[[AAR/王朝序曲]]

*皇帝シャルル1世の治世・後編 [#c824f20b]


**エーラーン・シャフル [#sd8c8d47]

シャルル1世は後世『聖帝』と讃えられる。
大帝でも征服帝でもなく聖帝と呼ばれるのは、彼の戦争がほとんど例外なく宗教的動機に発していたからだ。
もちろんシャルルは異教徒とばかり戦ってきたわけではない。
しかしそれもキリスト教世界の支配者たるローマ皇帝の崇高な使命であるとの信念に基づくものであり、そこに私欲は一切なかった。

1269年4月23日
シャルルはワルドー派のデンマーク王グレゲレスに聖戦を布告した。
目的はユトランド半島の解放である。
デンマークは960年にハーラル青歯王が洗礼を受けて以来のカトリック国であったが、前王カトリーヌ女王がワルドー派に改宗して以来カトリック教会は徹底的な弾圧を受けていた。
カトリーヌは1250年に89歳で崩御したがその宗教政策は継続され、今ではユトランド半島の住民の大半が異端に染まるに至っていた。

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 異端の半島 異端は腐ったリンゴと同じ。放っておいたら周辺地域も汚染されてしまう(カトリック視点)

帝国が宗教的情熱のもとに汚物を消毒していた同じころ、東欧と中東でも大規模な戦争が行われていた。

1269年1月29日
神聖ローマ皇帝カール3世はボヘミア王国に宣戦を布告。
わずか半年でこれを降しその王位を簒奪した。
ボヘミアは66年ぶりに神聖ローマ帝国に帰って来たのである。

中東ではシーア派カリフのムンチェレン朝とスンニ派カリフのアッバース朝がアラビア半島南西部サナーの領有を巡り5年前から抗争を続けていた。
アッバース朝はビザンティン帝国とも交戦状態にありいずれも劣勢である。

1269年5月18日
アッバース朝《カリフ》バヒル3世が69歳で崩御。息子のイドリースが11歳でカリフ位を継承した。
摂政に就任したイブラヒムはこれ以上の戦争継続は不可能と考えサナー地方の割譲に踏み切る。
エジプトと講和したアッバース朝は戦力をビザンティン方面に集中し、翌年にはこれを退け白紙和平を締結している。

世界に激震が走ったのはその年、1270年のことである。

1241年にセルジューク朝を滅ぼしペルシャ全域を支配下に置いたジョチ・ウルスはその矛先をシリアに向けこれを征服。
更にはメソポタミアをも併合せんとアッバース朝に攻勢をかけたがその最中にバトゥが急逝。幼主ジャムガが即位した。
求心力を失ったジョチ・ウルスは内紛状態にはいりメソポタミア遠征は失敗。
各地で民衆反乱が頻発する事態に陥っていた。
ペルシャも例外ではなく、モンゴルに屈従を余儀なくされていたムスリム領主たちによる散発的な反乱が多発していたのだが、その中でも最大の反乱が1268年に始まるホルモズの乱である。
ただこの反乱は従来のそれとは大きく異なる特長をもっている。
反乱指導者がイスラム教徒ではなかったのだ。

1270年7月19日
ジョチ・ウルスはペルシャを放棄した。
反乱指導者ホルモズはイスファハーンにおいて《シャー》を称しペルシャ王国の復興を宣言した。
後世《解放王ホルモズ》と呼ばれるこの人物は、ゾロアスター教徒であった。

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 解放王シャー・ホルモズ ペルシャの地にゾロアスター教国家を樹立した英雄

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 ペルシャ再興後の中東

ホルモズの前半世はよくわかっていない。
後に編纂された王朝史ではサーサーン朝の末裔と記されているがもとより信ずるに値しない。
何より本人が己の過去をほとんど語っておらず、また直系子孫以外の親類縁者がほとんど記録に残っていない事からも、比較的低い身分の出自ではないかと推測される。
ホルモズの出自がどうであれ、そこにゾロアスター国家が樹立されたことは歴史的大事件であり、イスラム諸国と血みどろの抗争に突入していく事は必然であった。

