AAR/アルプス騎士道物語/第五代 ラインハルト・フォン・レンツブルク
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第五代 ラインハルト・フォン・レンツブルク
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[[AAR/アルプス騎士道物語]] *第五代当主 ラインハルト・フォン・レンツブルク [#x5af1a9f] > >&ref(h05.jpg,nolink); < > > ラインハルトはブルグント王アドルフの長男として生まれた。母アガテはライネック家の出身。妻クリスティナは帝国のイベリア遠征で名を馳せた新興貴族マクデブルク家の出身である。王太子時代にジュネーヴ伯に封じられ、のちドーフィネ公に封じられる。1225年に父の死去に伴い46歳でブルグント王に即位した。 < **本紀 [#n2f491aa] > > ラインハルトは王位に就くと遷都を実施した。先王アドルフはサヴォイア公時代からザンクト・ガレンに政庁を置いて拠点としていたが、レンツブルク家歴代の拠点であるベルンを首都に定めたのである。続いて領内封地の再編を行い、ドーフィネ公爵位をフォレ伯爵に譲ったほか、2つ伯爵位を家臣に与えている。一方、帝国内の情勢であるが、新たな内乱の火種が生まれていた。1126年8月、ペーター2世皇帝の大叔父でジェルバ伯のロタール・ウードが帝位を僭称して蜂起したのである。その背後にはボヘミア王の存在があった。 < > >&ref(122500_2.jpg,nolink); ''&size(12){ボヘミア王も何の目論見があってこんな真似を};'' < > > 帝国内はこのような状態であったが、1126年12月に教皇シンプリキウスにより、シーア派カリフによる圧迫を受けているイェルサレムを救援するための十字軍が招集された。これにラインハルトはいち早く参加を表明している。帝国内の反乱は早期に平定されると見て、異教徒との戦いを優先したのである。 < > >&ref(122612_1.jpg,nolink); ''&size(12){神のために戦って、富と名声を手に入れろ};'' < > > ラインハルトはヴェネツィア海軍を雇い、およそ1万の軍勢をベイルートへ送り込んだ。山国ブルグントの騎士達にとっては、波穏やかな地中海とはいえ船酔いが最大の敵であったという。なお、今回で3回目となる十字軍にはコーンウォール公、ベッドフォード公などのブリタニア諸侯のほかはスウェーデン女王などが参加していたが、フランスや他の帝国諸侯の参戦はなかった。3年ほどかけてベイルートの全ての市城を陥落させて、州全域を占領下に置いた。 < > >&ref(122612_2.jpg,nolink); ''&size(12){やっぱり十字軍の本場は中東だ};'' < > < > >&ref(122612_3.jpg,nolink); ''&size(12){他の連中に負けるな};'' < > > 遠征は順調に進むかに見えたが、ブルグント軍は1229年7月にジュルニーの戦いでイスラム軍の主力と交戦して敗北を喫した。残存兵力のみで占領地を維持することが困難となったため、ラインハルトはベイルートを放棄して、本国で体勢を立て直すことを決断した。 < > >&ref(122907.jpg,nolink);~ ''&size(12){常勝の天才と呼ばれた私が負けるとは(嘘)};'' < > < > >&ref(122907_2.jpg,nolink); ''&size(12){敗北ではない。戦略的撤退だ};'' < > > 1230年に再度軍勢を整え、成年したばかりのアドルフ王太子を総大将に据えた。今回はシーア派カリフが南ギリシャに持つ属領に上陸する。わずかな迎撃軍を蹴散らすと、メトネの攻略を開始した。 < > >&ref(123007.jpg,nolink); ''&size(12){息子はまだ若いが経験を積ませるには良い機会だ};'' < > > アドルフ王太子の指揮の下、ギリシャでの占領は終始順調に進み、1233年にはメトネ全州を占領。アカイア、モネンヴァシアの攻略に移っていた。イスラム側には援軍もなく、ギリシャ領の制圧は確実と思われていた。 < > >&ref(123309.jpg,nolink); ''&size(12){今のところ我が国が十字軍の一番手柄だが};'' < > > しかし、帝国の情勢の変化がブルグント王国の十字軍に影響を与えつつあった。1226年から続いてたロタール・ウードの反乱が、いまや帝国全土に広がる勢いを得ていたのである。当初ロタール・ウードを支援していたのはボヘミア王だけであったが、帝国軍が平定に手間取る中、バイエルン公、ブランズヴィック公、バーデン公などの有力諸侯が次々とロタール・ウード側に付き、イタリア・イベリア戦争以来の大乱となっていた。ブルグントも兵力の大半を十字軍に派遣している中で、ラインハルト自ら手勢を率いて帝国軍を支援して、各地の反乱軍と戦っていた。 < > >&ref(123101.jpg,nolink); ''&size(12){大変なことになっている!};'' < > > 1235年5月30日。ラインハルトはペーター2世に従い、ブラウンシュヴァイク公エルンスト3世に包囲されたライニンゲン城の救援に向かうが、これは激戦となった。ラインハルトは皇帝の本隊に突進してきたエルンスト3世の部隊を防ぐことができず、乱戦の最中に戦死を遂げた。享年56歳。なお、この戦いでは皇帝ペーター2世も行方不明になり、後に戦死が確認されている。29歳であった。 < > >&ref(123505_1.jpg,nolink); > > >&ref(123505_2.jpg,nolink); ''&size(12){殿も枕を並べて討ち死にだな};'' < **プレイヤーズノート [#vfba2327] > > 当主が初めての戦死です。次回は久々に若い当主が登場ですが、どうなっていくのでしょうか。 <
