[[AAR/教皇は太陽、皇帝は月]]
**お知らせ [#kd1c0169]
今回から1.07パッチとDLCを導入。


*Antonio I di Parmaの治世 [#u846b0b3]

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先王の妻がパレスチナ出身だったことで息子、孫が中東系の風貌となり、いかにもアフリカ王といった趣だ。
アントニオ自身もエチオピア人の妻を娶り、アフリカ王のアフリカ人化がますます進行するであろう。
アントニオは先王の祖父アウソニオに比べると随分好戦的であった。
1183年、神聖ローマが代替わりの反乱起こしたので、早速臣下のクレームを使い便乗宣戦。
万の兵で速やかに強襲を行い、反乱諸侯が皇帝と和平する隙を与えず降伏させ、フィレンツェ州を獲得。

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**叙任権闘争 [#zf72898c]
即位直後とあってか司教領からの金払いが悪いので自由叙任に法を変更。
すると元々traitのせいで教皇との仲が悪かったこともありアントニオは破門された。
ゆくゆくは南イタリアを回収するつもりであったが、即位直後で基盤が不安定な今教皇と対立するのは得策ではない。
早速アントニオは莫大な金品を教皇に納め、破門を解くべく働きかけるが、教皇はこれを拒否。
そこでアントニオは対立教皇を擁立し、新教皇から破門を無効とする勅命を取り付ける。
対立教皇の擁立で、これまで南イタリアを巡ってくすぶっていた教皇との対立が決定的になり、以降アントニオは南イタリアの教皇領を侵略していくことになる。


**諸侯の反乱 [#v989322c]
1187年、パッチ後に導入された派閥システムにより、パルマ家始まって以来初めての内乱が発生。
先王が配置した6人のアフリカ伯爵が独立を掲げて宣戦を行った。

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首謀者の伯領に全軍を送り城を強襲して早期講和を図るも、いつものように戦勝点が100%にならない。
どうやらパッチによって戦争における首謀者と加担者の戦勝点配分が均等になるよう調整されたようだ。
仕方ないので野戦で内乱軍を壊滅させ、更に2つの伯領を強襲占領し戦勝点が88%になった時点で講和。
内乱が終結すると、首謀者だけでなく内乱の参加者全員が自動的に投獄された。
また臣下に(反乱を鎮圧したのだな+25)のボーナスがついていた。これはうれしい変更だ。

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血縁の伯爵は無罪放免とし、それ以外の伯爵領土を没収し息子に与えた。
これでもまだ領土持ちすぎペナルティがついているが、特に反乱の兆候はないのでそのままにしている。


**ジハード [#a603c42c]
1193年、アフリカ王国の独立を好機と見てか、エジプト王国がアフリカ征服を掲げてジハードを宣言した。
ファティマ朝エジプトは中東の大部分を支配しており、わが国との戦力差は22000対67000と実に三倍以上。
まともに戦える相手ではない。
だが降伏してしまえばアフリカ王国を失ってしまうことになり、最低でも白紙講和が必要であった。
アントニオは全兵力2万余りに加え数千の資金を投入しありったけの傭兵と騎士団をかきあつめた。
艦船を使った機動防御戦術で、陸伝いにトリポリへ集結しつつある万単位のイスラム兵を各個撃破していく。
しかし1万、2万単位のスタックが次々とおしよせるのとは対照的に、我が国の傭兵と臣下の兵力は損耗と戦死で減る一方。
傭兵含め4万近くいたはずの兵力が1万人を切ったあたりで敗北がアントニオの脳裏をよぎったという。
しかし、戦闘に次ぐ戦闘で威信と信仰値がもりもり上がり、臣下との関係が急速に改善。

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傭兵以外を一旦解散させ再集合をかけると結構な数の兵が集まった。


4年ほど経過したのちようやくエジプトの兵が尽き始め、戦争開始から6年後の1199年、アフリカの完全勝利で幕を閉じた。
とはいえエジプトは終始兵力差でアフリカを上回っており、後も幾度となく苦戦することになる。

**リソルジメント [#de1e6dac]
時を前後してアフリカの対ジハード戦争も終わりに差し掛かった1199年のこと。
教皇はエジプトの防衛がおろそかになっているのをいいことにエルサレムを求めて便乗十字軍をしていた。
信心深い先王アウソニオならこれを見て癇癪を起こしていただろうが、対立教皇のお墨付きを得ているアントニオそこから更に一歩踏み込んだ。
1201年、アントニオはエジプトとの和平直後に教皇に宣戦。
十字軍出兵中で寡兵のローマを占領、ジハード中に捏造した3つの大義名分を用いて教皇から3つの伯領をもぎとった。
更にアウソニオは神聖ローマの内乱を見てこちらにも宣戦、臣下のクレームを使いアクレイア公領、チュニジア伯領を相次いで獲得。
停戦の終わった1212年には教皇領から更にレッジョ伯領を奪取。

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アントニオはわずか20年の間にイタリア周辺の領土を大いに拡大した。


アントニオは1213年の冬、70歳で30年に渡る治世を終えた。
対立教皇の擁立、ジハードの撃退、イタリア領土の拡大など以降のアフリカ王国の指針となる偉大な業績を残したアントニオは、後にアントニオ正義王と呼ばれた。
またアントニオは親族を積極的に登用し、一族による王国の支配構造を確立した。
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**世界情勢 [#dbffa39d]
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イベリアにアッバース朝スペイン帝国が誕生、フランスを侵略し併合。
イベリアにアッバード朝スペイン帝国が誕生、フランスを侵略し併合。
ムラービト朝モロッコ、ファティマ朝エジプトとあわせ3つのイスラム王朝が地中海を囲む形となる。

TIME:"2012-11-04 (日) 18:12:36"

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