀が企てられていた。 #ref(11.jpg,nolink) ビザンツ皇帝アンドロニコス1世 #ref(12.jpg,nolink) ビザンツの皇太子マヌエル。彼の配偶者はグルジア王女ルスダン(タマラの姉)。 コムネノス朝ビザンツ帝国の継承法は、選挙制ではなく、親族均等相続制であった。 これはギリシャ貴族たちの大きな反感を買っていた。この反感を暴力で抑え込めるのは、常備軍を一手に握る皇帝アンドロニコス1世だけだった。 しかし皇帝は老齢であり、皇太子の子供--皇太孫--はまだ幼い子供だった。 ということは、つぎのような仮定をしてみることも無駄ではあるまい。つまり、もし、皇太子が不慮の「事故」で継承順位から除かれたら? 老いた皇帝の継承順位第一位は、未成年の皇太孫になる。すると当然、摂政を置く必要がでてくる。つまり、貴族たちの権限が強化される。継承法は選挙制に戻せるかもしれないし、運が良ければ、皇帝の玉座を陰謀によって掴むことができるかもしれない。 #ref(13.jpg,nolink) ビザンツ帝国に陰謀はつきもの 結論から言うと、皇太子マヌエルは早逝した。 これが皇太子の病弱によるものなのか、それとも何者かの陰謀によるものなのかは分からない。 とにかく皇太子は死んだ。 そして老いた皇帝の死も間近だ! *タマルとアレクシオス [#o92a9ff0] グルジア女王タマル1世の治世の話に戻ろう。 女王は「円熟した宰相」であり、外交力21の偉大な君主だった。 グルジア王国には二人の公爵と二か国の同盟国があり、彼らがヴォルガの遊牧民とアジアの異教徒から王国を防衛するために大きな役割を果たしていることは明らかだった。 彼らとの渉外はすべてタマル女王が務め、その卓越した外交力は王国と公国、王国と同盟国との関係を維持強化するのを大きく助けた。 しかしグルジア王国配下の一人、公爵ダガト2世はいつの頃からか独立の野心を抱くようになり、王国の支配に不満を覚えるようになっていた。 タマルは幾人かの特使をおくって公爵の懐柔に努め、黒海貿易の重要な利権の問題でさえ彼に譲歩したが、この野心家をけっして満足させることはできなかった。 タマルは優握な支配を得意としていたが、もちろん苛烈な手段が苦手というわけではなかった。 彼女は公爵の独立が不可避と見るや、機先を制して陰謀を計画し、ウラで賛同者を募って公爵を暗殺してしまった。 #ref(14.jpg,nolink) ある公爵の死 この断固たる処置にグルジア貴族たちはおそれおののいた。 君主は愛されるよりも恐れられてほうが良い。 タマルはのちに有名になるこの政治的確言に忠実であった。 #ref(15.jpg,nolink) 私生児アレクシオス。タマルの夫。 しかし家庭ではタマルは良き妻であった。 アレクシオスは愛妻家で、タマルを愛した。タマルもまた彼をよく愛した。 この幸せなカップルの間には四人の男子と、二人の女子が授けられた。 だがそうした幸せは長くは続かなかった。 1195年、ビザンツ皇帝アンドロニコス1世が崩御した。 史実ではその苛烈な支配のためにイサキオス・アンジェロスの反乱をまねき、コムネノス朝を滅亡に追い込んで路上で暴徒に殺された君主だが、この世界では天寿をまっとうしたといえるだろう。 前述のように皇太子マヌエルは若死にしていたので、ビザンツの帝冠はまだ幼さの残る皇太孫の頭に被せられた。 ビザンツはアンドロニコス1世の独断的な改革によって親族均等相続制の継承法をとっていたので、皇帝の直轄領は息子たちに分配された。 皇帝の次男、私生児アレクシオスもまた、その遺産の一部を受け取ることになっていた。 #ref(16.jpg,nolink) キプロス公爵アレクシオス アレクシオスにはキプロス公爵の地位が与えられた。 彼はグルジア王国を離れて、自分の支配地に赴かねばならなかった。 タマルとアレクシオスの幸せな家庭生活は、こうして終わりを告げた。 