[[AAR/葡萄の枝]] *ティエリー一世 [#ude18a63] **イングランドの分裂 [#k74bfc6a] &ref(./thierry1_16.jpg); ブルゴーニュ家三代目フランス王ティエリー一世(16歳当時) ティエリー一世は、父ニコラス一世、母アミスとの間に、1330年12月8日を以て生まれた。 彼は若き頃から詐術を弄することを潔しとせず、ローマ教皇の教えが絶対であると信じて疑わない一方、俗世においては自らが至尊の人という意識を固持していた。 1339年4月、8歳でアルバニー公マタド賢公の娘エフィーと婚約した。アルバニー公はスコットランド王国に従属していた。エフィーはこのとき13歳であったが、天才と名高く、いつ他の王侯の好逑となってもおかしくなかった。そうなる前に契りを結ばなければならないという、父王ニコラス一世の思惑があった。 &br; &ref(./effie_mac_aeda_20.jpg); 婚約相手のエフィー(20歳当時)。全般的に優秀で、とりわけ政治能力が突出している 1349年9月14日、ティエリー一世は病没した父の後を継ぎ、フランス王となった。 1350年1月、ブルターニュ半島のレオンにてロラード派のタッドアロンが蜂起すると、ティエリー一世はすぐに軍を差し向けた。同年7月、タッドアロンは牢に閉じ込められた。 敬虔なるフランス王としては、東に巣食うカタリ派の帝国を早いところ殲滅したいと考えていた。しかし、皇帝ハインリヒ七世は東方教会のビザンツ帝国と結託しており、己の三倍を超える兵が控えていた。カトリック諸侯においても一枚岩とはいかず、内なる抗争が絶えない。盟約を交わしたところであてにはできず、信じられるのは己のみ、とティエリー一世は思っていた。 1355年7月、ギリシャ人のヨアンネスがデスポット、すなわち専制君主を名乗ってイングランド王国から独立、アイルランド王国を再建した。王領はアイルランド島のみならず、内地のアミアンとヴァンドームに飛び地を成していた。ティエリー一世はこれを好機と捉え、まずアミアンをフランスの慣習的領土と主張した。1357年6月、アミアンはフランスの手中に収まった。 &br; &ref(./13550728.jpg); 緑がギリシャ系アイルランド王国領。赤はイングランド王国領。 1358年2月、ティエリー一世はイングランド領エヴリューを攻めた。1360年9月、イングランド王フィリップはエヴリューがフランスの慣習的領土たることを認めた。 1359年10月、ディジョンの民にカタリ派の毒が浸潤した。ティエリー一世は、宮廷司祭ゴドフロワを遣わしてディジョンの域内を巡回せしめた。カトリックへの改宗は容易ではなく、この後5年余りの歳月を要することとなった。 **露見されない罪 [#ha6071d1] 1361年8月、ティエリー一世は漸くにして異端帝国に反撃する糸口を見出した。皇帝はハインリヒ七世からアマデウスに代替わりし、これに伴ってビザンツ帝国との盟約が解消されていた。また、アマデウスはフランコニア王エドムンドと交戦状態にあった。フランコニア王国は、イングランド人エドムンドがイングランド王国から独立して建てた国である。シュヴァーベン、ブレスガウからクレーヴェに至るまで、ライン川右岸を沿うようにして領地を成していた。 &br; &ref(./13611010.jpg); 北東の薄紫がフランコニア王国領 ティエリー一世はディジョンの東隣、上ブルゴーニュに狙いを定めて聖戦を始めた。王は意気軒高として自ら先陣を切った。とはいえ、将兵は王ほどの熱を帯びてはいなかった。 「主を待ち望め。さすれば鷲のごとく翼もて高きに上れるのだ」 &br; &ref(./13620202.jpg); イザヤ書40章31節を基に 鼓舞する指導者を選択 ティエリー一世は軍を鼓舞し、ブサンソンを落としドゥー川を越え、ジュラ山脈へ迫った。 1364年8月、ティエリー一世はアマデウスとの聖戦に勝利し、上ブルゴーニュおよび上ブルゴーニュ公領のヌーシャテル、アールガウ、ベルン、シュヴィーツ、グラウビュンデンを獲得した。彼はドイツ人ウェルフ家のシグムンドを上ブルゴーニュ公に封じた。 隴を得て蜀を望む、とは東漢の光武帝や西晋の宣帝の謂いだが、ティエリー一世も領土拡張の欲が止まなかった。 1368年2月、ティエリー一世はアイルランドの専制君主ヨアンネスへ、内地にあったもうひとつの飛び地ヴァンドームを慣習的領土として求めた。ここに、第二次仏愛戦争が勃発した。 1370年3月、専制君主ガブリエルがアイルランドを乗っ取り、ドイツ王国と改称した。