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[[AAR/アルプス騎士道物語]] *第五代当主 ラインハルト・フォン・レンツブルク [#x5af1a9f] > >&ref(h05.jpg,nolink); < > > ラインハルトはブルグント王アドルフの長男として生まれた。母アガテはライネック家の出身。妻クリスティナは帝国のイベリア遠征で名を馳せた新興貴族マクデブルク家の出身である。王太子時代にジュネーヴ伯に封じられ、のちドーフィネ公に封じられる。1225年に父の死去に伴い46歳でブルグント王に即位した。 < **本紀 [#n2f491aa] > > ラインハルトは王位に就くと遷都を実施した。先王アドルフはサヴォイア公時代からザンクト・ガレンに政庁を置いて拠点としていたが、レンツブルク家歴代の拠点であるベルンを首都に定めたのである。続いて領内封地の再編を行い、ドーフィネ公爵位をフォレ伯爵に譲ったほか、2つ伯爵位を家臣に与えている。一方、帝国内の情勢であるが、新たな内乱の火種が生まれていた。1126年8月、ペーター2世皇帝の大叔父でジェルバ伯のロタール・ウードが帝位を僭称して蜂起したのである。その背後にはボヘミア王の存在があった。 < > >&ref(122500_2.jpg,nolink); ''&size(12){ボヘミア王も何の目論見があってこんな真似を};'' < > > 帝国内はこのような状態であったが、1126年12月に教皇シンプリキウスにより、シーア派カリフによる圧迫を受けているイェルサレムを救援するための十字軍が招集された。これにラインハルトはいち早く参加を表明している。帝国内の反乱は早期に平定されると見て、異教徒との戦いを優先したのである。 < > >&ref(122612_1.jpg,nolink); ''&size(12){神のために戦って、富と名声を手に入れろ};'' < > > ラインハルトはヴェネツィア海軍を雇い、およそ1万の軍勢をベイルートへ送り込んだ。山国ブルグントの騎士達にとっては、波穏やかな地中海とはいえ船酔いが最大の敵であったという。なお、今回で3回目となる十字軍にはコーンウォール公、ベッドフォード公などのブリタニア諸侯のほかはスウェーデン女王などが参加していたが、フランスや他の帝国諸侯の参戦はなかった。3年ほどかけてベイルートの全ての市城を陥落させて、州全域を占領下に置いた。 < > >&ref(122612_2.jpg,nolink); ''&size(12){やっぱり十字軍の本場は中東だ};'' < > < > >&ref(122612_3.jpg,nolink); ''&size(12){他の連中に負けるな};'' < > > 遠征は順調に進むかに見えたが、ブルグント軍は1229年7月にジュルニーの戦いでイスラム軍の主力と交戦して敗北を喫した。残存兵力のみで占領地を維持することが困難となったため、ラインハルトはベイルートを放棄して、本国で体勢を立て直すことを決断した。 < > >&ref(122907.jpg,nolink);~ ''&size(12){常勝の天才と呼ばれた私が負けるとは(嘘)};'' < > < > >&ref(122907_2.jpg,nolink); ''&size(12){敗北ではない。戦略的撤退だ};'' < > > 1230年に再度軍勢を整え、成年したばかりのアドルフ王太子を総大将に据えた。今回はシーア派カリフが南ギリシャに持つ属領に上陸する。わずかな迎撃軍を蹴散らすと、メトネの攻略を開始した。 < > >&ref(123007.jpg,nolink); ''&size(12){息子はまだ若いが経験を積ませるには良い機会だ};'' < > > アドルフ王太子の指揮の下、ギリシャでの占領は終始順調に進み、1233年にはメトネ全州を占領。アカイア、モネンヴァシアの攻略に移っていた。イスラム側には援軍もなく、ギリシャ領の制圧は確実と思われていた。 < > >&ref(123309.jpg,nolink); ''&size(12){今のところ我が国が十字軍の一番手柄だが};'' < > > しかし、帝国の情勢の変化がブルグント王国の十字軍に影響を与えつつあった。1226年から続いてたロタール・ウードの反乱が、いまや帝国全土に広がる勢いを得ていたのである。当初ロタール・ウードを支援していたのはボヘミア王だけであったが、帝国軍が平定に手間取る中、バイエルン公、ブランズヴィック公、バーデン公などの有力諸侯が次々とロタール・ウード側に付き、イタリア・イベリア戦争以来の大乱となっていた。ブルグントも兵力の大半を十字軍に派遣している中で、ラインハルト自ら手勢を率いて帝国軍を支援して、各地の反乱軍と戦っていた。 < > >&ref(123101.jpg,nolink); ''&size(12){大変なことになっている!};'' < > > 1235年5月30日。ラインハルトはペーター2世に従い、ブラウンシュヴァイク公エルンスト3世に包囲されたライニンゲン城の救援に向かうが、これは激戦となった。ラインハルトは皇帝の本隊に突進してきたエルンスト3世の部隊を防ぐことができず、乱戦の最中に戦死を遂げた。享年56歳。なお、この戦いでは皇帝ペーター2世も行方不明になり、後に戦死が確認されている。29歳であった。 < > >&ref(123505_1.jpg,nolink); > > >&ref(123505_2.jpg,nolink); ''&size(12){殿も枕を並べて討ち死にだな};'' < **プレイヤーズノート [#vfba2327] > > 当主が初めての戦死です。次回は久々に若い当主が登場ですが、どうなっていくのでしょうか。 <
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