アレクシオスがトビリシの宮廷を発つとき、タマルは郊外まで彼を見送ったが、この夫の顔色が憂いをおびていたことを見逃さなかった。 *私生児アレクシオスの反乱 [#jbded671] ビザンツ皇帝位を戴冠した未成年アレクシオス3世は、コンスタンチノープルの廷臣たちに実権を握られ、ほとんど政治にかかわることができなかった。 コンスタンチノープルの廷臣たちの中心人物は、タマルの姉ルスダン(さきの皇太子妃)だった。 これに対して帝国の地方軍閥らは対決姿勢をつよめ、グルジア王国にもたびたび未成年アレクシオス廃立の陰謀の勧誘がきている。 #ref(19.jpg,nolink) てづくり感あふれるコムネノス家とバグラトゥニ家の家系図。 首都の廷臣たちと地方の公爵たちの対立は激化し、ついに沸点を突破した。 #ref(17.jpg,nolink) 未成年の皇帝を要するコンスタンチノープル閥に対して、地方政府が叛乱をおこす ニケーア公爵、 サモス公爵、 キュビライオト公爵、 アドリアノポリス公爵、 アテネ公爵、 アカイア公爵、 エデッサ公爵、 デュラキオン公爵、 そして私生児アレクシオス率いるキプロス公爵が帝国に叛旗をひるがえし、未成年アレクシオスの廃立をもとめて軍事行動を開始した。 #ref(18.jpg,nolink) 私生児アレクシオスが叛乱軍を率いてコンスタンチノーポリに入城 1197年には勝負はけっした。 諸侯に推戴された私生児アレクシオスはコンスタンチノーポリに入城し、甥の皇帝と義理の姉を盲目にしたうえ追放。あたらしいビザンツ皇帝に就任した。アレクシオス4世である。 アレクシオス4世は強欲で癇癪もちであったが、勇敢かつ勤勉で、ギリシャ正教の古典につうじた当代随一の学者でもあった。 彼はコンスタンチノーポリ総主教とも対等に神学上の議論もできる英才であり、グルジア女王を妻にもつなど外国とのコネクションも抜群だった。 しかし彼の前半生は私生児のため厳しいもので、その苦難が彼の克己をうみ、その陶冶された人格をつちかったものと思われる。 また彼は美食家でもあり、たびたび宮廷で豪奢な食事--地中海やカフカース山脈の山海の珍味--をあじわった。そのため民衆からは「ふとっちょ」と呼ばれて親しまれた。 #ref(20.jpg,nolink) 「ふとっちょ」のアレクシオス4世。 *女王タマルの深謀遠慮 [#f7645e32] トビリシの宮廷で、タマルは一人夜空を眺めていた。 夫アレクシオスはいまやビザンツ帝国の皇帝だ。そして私の王国は、帝国の武装せる腕(かいな)としてカフカース山脈で遊牧民と異教徒たちに相対している。 はたして、ビザンツ帝国はこのさき生き残ることができるのだろうか? #ref(22.jpg,nolink) 13世紀はじめの東地中海。内乱のあとのビザンツ帝国とグルジア王国。 アナトリア半島ではカトリック教徒たちの十字軍運動によってルームスルタンが後退し、十字軍国家が建国されている((スコットランド(青色)の領土を指している。))。 エジプトのアユビット朝はいぜん、強力な統一国家を維持しており、イェルサレム王国を包囲している。 しかしシリアは混沌としており、ペルシャも分裂状態、ヴォルガのクマン族は滅亡するなど、いくつかの外敵はほろびさった。 ドナウ河の向こうには正教国のブルガリア王国とセルビア王国をはさんで、ハンガリー王国がかなり強力な王権を保っている。 女王タマルは東地中海の政治情勢を頭に描きながら、いくつかの布石をうつことにした。 #ref(21.jpg,nolink) バグラトゥニ家のハウスツリー。 女王タマルと皇帝アレクシオス4世のあいだには四男二女がいた。 タマルはドナウ河に特使をおくり、そのうち長男ギオルギをブルガリアの第一王女と、次男アンドロニクをセルビアの第一王女と婚姻させた。 のちギオルギがビザンツ皇帝位を継いだときに備え、ドナウ河の守りを確固たるものにしようという彼女の深謀遠慮だった。 