[[AAR/生きていた義経]]

*源義経(1159-1198) [#j4d36f5b]

**ビザンツ帝国の太守に [#o86d7d74]

シルクロードを通ってコンスタンティノープルに辿り着いた義経は、時の皇帝イサキオス2世により、ハルキディキ州の統治を委任された。
ギリシャとは縁もないよそ者である彼を抜擢することに対しては反発もあったが、当時のビザンツ帝国はルーム・セルジューク、ブルガリア、セルビアなどに囲まれて弱体化していたため、優秀な軍事指揮官である義経は、皇帝にとって喉から手が出るほど欲しい人材であった。

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 1189年の東地中海地域。セルジューク諸氏族により、ビザンツ帝国はアナトリアの大部分を失った

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 イサキオス2世。アンゲロス朝初代皇帝…だが、能力値はごらんのありさま

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このため、登用されるにあたって義経に求められたのは、ただギリシャ正教に改宗することのみであったという。
なお、この際イサキオスの兄テッサロニカ公アレクシオス3世の提案により、義経は皇帝の直臣としてではなく、彼アレクシオスに仕えることになった。

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 ハルキディキ(白)及びテッサロニカ公領(赤)

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 テッサロニカ公アレクシオス3世。なお、この2人はチンギス・ハーン4にも登場する(ステマ)

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1189年6月、任地ハルキディキに到着した義経は、アレクシオス3世の勧めにより、妻を迎えた。相手は、コムネノス家のエイレーネである。
非嫡出子であるとはいえ、名家の子女と婚姻したことによって、帝国内では無名であった義経の威信も高まることとなった。

また同年、義経はテッサロニカ公国の元帥にも任命された。

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だが皮肉なことに、最高司令官としての最初の任務は、義経を取り立ててくれた皇帝イサキオス2世に対する反乱軍を統率することであった。

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**アンゲロス家対コムネノス家 [#n61bdec1]

1189年9月、イサキオス2世の退位とコムネノス朝の復活を求めて、帝国諸侯は一斉に蜂起する。
イサキオスの兄弟であるテッサロニカ公アレクシオスまでもがこの反乱に参加したため、人々は大いに驚いたが、公は失政の続く兄に以前より失望していたようだ。

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 アンゲロス派(紫)とコムネノス派(水色)。1189年の反乱には、帝国諸侯のほとんど全てが加わった

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これらの図を見ると圧倒的優位に立つように見えた諸侯軍だが、その軍勢は東西に分断されており、各個撃破される可能性も十分にあった。
また、皇帝直轄領であるトラキア、ニカイアの両地域から供出される兵の数も多いため、戦況は一進一退を繰り返した。

だが、1191年春に諸侯に担ぎだされたイサキオス家のアレクシオスが皇帝に即位したことで、戦争は終結。イサキオス2世は目を潰され、アンゲロス家の世は1代で終わりを告げた。

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しかし、この新皇帝アレクシオス3世もまた、1193年に「怪死」したため、事態はさらに混乱する。

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 驚きの黒さ、これぞビザンツクオリティー


変わって帝位についたエウドキアは高齢であり、彼女が死ねば帝位は再びコムネノス朝の手から離れてしまう危険性があった。
そこで諸侯は、トレビゾント公アレクシオスの登極を求めて再び反乱を起こす。
だが、エウドキア自身は優れた統治者であったため、この反乱に同調しない貴族も多く、この内乱は前回のものよりも長続きした。

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 女帝エウドキア。セルビア王国に対する戦争を勝利に導いたことでも知られる

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 1190年代のコムネノス家は、ヨハネス系(赤)とアンドロニコス系(青)が主流であった。
 アレクシオス3世(黒)やエウドキア1世(緑)はヨハネス系、そしてトレビゾント公アレクシオス(茶)はアンドロニコス系に属する。
 なお、義経の妻、エイレーネ(白)もアンドロニコス系である

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ビザンツ帝国に来て早々、お家芸ともいえる内乱に巻き込まれるはめになった義経は、元帥として東奔西走することとなった。
この間、エイレーネとの間にも、2男2女を設けており、特に静と名付けた長女を溺愛していたようだ。

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義経はまた、ギリシャ文化に対しても適応しはじめたが、彼の祖国である(日本に近い)モンゴル文化を保つことを選んだ。

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 モンゴル文化は遊牧民カテゴリーに入るので、女系相続が認められていない。
 このため、テストプレイでは義経に男子が生まれずに一度ゲームオーバーに…

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そして1198年、源義経、死去。

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ハルキディキ伯の地位は、未だ幼少である嫡男義親が継いだ。
義経を少しでも長生きさせて活躍させてやろうという意図で始めたこのAARの願いに反して、至極あっさり死んでしまった義経。
だが、彼は死去の1ヶ月前にテッサロニカ公位に対する権利を獲得しており、これは後に大きな影響を及ぼすこととなる。

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[[AAR/生きていた義経/源義親]]

TIME:"2013-04-13 (土) 15:40:13"

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