[[AAR/RECONQUISTA DE PORTUGAL]] ***公正なるエステヴァン [#e435f755] リスボン伯エステヴァン。 父ジョアンのベージャ征服およびポルトガル王即位に伴い、 ベージャ公に叙され、征服地の全ての統治を任される。 同地はイスラム教を信仰し異国の文化に染まっていたため 統治は困難であったが、彼は卓越した統治能力を発揮して父王の期待に応えた。 ベージャは数年の間にキリスト教に改宗し、 積極的な移住政策によりポルトガル文化が浸透した。 エステヴァンは野心家だった。 ガリシア王がバダホスの再征服を目論んでアフタス朝と矛を交えると、 ポルトガル王ジョアンはそれに乗じて、ベージャ域内に残る 最後のムスリムの拠点、アヴィシュの攻略を行うことを決めた。 王自ら軍団を率いてアヴィシュ攻略に向かったが、 包囲の最中、王のもとにエステヴァンからの使者と書簡が届けられた。 「父上は老いられた。ポルトカーレの統治を私に任せ、隠居なされよ。」 &ref(http://art62.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035783.jpg); &size(12){ベージャ公エステヴァンのクーデター}; 国王不在のうちに、エステヴァンは叔父のバリャドリド伯ドゥアルテおよび 父と対立するガリシア王と通じて陰謀を練っていたのだ。 既に挙兵の準備は済み、王が拒否すれば内戦への突入は必至。 ジョアン王は驚愕し、また激怒するも、建国まもないポルトガルが 内紛により分裂してはイスラムの恰好の餌食にされることは火を見るよりも明らかであった。 1134年春、こうしてエステヴァンはポルトカーレおよびベージャの全権を得た。 ジョアン王はアストゥリアスに隠居させられ、実権をほぼ失った。 ポルトガル王国の支配者となったエステヴァン公は、さらなる野望の実現を望む。 すなわち、衰退しつつあるムスリム勢力に追い打ちをかけ、 土地を奪い、領土を拡大し、聖なる教えを広め、栄光を手にするのだ。 アンダルシアの地から、ムスリム勢力は一掃されなければならない。 1136年夏、アフタス朝に対して聖戦が宣言された。 「―バダホスの王国に、この戦いで引導を渡してやる―」 &ref(http://art51.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035785.jpg); 聖戦の宣言から数週間後、アストゥリアスでジョアン王が没する。 これによりエステヴァンは正式にポルトガル王に即位した。 父王から引き継いだ領地からも兵がかき集められ、 5千のエステヴァン王の軍団がグアディアナ川を越えた。 なお、エステヴァンの宮廷はリスボンに据え置かれ、以後王国の都はリスボンとなる。 ナバラ王および妹婿である南フランスのトゥールーズ公も参戦を表明。 セビーリャのアッバード朝やアフリカのムスリム勢力が 本格的に介入してくる前にバダホスを落とさなければならない。 約半年の包囲の末、バダホスが陥落。 南からはフェズのアミール率いるムスリムの連合軍1万が迫っていた。 迎え撃つポルトガル・トゥールーズ連合軍は7千。 両軍はバダホス市郊外で激突した。 バダホスの山がちな地形を利用した作戦がとられた。 ポルトガル軍はムスリム軍を挟み込むように移動、矢を射かけつつ 両翼から突撃をかけ、ムスリム軍の陣をぼろきれの如く引き裂いた。 ポルトガル軍は大勝し、バダホスの支配を確立。 &ref(http://art33.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035787.jpg); &size(12){バダホスの戦い}; 勝利に沸くポルトガル軍はアフタス朝に残る拠点を攻略しにかかる。 カルセレス、アルカンタラ、プラセンシア…順調に勝利を重ねていく。 斥候により緊急の報がもたらされたのは1139年の夏。 モロッコのアミールの大軍がバダホスへ向けて進行中であるとの報せだった。 軍団の集結が急がれ、さらにカタルーニャおよびブルターニュの傭兵団6千を加えた。 カセレス近郊の平野においてムスリム軍1万とポルトガル軍1万が激突。 兵力のうえでは互角、地形上の有利不利もほぼなし。 攻撃をしかけたのはポルトガル軍であった 左翼に布陣するエステヴァン王自ら敵中に切り込み、敵右翼を壊滅せしめる。 そのあとは大混戦となるも、ムスリム軍は敗走し、戦いの趨勢が決まった。 &ref(http://art10.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035792.jpg); &size(12){カセレスの戦い}; &ref(http://art49.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035795.jpg); 1140年、ポルトガル王国はバダホス地方全域を支配下に置いた。 首都バダホスを奪われたアフタス朝は、事実上滅亡した。 広大な征服地はとても王が直轄して治めきれるものではなく、 エステヴァン王の3人の息子達に分与された。すなわち、 長男ベージャ公ジョアンにバダホスが、 次男マノエルにアルカンタラが、 三男ラミロにプラセンシアが、それぞれ与えられた。 民衆は国王の戦勝と公正な所領配分を讃え、エステヴァンは公正王と呼ばれるようになった。 