さらに、他の子供たちも近隣の王国や公国につぎつぎと嫁いでいった。 *女王タマルの晩年 [#w819acdb] 1221年、アレクシオス4世が崩御された。享年51。 アレクシオスとタマルの息子であるギオルギが、ギオルギ1世として即位した。 これでコムネノス朝はほんとうに崩壊し、バグラトゥニ朝ビザンツ帝国が成立したことになる。 #ref(23.jpg,nolink) 皇帝ギオルギ1世。細君はブルガリア王女。継承者は息子のイオアネス。ギオルギ1世は1227年には陣没し、イオアネス3世が即位する。 女王タマルは満ち足りた気持ちだった。 父に預けられたグルジア王国の富国強兵は果たしたし、夫の帝国は円満に引き継がせることに成功した。 ドナウ河の安全保障は婚姻政策により万全で、ヴォルガ河のライバルはロシア人に打ち倒されて崩壊した。アナトリア半島では勢力を順調に回復している。アユビット朝はまだまだ強大だが、復興する帝国はもし彼らと戦争になっても十分たたかえるだろう。 しかし、彼女は知らなかった。 はるか東方から、セルジュークやクマン族よりも強大な部族が馬蹄の音をひびかせてキリスト教世界に接近していることを。 #ref(24.jpg,nolink) ハンのなかのハン。 #ref(25.jpg,nolink) 金色(こんじき)の陣幕。 女王タマルは1234年の暮れに亡くなった。 グルジア王国は正統な継承者であるビザンツ皇帝イオアネス3世が継いだ。 [[AAR/スクショで見る十字軍物語/バグラトゥニ家/イオアネス3世]]
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[[AAR/スクショで見る十字軍物語/バグラトゥニ家]] #ref(6.jpg,nolink) タマラ1世。在位1185-1236 &br; *11世紀から12世紀にかけての東地中海の政治情勢 [#qfeeb770] バグラト4世ののちも、グルジア王国はカフカース山脈でその命脈を保った。 ビザンツ帝国は幾度のもの政変と陰謀のあと、12世紀にはコムネノス家が帝位をおさめた。 ラテンの異端たちは11世紀の終わり頃から二度にわたる十字軍を敢行し、パレスチナにイェルサレム王国を建国した。 #ref(7.jpg,nolink) 1185年の東地中海。 1185年、タマル女王が即位したときも、バルカン半島からカフカース山脈にかけて大きな勢力の変化はなかった。 ビザンツとアラニア公国はグルジア王国のよき同盟国だった。ただ、ムスリムの王朝は栄枯盛衰がすくなからずあった。アナトリア半島にはルームスルタンが誕生しており、代わりにセルジュークが没落して、エジプトからシリアにかけてはアユビット朝が統一政権をつくっていた。 *コムネノス家とバグラトゥニ家 [#k2386bfa] グルジア王ギオルギ3世には二人の娘がいた。 長女ルスダンと次女タマルである。 #ref(8.jpg,nolink) ルスダンとタマル。 ギオルギは長女ルスダンをビザンツ皇帝の長男に嫁がせ、次女タマルを共同統治者に任命してグルジア女王とした。 このときのビザンツ皇帝は、史実ではコムネノス朝最後の皇帝となったアンドロニコス1世。史実では国内改革のために恐怖政治をしいて民心を離反させ、イサキオス・アンゲロス((アンゲロス朝の最初の皇帝。))の反乱をまねいて帝位を追われた人物である。コムネノス家はその後、グルジア王国の助力に頼って1204年の第四回十字軍の際にアナトリア半島にトレビゾント帝国を建国するが、これは事実上グルジア女王タマルの傀儡国家だった。 さて、こうした史実からも分かるように、コムネノス家とバグラトゥニ家は縁浅からぬ関係にある。 このようなビザンツ帝国とグルジア王国の関係は、のちのち重要になってくるので、ぜひ頭の片隅にいれておいてほしい。 #ref(9.jpg,nolink) グルジア女王タマル1世。「影の実力者」。 タマル女王はまだ未婚であり、結婚相手をさがさなければならない。 