[[AAR/王朝序曲]] *幕間2 1232年のローマ帝国 [#j32ded41] **現状分析 [#n26ca3f7] ***皇帝シャルル1世 [#m743f83c] 父はローマ皇帝ルイ1世、母は上ブルゴーニュ女公ブルンヒルデ。 皇后バルバラは上ロレーヌ女公である。 その長い治世に多くの外征を行い数多の王国を帝国の版図に編入した大帝シャルルは、意外にも無欲で野心に乏しい人物であった。 その長い治世に多くの臣下を粛清し、時には裏切りや暗殺も辞さなかった暴君シャルルは、意外にも親切で公正な人物であった。 そんなシャルルを覇道に向かわせたものは何か。 神への絶対的な信仰である。 #ref(000_1232.jpg,nolink) 皇帝シャルル1世 外交が高いのはカペー家歴代の当主に共通する特長。 長子相続で有能な当主を出し続ける秘訣は自分で教育すること。良い特性させ付けばどうとでもなる。 1232年現在、シャルルは以下の称号を保持している。 神の恩寵によるローマ皇帝、フランス、イングランド、アラゴン、アンダルシア、アキテーヌの王 ヴァロワ、オルレアン、フランドル、ベッドフォード、トスカーナ、フェラーラ、トレドの公 パリ、オルレアン、アミアン、アルトワ、ブリュッヘ、ヘント、イベレン、ヴェルマンドワ、ミドルセックス、フィレンツェ、シエナ、ラヴェンナ、ボローニャの伯 皇帝は騎兵2万4千からなる近衛騎士団(常備軍)を擁しており、帝国内におけるその軍事的優位は圧倒的である。 近衛騎士団はシャルルの治世を通して拡大が続けられ、治世末期には6万を超える事になる。 また財政収支も安定しており皇帝の権力基盤は盤石といってよい。 #ref(001_1232.jpg,nolink) 年間収入は1120Gに達する ***世界情勢 [#q294a818] すでに帝国に比肩しうる勢力は存在しない。 #ref(002_1232.jpg,nolink) 1232年の勢力図 #ref(003_1232.jpg,nolink) 動員兵力の比較 動員兵力が5万を超える国は7つある。 ローマ帝国、神聖ローマ帝国、ビザンティン帝国、ファーティマ朝、セルジューク朝、モスクワ大公国、そしてジョチ・ウルスである。 #ref(004_1232.jpg,nolink) 神聖ローマ皇帝ジークフリート2世 ツェーリンゲン王朝嫡流の幼君。国内には皇帝を凌ぐ大諸侯もおり、その権力基盤は決して強くはない。 #ref(005_1232.jpg,nolink) ビザンティン皇帝ダニエル シャルルの曽祖父フィリップ2世の娘婿。将来を嘱望された天才児も老境を迎えている。 #ref(006_1232.jpg,nolink) ファーティマ王朝《カリフ》ラフィク ファーティマ家では傍流ながら旧臣に擁され王朝再興を成し遂げた。 #ref(007_1232.jpg,nolink) セルジューク王朝《スルタン》イナル 後宮にこもり美女と美酒と財宝を愛する堕落した君主。 #ref(008_1232.jpg,nolink) モスクワ大公ムスティスラフ ロシアの大族リューク家の惣領。公正王と呼ばれた名君も息子に先立たれ統治への関心を失っている。 #ref(009_1232.jpg,nolink) ジョチ・ウルス《大ハーン》バトゥ この世界のバトゥは悪魔憑きの無能。しかし精強なモンゴル軽騎兵は君主の無能を補って余りある脅威である。 このうち、どこが残りどこが脱落するのか。 その答えは神のみぞ知る。 ***帝国の情勢 [#we9814a5] ブリテン島の情勢に大きな変化は無い。 イングランドは帝国領、アイルランドの南半分がマンスター小王国領、ウェールズとアイルランドの一部がナヴァラ王国領、残りはスコットランド王国と若干の独立伯である。 ちなみにナヴァラ王国はイベリア半島の領土を喪失している為、実質的にはウェールズ王国と呼んで差し支えない。 #ref(010_1232.jpg,nolink) 1232年のブリテン島 イベリア半島は大半が帝国領となっている。 かろうじてカスティーリャが存続しているが帝国に併合される日も遠くはないであろう。 #ref(011_1232.jpg,nolink) 1232年のイベリア半島 イタリア半島も大半が帝国領となっている。 ただ、残る地域が教皇領、神聖ローマ帝国領、ビザンティン帝国領と一筋縄ではいかない強国であり、統一にはまだしばらく時間がかかるであろう。 海洋商業共和国は唯一ピサ共和国のみが健在だが、帝国にとってさしたる脅威ではない。 #ref(012_1232.jpg,nolink) 1232年のイタリア半島 中東欧は帝国にとって縁の薄い地域だったが、ハンガリーが帝国に加わった事でその政治的重要性が格段に向上している。 帝国の統一的運営の為には飛び地状態を解消する必要があり、その為にはバイエルン地方への進出が不可欠である。 また、帝国がポーランドやバルカン半島へ進出する為の前線基地として、ハンガリーは戦略上重要な地域となっている。 #ref(013_1232.jpg,nolink) 1232年の中東欧 シャルルの即位によって、彼が母から継承していた上ブルゴーニュ公領が帝国の版図に編入された。 これにより旧ブルグント王国領の過半を版図に加えたシャルルはブルグント王位を創設し、次弟ルイにその統治を委ねた。 しかしサヴォイア地方がいまだ神聖ローマ帝国に属しており、その処遇が両国間の外交問題となっている。 #ref(014_1232.jpg,nolink) 1232年のブルグント ***顧問団 [#l6dfef3c] シャルルの顧問団は父帝ルイのそれをそのまま継承している。 君主と顧問団に権力が集中する体制はフランス王国時代と変わっていない。 #ref(015_1232.jpg,nolink) シャルル1世即位時点の帝国顧問団 大臣エルサレム王エドゥアールはルイ6世の次男でシャルル帝の叔父にあたる。 温厚篤実な好人物で諸侯からの人望も厚く、兄帝の補佐役としては申し分のない人物であった。 ただ、大臣は顧問団の首班であり事実上の帝国宰相である。 兄帝亡き今、補佐役タイプのエドゥアールが宰相として帝国を主導していけるのか。 その手腕はこれから問われる事になるであろう。 元帥ノーサンバーランド公スタニスラフはロシア出身の武人である。 当初は断絶したジャルゴー男爵家の名跡を継いでいたが、ハンガリー十字軍でフレグ・ウルスを壊滅させた軍功によりノーサンバーランド公に封ぜられた。 普段は寡黙で不器用な男である。 しかし戦場では極めて有能な猛将で、フレグ旗下のモンゴル兵10万を殲滅し尽くした事から『モンゴル人殺し』の異名で味方からも畏れられる存在である。 家令サンセポルクロ男爵ルノーは家令に就任してまだ1ヶ月に満たない。 前家令ウンベールの後任候補として早くから将来を嘱望されていたのだが、ウンベールが87歳の長寿を全うしたため52歳の遅咲きとなった。 余談ながらサンセポルクロは会計学の父ルカ・パリョーリの出身地である。 密偵長パボーム男爵テカは旧ヌビア王家の血を引く黒人である。 一見すると慇懃で物腰が柔らかい好人物だが、その本性は権力志向が強い野心家である。 帝国中に密偵網を張り巡らし危険分子を容赦なく監獄に送る政治手法は『黒い悪魔』と呼ばれ貴族たちの怨嗟の的になっている。 なお、彼が同性愛者であることは公然の秘密である。 宮廷司祭長カンタベリー大司教フレデリックは平民の生まれながら大司教にまで登りつめた学僧である。 神学の知識だけでなく人徳にも優れ国中から慕われる名僧であるが、高齢で健康問題を抱えている。 彼には優秀な愛弟子がおり、近い将来その弟子に宮廷司祭長の職を譲る事になる。 そしてその弟子こそが皇帝シャルルに決定的な影響を与え、帝国とヨーロッパの歴史を大きく変えていくことになるのである。 ***諸侯 [#s99d87c6] 皇位を継承したシャルルはその日のうちに弟たちに王位を授けている。 これはカペーの慣例に則たものである。 具体的には次弟ルイがブルグント王、末弟ギシャールがガリシア王に封ぜられ任地へ赴いていった。 #ref(016_1232.jpg,nolink) ブルグント王ルイ 皇帝ルイ1世の次男 能力値にカペーのDNAを感じる #ref(017_1232.jpg,nolink) ガリシア王ギシャール 皇帝ルイ1世の三男 生後二週間の乳児である 1232年現在、帝国は13の王国と66の公領、193の伯領、646の男爵領がある。(司教領・都市も含む) 皇帝が保持する称号と、公爵以上の封臣(陪臣も含む)は以下の通りである。 |フランス王|皇帝が兼務|皇帝| |イングランド王|皇帝が兼務|皇帝| |イタリア王|皇帝が兼務|皇帝| |アラゴン王|皇帝が兼務|皇帝| |アンダルシア王|皇帝が兼務|皇帝| |アキテーヌ王|皇帝が兼務|皇帝| |ブルグント王ルイ|カペー家|ローマ皇帝ルイ1世の次男| |ガリシア王ギシャール|カペー家|ローマ皇帝ルイ1世の三男| |エルサレム王エドゥアール|カペー家|フランス王ルイ6世の次男| |ポルトガル王ウスターシュ|カペー家|フランス王ルイ6世の三男| |レオン王ロタール|カペー家|フランス王ルイ6世の四男| |ハンガリー王ベルトク|アールパード家|ローマ皇帝ルイ1世の婿養子| |シチリア王アルナール|オートヴィル家|フランス王ルイ6世の婿養子| |ヴァロワ公|フランス王たる皇帝が兼務|フランス王| |オルレアン公|フランス王たる皇帝が兼務|フランス王| |フランドル公|フランス王たる皇帝が兼務|フランス王| |ベッドフォード公|イングランド王たる皇帝が兼務|イングランド王| |トスカーナ公|イタリア王たる皇帝が兼務|イタリア王| |フェラーラ公|イタリア王たる皇帝が兼務|イタリア王| |トレド公|アンダルシア王たる皇帝が兼務|アンダルシア王| |アキテーヌ女公アリエノール|カペー家|フランス王フィリップ2世の次男アンリの子孫| |ブルボン女公メリサンド|カペー家|フランス王フィリップ2世の三男クロテールの子孫| |ブルゴーニュ公ウンベール|カペー家|フランス王アンリ2世の四男マナセスの子孫| |ガスコーニュ女公ヴァランス|カぺー家|フランス王フィリップ1世の次男ジェローの子孫| |ポワトゥ公ゴドフロワ|カペー家|フランス王フィリップ1世の次男ジェローの子孫| |ブルターニュ公ティボー|カペー家|フランスフィリップ1世の三男ジュリアンの子孫| |ノルマンディー公ヴァルラン|カペー家|フランス王アンリ1世の次男ユーグの子孫| |ベリー公アルノー|カロリング家|旧フランク王家| |アンジュー公ジール|アンジュー家|フランク貴族| |トゥールーズ公レーモン|ラ・マルシェ家|オクシタニア貴族| |オーヴェルニュ公ジュリアン|オーヴェルニュ家|オクシタニア貴族| |シャンパーニュ大司教アンドレ|大司教|聖堂参事会による選出| |ランカスター女公ボンヌ|カペー家女系|フランス王フィリップ2世の長女ドゥースの子孫| |サマセット公エドムンド|ウェセックス家|旧イングランド王家| |グロスターシャー公アベラール|ノルマンディー家|旧イングランド王家| |ノーフォーク公エドフリス|ゴドウィン家|旧イングランド王家| |ヨーク公サイテルベアルン|パンティエーヴル家|旧ブルターニュ王家| |ノーサンバーランド公スタニスラフ|ミクリニチ家|ロシア貴族| |ヘレフォード公ユースタス公|アエルフリクソン家|アングロサクソン貴族| |コーンウォール公リオク|セルネウ家|ブルターニュ貴族| |カンタベリー大司教フレデリック|大司教|聖堂参事会による選出| |ミラノ公グリエルモ|エステ家|イタリア貴族| |ジェノヴァ女公アントワネット|フレユス家|イタリア貴族| |