イベリアの西方でポルトガル王国が戦勝に沸くころ、東方では異変が起こっていた。 シチリアおよび南イタリアを勢力下に収めたエジプトのスルタンが アラゴン王国を滅ぼしてバルセロナおよびアラゴン地域を併呑したのである。 王家バルセロナ家は飛び地であるアルメリアへ逃れた。 アラゴンに対するジハードの成功は、イベリアにおいて劣勢に立たされたムスリム勢力を 奮い立たせ、アンダルシアの回復を求める強硬派の台頭を許すこととなる。 &ref(http://art11.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035800.jpg); &size(12){ポルトガル王国の版図およびイベリア半島の情勢 ―1140年―}; バダホス征服間もない1141年、王弟ソリア伯ジョアンが反乱を起こす。 ソリア伯の反乱はすぐに鎮圧されると思われたが、 この反乱はガリシア王ガルシア3世が裏で糸を引いていた。 ガリシア王はソリア伯を公然と支援し、ポルトガルとガリシアは再び矛を交える。 国境地帯で戦闘が繰り返され、戦乱は長期化の兆しをみせた。 &ref(http://art8.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035770.jpg); ところが反乱から1年と経たないうちにソリア伯は流行り病によって死ぬ。 ソリア伯に子は無く、ソリアはエステヴァン王に相続された。 反乱とガリシア王との戦いはあっけなく幕を閉じた。 しかし、このことでエステヴァンとガリシア王との対立は表面化。 エステヴァン王は思う、「イベリアに両王並び立たず」と… &ref(http://art4.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035773.jpg); それから5年後の1146年夏、サンティリャーナのレオン公ペドロ2世が死に、 娘のロバが11歳で新たに公位に即いた。 ペドロ2世は父王ジョアンの弟であるレオン公ペドロ1世の家系であり、従弟にあたる。 このためエステヴァンはレオン公位およびサンティリャーナの継承権を有していた。 これを好機とみたエステヴァンはガリシア王に対し以下の要求を突きつけたのである。 「新たなレオン女公ロバは白痴であり統治能力が欠如しているため、 ポルトガル王エステヴァンをレオン公およびレオン全域、サンティリャーナの伯と認め、 同地をポルトガルの領土として承認すべきこと」 当然の如くガリシア王はこの要求を拒絶した。 かくしてポルトガルとガリシアの全面戦争の火蓋が切って落とされたのである。 建国以来ポルトガル王国とガリシア王国の国境は複雑に入り組んでいたため、 戦線を限定する必要があった。エステヴァン王率いるポルトガル軍はまず、 ガリシア王の本拠地であるコルニャおよびガリシア地方を早期に占領し、 しかる後にレオンの各地域を平定するという戦略を立案する。 都を落とされれば、ガリシア王はすぐに音を上げるに違いあるまい、 数に勝るポルトガル軍は野戦においてガリシア軍を圧倒し、 コルニャおよびサンティアゴを占領する。 &ref(http://art52.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035778.jpg); お膝元であるガリシア地方を占領されたことで、ガリシア軍には動揺が走り、 士気の低下は免れえなかった。ポルトガル軍はガリシア軍に占領された バリャドリドを奪い返し、ソリアを包囲するガリシア王の本隊を撃滅せんと進軍した。 &ref(http://art8.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035780.jpg); &size(12){侵攻を開始するムスリムの大軍}; 伝令より至急の報が届いたのはまさにその時であった。 セビーリャのアッバード朝がバダホスの奪還を目指して北進を開始したのである。 セビーリャのアッバード朝がアンダルシアを再びムスリムの支配下に置かんと、 キリスト教国大規模な侵攻を開始したのである。 アルメリアのアラゴン王家も既にその毒牙にかかり、滅亡したという。 ポルトガル軍に緊張が走った。衰えたといえどもアッバード朝は大国である。 また、ムスリム勢力がアラゴン征服の熱気に乗じるいま、 他のタイファやアフリカのスルタン国が戦いに参加することは火を見るより明らか。 二正面作戦では戦えない、バダホスを奪い返される… 王および重臣が顔を蒼くするなか、数日を置かずガリシア王からの使者が陣中を訪れた。 &ref(http://art2.photozou.jp/pub/387/2676387/photo/142035803.jpg); ガリシア王にも報せは届いていた。 戦況が圧倒的に不利となり、目前に敵軍が迫る今、ムスリムの侵攻は紛れもない朗報だった。 また、この時ガリシア王国もコルドバのアミールによる侵攻を受けており、 もはやキリスト教徒同士で争っている場合ではなくなっていたのだ。 この機に乗じてガリシア王の提示した和平案は、 エステヴァンのレオン公位相続を認め、サモラを割譲するというものであった。 ポルトガル側の最初の要求の一部のみを認めるものであったが、 エステヴァンは結局これを受諾し、軍をすぐさま南部国境に向け進ませた。 1149年夏の出来事であった。 続く TIME:"2012-07-06 (金) 04:01:34"