[[AAR/RECONQUISTA DE PORTUGAL]]

***再征服の熱狂 [#s26d1c38]

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1104年6月9日、ポルトカーレ公ペドロは66歳で死んだ。
ポルトカーレおよびアストゥリアスの公位と領地、一切の財産と権利は
嫡子であるカスティーリャ公ジョアンが相続した。
ポルトカーレ公位の継承に際してジョアン公は
任地のオビエドから生まれ故郷であるポルトへの遷都を行い、
ポルトカーレの貴族たちを喜ばせた。

ジョアン公が即位してまず初めに行ったことは、
アフタス朝の支配するリスボンの征服であった。
リスボンは天然の良港であり、漁業や交易活動による利益が見込まれ、
またムスリム勢力をテージョ川の向こう側へ押しやることで、
ポルトカーレを異教徒の侵攻からより守りやすい状況を作りだすことができる。

先代ペドロ公の治世下においてムスリム勢力側が受けた打撃の後遺症は未だ癒えておらず、
さらにイベリア東部ではアラゴン王によるバレンシア征服に兵力を割かれており、
リスボンの征服を為すのには最適の機会であると言えた。

かくしてリスボン攻撃の準備が整えられ、
アフタス朝のアミールに対して宣戦布告が行われた。
ムスリム軍の大部分はバレンシア方面にあり、これは完全な奇襲となった。
ジョアン公の軍はリスボンを瞬く間に陥落せしめ、
やがて来るであろうムスリム軍の反攻に備えて急ぎ防御が固められた。

さて、ムスリム軍の反攻がやってくるよりも先に、
味方に背後から刺されるとは誰が予想できたであろうか?
ジョアン公の封臣、サンティリャーナ伯が主君の不在をいいことに
反乱をおこしたのである。サンティリャーナ伯はオビエドを支配下に置き
狼藉の限りを尽くしたため、ジョアン公はこの反乱に激怒したという。
とはいえ、リスボン攻略を優先し、兵を差し向けることはしなかった。

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サンティリャーナ伯がカンタブリアの山奥で好き勝手な統治を繰り広げている間、
ジョアン公はリスボンの防備を固め、さらにエヴォラを攻略した。
アフタス朝のアミールおよびズンヌーン朝のアミールの軍がその頃ようやく到着し、
ベージャの各地で激しい戦闘が繰り広げられた。
多くの戦いが行われたので、ジョアン公の兵力は消耗していったが、
異教徒と果敢に戦う公に対しては教皇庁からの資金援助もあり、
押し寄せるムスリム軍を徐々にベージャ地方から遠ざけていった。
エヴォラのみならず、アルカセル・ド・サルの城をもムスリムから奪い、
戦いは終始ジョアン公の優勢であった。

約3年間の戦いの後、アフタス朝はポルトカーレ公によるリスボン領有を認めた。
アフタス朝はこの戦いの敗北によりテージョ川以南に押し戻されるとともに
さらなる打撃を受け、アミールの権威も低下し衰退していくこととなる。
ムスリムとの戦いに決着がついたことで、ジョアン公の軍はすぐさま北へ向けて進軍を開始、
サンティリャーナ伯の反乱軍を蹴散らし、伯を捕縛。称号及び領地を剥奪した。
また、同じく反乱を起こしたバリャドリド女伯も同様に捕縛し、領地と称号を剥奪。
領内の不満分子を一掃し、権力基盤を確立することに成功する。
その後、ジョアン公は広がった直轄領の整理と戦功への褒賞として領地の分配を行った。
次弟ペドロをサンティリャーナ伯に、
三弟ドゥアルテをバリャドリド伯に、
そして嫡子エステヴァンをリスボン伯に、それぞれ叙爵し統治を許した。
1109年の出来事である。


同年、レオン・カスティーリャ・ガリシアの王ガルシア3世を旗印として、
キリスト教連合軍よりトレドへの聖戦が宣言された。
ポルトカーレ公によるリスボン攻略に奮起されての攻勢である。
ジョアン公も戦いへの参加を表明し、手勢を引き連れてトレドへ向かった。

ムスリム側ではズーヌーン朝のアミール、イスマイール2世を総指揮官として約8千の兵力がトレドを目指し、
キリスト教連合軍もほぼ同数の兵力で彼の軍を待ち構えることとなった。
会戦の場所はトレドの東、クエンカに定められた。

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1110年6月9日、両軍はクエンカの平野で対峙した。
兵数ではほぼ同等であったが、ムスリム軍は中央から両翼にかけて
ほぼ均等に兵を配置したのに対し、キリスト教連合軍は中央を厚く、
両翼に薄く兵を置く布陣であったため、ナバラ王率いる中央部隊か
いち早くムスリム軍の中央突破を果たし、ムスリム全軍は瞬く間に崩壊した。
ムスリム軍は兵力の4分の3を失う惨敗を喫し、アミールまで生け捕りにされた。
戦争の勝敗まさに一瞬で決したのである。
このクエンカの戦いによって連合王国はトレド地方の支配権を得た。
その影響の大きさから、人々はクエンカの戦いを指して「かの戦い」と称すようになったという。

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&size(12){クエンカの戦いにより、トレドが奪回された};

その後の数年間、ジョアン公は領内の統治に専念し、
特にポルトカーレは経済的にも大きく発展した。
リスボン・トレドの回復による宗教的熱狂も相まって領内は大いに栄えることとなる。
サラマンカにおいてはポルトガル文化が浸透するとともに、
リスボンでは民衆の一斉改宗が行われ、カトリックが広まった。