1270年7月8日
デンマークは降伏しユトランド半島は帝国に併合された。
シャルルは次女ジュリエンヌの夫マスラフをユラン伯に叙し、現地の統治と改宗を委ねた。
マスラフは婿養子であり、その実家はポーランド王家である。
シャルルの次の標的は明らかであった。


**ポーランド継承戦争 [#w5661f3c]

ポーランド王国は建国以来ピャスト朝の王によって統治されてきたが、1179年に女王ペチナ2世の死によって王朝は断絶。
女系でピヤスト家の流れをくむポラジ家とドゥニン家が互いに王位を主張し90年に渡って抗争を繰り返してきた。
1270年現在、ポーランド王位はドゥニン家のヘレナ女王が保持していたが、女王は3歳と幼少であり、王位奪還を目指すポラジ家は水面下で活動を活発化させていた。
そんな一人がパリの宮廷にいたとなれば、東欧への勢力拡大を目指すカペー朝にとって鴨が葱を背負って来きたようなものだ。
シャルルはポラジ家のマスラフを次女と婿養子婚させ、征服したばかりのユトランドに領地を与えた。
他国の王位請求者を婿養子にして征服するのはカペー家のお家芸である。

1270年9月2日
帝国はマスラフのポーランド王位を主張しヘレナ女王に宣戦を布告。
征服軍を率いるのはハンガリー王ベルトク。彼もまたカペー家の婿養子である。

1272年10月4日
ヘレナ女王は降伏。新たに即位したマスラフは帝国に臣従した。

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 ポーランド王マスラフ 無能だが種さえ残せばそれでよし


**死と誤算 [#a1c0f847]

1269年9月8日
密偵長レオナールが55歳で死去。後任にはアイルランド系フランス人のルイが任命された。

1270年1月20日
スコットランド王シモンが83歳で崩御。
長男ルイの妻アンナベラはシモンの一人娘であり、これによって将来のスコットランド併合が確定するはずであった。
しかし事態は予想外の展開となる。
アンナベラに弟が生まれていたのだ。それも、シモン王が亡くなるわずか2ヶ月前であった。

1271年12月7日
シャルルの二番目の妻マリアが死去。
サルディニア出身のコルネリアと再婚した。

1273年10月22日
元帥テッサロニキ公ラグナールが51歳で死去。
スタニスラフの後継者として若くから将来を嘱望された天才であったが、その在職期間はわずか8年。早すぎる死であった。
後任には長男のテッサロニキ公エイリフが17歳という異例の若さで抜擢された。

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 元帥テッサロニキ公エイリフ 軍事33の父と比べるとかなり見劣りする

1273年12月10日
ハンガリー王ベルトクが64歳で逝去。長女ベノワトが王位を継承した。
ベルトクは婿養子であり、ここにアールパード王朝のハンガリー支配は終焉し、カペー朝ハンガリーの歴史が始まることになった。


**帝国の将来 [#j73ce370]

1273年5月10日
ビザンティン皇帝エイフェミオスが63歳で崩御。
長男デメトリオスが帝位を継承した。
エイフェミオスは退廃の極みにあったドゥーカス朝を打倒してオボリド朝を樹立した英雄であったが、そのオボリド朝もまた退廃に向かうのは避けられなかった。

1273年5月14日
帝国はビザンティンに聖戦を布告した。
目的はタルノヴォ地方の解放である。

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 タルノヴォ軍管区 ビザンツは代替わりと休戦協定切れの度に聖戦で削っていきます

1275年6月10日
ビザンティンは降伏しタルノヴォ地方は帝国領となった。
タルノヴォ公にはドイツ貴族のブルノ・フォン・ノルトハイムが封ぜられた。

1276年10月23日
ビザンティンでクーデターが起こりデメトリオス帝は廃位。オボリド朝はわずか25年で滅亡した。
帝位を簒奪しアイネイダス王朝を開いたセオドトス帝もまた、イスラム教徒である。

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 ビザンティン皇帝セオドトス HRE同様、ビザンティンもまた王朝交代が頻発している

