AAR/シーア派は砕けない/Caliph Yahya①
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Caliph Yahya①
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[[AAR/シーア派は砕けない]] **イスラム世界の情勢(891)年 [#xd96d837] Yahyaがカリフを称した年はイスラム世界では激動の年であった。 まず中東においては、アッバース朝が慣習的領土の回復を目指してペルシアのサッファール朝に戦を仕掛けた。サッファール朝は善戦するも、終始アッバース朝が優勢に戦を進め勝利する。 イスラム世界にアッバース帝国の健在ぶりを示す戦となった。 #ref(ペルシア戦役.jpg) ペルシアの王はアッバース家に頭を垂れた 次にイベリア半島においては、キリスト教軍が後ウマイヤ朝に対し大攻勢出た。しかし、この大攻勢は大失敗に終わる。アストリアス王を中心とする「レオンレコンキスタ」軍はキリスト教勢力が戦を仕掛けてくることを予期していた後ウマイヤ朝によって阻まれたのである。 #ref(レオンレコンキスタ.jpg) キリスト教軍は連携が取れず、各個撃破された。 **変化 [#seb208c8] このような情勢の中でイドリース家においても少しづつではあるが変化が訪れていた。 カリフを名乗ったことにより、周辺諸国のイドリース朝を見る目が明らかに変わったのである。 旅の一団が王宮を訪れたのは、Yahyaが即位を宣言した2か月後のことであった。遊興を生業とするその一団はあらゆる方法でYahyaの即位を讃えた。一団による過剰なまでの称賛にYahyaも満足気であった。 #ref(吟遊詩人.jpg) しかし、密偵頭を務めていたBuxtucはこの一団の素性を怪しみ、Yahyaに傍に近づけないように進言する。しかしYahyaは自分を褒め称え楽しませてくれる一団を厚遇することを辞めず、Buxtucの進言を退けた。 #ref(事件.jpg) 後にこの一団がイドリース王家の内情を探るために某勢力より派遣された密偵であったことが明らかとなり、YahyaはBuxtucに謝罪する。 この出来事はあくまでも氷山の一角であり、カリフを名乗ったイドリース家に周辺諸国は陰で様々な工作活動を行ったようだ。 ''周辺諸国との間に生じた微妙な関係の変化の中で、イドリース朝は今まで以上に上手く立ち回らなければならなくなったのであった。'' **東へ [#zfac7688] イスラム歴269(西暦891)年7月。Yahyaに目通りを願い出る者があった。目通りを願い出たのは、最近チュニスより移住してきたある若者であった。 Yahyaは目通りを許した。 &ref(yahyaアイコン.jpg); 用件は何だ? 若者「はっ!陛下、今こそアフリカ王国を征伐するべき時かと考えます。 Yahyaは予期せぬ若者の発言に驚きと疑りの表情を浮かべる。 &ref(yahyaアイコン.jpg); 突然何を言いおるか。何故そなたはそう考える? 若者「私は最近までアフリカ王国の都,チュニスにおりました。彼の国の内情は知り尽くしております。今が攻め時なのです。」 &ref(yahyaアイコン.jpg); 何故攻め時なのだ?質問に答えよ。 若者「現在彼の国は疲弊しきっております。王が数年前に始めたシチリア島に対する聖戦が泥沼化していることが原因です。戦費を賄うために頻繁に臨時徴税を行った結果、民衆の心は完全に王家から離れております。今陛下が兵を進めれば、アフリカ王国の民は喜んで陛下を迎え入れるでしょう。」 #ref(アフリカ王苦戦.jpg) アフリカ王の始めたシチリア聖戦は敗色が濃厚となっていた。戦は長期化し、配下の諸侯の不満も高 まっていた。 &ref(yahyaアイコン.jpg); 成程のう、言いたいことはわかった。しかし、アフリカ王国はそなたの故郷であろう。何故故郷に仇なす進言をするのだ? 若者「陛下の疑問はごもっともです。私はかつてアフリカ王家に仕える武人でした。しかし、シーア派を信仰しているというだけで地位を追われ家族を殺されました。故郷には恨みしかありません。」 &ref(yahyaアイコン.jpg); 左様か…。よくわかった。そなたの進言、考えておこう。 Yahyaがアフリカ王国に密偵を派遣してみると、確かに若者の言う通りであった。 &ref(yahyaアイコン.jpg); アフリカ王国…。いつかは戦わねばならぬ相手、ならば今が好機か…。 Yahyaはいつでも軍を動かせるように準備するよう将軍たちに命じた。 **アフリカ戦役 [#ba380206] 翌年のイスラム歴270(892)年2月。エジプトを統治していたTulunid朝との間に婚姻同盟が成立した。 #ref(エジプト婚姻.jpg) この同盟によって、アフリカ王国の背後に控えるエジプトが介入してくることは無いと判断したYahyaはアフリカ王国に対し、後世で「''アフリカ戦役''」と呼ばれることになる征服戦争を仕掛ける。 #ref(戦争開始.jpg) 都tunisに向けて一路進軍するイドリース朝軍 イドリース朝軍のチュニス進撃を阻止するためチュニス近郊に陣を構えていたアフリカ王の主力軍の撃破に成功し、イドリース朝軍はチュニスの包囲を開始した。 #ref(BIZERETEの戦い.jpg) Bizerteの戦い #ref(チュニス包囲.jpg) tunisを包囲するイドリース朝軍 後は掃討戦である、そう確信していたYahyaの元に衝撃の報せが届く。 #ref(裏切り.jpg) 婚姻同盟を結んだはずのエジプト,Tulunid朝が突如、アフリカ王側で参戦を表明したのだ。 同名相手の卑劣な裏切り行為にYahyaは激怒し、全軍にエジプトからの援軍に備えるように命じた。 しかしながら、結果的にエジプトからの援軍は間に合わなかった。チュニス及び周辺都市を包囲するイドリース朝軍の容赦のない兵糧攻めの前にアフリカ王は白旗を掲げたのだ。 もしもアフリカ王が根を上げるよりも早くエジプトの援軍が来ていたらイドリース朝の勝利は危うかったであろう。 天はYahyaに味方したのだ。 #ref(和平.jpg) #ref(勝利後の図.jpg) 戦後のイドリース朝。一部アフリカ王の領地が残っている。 ''かくして、イドリース朝はアフリカ王国の大部分を版図に収め、さらに東へと勢力を拡大したのであった。''
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[[AAR/シーア派は砕けない]] **イスラム世界の情勢(891)年 [#xd96d837] Yahyaがカリフを称した年はイスラム世界では激動の年であった。 まず中東においては、アッバース朝が慣習的領土の回復を目指してペルシアのサッファール朝に戦を仕掛けた。サッファール朝は善戦するも、終始アッバース朝が優勢に戦を進め勝利する。 イスラム世界にアッバース帝国の健在ぶりを示す戦となった。 #ref(ペルシア戦役.jpg) ペルシアの王はアッバース家に頭を垂れた 次にイベリア半島においては、キリスト教軍が後ウマイヤ朝に対し大攻勢出た。しかし、この大攻勢は大失敗に終わる。アストリアス王を中心とする「レオンレコンキスタ」軍はキリスト教勢力が戦を仕掛けてくることを予期していた後ウマイヤ朝によって阻まれたのである。 #ref(レオンレコンキスタ.jpg) キリスト教軍は連携が取れず、各個撃破された。 **変化 [#seb208c8] このような情勢の中でイドリース家においても少しづつではあるが変化が訪れていた。 カリフを名乗ったことにより、周辺諸国のイドリース朝を見る目が明らかに変わったのである。 旅の一団が王宮を訪れたのは、Yahyaが即位を宣言した2か月後のことであった。遊興を生業とするその一団はあらゆる方法でYahyaの即位を讃えた。一団による過剰なまでの称賛にYahyaも満足気であった。 #ref(吟遊詩人.jpg) しかし、密偵頭を務めていたBuxtucはこの一団の素性を怪しみ、Yahyaに傍に近づけないように進言する。しかしYahyaは自分を褒め称え楽しませてくれる一団を厚遇することを辞めず、Buxtucの進言を退けた。 #ref(事件.jpg) 後にこの一団がイドリース王家の内情を探るために某勢力より派遣された密偵であったことが明らかとなり、YahyaはBuxtucに謝罪する。 この出来事はあくまでも氷山の一角であり、カリフを名乗ったイドリース家に周辺諸国は陰で様々な工作活動を行ったようだ。 ''周辺諸国との間に生じた微妙な関係の変化の中で、イドリース朝は今まで以上に上手く立ち回らなければならなくなったのであった。'' **東へ [#zfac7688] イスラム歴269(西暦891)年7月。Yahyaに目通りを願い出る者があった。目通りを願い出たのは、最近チュニスより移住してきたある若者であった。 Yahyaは目通りを許した。 &ref(yahyaアイコン.jpg); 用件は何だ? 若者「はっ!陛下、今こそアフリカ王国を征伐するべき時かと考えます。 Yahyaは予期せぬ若者の発言に驚きと疑りの表情を浮かべる。 &ref(yahyaアイコン.jpg); 突然何を言いおるか。何故そなたはそう考える? 若者「私は最近までアフリカ王国の都,チュニスにおりました。彼の国の内情は知り尽くしております。今が攻め時なのです。」 &ref(yahyaアイコン.jpg); 何故攻め時なのだ?質問に答えよ。 若者「現在彼の国は疲弊しきっております。王が数年前に始めたシチリア島に対する聖戦が泥沼化していることが原因です。戦費を賄うために頻繁に臨時徴税を行った結果、民衆の心は完全に王家から離れております。