[[AAR/征服王に俺はなる!第二部 ~海賊編~]] *8代目 Styrbjornの治世 [#t2083c4f] **戴冠、そして聖地保護 [#e3a81afc] 1031年、Styrbjornは23才で帝位と盟主座を継承した。 管理に優れ、社交的な人柄であった。 貞淑な気質であり、戴冠時には'The Chaste'とあだ名されるほどであったという。 &ref(01_Syrbjorn.jpg); Styrbjornは戴冠して早々Great Blotを開催、略奪行にてVikingの特質を得るなど諸侯の機嫌を取る事を忘れなかった。 1034年、Styrbjornは国内が安定している事を確認すると領土の拡大に乗り出す。 この年に ・Yperenを求めてTiljadid太守に ・Bruggeを求めてFrisia女王に ・Hollandを求めてBrabant太守に それぞれ宣戦を布告している。 &ref(02_宣戦.jpg); この戦いはオランダへの進出とともに、飛び地になっている聖地Zeelandを保護するためのものであった。 &ref(03_目標地.jpg); 飛び地になっている聖地Zeeland、これまではかろうじて征服されずに済んでいた この戦いは翌年1035年にはすべてスカンジナヴィア帝国の勝利で幕を降ろしている。 もはや大帝国となったスカンジナヴィア帝国にとって、小さい王国や公爵レベルは敵ではなかったのである。 **Lotharingiaへの十字軍 [#ed9e3b71] ヨーロッパにおけるイスラムの支配体制およびスカンジナヴィア帝国の躍進に焦った教皇ClemensⅥは十字軍の開始を宣言する。 &ref(04_十字軍.jpg); これまでの十字軍は全てイスラム教への領地へ宣言されている。 いつスカンジナヴィア帝国へ宣言されるかも分からない。 Styrbjornは未来の脅威に抗するため、ある策を打つ。 &ref(05_長子相続.jpg); 1043年、Styrbjornは自身の持つ帝位・王位の全てを長子相続に変更した。 これまで採用していた末子相続では幼君が立つリスクと、真の帝王学を叩き込む人物が変わるリスクがあったためである。 この変更により早期に継承者が確定するため、帝国の安定運営に寄与するはずである。 **スコットランド征伐 [#ga10083d] 聖地の保護、相続制の変更を終えたStyrbjornはブリテン島への征服を再開する。 今回の目標はスコットランドであるが、近親者がスコットランド王の捕囚となっているため領地を求めた宣戦ができないでいた。 金銭での捕虜開放ができなかったため、武力に訴えることになる。 1044年、スコットランドに対して捕虜の解放を求める戦争を開始した…が、 &ref(06_捕虜解放.jpg); 即座にスコットランド王から捕虜を解放するから勘弁してくれ、と打診が届く。 これをStyrbjornは快諾、無事に近親者を異教徒から取り戻す事に成功したのである。 &ref(a_Styrbjorn.jpg);解放ありがとう、じゃあHoly War for Albany! そう、戦争事由の消滅による終戦では停戦期間の設定がされない。 戦争の早期決着を図ったスコットランド王であったが、Styrbjornの真の目的を見誤ったがゆえの失策であった。 1044年に開始された聖戦は翌年1045年にStyrbjornの勝利で決着。 聖戦ゆえ近隣のキリスト教国が参戦したものの、ブリテン島における大勢はスカンジナヴィア帝国に傾きつつあった。 さらに1053年、代替わりしていたスコットランド王に再度聖戦を宣言、これを容易に下す。 もはやスコットランド王家の命運は風前の灯であった。 また、1060年にスコットランドに残るGowrieと、イングランドLancasterを求めて宣戦し勝利している。 すこし時代は前後するが、1044年Lotharingiaへの聖戦がキリスト教国の勝利に終わり、Lotharingia王位はイタリア王が兼ねる事になった。 &ref(07_十字軍終戦.jpg); 弱体化を続けるキリスト教国における最大勢力として、宗教保護の最後の砦となったのである。 **ポーランド王位簒奪 [#r120159d] 1061年、ポメラニア公Tykeがポーランド王位への弱い請求権を持っていることが分かった。 彼の母方の祖父がポーランド王だったためである。 &ref(08_ポーランド王位.jpg); 都合よく現王であるPiast家のLeszekが暗殺回避のため雲隠れしており、摂政政治の状態であった。 他のキリスト教国の邪魔が入らずに王国丸ごと奪取できるチャンスなど早々ありはしない。 Styrbjornは即座に宣戦を布告した。 2年後、ポーランド王は降伏し、ポメラニア公が王位を簒奪した。 しかし異教で異国人の王を認める諸侯など存在せず、即座に反乱が発生。 先王Leszekの弟、Trojdenが王位を簒奪、ポーランド王位は再びPiast家のもとへ戻ったのである。 &ref(09_再簒奪.jpg); ポーランド王が臣下のままとはいえ、異教の王が配下にいては次代へ禍根を残す事になる…。 そこでStyrbjornは一計を案じ、ポーランド王へ贈り物を送った上でGerman宗教への改宗を打診する。 贈り物の効果かはたまた皇帝の威光のたまものか、ポーランド王Trojdenはこれを快諾。 German宗教のポーランド王が誕生したのである。 **崩御 [#f8f28aa7] 1064年、Styrbjornは55才にてヴァルハラへ旅立つ。 高齢による自然死であった。 &ref(10_崩御.jpg); 皇帝位および盟主座は、長子が戦死していたため孫のKolbjornが継ぐ事となる。 Styrbjornは約30年の在位の中で、継承法の変更・スコットランド征伐・ポーランド王位簒奪など帝国の拡大に努めた。 崩御時点での全体図を以下に示す。 &ref(ck2_map_1.png); 1064年時点のスカンジナヴィア帝国の版図である。 帝国の領地はドイツ、フランス北部にまで及んでいる。 イタリア王国の伸長著しく、いずれは対決せねばならない相手であろう。 [[9代目 Kolbjornへ続く>AAR/征服王に俺はなる!第二部 ~海賊編~/09_Kolbjorn] [[9代目 Kolbjornへ続く>AAR/征服王に俺はなる!第二部 ~海賊編~/09_Kolbjorn]] TIME:"2017-12-23 (土) 03:16:31"