ビザンティン政変の報告を受けたその夜、大臣ラウルが参内した。
大臣は顧問団の首班であり、事実上の帝国宰相である。
しかしシャルル治世下においては宮廷司祭長オットー(教皇ドヌス3世)が実質的な宰相の役割を果たしており、ラウルの仕事は外交部門に限定されている。
ラウルは先祖である摂政ラウルと同じく有能な外交官であり、在任中イタリア方面にいくつかの要求権を獲得してきた。
しかし今回の参内は自身の進退に関することである。
70歳を越えたラウルは死期が近いことを悟っていたのだ。

>「後任の大臣にはエラール殿下を推挙いたします」

エラールはシャルルの次男アントワーヌの庶長子である。
私生児だがシャルルにとっては初孫であり、自ら養育し実子以上の愛情を注いできた。
そのエラールは今年16歳。成人を迎えたばかりであった。

>「殿下の才能には端倪すべからざるものがあります。あの方なら大臣として適任でありましょう」
>「あれの才能は朕も理解しておる。しかし若すぎるのではないか?」
>「過去、名臣とよばれた者は皆若くして重責を担っております。大臣キナート然り、家令ウンベール然り、元帥スタニスラフ然り」

直接口には出さなかったが、ラウルは帝国の将来に不安を抱いていた。
シャルルとオットーという宗教的情熱に裏打ちされた強力なカリスマが失われた時、この巨大な帝国をどのように運営していくのか。
皇太子ルイは決して凡庸な人物ではないがシャルルのような強力な指導力を発揮するタイプではない。
また、教会との関係も常に良好であり続ける保証など無い。

>「エジプトの大宰相か?しかしあれは危険だ。宰相の力が強すぎてカリフが形骸化した」

シャルルはラウルの考えを見抜いていた。
彼は君主の能力に左右されない統治体制を模索しているのだ。

>「権限を顧問が分担し、その首班たる大臣が皇帝に責任を負う体制を想定しております」
>「それでは今と変わらぬではないか」
>「顧問団に役人の人事権を付与します。もちろん最終決定権は陛下にありますが」
>「役人の俸給はどうするのだ。土地か?金か?それは誰が出すのだ」
>「国家が出します」
>「国家とは朕のことだ」
>「いえ、そういう意味ではなく…」
>「もうよい。そんな話はどうでもよい。そんな事より、そちの本分の話をしよう。ビザンティンの政変をどう見る?」
>「イスラム改宗で政情不安が続いておりますな。新王朝もはたしていつまでもつのやら」
>「違う!皇帝が変わったということは、だ。休戦協定が無効になったということだ。聖戦だ!神はそれを望んでおられる!」

ラウルの構想は現代の内閣制度のようなものであった。
しかしそれが実現するのはまだ先の話である。

1276年12月3日
大臣モンフォール・ラムリ男爵ラウルは70年の生涯を閉じた。
後任の大臣にはエラールが選ばれた。


**巨星墜つ [#q18ce043]

1276年11月24日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告した。
目的はヴィディン地方の解放である。

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 ヴィディン軍管区 ここを獲ればブルガリア王国創設の条件が整う

帝国は諸王に軍役を課し、総勢30万の大軍をもってビザンティンになだれ込んだ。

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 プラヴの戦い この戦いでビザンティンの主力は壊滅した

1278年5月24日
セオドトス帝は降伏。ヴィディン地方は帝国に編入された。
同日、シャルルはブルガリア王国を創設しその王位に就いた。

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 ブルガリア王国創設

また、大臣エラールをヴィディン公に封じ征服地の統治を委ねた。

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 大臣ヴィディン公エラール シャルルの次男アントワーヌの庶長子。

シャルルはエラールを溺愛していた。
本当はブルガリア王位を授けたかったのだが、私生児は家名を継げないのが中世の伝統である。
王位が他姓に移る事態は避けねばならない。
家臣たちにこう説得されればシャルルも諦めざるおえなかった。

1278年6月25日
教皇ドヌス3世こと宮廷司祭長オットーが逝去。62歳であった。
ザーリアー家という名門に生まれながら生涯を神と帝国に捧げたオットーは、中世の夢を追い続けたロマンの人であった。
最後の審判が近いと信じ、ひとりでも多くの魂を救済する事が皇帝の使命であるというシャルルの信念に火をつけたのがオットーである。
帝国と教会の一体化を唱え、神権的帝政を実現したのもオットーの構想あってのものである。
シャルルとオットーは主従であり、師弟であり、そして盟友であった。
後任の教皇にはフランク人のユリウス2世が、宮廷司祭長にはサルディニア大司教フレデリックが選ばれた。
いずも非凡な人物であるが、オットーのように皇帝の人格にまで影響を与えうる存在ではない。
巨人の時代は終わったのである。

