[[AAR/教皇は太陽、皇帝は月]]
*Bernardo III di Parmaの治世 [#p11ebfe5]

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1245年、ベルナルド二世の息子、ベルナルド三世が即位する。
父親と比べるとお世辞にも有能とはいえず、人望も薄い。
性格のせいもあって、ベルナルドは晩年まで人間関係に頭を悩ませた。

**王国最大の危機 [#sc69557b]
それはベルナルドが即位してちょうど1年近く経った、1246年3月22日のことだった。
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地上最大の王朝であるファティマ朝エジプトがアフリカを求めて宣戦布告。
即位したばかりで傭兵を雇う金もなく、勝てるか怪しいがやるしかない。
4/15:神聖ローマ皇帝が参戦を表明。
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幽閉されている以上どれだけ兵力を出せるかは疑問だが、ありがたく参戦要請を許諾する。
***1247年 [#l6a3964b]
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1/3:敵軍1万8千がアフリカに上陸。
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4/15:諸侯からかきあつめた1万7千の軍をぶつける。若干劣勢。
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4/27:虎の子の常備軍8千が到着。中央の敵将軍が戦死し、戦局が逆転する。
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5/20:なし崩し的に勝利。
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6/2:東から敵の増援1万を確認。
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6/15:先ほどの戦いで敗走した敵4000余りが合流し、会敵。
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7/25:勝利。
***1248年 [#qe0438a2]
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1/20:更に敵増援1万を確認するも、
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3/21:勝利。
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9/15:アルジェリア方面に敵1万5千が上陸。
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11/21:占領のため分散した敵を海から攻撃、撃破する。
***1249年 [#qc63b347]
5千単位で定期的に上陸してくる敵軍を蹴散らす。
6/10:戦勝点が40%を超え、ようやく白紙講和が可能になる。
ところでこの派閥画面を見ていただきたい。
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ジハードが終われば反乱が起きるのは確実だ。しかも今の磨耗しきった兵力で彼らを鎮圧するのは、ジハードに勝つより難しい。そこで白紙講和を先延ばしにし、首謀者の暗殺計画を企てる。

12/25:首謀者が寿命で死ぬ。後継の息子に反乱の意思はないようで、派閥は解散した。
***1250年 [#c51231e9]

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2/5:アルジェリアでの戦闘で敵スルタンを捕虜にする。これで戦勝点が100%に。

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3/4:約4年に及んだジハードはイタリア王国の全面勝利で幕を閉じた。
もし敵が兵力をまとめてぶつけて来ていたら、到底勝ち目はなかっただろう。
戦争によってpiety689→1655、prestige949→1922と一気に伸び、ベルナルドの治世は安定した…かに思われた。
**反乱 [#j76c79ce]
戦勝祝いに神聖ローマと独立戦争をやっているピエモンテをしばきに行く。
ちょうど占領もおわろうかというその時、南部諸侯が一斉蜂起!
首謀者が死ねば派閥はなくなると思っていたが、どうやらその後すぐ別の貴族によって派閥が再建されたようだ。
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ピエモンテを併合してすぐに全兵力を南に向かわせ、蜂起した諸侯の兵が集合する前に先のジハード同様各個撃破していく。
3ヶ月弱の野戦で反乱軍の兵力はほぼ壊滅したが、反乱に参加した諸侯が多過ぎて占領作業がなかなか進まない。
そこでなにかいい手はないかと考えていると、先ほどの戦いで捕虜にした貴族の中に首謀者の息子を発見する。
さっそく首謀者に暗殺者を送り、2度失敗し露見するも3度目で暗殺に成功。
後釜の息子が捕まっているせいで自動的に戦勝点が100%に。これはうまい。
結局危惧していた反乱は一年と少しで鎮圧に成功、反乱貴族共から公爵位を剥ぎ取り、別の伯爵に与えることで反乱は完全に失敗に終わった。
**その後 [#g1ebe820]
政治基盤を安定させたベルナルドは、シチリア島から教皇と東ローマ皇帝を追い出し、シチリアの大部分を王国直轄領とする。
代わりにジェノバや神聖ローマから奪った新たなイタリア領土7州を孫達に与えた。
また当初王位を譲る予定だった長男がバカだったので、王位継承を弟に変更、孫たちが成人するまでのつなぎとする。
こういう時の選挙制は便利だ。
**その死 [#z3a970e7]
晩年ベルナルドは有り余る金を大学建設に費やし、技術開発に努めたおかげでパルマ周辺は中東や東ローマに引けをとらない先進地域となった。
ベルナルドは1273年の夏、60歳で生涯を終えた。ジハード撃退の功をもって、彼は使徒ベルナルドと呼ばれた。
**世界情勢 [#s0be7a9a]
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キプチャク・ハンが順調に勢力を拡大する。
アッバード朝は度重なる反乱に悩まされ、王朝はアールガウ朝に交代。
フランスはその大部分をイギリスに占領される。
ファティマ朝エジプトもテギニ朝へ交代し、イスラム勢力の停滞が目立った。

TIME:"2013-01-11 (金) 22:18:06"

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