[[AAR/異端の国——オクシタニア——]]
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'''帰依者 (膝を折りつつ)「祝福を」'''
'''完徳者「神が汝を祝福してくださるように」'''

'''(この応答を三度繰り返す)'''

'''帰依者 「哀れな罪人たる私に代わって、神にお祈り下さい。神が私を良きキリスト者にしてくださるように、神が私を良き死に導いてくださるように、お祈り下さい」'''

'''完徳者 「汝を良きキリスト者になさり、汝を良き死に導いてくださるよう、神への祈りがなされましょう」'''

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'''帰依者(カタリ派の一般信徒)と完徳者(司祭に当たる出家者)の儀礼より'''

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**第一節 前史 [#sa157e07]


#ref(Raymond_IV_of_Toulouse.jpg,nolink)

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#ref(sagrajas.gif,nolink,right,around)

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伯位を受け継ぐまでのレーモン四世の事跡は、
イベリア半島でのイスラームとの戦いにおいて知られる。
伯位を受け継ぐまでのレーモン四世の事跡は、イベリア半島でのイスラームとの戦いにおいて知られる。
1086年のサグラハスの戦いにて大敗したカスティリアを助けるべく1087年にイベリア半島に渡り、その後の南方への攻勢再開に貢献した。
ここで高い指揮能力と、その深い信仰とで人望を集めた彼はカスティリア王アルフォンソ六世に姫を与えられ、後妻とする。

 サグラハスの戦い ムラービト朝他の連合軍がカスティリアに圧勝


1086年のサグラハスの戦いにて大敗したカスティリアを助けるべく1087年にイベリア半島に渡り、
その後の南方への攻勢再開に貢献した。

ここで高い指揮能力と、その深い信仰とで人望を集めた彼は
カスティリア王アルフォンソ六世に姫を与えられ、後妻とする。


#ref(エルビラ.jpg,nolink,60%)
 カスティリア王女エルビラ
 宮廷にてサロンを形成し、トルバドゥールに代表される
 オック文化圏の宮廷文化を花開かせた。
 左:カスティリア王女エルビラ。宮廷にてサロンを形成し、トルバドゥールに代表されるオック文化圏の宮廷文化を花開かせた。
 右:サグラハスの戦い。ムラービト朝他の連合軍がカスティリアに圧勝した。

だが、このレコンキスタでの戦闘こそが彼に聖職者の語る信仰への疑念を抱かせる切っ掛けとなった。
ムスリムの戦士としての高い能力、敬虔さ、建築物等の高度な文化、どれをとっても敵ながら尊敬の念を抱かせるものであり、
振り返って見た自らの背の、醜く肥え太ったキリスト教聖職者達の堕落しきった様とは雲泥の差であったのである。
最たるものとしては、信徒の長たる教皇本人までもが祈りを置き去りに権力闘争に没頭して、
高圧的に奉仕を求め、それを断ると事もあろうに破門で脅しを掛けるなどということもあった。((1074年、カノッサの屈辱で有名なグレゴリウス7世は、皇帝とその同盟者のノルマン君主ロベール・ギスカールに対抗すべくレーモンにロベールと戦うことを求め、&br;断ると1076年と1078年、二度に渡って近親婚を理由にして破門している。仏語wikipediaより。機械翻訳及び推定が混ざっているので、誤読の可能性があることをお詫びしておきます。))

だが、このレコンキスタでの戦闘こそが
彼に聖職者の語る信仰への疑念を抱かせる切っ掛けとなった。

ムスリムの戦士としての高い能力、敬虔さ、建築物等の高度な文化、
どれをとっても敵ながら尊敬の念を抱かせるものであり、

振り返って見た自らの背の、醜く肥え太った
キリスト教聖職者達の堕落しきった様とは雲泥の差であったのである。

最たるものとしては、信徒の長たる教皇本人までもが
祈りを置き去りに権力闘争に没頭して、

高圧的に奉仕を求め、それを断ると
事もあろうに破門で脅しを掛けるなどということもあった。

((1074年、カノッサの屈辱で有名なグレゴリウス7世は、皇帝とその同盟者のノルマン君主ロベール・ギスカールに対抗すべくレーモンにロベールと戦うことを求め、断ると1076年と1078年、二度に渡って近親婚を理由にして破門している。仏語wikipediaより。機械翻訳及び推定が混ざっているので、誤読の可能性があることをお詫びしておきます。))



