AAR/アルプス騎士道物語/初代 ウルリヒ・フォン・レンツブルク
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初代 ウルリヒ・フォン・レンツブルク
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[[AAR/アルプス騎士道物語]] *初代当主 ウルリヒ・フォン・レンツブルク [#i1997668] >&ref(h01.jpg,nolink); > ウルリヒ以前のレンツブルク家はアールガウ北部の小城の主であったということしか判っていない。貴族であったことは間違いないようだが、歴史でその名が語られるのはウルリヒの代が最初である。時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世よりベルン州のキブルク城を与えられて、ベルン伯を称するようになったという。ウルリヒは武勇に優れた人物で、その封爵も武功によるものであったことは疑いもないだろう。アールガウ伯のハプスブルク家から妻を取り、3人の息子をなしている。ハインリヒ2世が亡くなると、その息子でまだ幼かったハインリヒ3世に仕えている。 **本紀 [#ib7bcbb8] > 皇帝ハインリヒ3世はまだ若かったため、それを軽んじた諸侯により帝国内は安定せず、1066年にはベルン南西のサヴォイア公が独立を試みて反旗を翻した。ウルリヒも自ら兵を率いて馳せ参じたが、これという功績を挙げた記録は残っていない。同年、ウルリヒはブルゴーニュ公の長女を長男ルドルフの妻に迎えている。この年の末には初孫コティルダにも恵まれた。 >&ref(106609_2.jpg,nolink); &size(12){''サヴォイアの城を包囲するぞ''}; >&ref(106609_3.jpg,nolink); &size(12){''しかし兵力が足りなかった!''}; >&ref(106609_1.jpg,nolink); &size(12){''なかなかの良縁だな''}; >&ref(106612.jpg,nolink); &size(12){''初孫が生まれた。女の子だ!''}; > 1068年までにはサヴォイアの乱は平定された。これを機にハインリヒ3世は帝国内での王権の強化を進めていく。 >&ref(106807.jpg,nolink); &size(12){''王権が強まれば、良いこともあれば悪いこともある''}; > ハインリヒ3世は権威法の制定が上手くいったとみて、同年の年末にはポメラニアの蛮族征伐に乗り出した。無論ウルリヒも参戦して、戦役中に発生したザテクの戦いでは敵将を捕縛して武名を上げたという。 >&ref(106812.jpg,nolink); &size(12){''いざポメラニアへ''}; >&ref(106912.jpg,nolink); &size(12){''これで我が武名も高まるというもの''}; > この遠征は約3年間にわたったが、帝国軍は各地で勝利を得て、1071年3月に和睦が成立。ポメラニアのおよそ半分を獲得した。ウルリヒは封土を獲得できなかったが、戦利品などで大いに潤ったため、キブルク城下の開発に惜しみもせずに投資を行ったと記録に残されている。翌1072年にはハインリヒ3世により上ブルゴーニュ公爵領創設の勅令が宣下された。上ブルゴーニュ公爵領はウルリヒの領邦ベルンを含み、構成する6州の伯爵による互選でその公爵位が決められることになった。 >&ref(107201_1.jpg,nolink); &size(12){''公爵領が創設された''}; >&ref(107201_2.jpg,nolink); &size(12){''公爵は選挙で決まるようだ''}; > 1075年にはメクレンブルク、1079年には再びポメラニアへとハインリヒ3世は精力的に外征を繰り返し、ウルリヒも皇帝に従いそれらの遠征に加わった。結果、北東の蛮族はほぼ平定され、帝国は広大な版図を得るに至る。ハインリヒ3世が大王と称されるようになったのはこの頃からといわれている。 >&ref(108000_1.jpg,nolink); &size(12){''1080年頃の神聖ローマ帝国''}; >&ref(108000_2.jpg,nolink); &size(12){''ハインリヒ3世大王''}; > 1082年12月、以前から続けられていた選挙の結果、上ブルゴーニュ公爵にはウルリヒの妻の甥でアールガウ伯のオットーが選出された。