連合王国内でのポルトカーレ公領の勢力拡大も進んだ。
成人し親政を開始した国王ガルシア3世に娘フルイーリェを嫁がせ王の外戚となり、
王に対して圧力をかけてカスティーリャ公領における宗主権の優越を認めさせ、
カスティーリャ公領内のソリア伯を封臣として従える権利を得た。

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また、甥のビスカヤ伯に対して、かの伯の地位を
彼の姉であり次弟ペドロの妻であるロパに譲るべく圧力をかけ、これを認めさせる。
これによりロパがビスカヤ女伯となり、ペドロとロパの息子であり
ジョアン公の甥であるペドロ・ペレスがサンティリャーナおよびビスカヤの伯を相続することになった。
さらに、ジョアン公の次男ジョアン・ジェスを封臣ソリア伯の継承権者であるゴンティーニャ・デ・マイアと婚約させた。


こうして連合王国内におけるポルト家門の勢力拡大策が次々と行われるにあたって、
親政を開始した国王ガルシア3世は危機感を覚えた。
そして、せめてもの抵抗として、レオン公の位を
サンティリャーナ伯ペドロに与えたのである。
これによりジョアン公はペドロに対する宗主権を失う。
ジョアン公は王の行為に激怒して、罵声を放ったという。

王とジョアン公との間に亀裂が走って間もない1117年春、
ガルシア3世を総指揮官としたコルドバへの聖戦が宣言された。
ナバラ王および高アラゴン伯がこの聖戦に参戦し、
イベリアはさらなるレコンキスタの熱狂の渦中にあった。

しかし、へそをまげたジョアン公はこの聖戦に関わろうとしなかったため、
キリスト教連合軍ははじめから兵力のうえで劣勢に立たされた。
ガルシア3世の率いる軍は敵領の奥深くで孤立し、挟撃にあって壊滅してしまう。
王はほうほうの体で領内に逃げ帰ることができたが、
聖戦の停滞は誰が見ても明らかであった。
そして、国王の軍が壊滅し力を失うことをジョアン公は待っていたのである。

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1117年のクリスマスが終わって間もなく、
ジョアン公は連合王国からの離脱を宣言し、王に対し公然と反旗を翻した。
公は自身の軍3千を動員して王のおひざ元であるガリシアに雪崩れ込んだ。
サンティアゴおよびコルーニャを瞬く間に占領し、
手足をもがれた国王はポルトカーレの独立を認めざるを得なかった。

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こうして独立公国の君主となったジョアン公であるが、
このままムスリム勢力の欲しいままに古巣を蹂躙させる気はなく、
むしろこの状況を利用してさらにムスリム勢力を弱体化させるつもりだった。

折しもアンダルシアのムスリムタイファ諸国は、
北アフリカのムラービト朝による勢力拡大に伴う戦乱に巻き込まれており、
10年以上にわたる戦いで疲弊し国内にも不満がたまっていた。
アフタス朝においては先のリスボン攻略戦における敗戦によって
アミールの権力が弱体化し、かねてより諸邦において首長らが台頭しており…
ここにきてメルトラとプラセンシアの首長がアミールに対して反乱を起こし、
領内は混乱の極みにあったのである。
ジョアン公はこうした状況を利用し、独立を勝ち取って士気盛んな自らの軍勢を伴って
ベージャへの聖戦を宣言し、アフタス朝領内へ踏み込んだ。

ジョアン公の立てた作戦の概要は以下のようなものであった…
まずアフタス朝アミールのラシードの軍を殲滅し、
反乱を起こしている首長を間接的に支援、戦線を拡大させたままで
アミールが軍の体勢を立て直す期間を長引かせるとともに、
その間にベージャの城塞を落とし、防備を固め、反攻してくる蹴散らす。
そのまま実効支配を固め、相手が疲弊したところで和平に持ち込むのだ。

緒戦はこの作戦どおりに事が進み、
アフタス朝の軍はジョアン公の軍により壊滅させられた。
エヴォラおよびアルカセル・ド・サルの城を落とし、
これを奪還せんとするムスリム軍が集結する前に各個撃破していった。
この聖戦にはナバラ王の参戦もあり、また教皇からの資金援助も得られた。
戦況がムスリム勢力にとり悪化していくにつれて、
ムスリムタイファ諸国はアフリカでの戦線から撤退し、兵力を集中するようになった。
このため戦争の終盤に差し掛かったころには南部から大軍が押し寄せるようになるが、
ジョアン公の軍はこれを防ぎ切った。

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5年にわたる戦いの末、ムスリム勢力はメルトラを除くベージャ地方から撤退した。
ジョアン公は新たに得たエヴォラおよびアルカセル・ド・サルを
嫡子のリスボン伯エステヴァンに与えた。
アフタス朝は海への出口であるアルカセ・ド・サルを失ったことで
弱体化に拍車がかかることとなった。
また、この戦線においてジョアン公がムスリム勢力の軍を引きつけたことにより、
ムスリムの攻撃にさらされていたトレドやアラゴンでの戦線が縮小、
結果としてキリスト教国の支配地がムスリム諸国に切り取られることが無かった。

かくしてジョアン公はレコンキスタの英雄として民衆から称賛されるに至り、
1124年6月1日、ブラガ大司教の手により油を注がれ、ポルトガル王として戴冠した。
ここにポルトガル王国が成立し、ジョアン公はポルトガル王ジョアン1世となった。
彼はレコンキスタに大きく貢献して領土を拡大し、キリストの御名を広め、
また領内の発展にも力を注いだことから、「大王」と呼ばれ讃えられた。

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&size(12){ポルトガル王国の版図 -1124年-};

続く

TIME:"2012-07-04 (水) 17:04:19"

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