その彼の元に、近年東方から伝来し、その清貧な生活態度で信奉者を集めているカタリ派教団、
自らを「良きキリスト者」と名乗る者たちが現れた時、それに深く帰依することとなったのは無理からぬことであったろう。


#ref(catharcentres.gif,nolink)
 カタリ派の伝播の様子。マニ教に影響を受けて、小パウロ派(図中 LES PAULICIEN)、
 ボゴミル派(LES BOGOMILES)といった各地の他の異端に影響されながら
 オクシタニアまでたどり着いている。
 ボゴミル派(LES BOGOMILES)といった各地の他の異端に影響されながらオクシタニアまでたどり着いている。


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**第二節 統治 [#x09a907c]

#ref(Toulouse-450x420.jpg,nolink)
 中世のトゥールーズの風景画。多くの建築物が立ち並んでいる。
 また画中左側に描かれている河川を利用した交通も盛んであった。
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#ref(trait.jpg,nolink,right,around,60%)
1094年、聖地巡礼の旅の中途で兄ギョーム四世が世を去り、
レーモン四世としてトゥールーズ伯位を継いだ。

学識に優れ、軍才も豊かな君主を得て、
トゥールーズ伯領は空前の繁栄を謳歌する。

 ScholarにしてSkilled Tactician
1094年、聖地巡礼の旅の中途で兄ギヨーム四世が世を去り、
トゥールーズ伯位は弟にレーモン四世として受け継がれた。

学識に優れ、軍才も豊かな君主を得て、((Scholar(Learning+2)かつSkilled Tactician))トゥールーズ伯領は空前の繁栄を謳歌する。
また、当代のトゥールーズ司教ラオルフが宗教的熱意に欠ける人物で、
蓄財に精を出すことの他何らの関心もなかったことが幸いし、
レーモン四世に庇護された「良きキリスト者」ことカタリ派は大いに隆盛した。


当代のトゥールーズ司教ラオルフが宗教的熱意に欠ける人物で、
蓄財に精を出すことの他何らの関心もなかったこともあり、

結果としてレーモン四世に庇護された
「良きキリスト者」ことカタリ派は大いに隆盛した。

#ref(トゥールーズの改宗.jpg,nolink,80%)
 トゥールーズの改宗。この時代のカタリ派の繁栄は、
 都市で普通に生活しているなら、全く関わりなく生きることは不可能な程であった。
 都市で普通に生活しているならば全く関わりなく生きることは不可能な程であった。

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**第三節 国政 [#x8888700]


#ref(england_france_henry_i.jpg,nolink)
 ヘンリー一世(在位:1100年 - 1135年)治下のイングランドとフランス
 画中右下の黄色がトゥールーズ伯領

#ref(元帥杖.jpg,nolink,right,around,50%)
#ref(元帥杖.jpg,nolink,wrap,right,around,50%,元帥杖。フランス王家の百合の紋章が描かれている。)

ノルマンディーを領するイングランド王と常に対峙しているフランス王は
後背であるオクシタニアの安定を必要としており、
トゥールーズ伯家の忠誠を求めていた。

そのため懐柔すべく種々の高位官職が提案され、
レーモン四世はフランス王国大元帥に就任し、
国政を大きく左右することとなった。
 元帥杖。フランス王家の百合の紋章が描かれている。

ノルマンディーを領するイングランド王と常に対峙しているフランス王は後背であるオクシタニアの安定を必要としており、
トゥールーズ伯家の忠誠を求めていた。そのため懐柔すべく種々の高位官職が提案され
交渉の末、レーモン四世はフランス王国大元帥に就任し、国政を大きく左右することとなる。
だが、強大な勢力は猜疑心と嫉妬とを招き、敵を増やさずには居られなかった。

国政に参与するようになって少し経った頃、
レーモン四世はパリにて軟禁される。
国政に参与するようになって少し経った頃、レーモン四世はパリにて軟禁される。
待遇こそ王国最高位の貴族に相応しく丁重なものではあったが、トゥールーズに戻ることは叶わなかった。
已むを得ず、トゥールーズの統治は嫡子ベルトランに委ね、レーモン四世は盟友ブルゴーニュ公に与して王国の政争にかかずらうこととなる。

#ref(まともな個室.jpg,nolink)
 塔の個室に軟禁される

待遇こそ王国最高位の貴族に相応しく丁重なものではあったが、
トゥールーズに戻ることは叶わなかった。
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已むを得ず、トゥールーズの統治は嫡子ベルトランに委ね、レーモン四世は盟友ブルゴーニュ公に与して
王国の政争にかかずらうこととなる。