ウルリヒは公爵位を逃し皇帝の陪臣となることにはショックを隠せなかったようで、当時息子に送った手紙の中にその心情を綴っている。上ブルゴーニュ公となったオットーからは公爵領の元帥に任命された。 >&ref(108212.jpg,nolink); &size(12){''公爵になりたかった''}; > 1080年代はイタリア諸侯の独立運動が活性化して、1083年にはボローニャ公、1088年にはサヴォイア公が再び蜂起している。サヴォイアの蜂起ではベルンがサヴォイア軍の侵攻を受けるが、ウルリヒの率いる軍が撃退している。 >&ref(107000.jpg,nolink); &size(12){''どうだ。領地を守ったぞ''}; > 1090年2月に上ブルゴーニュ公オットーが腸チフスにより30歳の若さで死去し、次期公爵にはオットーの弟マインハルトが選ばれた。当時すでに高齢だったウルリヒは公爵選に出馬していなかったともいう。 >&ref(109002.jpg,nolink); &size(12){''人などいつ死ぬかわからんな。そういえばわしも最近・・・''}; > 果たして翌1091年8月にウルリヒはキブルクの宮廷で倒れ、そのまま目を覚ますことなく、9月8日に72歳で死去した。その生涯の大半を戦場で過ごし、ハインリヒ3世の征く先には常にウルリヒの姿があった。ウルリヒはまた、皇帝の直臣であることに誇りを持っており、上ブルゴーニュ公爵領の創設にまつわるいきさつには複雑な心情があったという。 >&ref(109109.jpg,nolink); ***ウルリヒ・フォン・レンツブルク (1019-1091) [#n2a5290c] >&ref(h02.jpg,nolink); >''ベルン伯 (????-1091)'' ''上ブルゴーニュ公爵領元帥'' **プレイヤーズノート [#q4b46e0f] > 一領伯はなかなかやること(できること)が少ないので書くことにも苦労します。近隣も公爵配下などが多いのでケンカ売るにも売れず。いちいち書いてもつまらないと思うので端折ってますが、ひたすら皇帝の遠征に付き合って、略奪の戦利品で城下を建設するの繰り返しでした。果たして公爵になれる日は来るのか。
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[[AAR/アルプス騎士道物語]] *初代当主 ウルリヒ・フォン・レンツブルク [#i1997668] >&ref(h01.jpg,nolink); > ウルリヒ以前のレンツブルク家はアールガウ北部の小城の主であったということしか判っていない。貴族であったことは間違いないようだが、歴史でその名が語られるのはウルリヒの代が最初である。時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世よりベルン州のキブルク城を与えられて、ベルン伯を称するようになったという。ウルリヒは武勇に優れた人物で、その封爵も武功によるものであったことは疑いもないだろう。アールガウ伯のハプスブルク家から妻を取り、3人の息子をなしている。ハインリヒ2世が亡くなると、その息子でまだ幼かったハインリヒ3世に仕えている。 **本紀 [#ib7bcbb8] > 皇帝ハインリヒ3世はまだ若かったため、それを軽んじた諸侯により帝国内は安定せず、1066年にはベルン南西のサヴォイア公が独立を試みて反旗を翻した。ウルリヒも自ら兵を率いて馳せ参じたが、これという功績を挙げた記録は残っていない。同年、ウルリヒはブルゴーニュ公の長女を長男ルドルフの妻に迎えている。この年の末には初孫コティルダにも恵まれた。 >&ref(106609_2.jpg,nolink); &size(12){''サヴォイアの城を包囲するぞ''}; >&ref(106609_3.jpg,nolink); &size(12){''しかし兵力が足りなかった!''}; >&ref(106609_1.jpg,nolink); &size(12){''なかなかの良縁だな''}; >&ref(106612.jpg,nolink); &size(12){''初孫が生まれた。女の子だ!''}; > 1068年までにはサヴォイアの乱は平定された。これを機にハインリヒ3世は帝国内での王権の強化を進めていく。 >&ref(106807.jpg,nolink); &size(12){''王権が強まれば、良いこともあれば悪いこともある''}; > ハインリヒ3世は権威法の制定が上手くいったとみて、同年の年末にはポメラニアの蛮族征伐に乗り出した。無論ウルリヒも参戦して、戦役中に発生したザテクの戦いでは敵将を捕縛して武名を上げたという。 >&ref(106812.jpg,nolink); &size(12){''いざポメラニアへ''}; >&ref(106912.jpg,nolink); &size(12){''これで我が武名も高まるというもの''}; > この遠征は約3年間にわたったが、帝国軍は各地で勝利を得て、1071年3月に和睦が成立。ポメラニアのおよそ半分を獲得した。ウルリヒは封土を獲得できなかったが、戦利品などで大いに潤ったため、キブルク城下の開発に惜しみもせずに投資を行ったと記録に残されている。翌1072年にはハインリヒ3世により上ブルゴーニュ公爵領創設の勅令が宣下された。上ブルゴーニュ公爵領はウルリヒの領邦ベルンを含み、構成する6州の伯爵による互選でその公爵位が決められることになった。 >&ref(107201_1.jpg,nolink); &size(12){''公爵領が創設された''}; >&ref(107201_2.jpg,nolink); &size(12){''公爵は選挙で決まるようだ''}; > 1075年にはメクレンブルク、1079年には再びポメラニアへとハインリヒ3世は精力的に外征を繰り返し、ウルリヒも皇帝に従いそれらの遠征に加わった。結果、北東の蛮族はほぼ平定され、帝国は広大な版図を得るに至る。ハインリヒ3世が大王と称されるようになったのはこの頃からといわれている。 >&ref(108000_1.jpg,nolink); &size(12){''1080年頃の神聖ローマ帝国''}; >&ref(108000_2.jpg,nolink); &size(12){''ハインリヒ3世大王''}; > 1082年12月、以前から続けられていた選挙の結果、上ブルゴーニュ公爵にはウルリヒの妻の甥でアールガウ伯のオットーが選出された。ウルリヒは公爵位を逃し皇帝の陪臣となることにはショックを隠せなかったようで、当時息子に送った手紙の中にその心情を綴っている。上ブルゴーニュ公となったオットーからは公爵領の元帥に任命された。 >&ref(108212.jpg,nolink); &size(12){''公爵になりたかった''}; > 1080年代はイタリア諸侯の独立運動が活性化して、1083年にはボローニャ公、1088年にはサヴォイア公が再び蜂起している。サヴォイアの蜂起ではベルンがサヴォイア軍の侵攻を受けるが、ウルリヒの率いる軍が撃退している。 >&ref(107000.jpg,nolink); &size(12){''どうだ。領地を守ったぞ''}; > 1090年2月に上ブルゴーニュ公オットーが腸チフスにより30歳の若さで死去し、次期公爵にはオットーの弟マインハルトが選ばれた。当時すでに高齢だったウルリヒは公爵選に出馬していなかったともいう。 >&ref(109002.jpg,nolink); &size(12){''人などいつ死ぬかわからんな。そういえばわしも最近・・・''}; > 果たして翌1091年8月にウルリヒはキブルクの宮廷で倒れ、そのまま目を覚ますことなく、9月8日に72歳で死去した。その生涯の大半を戦場で過ごし、ハインリヒ3世の征く先には常にウルリヒの姿があった。ウルリヒはまた、皇帝の直臣であることに誇りを持っており、上ブルゴーニュ公爵領の創設にまつわるいきさつには複雑な心情があったという。 >&ref(109109.jpg,nolink); ***ウルリヒ・フォン・レンツブルク (1019-1091) [#n2a5290c] >&ref(h02.jpg,nolink); >''ベルン伯 (????-1091)'' ''上ブルゴーニュ公爵領元帥'' **プレイヤーズノート [#q4b46e0f] > 一領伯はなかなかやること(できること)が少ないので書くことにも苦労します。近隣も公爵配下などが多いのでケンカ売るにも売れず。いちいち書いてもつまらないと思うので端折ってますが、ひたすら皇帝の遠征に付き合って、略奪の戦利品で城下を建設するの繰り返しでした。果たして公爵になれる日は来るのか。
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