史実のようにロシア人貴族などから花婿候補を見つけてきてもよかったのだが、ビザンツ皇帝に一人、適齢期の男子がいたのでもらいうけることにした。 #ref(10.jpg,nolink) 花婿アレクシオスは皇帝の二番目の息子であったが、私生児だったため宮廷では冷遇された。そのため皇帝は彼の母系結婚を容認した。 グルジア王女タマル1世とビザンツ皇帝の庶子アレクシオスの結婚式はトビリシの宮廷で盛大に行われた。 タマルはこれによってビザンツとの同盟関係が強化されたことを喜び、ムスリムのジハードに対抗できる強力な安全保障を手に入れたと確信した。 しかし史実と同じくコムネノス家は陰謀と謀略にまみれた宮廷だった。 暗殺、中傷、肉刑、戦争はコムネノス朝ビザンツ帝国にとっては日常茶飯事だった。 こうした事件にまきこまれることはタマルにとっても本意ではなかった。 とはいえ、幸いアレクシオスは私生児だったために継承順位も低く、謀略の中心からは離れた位置にいた。 問題は皇帝アンドロニコス1世と、継承順位第一位の皇太子マヌエルである。 彼らの周囲ではつねに陰謀が企てられていた。 #ref(11.jpg,nolink) ビザンツ皇帝アンドロニコス1世 #ref(12.jpg,nolink) ビザンツの皇太子マヌエル。彼の配偶者はグルジア王女ルスダン(タマラの姉)。 コムネノス朝ビザンツ帝国の継承法は、選挙制ではなく、親族均等相続制であった。 これはギリシャ貴族たちの大きな反感を買っていた。この反感を暴力で抑え込めるのは、常備軍を一手に握る皇帝アンドロニコス1世だけだった。 しかし皇帝は老齢であり、皇太子の子供--皇太孫--はまだ幼い子供だった。 ということは、つぎのような仮定をしてみることも無駄ではあるまい。つまり、もし、皇太子が不慮の「事故」で継承順位から除かれたら? 老いた皇帝の継承順位第一位は、未成年の皇太孫になる。すると当然、摂政を置く必要がでてくる。つまり、貴族たちの権限が強化される。継承法は選挙制に戻せるかもしれないし、運が良ければ、皇帝の玉座を陰謀によって掴むことができるかもしれない。 #ref(13.jpg,nolink) ビザンツ帝国に陰謀はつきもの 結論から言うと、皇太子マヌエルは早逝した。 これが皇太子の病弱によるものなのか、それとも何者かの陰謀によるものなのかは分からない。 とにかく皇太子は死んだ。 そして老いた皇帝の死も間近だ! *タマルとアレクシオス [#o92a9ff0] グルジア女王タマル1世の治世の話に戻ろう。 女王は「円熟した宰相」であり、外交力21の偉大な君主だった。 グルジア王国には二人の公爵と二か国の同盟国があり、彼らがヴォルガの遊牧民とアジアの異教徒から王国を防衛するために大きな役割を果たしていることは明らかだった。 彼らとの渉外はすべてタマル女王が務め、その卓越した外交力は王国と公国、王国と同盟国との関係を維持強化するのを大きく助けた。 しかしグルジア王国配下の一人、公爵ダガト2世はいつの頃からか独立の野心を抱くようになり、王国の支配に不満を覚えるようになっていた。 タマルは幾人かの特使をおくって公爵の懐柔に努め、黒海貿易の重要な利権の問題でさえ彼に譲歩したが、この野心家をけっして満足させることはできなかった。 タマルは優握な支配を得意としていたが、もちろん苛烈な手段が苦手というわけではなかった。 彼女は公爵の独立が不可避と見るや、機先を制して陰謀を計画し、ウラで賛同者を募って公爵を暗殺してしまった。 #ref(14.jpg,nolink) ある公爵の死 この断固たる処置にグルジア貴族たちはおそれおののいた。 君主は愛されるよりも恐れられてほうが良い。 タマルはのちに有名になるこの政治的確言に忠実であった。 #ref(15.jpg,nolink) 私生児アレクシオス。タマルの夫。 しかし家庭ではタマルは良き妻であった。 アレクシオスは愛妻家で、タマルを愛した。