モデナ公ステファン|パルマ家|イタリア貴族| |スーザ公アナスタジオ|アレラミチ家|イタリア貴族| |サルディニア大司教アントワーヌ|大司教|聖堂参事会による選出| |バレンシア公ロウボー|カペー家|フランス王アンリ2世の五男ジャフルの子孫| |マヨルカ公ウンベール|カペー家|ノルマンディー公家の傍流| |ナヴァラ公ラモン|ヒメノ家|旧ガリシア王家| |バダホス公ヌーニョ|ヒメノ家|カスティーリャ王家傍流| |バルセロナ公イヴ|ブロワ家|旧シャンパーニュ公家| |アラゴン公アルノー|ブルゴーニュ家|旧ブルゴーニュ公家| |グラナダ公アルバル|バルセロナ家|旧バルセロナ公家| |セビリア公ギラゴンカーン|パトライク家|アイルランド貴族| |ムルシア公ウスターシュ|デノガルデ家|スペイン貴族| |アルゲル大司教ジャフル|大司教|聖堂参事会による選出| |上ブルゴーニュ公|ブルグント王が兼務|ブルグント王| |ドーフィネ公|ブルグント王が兼務|ブルグント王| |プロヴァンス公エチエンヌ|カペー家|フランス王アンリ2世の次男ジェローの子孫| |ガリシア公|ガリシア王が兼務|ガリシア王| |エルサレム公|エルサレム王が兼務|エルサレム王| |アスカロン公ギリェン|カペー家女系|フランス王フィリップ1世の長女マルゴーの子孫| |ベハ公|ポルトガル王が兼務|ポルトガル王| |ポルト大司教エッポン|大司教|聖堂参事会による選出| |アルガルヴェ大司教ジルベール|大司教|聖堂参事会による選出| |レオン公|レオン王が兼務|レオン王| |アストゥリアス公|レオン王が兼務|レオン王| |ベスト公|ハンガリー王が兼務|ハンガリー王| |エステルゴム公|ハンガリー王が兼務|ハンガリー王| |ベーチ公ベルトク|アールパード家 |旧ハンガリー王家| |ニトラ公イシュトヴァーン|アールパード家|旧ハンガリー王家| |ウングヴァル公タチョニィ|アールパード家|旧ハンガリー王家| |トランシルヴァニア公ロブレヒト|グトケレド家|ハンガリー貴族| |テメス公ロベール|バルタニ家|ハンガリー貴族| |シチリア公|シチリア王が兼務|シチリア王| |カプア公|シチリア王が兼務|シチリア王| |カラブリア公|シチリア王が兼務 |シチリア王| |ベネヴェント女公エルミテ|オートヴィル家|旧シチリア王家| |サレルノ公ステッティン|オーオヴィル家|旧シチリア王家| ***宗教 [#bd53aa6a] 最後に宗教情勢であるが、これはこの50年間ほとんど変化がない。 中東では政治的混乱が続いているが、大半は同じ宗派内の権力闘争であり宗教勢力全体を大きく変えるような事件は起こっていない。 今後もそういう状況が続くものだと、この時点では誰もがそう思っていた。 #ref(018_1232.jpg,nolink) 1232年のカトリック勢力 ローマ帝国はカトリックを国教としている。 またシャルル帝はきわめて敬虔な人物であり、全世界の民をキリストの教えに帰依させることが皇帝の使命であるとの信念を持っている。 #ref(019_1232.jpg,nolink) ローマ教皇マルケルス2世 教皇庁の派閥抗争の中で擁立された若造。聖書を読んだことすらなかったと伝わる。 ***あとがき [#ra64f2ad] ローマ皇帝になり一区切りという事で、幕間としてシャルル1世即位時点の状況説明を行いました。 ネタバレになりますが、シャルル帝は長生きした上に在位中あまりにも多くの出来事があったため、画像の数が400を超えてしまいました。 もちろんそんなにアップできませんので、その中から必要なものを選別しなければならず、それで時間がかかっている状態です。 選別してからAARを書き始めますからまだ少し時間がかかります。 また、今回も前中後編と三分割する予定です。 今しばらくお待ちください。 TIME:"2014-08-28 (木) 17:31:19"