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 教皇ユリウス2世 有能には違いないがオットーの衣鉢を継ぐにはやや力量不足か

1278年8月20日
密偵長ルイが暗殺された。
当然、徹底的な捜査が行われたが下手人が判明することは最後までなかった。
後任の密偵長にはトゥールーズ公ウンベールが任命された。

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 1278年の顧問団 全員が公爵級になるのはカペー朝史上初めて


**聖戦の系譜 [#m082957c]

ヴェネツィア共和国はピサ共和国と勢力を二分する大海洋共和国であった。
一時はアドリア海の女王と謳われるほど勢威を振るったが、1167年にビザンティン帝国によって首都ヴェネツィアを奪われてからはクロアチアと南イタリアに小都市を維持するだけの小勢力に成り下がってる。
ビザンティンはヴェネツィアに軍管区を置き、以後マルグニオス家が代々総督を世襲してきた。
しかし1276年の政変以降は自立の動きを見せており、1278年のヴィディン失陥以降は公然と反旗を翻していた。

1279年4月11日
帝国はヴェネツィア総督レオスセネスに聖戦を布告。
僅か半年でこれを降し帝国に併合した。

1279年10月14日
シャルルはポルトガル王ティボーの次男のエリーをヴェネツィア総督に任命。
都市に自治権を付与し共和政体を復興せしめた。

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 ヴェネツィア総督エリー・カペー 公爵級の共和国はカペー王朝下では初めての事例である

1280年4月22日
帝国はクロアチア総督フォカスに聖戦を布告。
フォカスもまた、政変に便乗してビザンティン皇帝から独立していた。

1282年3月10日
クロアチア総督は降伏し帝国に併合された。
シャルルはクロアチア大司教領を創設し、デ・ギュネ家のランボーを大司教に叙任した。


**第三次ツェーリンゲン王朝 [#r130ef40]

1281年11月19日
シャルルは教皇ユリウス2世を通して神聖ローマ皇帝カール3世を破門した。
カールに破門されるほどの罪状があったわけではない。
あえて罪をあげつらうならば、皇帝を僭称していること事態が政治的罪であった。
天空に太陽はふたつとなく、地上に皇帝はただ一人なのだから。

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 偽帝死すべし

カール3世は王権の強化を目指し大諸侯たちと抗争状態にあった。
そこに破門がきたのだから、反乱軍はさらに勢いづく。

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 いつもの光景

1283年7月15日
帝国はアルベンガ男爵ギーのサヴォイア公位を主張し神聖ローマ皇帝カール3世に宣戦を布告した。
ドイツの内乱につけこみ領土を拡大するのもカペー家のお家芸である。

1284年1月1日
カール3世は降伏。
サヴォイア公領は帝国に編入された。
カール3世にはもう戦いを続ける力は残っていなかったのである。

1284年1月30日
カール3世は退位し、第二次ザーリアー王朝は40年の歴史に幕を下ろした。
諸侯は廃帝ジークフリート2世を復位させ、ここに第三次ツェーリンゲン王朝が誕生した。

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 神聖ローマ皇帝ジークフリート2世 40年ぶりに帝位に返り咲いた老帝

なお、廃位されたカール3世はボヘミア王として、ツェーリンゲン家との権力抗争を継続していく事になる。


**アナトリア十字軍 [#z35034ab]

1284年3月30日
ビザンティン皇帝セオドトスが63歳で崩御。長男アナトリオスが帝位を継承した。
これは休戦協定の無効化を意味する。

1285年1月19日
帝国はビザンティン帝国に聖戦を布告。
目的はデュラッチオン地方の解放である。

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 デュラッチオン軍管区 聖戦ラッシュでビザンツを消滅させる予定