タマルもまた彼をよく愛した。 この幸せなカップルの間には四人の男子と、二人の女子が授けられた。 だがそうした幸せは長くは続かなかった。 1195年、ビザンツ皇帝アンドロニコス1世が崩御した。 史実ではその苛烈な支配のためにイサキオス・アンジェロスの反乱をまねき、コムネノス朝を滅亡に追い込んで路上で暴徒に殺された君主だが、この世界では天寿をまっとうしたといえるだろう。 前述のように皇太子マヌエルは若死にしていたので、ビザンツの帝冠はまだ幼さの残る皇太孫の頭に被せられた。 ビザンツはアンドロニコス1世の独断的な改革によって親族均等相続制の継承法をとっていたので、皇帝の直轄領は息子たちに分配された。 皇帝の次男、私生児アレクシオスもまた、その遺産の一部を受け取ることになっていた。 #ref(16.jpg,nolink) キプロス公爵アレクシオス アレクシオスにはキプロス公爵の地位が与えられた。 彼はグルジア王国を離れて、自分の支配地に赴かねばならなかった。 タマルとアレクシオスの幸せな家庭生活は、こうして終わりを告げた。 アレクシオスがトビリシの宮廷を発つとき、タマルは郊外まで彼を見送ったが、この夫の顔色が憂いをおびていたことを見逃さなかった。 *私生児アレクシオスの反乱 [#jbded671] ビザンツ皇帝位を戴冠した未成年アレクシオス3世は、コンスタンチノープルの廷臣たちに実権を握られ、ほとんど政治にかかわることができなかった。 コンスタンチノープルの廷臣たちの中心人物は、タマルの姉ルスダン(さきの皇太子妃)だった。 これに対して帝国の地方軍閥らは対決姿勢をつよめ、グルジア王国にもたびたび未成年アレクシオス廃立の陰謀の勧誘がきている。 #ref(19.jpg,nolink) てづくり感あふれるコムネノス家とバグラトゥニ家の家系図。 首都の廷臣たちと地方の公爵たちの対立は激化し、ついに沸点を突破した。 #ref(17.jpg,nolink) 未成年の皇帝を要するコンスタンチノープル閥に対して、地方政府が叛乱をおこす ニケーア公爵、 サモス公爵、 キュビライオト公爵、 アドリアノポリス公爵、 アテネ公爵、 アカイア公爵、 エデッサ公爵、 デュラキオン公爵、 そして私生児アレクシオス率いるキプロス公爵が帝国に叛旗をひるがえし、未成年アレクシオスの廃立をもとめて軍事行動を開始した。 #ref(18.jpg,nolink) 私生児アレクシオスが叛乱軍を率いてコンスタンチノーポリに入城 1197年には勝負はけっした。 諸侯に推戴された私生児アレクシオスはコンスタンチノーポリに入城し、甥の皇帝と義理の姉を盲目にしたうえ追放。あたらしいビザンツ皇帝に就任した。アレクシオス4世である。 アレクシオス4世は強欲で癇癪もちであったが、勇敢かつ勤勉で、ギリシャ正教の古典につうじた当代随一の学者でもあった。 彼はコンスタンチノーポリ総主教とも対等に神学上の議論もできる英才であり、グルジア女王を妻にもつなど外国とのコネクションも抜群だった。 しかし彼の前半生は私生児のため厳しいもので、その苦難が彼の克己をうみ、その陶冶された人格をつちかったものと思われる。 また彼は美食家でもあり、たびたび宮廷で豪奢な食事--地中海やカフカース山脈の山海の珍味--をあじわった。そのため民衆からは「ふとっちょ」と呼ばれて親しまれた。 #ref(20.jpg,nolink) 「ふとっちょ」のアレクシオス4世。 *女王タマルの深謀遠慮 [#f7645e32] トビリシの宮廷で、タマルは一人夜空を眺めていた。 夫アレクシオスはいまやビザンツ帝国の皇帝だ。そして私の王国は、帝国の武装せる腕(かいな)としてカフカース山脈で遊牧民と異教徒たちに相対している。 はたして、ビザンツ帝国はこのさき生き残ることができるのだろうか? 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