今陛下が兵を進めれば、アフリカ王国の民は喜んで陛下を迎え入れるでしょう。」 #ref(アフリカ王苦戦.jpg) アフリカ王の始めたシチリア聖戦は敗色が濃厚となっていた。戦は長期化し、配下の諸侯の不満も高 まっていた。 &ref(yahyaアイコン.jpg); 成程のう、言いたいことはわかった。しかし、アフリカ王国はそなたの故郷であろう。何故故郷に仇なす進言をするのだ? 若者「陛下の疑問はごもっともです。私はかつてアフリカ王家に仕える武人でした。しかし、シーア派を信仰しているというだけで地位を追われ家族を殺されました。故郷には恨みしかありません。」 &ref(yahyaアイコン.jpg); 左様か…。よくわかった。そなたの進言、考えておこう。 Yahyaがアフリカ王国に密偵を派遣してみると、確かに若者の言う通りであった。 &ref(yahyaアイコン.jpg); アフリカ王国…。いつかは戦わねばならぬ相手、ならば今が好機か…。 Yahyaはいつでも軍を動かせるように準備するよう将軍たちに命じた。 **アフリカ戦役 [#ba380206] 翌年のイスラム歴270(892)年2月。エジプトを統治していたTulunid朝との間に婚姻同盟が成立した。 #ref(エジプト婚姻.jpg) この同盟によって、アフリカ王国の背後に控えるエジプトが介入してくることは無いと判断したYahyaはアフリカ王国に対し、後世で「''アフリカ戦役''」と呼ばれることになる征服戦争を仕掛ける。 #ref(戦争開始.jpg) 都tunisに向けて一路進軍するイドリース朝軍 イドリース朝軍のチュニス進撃を阻止するためチュニス近郊に陣を構えていたアフリカ王の主力軍の撃破に成功し、イドリース朝軍はチュニスの包囲を開始した。 #ref(BIZERETEの戦い.jpg) Bizerteの戦い #ref(チュニス包囲.jpg) tunisを包囲するイドリース朝軍 後は掃討戦である、そう確信していたYahyaの元に衝撃の報せが届く。 #ref(裏切り.jpg) 婚姻同盟を結んだはずのエジプト,Tulunid朝が突如、アフリカ王側で参戦を表明したのだ。 同名相手の卑劣な裏切り行為にYahyaは激怒し、全軍にエジプトからの援軍に備えるように命じた。 しかしながら、結果的にエジプトからの援軍は間に合わなかった。チュニス及び周辺都市を包囲するイドリース朝軍の容赦のない兵糧攻めの前にアフリカ王は白旗を掲げたのだ。 もしもアフリカ王が根を上げるよりも早くエジプトの援軍が来ていたらイドリース朝の勝利は危うかったであろう。 天はYahyaに味方したのだ。 #ref(和平.jpg) #ref(勝利後の図.jpg) 戦後のイドリース朝。一部アフリカ王の領地が残っている。 ''かくして、イドリース朝はアフリカ王国の大部分を版図に収め、さらに東へと勢力を拡大したのであった。''
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戦争開始.jpg
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吟遊詩人.jpg
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エジプト婚姻.jpg
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レオンレコンキスタ.jpg
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勝利後の図.jpg
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ペルシア戦役.jpg
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裏切り.jpg
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BIZERETEの戦い.jpg
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事件.jpg
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yahyaアイコン.jpg
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チュニス包囲.jpg
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アフリカ王苦戦.jpg
607件
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