[[AAR/極楽の地インド]] *はじめに [#cddb245e] 「結局Vigrahapala三世って何もしてなくない?」 子供は見るからに老人の話を退屈そうに聞いていた。 しかし、老人は腹を立てなかった。逃げないだけましだと思ったからである。そして、子供の目を見つめてからこう言った。 「いやいや、それは間違いだ。Vigrahapala三世は領土拡張といった派手なことは結局成し遂げられなかった。 しかし、それ以上に大切なことをした。だから、Vigrahapala三世の名は歴史の教科書で出るのだ」 子供はふーんと聞いているのかいないのか分からない相槌をうつだけであった。 「お前の父親も勉強は全然できなかったが、Vigrahapala三世がpala朝における重要人物であったことは知っておったぞ」 「うそだい!歴史は特にできなかったって言ってたのに」 「それぐらい有名だということだ。もう少しぐらい歴史を知らないと、恥をかく羽目になるぞ」 子供は老人の言葉を信用しませんでした。それぐらい子供から父親は歴史ができないのだと思われているようです。 「それぐらい元気よく叫べるならもう少し続きができるな。次はSurapala王の話に移ろうか」 #br #br #br *二代目Surapala王(1075年12月18日 [#q8a31ffe] &ref(Surapala王.jpg,nolink);((死後のしかなくてごめんなさい。生前に取ったやつが消えていたので。)) 父であり王であるVigrahapala三世が戦死したという報はすぐに宮殿を駆け巡った。 後継者であるSurapalaは戴冠式もそこそこに馬に乗ってbhauma pala朝との戦いに向かったとされている。 戦争事態は既に先王Vigrahapala三世の時に片がついていた。kamarupanagaraを占領すると、Jayapala王は降伏の使者を遣わした。 &ref(領土1.jpg,nolink); その降伏したJayapala王は1076年4月13日に死亡した。原因は喉に食べ物が詰まったせいだとも、kamarupanagaraを失った心労がたたったのだとも様々な原因が言われている。 後を継いだのはわずか6歳の長女のViJnanavatiであった。 bhauma pala朝には横槍を入れる力さえない。 後ろから刺される心配がなくなったSurapala王は自らの夢に向かっていくのであった。 #br #br #br *栄光の時代を夢見て [#zdd59ef7] ヴィクラマシーラ僧院、ナーランダー僧院は仏教にとって大切なところではあるが、それ以上にpala朝にとっても重要な場所であった。 偉大なるDharmapala王の時代に保護されていたこともあり、pala朝の輝かしい時代を象徴するものでもあった。 #br Surapala王の即位時、聖地varanasiはヒンドゥー教のcedi朝によって統治されていた。 信仰心の厚いSurapala王にとっては今すぐにでも取り戻したいところであったが、それはできなかった。 pala朝とcedi朝の兵力を比べれば、6000と4500とpala朝が勝っているのにできないのは何故か? 数だけ見ればpala朝の方が優勢ではあるが、他国の介入が絶対にありえないと断言できる戦争などない。 事実、cedi朝は他の国と同盟を結んでおり、総兵力ではpala朝が負けていた。 今戦争をしても泥沼になるのは必至。Surapala王は賢明であった。 入念な情報収集と強固な自制心を持っていたのである。 Surapala王は逸る気持ちを抑えてひたすら時を待った。 #br そして、1080年好機が訪れる。cedi朝が戦争を始めたのだ。その戦争にcedi朝の同盟国も巻き込まれている。 この報を聞いたSurapala王は笑いを止められなかったと伝えられている。 Surapala王はcedi朝が弱ったところで聖地奪還のための戦争を行うことに決めた。 少しばかり時が飛んで1081年7月4日。Surapala王はついにcedi朝に宣戦を布告した。 目標はもちろん聖地varanasiである。 cedi朝は後ろを刺されたこともあり、ろくな抵抗もできず主力を奇襲されて全滅した。 その後、聖地varanasiを包囲しこれを占領した。 1085年4月3日。pala朝の勝利。Surapala王が聖地varanasiを手に入れたのである。 しかし、Surapala王の予想外のことが起きた。なんと聖地varanasiは現地のヒンドゥー教徒の諸侯によって治められていた。 そこを治める諸侯からすれば、支配者がcedi朝からpala朝に変わっただけであり土地まで明け渡す必要がなかったのだ。 Surapala王は異教徒とはいえ無理に土地を没収する王権もないが故に、贈り物を送って機嫌をとって仏教に改宗させたと言われている。 #br #br #br *北伐 [#r6e33dcc] bhuma pala朝では異変が起きていた。Jayapala王の長女のViJnanavatiが王になったのだが、そのViJnanavatiも即位して四年で死亡し、妹のSuvrataが王位を継いでいた。 二代とも幼君、しかも女性という継承の危機に見舞われていたのだ。Surapala王が攻めない理由は存在しなかった。 1089年2月2日。KAMARUPA王国の征服を狙ってSurapala王は北伐を開始した。 1091年5月7日。弱っていたbhuma pala朝はSurapala王を止めることはできず、征服されてしまう。 Surapala王は三個の王位を手に入れたことになる。 しかし、Surapala王とSuvrataの戦いはこれで終わりではなかった。 &ref(Suvrata1.jpg,nolink); Suvrataは成人した後、すぐに派閥を結成し王位奪還を狙った。 これに怒ったSurapala王はSuvrata暗殺の陰謀を企てたが、Suvrataもお返しと言わんばかりにSurapala王暗殺の陰謀を企てた。 Surapala王の存命中、ずっと命を狙ったとされている。 #br #br #br *征西の開始 [#w906202d] Surapala王はSuvrataと激しく応酬を繰り広げながらも、それだけに固執しなかった。 1100年1月23日。西にいるkalachuri朝に対してkusinagaraを要求して宣戦布告。 西を征服するための前段階だと研究されている。または聖地奪還こそが征西の開始だったとも意見が割れているところである。 それはともかくこの戦いはpala朝にとって大きなものであった。 それは一万を超える大軍を動員したからである。 #br &ref(決戦.jpg,nolink); sravastiでpala朝11000がkalachuri朝6600を打ち破った戦いはpala朝の勢いをインド中央の王朝に知らしめることになった。 #br &ref(勝利.jpg,nolink); 1104年6月3日。sravastiでの決戦に勝利したSurapala王は、kusinagaraを獲得して凱旋した。 1107年4月30日。死去。老死。聖地奪還や北伐の成功など領土拡大に勤しんだ偉大な王として名を残す。 後を継いだのは長男のBhikhariである。しかし、KAMARUPAの王位は分割相続によって別れてしまう。 #br &ref(後継者.jpg,nolink); 王子は天才として知られていた。外交に優れる。 #br &ref(領土2.jpg,nolink); 死ぬ前の領土はこんな感じである。開始時より少し広がったというぐらい。 #br #br #br *仏教について [#l10244b4] Karma(信仰)を500使って王国を取ることができる(インド内だったら) しかし、聖戦で稼ぐわけにもいかないのでKarma(信仰)を溜めるのは難しい。 そこでdecisionsを使って金を消費してKarma(信仰)を溜めればよい。30ほどもらえるので、それを繰り返せば500までは何とかなる。 注意点としてはこのdecisionsは特定の月にしかできず、連続で行えないことに気を付けよう。 #br #br #br まえ [[AAR/極楽の地インド/Vigrahapala三世]] 次 [[AAR/極楽の地インド/Bhikhari一世(1107年4月30日~]] TIME:"2015-03-29 (日) 07:11:04"