実はここ数代、カペーの君主は直轄領から兵を招集したことがない。
戦争は近衛軍(常備軍)と分家諸王国からの動員兵だけで十分こなせるからだ。

1285年3月1日
パリで農民反乱が発生した。
留守を預かる大臣エラールはアンジュー公とブルターニュ公の兵を招集し鎮圧に当たらせた。

1285年4月1日
今度は中東ネジブで農民反乱が発生した。
ディラッチオンに向かっていたエルサレム王軍は転進しこれの鎮圧にあたった。

1285年5月7日
ブルグント王シャルルの弟ポエモンが挙兵した。
ポエモンは皇帝シャルルの甥にあたるが、兄王から領地を分けてもらうことが出来ず不満を募らせていた。
2年前に宮廷を出奔。各地で兵を募り、イングランド征服の兵を挙げたのである。

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 ポエモンの乱 何故イングランドなのかは謎

エラールは直轄領の兵を招集した。
また、イングランド諸侯に動員をかけたのみならず、フランス国内の諸侯にも動員令を発し早期鎮圧を目指した。
フランス国内で対規模な招集が行われるのは異例の事である。

1286年2月24日
神聖ローマ皇帝ジークフリート2世が64歳で崩御。長男カスパーが帝位を継承した。

1286年7月10日
ビザンティン帝国は降伏しデュラッチオンは帝国に併合された。
シャルルは家令アランの実弟リワル・セルネウをデュラッチオン公に封じた。

1286年7月29日
教皇ユリウス2世はアナトリア解放を掲げ十字軍を布告した。
帝国軍はいまだギリシャの地にあり、敵地は目と鼻の先である。
教皇が皇帝の封臣である事も考えると、この十字軍が多分に政治的動機に基づくものであることは明白である。

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 アナトリア十字軍 絶妙のタイミングで発動

敗戦直後のビザンティンはすでに虫の息である。
帝国軍は遠征軍をそのまま十字軍に投入し異教徒の地を蹂躙して回った。
更に朗報も届けられた。ポエモンを捕縛したのである。

1287年1月30日
ガリシア王ギシャールが病を得て陣没した。
ギシャールはシャルルの弟である。長男ルノーが王位を継承した。

ビザンティン皇帝アナトリオスもただ蹂躙されるにまかせていたのではない。
全土から兵をかき集め2万の軍勢を揃えると侵略者を撃退すべく攻勢をかけてきた。

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 バルの戦い 敗戦直後でありながら2万近い軍勢を集めるビザンティン

しかし抵抗もそれが精一杯であった。

1288年2月19日
ビザンティン帝国はアナトリアの放棄を決定。
十字軍はカトリックの勝利に終わったのである。

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 十字軍終結 アナトリアは帝国に併合された。

1288年2月20日
アナトリア王位に就いたシャルルは新領土の封建を行った。
アナトリア大司教にロルゲー・ド・ドーフィネ
トゥラセシア大司教にアルノー・リムーザン
キリキア公にブルゴーニュ公家傍流のルイ・カペー
バフラゴニア公に先に反乱を起こしたブルグント王子ポエモン・カペー
アルメニアコン公にベリー公家傍流のアルフォンス・カロリング
トレビゾンド公に武人として活躍したロベール・ド・グリソン
カルシアノン公に皇后コルネリアの遠縁にあたるレオン・ド・リモージュ

カペー家やカロリング家は妥当な人事といえるが、それ以外は寒門出身者が目立つ。
旧来の貴族層の特権を考慮しないこの人事は諸侯の反発を買ったが、それ以上に注目を集めたのは反逆者ポエモンの叙爵である。
シャルルの度量の広さとも言えるし、見方を変えれば老獪な思惑も透けて見える。
貴族たちの興味をポエモンに向けることで寒門の抜擢に対する関心をそらすことも出来るからだ。
そして一度やってしまえばそれは前例となるのである。


**イタリア戦争 [#e71f5a87]

>「陛下がアンコーナ、ウルビーノ、ヴェローナ、マントヴァ、トレビゾントの正統な継承権者である事を証明する古文書が発見されました」

大臣エラールが恭しく古文書を提示する。
前大臣ラウルから50年かけて獲得してきたイタリア5州の請求権を行使する時がきたのだ。

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 シャルルが正統な継承権を主張する5州 もちろん捏造である

