[[AAR/RECONQUISTA DE PORTUGAL]]

***剛勇王の戦いの御世 [#v22b331d]

剛勇王エステヴァン2世のもとで軍事大国化したポルトガル王国。
その治世下において王は積極的な外征を行いイベリア半島の覇権を掌握しようとした。

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セビーリャ征服間もない1174年春、
カスティーリャ女公シャモアがガリシア王へ反乱し、
親族であるエステヴァン2世に助力を求めた。王はこれに介入してガリシア王国を攻撃。
ガリシア王ガルシア4世はポルトガル王国各地の継承権を有する危険人物であったが、
エステヴァン王の介入により王位を追われ、孫のガルシア5世が新たに王位についた。
さらにナヴァラ王国およびトレド公国が独立し、弱体化に拍車がかかった。

エステヴァン2世の長男であるジョアンが成人したと同時に
征服地セビーリャの公位を叙爵し、そのすべての統治を任せた。
ジョアン公はセビーリャにキリスト教を広め、ムスリム勢力の影響を駆逐する。
キリスト教の布教に伴ってセビーリャは豊かな税収を生み出すようになり、
国力の増大に貢献した。

1181年、王位を追われガリシア公となったガルシア・ガルセスがナバラ王となる。
ナバラの王冠は年長相続により継承されるため、
ヒメナ家で最も年長の男子であるガルシアがナバラ王ガルシア9世として即位した。
ガリシア王ガルシア5世とガルシア9世とで王位継承をめぐる争いとなったため、
この混乱に乗じてエステヴァン2世はナバラ王国へ侵攻を開始。
レオン、ブルゴスを奪い取った。
その頃カスティーリャ女公シャモアが没し、
カスティーリャの公位が他家のテッロ・デ・ノボアに渡ったため、
エステヴァン王は彼女のカスティーリャ公位を無効として、
次男ペドロにブルゴスを与えたうえで新たなカスティーリャ公と宣言する。
○○はこれに反発したものの結局抗えず圧力に屈した。
テッロ・デ・ノボアはこれに反発したものの結局抗えず圧力に屈した。

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&size(12){ジェロニモ・パガネス・デ・ポルト};

また、シャモアの息子であるジェロニモを王宮に招聘し、王族の待遇を与える。
さらにレオンにはバリャドリド女伯の弟アレシャンドレを伯として封じた。

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1185年、ガルシア9世が死に、その息子トレド公ウーゴがナバラ王となる。
ナバラ王ウーゴはアンダルシア出身のモサラベに育てられたため、
自らをナバラのスルタンと称するなど、奇行が目立った。
人は彼を「異国かぶれのウーゴ」と呼び、蔑んだ。
エステヴァン2世は司教座の置かれる古都トレドをこのような人物に統治させることは
神の意志にそぐわないとして、軍団を起こしトレドの奪取を目論んだ。

エステヴァン2世は約1万6千の軍を2つに分割し…
一方をトレド包囲に向かわせるとともにもう一方をナバラに向かわせた。
集結しているナバラ王の軍を野戦において打ち破り、一気に事を終わらせるつもりだった。

両軍はカラオラにおいて衝突した。兵数はともに約8千と互角であったが、
ナバラ王はロンバルディアの弩兵を傭兵として雇っていた。
このロンバルディア傭兵の攻撃により左翼が潰走してしまい、
そのままナバラ軍の突撃を受けてポルトガル軍が破られるという結果になった。
エステヴァン王は敗走してトレドの攻囲軍に合流しなければならなくなった。

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1187年8月、トレド市陥落。
包囲軍はそのまま北へ向かいバリャドリドにおいてナバラ王の軍と対決した。
今回はエステヴァン王自らが敵左翼に陣取るロンバルディア傭兵に対峙する。
ロンバルディア傭兵は最後まで戦線から撤退することなく戦い続けたが、
最終的にポルトガル軍全軍の包囲攻撃により敗北した。
この戦いの結果ナバラ王は駒を失い、1188年の秋に和平が成立。
ポルトガル王へのトレド割譲を認めた。

ロンバルディア傭兵の思わぬ手強さにポルトガル軍が大きな損害を強いられたことは
どうやら南のムスリム勢力にも伝わっていた。
トレドの割譲から間もなく、アッバード朝がポルトガルへの大規模な侵攻を開始したのだ。
コルドバのズンヌーン朝もトレド地方の奪回を目指してナバラ王国への侵攻を始めた。
この一大事にエステヴァン2世は再び全軍を招集し、
先の戦いにおいて消耗した兵力を補うためにテンプル騎士団の助力を求めた。
王の求めに応じ、テンプル騎士約8千がリスボンに到着した。

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ムスリム勢力の軍勢は総勢で2万を超えていたが、軍を分散していた。
そのためポルトガルおよびテンプル騎士の軍団に各個撃破され、
侵攻の勢いは緒戦で止まった。また、ムスリムの侵攻に対してフランス王が
ナバラ王に味方しイベリアに大軍を送り込んだため、
戦況はキリスト教国側に有利となった。
ポルトガル軍は逆に攻勢に打って出、ムスリム勢力の城への攻撃をはじめる。
テンプル騎士団は充実した兵力と装備でムスリム軍を圧倒したものの、
指揮官が戦闘中に死亡したことで戦争早期に撤退してしまった。

1190年の夏にアッバード朝の都バレンシアが陥落。
その後トレド、ニエブラに残るムスリム軍の残党を野戦で打ち破り
アッバード朝の攻勢は停止。ポルトガル王は賠償金を得て戦争は終結した。
トレドにおいて防戦の指揮官を務め城を守り切った功で
王の三男ゴメスはトレド伯に叙された。
エステヴァン2世は賠償金を元手にリスボン、ポルト、コインブラの
各領邦に新たな開拓都市を建設し、これらの都市の税収は王の大きな収入源となった。
また、リスボンにはポルトガル初の大学が設立され、学問・技術の発展に寄与する。

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1195年、ナバラ王およびフランス王がアッバード朝のバレンシアを攻撃。
アミールが軍勢を東部に集中したのを好機と見テ、
エステヴァン2世はベージャに残るムスリムの拠点、メルトラへの攻撃を決定する。
アッバード朝およびズンヌーン朝はフランスとポルトガルの大軍を相手に
二正面作戦を強いられ、ムスリム軍は崩壊した。

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約2年間の包囲の末メルトラ全域が占領され、メルトラ首長はポルトガル王への臣従を誓った。
メルトラ首長アブドゥル・ハカムはカトリックへ改宗し、
その長男はポルトガル王国への人質として預けられキリスト教の教育を受けることとなる。

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&size(12){メルトラ首長の改宗};

1200年には再びガリシア王国への遠征が行われた。
カスティーリャ女公シャモアの息子、ジェロニモをサンティリャーナ伯に据えるのだ。
ガリシア王ガルシア6世は約1年の戦いの末サンティリャーナ割譲を認めた。
当初の予定通りジェロニモにサンティリャーナ伯の地位が与えられた。
ジェロニモはポルトカーレ公ペドロの次男ペドロ・ペレスの曾孫にあたる。
これにより再びサンティリャーナがポルト家門の支配地に戻った。
サンティリャーナ伯への宗主権はカスティーリャ公ペドロに属することとされた。

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このように多くの戦いを行い、ポルトガルの版図を広げた剛勇王エステヴァン2世は
1203年に64歳で没した。ポルトガルの王冠はセビーリャ公ジョアンが継承した。
良きキリスト教徒として多くの異教徒を打ち破られた王の魂が主の元に召されますよう!

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続く

TIME:"2012-07-07 (土) 23:23:55"

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