**第四節 レコンキスタ [#jb3b8cd6]

#ref(バルセロナ.jpg,nolink,right,around)
#ref(バルセロナ.jpg,nolink)
 ムスリムに蹂躙されたバルセロナ

1105年、イベリア半島にて、タイファ諸国が北征を開始。
1105年、イベリア半島にてタイファ諸国が北征を開始。
キリスト教徒連合軍はウクレスの地にて敗北し、バルセロナ伯は戦死。
カスティリア王、アラゴン王は辛うじて戦場から逃げ帰ったものの、
軍の再建は容易ではなく、自領を守るだけで限界であった。
軍の再建は容易ではなく、自領を守るだけで手一杯であった。

その間、主を失ったバルセロナ伯領は
無人の野を行くがごとき容易さで征服され、

その間、主を失ったバルセロナ伯領は無人の野を行くがごとき容易さで征服され、
海港都市バルセロナはキリスト教徒の手から失われた。

#ref(蚕食.jpg,nolink,right,around,wrap,ムスリムは各所を略奪していった)

 ムスリムに蹂躙されたバルセロナ

そして、その影響は隣接するオクシタニアにも当然及んだ。
ピレネーを越え、あるいは海軍を用いて、
そして、その影響は隣接するオクシタニアにも当然及んだ。ピレネーを越え、あるいは海軍を用いて、
トゥールーズ伯領、アキテーヌ公領にもしばしばムスリムが蚕食してくるようになる。

#ref(蚕食.jpg,nolink)
 ムスリムは各所を略奪していった


これに対抗して、亡命カタルーニャ貴族やレーモン四世を始めとしたオック諸侯の主導で、
フランス王フィリップ一世の名の元に
カタルーニャを再征服することを目指して十字軍が行われる。
フランス王フィリップ一世の名の元にカタルーニャを再征服することを目指して十字軍が行われる。

総司令官は、軟禁を解かれ、再び大元帥の位を得たレーモン四世であった。

#ref(385.jpg,nolink,60%)
 十字軍の指導者達と語らうレーモン四世(恐らく右から二番目)

**第五節 [#va708143]
**第五節 十字軍[#va708143]

#ref(比較.jpg,nolink)
 一般的な歩兵の装備の違い。重装備の十字軍士に比べムスリムの歩兵は軽装の弓兵を中心とし、
 巧みにある時は逃げ、ある時は押し、兵力劣勢ながらも十字軍を翻弄した


カタルーニャへ進軍した十字軍は敵方よりも優勢な兵力を保持し、野戦で敗北することこそなかったものの、
軽装のムスリム兵を追撃するのは難しく、敵に致命的な打撃を与えることは中々出来なかった。

未明に矢で起こされて、反撃する頃には敵は逃げ去っている。慣れない気候での病は蔓延する、補給は滞る。
そんな日々が続く内に、自身に利害が絡むでもなく、別段信仰心に燃えるわけでもない北仏貴族達は先行きの見えない戦いに不満を募らせていった。

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1107年盛夏のある日。その日の朝も、もう幾度繰り返されたか不明な、常の小競り合いが発生していた。

その日、レーモン四世は前線に出て指揮を行うことになっていた。周囲を守護するのは僅かな手勢と左翼を務めるベリー公の配下の騎士達であった。
前日の夕刻から、''たまたま''ベリー公自身を含めて、日射病による欠員が多く出て、左翼は恐ろしく手薄な状態になっていた。
''偶然にも''、最初の矢合わせで伝令が流れ矢で――敵の矢は殆ど飛んでこない後衛に居たにも関わらず――討ち取られ、左翼の実情はレーモン四世に伝わらなかった。
数で不利と見れば矢を数合射かけて引くのが常のムスリムが、''その日に限り、珍しくも''ある一点を目掛けて秩序だった歩兵突撃を実行した。
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#ref(300px-Battle_of_Guadalete.jpg,nolink,right,around)
#ref(戦死.jpg,nolink)

かくして推進者を失った十字軍は霧散し、カタルーニャは完全にイスラームの勢力下となる。

それから然程の時を置かずしてアラゴンも滅び、イベリア半島ではカスティリア=レオン王国のみが孤軍奮闘することとなった。

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[[第二章へ>AAR/異端の国——オクシタニア——/第二章 ベルトラン一世]]
TIME:"2012-06-28 (木) 18:45:06"

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