1288年7月9日
帝国は神聖ローマ皇帝カスパーに宣戦を布告した。
目的はもちろんイタリアである。

#ref(108_1289.jpg,nolink)
 ヴァーレンの戦い 一方的な虐殺である

シャルルは開戦に先立ち神聖ローマ皇帝カスパーを破門していた。
ローマ皇帝を僭称するものは例外なく破門する。
教会をも支配するシャルルに不可能な事などなかった。

1290年3月24日
カスパーは降伏しイタリア5州はシャルルの領有するところとなった。

#ref(109_1290.jpg,nolink)
 イタリア戦争終結

同日、シャルルはフィクトル・フォン・ポメルンをヴェローナ公に、マナセス・デ・サンティラナをアンコーナ総督(共和制)に叙した。
イタリア半島で帝国に属さないのはピサ共和国が領有するビオンビーノ州とサルディニア島のカリアリ州の2つを残すのみである。
しかしその征服は次の代に持ち越されることになる。

#ref(110_1290.jpg,nolink)
 イタリア戦争終結後の帝国 次のターゲットはドイツ

#ref(111_1290.jpg,nolink)
 動員兵力 60万を超えました HRE、アッバース朝、モクスワ、ゾロアスター・ペルシャが10万弱で横並び。モンゴル、エジプト、ビザンツは弱体化


**崩御 [#d45e4966]

イタリア戦争の後もシャルルは意気軒昂であった。
次なる目的をドイツ征服に定め、ドイツ王アルノルトの三男ジークフリートの引き抜きを計画したり、長男の嫁アンナベラをスコットランド王位に就けるための戦争準備にも取り掛かっていた。
しかしこれらの計画がシャルルの生前に実現する事はなかった。

1290年1月6日
娘婿のポーランド王マスラフが42歳で逝去。長男のエドリクが王位を継承した。
こうしてポーランドもカペー朝のものとなった。

1290年8月6日
シャルルは病床につく。
彼は死を恐れてはいない。
天国に行きたいという若き日の望みが叶えられようとしているのだ。何を恐れることがあろうか。

1290年10月19日
皇帝シャルル1世は崩御した。
享年83

生涯を神に捧げ、神の名のもとに征服戦争を繰り返した聖帝の死に顔は充足感に満ちていたと伝わる。

#ref(112_1290.jpg,nolink)


**後世の評価 [#f9416663]

二度の十字軍に勝利し帝国の領土を大きく拡大したシャルルの治世は栄光の時代として記憶される。
シャルルの元でローマ帝国は世界帝国に発展していく基板を築くことができた。
それは軍事外交面だけではなく、帝国の統治機構のあり方についてもいえる。
皇帝が聖俗両面で絶対的な権威をもつ神権的帝政の構築がそれにあたるが、それ意外にも寒門出身者を積極的に叙封するなど貴族層に束縛されない強力な皇帝権力の行使があげられる。
しかしこの体制は皇帝個人の資質に大きく依存する。
皇帝の個人的力量に左右されない官僚機構の構築が、帝国を永続的に存続させるための必須条件である。
しかしそれが実現するのはもう少し先の話であった。


**あとがき [#ucb20c4a]

前回もそうでしたが十字軍は美味しいです。
このAARでは今回までに6回十字軍が発動してますが、全部フランス(ローマ帝国)が獲ってるんですね。
勲功第一位が総取りですから。
今回のプレイで一番驚いたのはビザンティンのイスラム化。これで征服がすごく楽になりました。
ゾロアスター教の復活も胸熱ですが…まあ、長くは持たないでしょうねえ。
ここまで大国になってしまうと完全に塗り絵状態で見てても面白く無いと思いますが、それでも行けるところまでいきます。
当面の目標はHREとビザンツの完全併合。その先は…全世界カトリック化ですかね。時間的に無理っぽいけど。
次のルイ2世は既にプレイが終わってますので、次回はそんなに待たせないと思います。
それでは。

皇帝ルイ2世の治世へ[[AAR/王朝序曲/皇帝ルイ2世の治世]]
TIME:"2014-11-03 (月) 09:48:20"

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