ティエリー一世との戦いは引き継がれ、同年7月にヴァンドームはフランス領となった。 &br; &ref(./13700302.jpg); 相手はハープから鷲に変じた 1372年5月、ティエリー一世の妻エフィーが46歳で急死した。夫が不審に思い調べたところ、実弟にしてポワトゥー公のガーガメルによって殺められたことが判明した。ブルゴーニュの血脈を汚すこの醜悪なる野心家の位を剥奪せんと欲し、王は諸侯に同意を呼びかけた。しかし、諸侯には此度の悪行が知れ渡っていなかった。それゆえに、同族殺しの汚名が公に回ってこなかった。 &br; &ref(./13720524.jpg); ガーガメルに殺された、とはっきり表示されている。宗教思想の温度差による反目か 1374年5月、異端の帝国に政変が起こった。派閥争いの末、ホーエンシュタウフェン朝は幕引きされ、マイセン家のウェルフが新たな皇帝として君臨し始めた。そして、上ブルゴーニュ公ウルリヒが、ヌーシャテル、アールガウ、ベルン、シュヴィーツ、グラウビュンデンの四領を以てウェルフに寝返った。 先の上ブルゴーニュ公シグムンド二世は既に泉下の人であり、ウルリヒが選挙によって上ブルゴーニュ公となっていた。はじめはティエリー一世に従っていたが、突如として鞍替えした恰好である。 そのウルリヒが忠誠を誓うようにした皇帝はというと、政治よりも毎夜の酒宴に精を出す有様であった。 &br; &ref(./welf_drunkard.jpg); 酒乱ではないが、大食ゆえに泥酔帝の綽名がついたウェルフ 同年12月、ティエリー一世はウェルフに聖戦を宣した。向かった先は、上ブルゴーニュではなくオーベルニュであった。若輩の軽佻はさておくとして、西へ深く食い込んだ牙を削ぎ落さんと欲したのである。 1376年8月、両軍はディジョンの南西にあるスミュール・アン・ブリオネで会戦した。ティエリー一世軍がウェルフ軍を大いに破り、戦場は赤く染められた。以後、当地でひなげしが育つようになったという噂が流布したというが、信憑性には欠ける。 &br; &ref(./13760814.jpg); スミュール・アン・ブリオネ……のちに、フランスの最も美しい村のひとつとされる 1377年5月、ティエリー一世は聖戦に勝ち、ウェルフからオーベルニュのジェヴォーダンを割譲した。 **名産地への固執 [#v53d96fa] ティエリー一世には、宗教的熱情や慣習的領土とはまた別の思惑で我が物にせんと渇望している土地があった。サンテミリオン、ソーテルヌ、メドック……それらを擁するアキテーヌ王国領のボルドーである。 己が郷里ブルゴーニュのワインは格別だが、それに劣らぬと名高きボルドーのワインに対する憧憬を、ティエリー一世は抱き続けてきた。しかしながら、ボルドーは200年程前からイングランドの勢力下に置かれ、今やフランスの慣習的領土とはみなされなくなってしまっていた。 &br; &ref(./13770512.jpg); 赤紫がアキテーヌ王国領。アイルランド、ドイツ同様にイングランド王国から独立していた 1381年1月、宿願を果たす時が来た。宰相アルノーが方々で蒐集したボルドーの古地図を拠り所にし、ティエリー一世はボルドーがフランスの正統領地であることを強弁、ボルドーへ攻め入った。 その間、モンゴル人の冒険家ドゥンダーがフランス王国の飛び地アゾフに侵攻してきた。ティエリー一世はこれと争うに益なしとし、抗戦の兵を出さずに領有権を譲り渡した。 1382年4月、ティエリー一世はアキテーヌ王ゴドフリー捕鳥王にボルドーの領有権を認めさせた。彼はボルドーワインの美酒に連日酔い続けた。 1385年1月、カタリ派の平民ハインリヒがブルゴーニュで蜂起した。ティエリー一世はディジョンから兵を即時東へ向かわせ、三か月でこれを鎮圧した。 1389年2月18日、ティエリー一世は崩御した。((このときの勢力図は撮り忘れてしまいました。。))享年58。敬虔なカトリックとして国内外の異端と戦い続けたことから、聖王と綽名された。 妻エフィーとの間に長男エルベール、次男ニコラス、長女マルテ、次女マファルダ、三女ブルゴーニュの五人を儲けた。なお、マファルダとブルゴーニュは双子であった。 &br; &ref(./13890218.jpg,70%); ティエリー一世の崩御 &br; [[前:ニコラス一世>AAR/葡萄の枝/ニコラス一世]] [[次:エルベール一世>AAR/葡萄の枝/エルベール一世]] TIME:"2018-06-06 (水) 23:29:22"