[[AAR/歴史資料集 図説 ローマ帝国の再興と拡大]]
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**13世紀前半 [#z364cdf9]
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ヒッポリトス帝は13世紀に入り、ローマ教皇庁が最後に保有していたケルンの教会を奪って完全に力を失わせ、
また1213年、ついにカレドニアを征服、古代の最盛期にも成し得なかった
ブリタニア全島の実効支配を確立させ、1214年に64年の治世を閉じます。
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その後を嗣いだステファノス帝は、この時期の帝国にとって最大と言える敵を相手取ることになりました。
草原の遥か彼方から攻めて来る巨大遊牧民勢力、モンゴルです。
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1215年には彼らが接近しているとの報が流れ、速やかに勢力を拡大したモンゴルと
1221年にペルシア方面にて国境を接し、そしてすぐに攻撃を受けました。
遊牧民である彼らは羊などの食用家畜と共に移動できるため、
定住民ほどには補給限界に苦しむこともなく、かつ主力の全兵が騎馬、しかも弓騎兵であったため
戦闘は過酷を極め、
十重二十重に敷いた陣も衆寡敵せず次々に打ち破られていきます。
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しかし帝国にはすでに圧倒的な数の利があり、彼らの誇るの精鋭騎兵も次第に捕捉され、
1224年末には彼らの兵を全滅させ、完全勝利します。
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これで安泰と思ったころ、1227年、第二波の攻撃がやってきました。
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カスピ北の草原地帯からやってくる第二波が国境を接したのは1232年でした。
ヴォルガを越えてルーシ方面を狙う彼らでしたが、
この時はモンゴルは接するや否や狂犬の如く攻めて来るという前回の教訓を活かし、国境を接したころから予め動員をかけてあったため、
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またも苦戦はしたものの期間としては長引かず、再び主力を全滅させることに成功して1233年末に多額の賠償金を支払わせて講和しました。
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さらに1243年、モンゴル第一波が占領していた地域を制圧、東方からの圧力を大いに減退させることに成功します。
しかし1246年、モンゴルはペルミを征服し白海までを領土とし、拡大の意欲を鮮明にしたため、
帝国はカレリア地区を制圧、それ以上の西進・北進を妨げました。
このようなモンゴル勢力との戦闘の最中も西方ではついに古代以来の懸案であったゲルマニアへの本格侵攻をはじめています。
またアビシニア地方も完全に帝国領となり、ルーシ~ルテニアが帝国に入ったのもこの13世紀前半です。
この時代にブルグンド・メソポタミアが帝国の慣習領土に復帰、またアラビア・ヒベルニアが慣習領土に編入されています。
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TIME:"2014-08-03 (日) 00:09:52"