[[AAR/教皇は太陽、皇帝は月]] *Alboino I di Parmaの治世 [#mce2fd91] >&ref(parma55.jpg,nolink); 1245年、ベルナルド三世の遺言通り、弟のアルボイノ一世がイタリア王の後を継ぐ。 アルボイノは外交手腕に長けた君主で、短気な兄と比べて人気があったおかげか、彼の治世の間領内での大規模反乱は一度も起きなかったと伝えられている。 反面、彼は大の戦争嫌いとして知られており、彼の治世の間に拡大した領土はボローニャ州のみであった。 もっともこれはフランスからイスラム勢力が撤退したことによってタガの外れた神聖ローマ帝国が欧州全土で暴れ回っており、かつてのように帝国の混乱の隙を突いて宣戦を行うことが難しくなったことが大きな要因である。 しかし彼の四半世紀の治世は平和とは程遠いものであった。宗教的混乱がイタリアを、いや欧州を襲ったのだ。 **異端と異教と [#r68c6ef8] >&ref(parma56.jpg,left,50%); 上図はアルボイノ王即位時点での宗派分布図である。 度々イスラムの侵略を退けたイタリア王の対立教皇擁立政策により、幾度ものパリ十字軍を失敗に終わらせ、エルサレムを失い、イタリアとの権力闘争に敗北した教皇庁の権威は今や地に堕ちた。 イタリア中部からは対立教皇を支持する過激派のフラティチェリ派が興り、その勢いは教皇庁のお膝元であるラティウム州にまで及んでいる。 イタリア南部にはアイルランド発祥のワルド派がじわじわと支持を広げ、サレルノ州のクレメンテ公はワルド信徒であることを公にし、アルボイノの頭痛の種になっている。 そして最大勢力のカタリ派である。彼らはイスラム教徒占領下のフランスにおいて、教皇庁の庇護を受けられなくなったフランス教会から発生した。 イギリスによるフランス占領の後カタリ教徒の一部は東欧まで逃れ、同じくイスラムの脅威に晒されているハンガリー周辺でカタリ派が急速に浸透。 ついにはハンガリー国内で大規模な宗教戦争を引き起こすまでに至った。 神学にあまり興味の無いアルボイノは、度々有能な異端の臣下を評議会のメンバーに任命してはいさかいの原因を作ったが、元々人望に篤かったので問題が表に出ることは無かった。 ところが徐々に臣下の伯爵や公爵が異端に染まり始め、異端問題が単なる宗教問題から政治問題へその様相を変えはじめる。 **弾圧 [#u975cbb7] 臣下の改宗に対しアルボイノは、処刑、投獄、資産没収によって異端を弾圧したが、その実態は宗教的混乱を利用した政敵の排除であった。 特に公爵位を複数持つ公に対しては容赦なく収奪を行い、その領土は彼の息子や兄弟に譲渡された。 一方で直系親族に対しては、金銭や地位の授与によって機嫌を取り、カトリックへの改宗を勧めた。 **改宗 [#l610f920] しかしそんなアルボイノの努力もむなしく、次々とカタリ派がイタリア北部に押し寄せた。 ジェノバ、ロンバルド、そして首都のパルマまでもがカタリ派に染まり、1305年、病床にあったアルボイノはついにカタリ派への改宗を宣言する。 >&ref(parma57.jpg,nolink); アルボイノは家族、臣下、教会、その他全てのイタリア領民に改宗を迫った。アルボイノの権力は老いてなお健在で、命令から三週間以内に配下の貴族約八割が改宗を行った。 **その死 [#taf01892] アルボイノは臣下の改宗を見届け、1306年1月7日に永眠した。王位は先王ベルナルド三世の遺言通り、ベルナルドの孫ブオッソに引き継がれた。 アルボイノは臣下の改宗を見届け、1306年1月7日に永眠した。享年78歳であった。 王位は先王ベルナルド三世の遺言通り、ベルナルドの孫ブオッソに引き継がれた。 アルボイノはその業績から後世の評価は様々だが、カトリックの間で呼ばれたアルボイノ無策王の名が最も有名であろう。 最初は弾圧し、手がつけられなくなったら国教として承認するというローマとキリスト教の関係の再現を教皇があざ笑う、まさしく歴史の皮肉である。 **世界情勢 [#r4c8e1fc] >&ref(parma58.jpg,left,50%); >&ref(parma59.jpg,left,50%); キプチャク・ハンがカトリックに改宗、フランスでは新たに異端ロラード派が勃興するなど宗教動乱が深刻化。 一方で、スペインでアッバード朝が復活した以外国境線にさほど変化は見られなかった。 TIME:"2013-05-19 (日) 23:30:42"