#author("2020-09-10T15:55:45+00:00","","") [[A_最近_5_ち_ゃ_ん_ね_る_の_書き込み_が_できない件について な_ん_で_も_な_い_書き込み_が_NG_ワード_に_引っ掛_り_即_B_B_Q_されるのは_欠_陥_品_ア_ド_バ_ン_ス_ド_大_戦_略_で_おなじみ_の *_株式会社_チ_キ_ン_ヘ_ッ_ド_の_南_人_彰_という [#s71eff13] いかにも_通_名_な_人物_が_5_ち_ゃ_ん_ね_る_運営_に_関わ_ってい_て_NG_ワード_など_いたずらに_設定_して_私_物_化_している_から という_噂_がある_けど_本当_だろうか また_南_人_彰_は_PS2_で_出た_セガエイジス_2500_版_ア_ド_バ_ン_ス_ド_大_戦_略_の_開_発_時_に_前_金_で_開発費_を_受け_取った_まま 納期_を_守ら_ず、セガエイジス_担当_から_の_連絡_を_ずっと_居留守_を_使って_逃亡_し_つづ_け_ *_横領_未遂_を_図った_事でも_知られている [#ecd3ea9b] 警察_に_被害_届_を_出す_と_言われて_観念_して_ようやく_姿を_現した_時も 当時の_セガエイジス_担当_に_逆恨み_を_し、彼に_恥を_かかせる_目的_で _マスター_ロムに_ゲーム_に_ならない_致命_的_な_欠陥_プログラム_を_故意に_入れて_渡した_容疑も_かけられている_いわく_つき_の_人物_である この事件以降、賠償という形でアドバンスド大戦略は新作が出せなくなり今年2020年暮れで丸16年が経過しようとしている そして_極め_つけ_は_第_二_次_世界大戦_を_背景_にした_大戦略_「_大東亜興亡史_」_を_本家_本元_の_システムソフト_が_発売した_事_だろう_か 「_自分の_縄_張_り_が_侵_さ_れ_た_」_「_裏切られた_」_など_と_勝手に_憤_り ゲーム_が_作れ_なく_なって_から_の_1_5_年_の_空白_を_ろく_に_働き_も_せず_2_ち_ゃ_ん_ね_る_(_現_5_ちゃ_ん_ね_る_)_で_ずっと システムソフト_と_セガ_を_攻撃_し_続_け、_ *_あ_ま_つ_さ_え_殺害_予告_を_書_く_にまで_発展_した_ので_ある [#z56020fe] 実際_5_ち_ゃ_ん_の_ゲ_ー_ム_関_連_ス_レ_で 「_株式会社_チ_キ_ン_ヘ_ッ_ド_の_南_人_彰_」や_共犯_と_される「_鈴_木_ド_イ_ツ_」_これらに_「横_領_犯_」_など_と_書くと_一発_NG_で_B_B_Q されて_しまう。サンダーフォース6_の_開発者_だった 岡野哲_という_人物_を_執拗_に_誹_謗_中_傷_している_事_でも_有名_だが 「_岡野哲_」や_それら_に_関する_誹_謗_中_傷_文_は_どんなに_書いても_決して_NG_にされたり_はしない *_ゲームカタログ_内_でも_同様_「_南_人_彰_」_「鈴木ドイツ」は_即_NG_登録_された_ようだが [#o121203d] *_「岡野哲」だけは_絶対_に_NG_に_設定_はしない_だろう [#u4e7d2b2] *_なぜ_なら_この_「_ゲームカタログ_」_と_「_クソゲーオブザイヤー_」という_サイト_は [#y8ebc566] *_ゲームに_か_こ_つ_け_て_岡野哲_氏_などの_同業_ライバル_や_、_システムソフト_など [#hb2dfb19] *_個人的_に_恨_み_の_あ_る_特定_人物_や_企業_を_誹謗_中傷_する_た_め_に_立てた_サイト_だから_で_ある [#c8205e08] *_だいいちクソゲーオブザイヤーが始まった同年に [#j7e56bbb] *_PS2_史上_最悪_の_欠_陥_品「_セガエイジス_2500_ア_ド_バ_ン_ス_ド_大_戦_略_」_が_発売されて_いるのに [#n3e479a0] *_クソゲーリストにノミネートされていないのはおかしいだろう [#ia855051] 犯人_は *_株式会社_チ_キ_ン_ヘ_ッ_ド_の_南人彰(58歳) [#p95d1ded] と_疑_わ_ざ_る_を_得_な_い *_麻雀_天鳳の_角_田_氏_に_殺害_予告_文を_書いた_容疑_も_踏まえて [#o192ac79] そろそろ_この男_を_表に_引き_ずり_出す_必要_が_出てきた_ようだ #author("2020-09-11T03:23:20+00:00","","") [[AAR/ローマの長女]] *ローマの長女 769年~907年 [#w96e6232] **初代 [#i31cfb60] &ref(01.jpg); コンスタンティオス“肥満公”クリニテス(?~807)はギリシャ人の貴族。クリニテス王朝の創始者。テマ・トレビゾンドのストラテゴス。 生年などは不明だが、トラペズスの生まれとされる。後に王朝名ともなるクリニテスとはコンスタンティオスの父の名であり、父親を深く尊敬していたコンスタンティオスは署名の際に自分の名の後、父の名も続けて書いていたと言う。 青年期に皇帝コンスタンティオス5世の近衛兵として近侍し、知遇を得る。その後の動向は定かではないが、769年にランゴバルドの王女ゲルベルガを妻に迎えている。この時には、既にテマ・トレビゾンドのストラテゴスの地位にあった。 776年、嫡子となるアントニオスを授かる。 780年、コンスタンティオスの支配に反抗したカルデアの土豪を征討し、所領を没収する。コンスタンティオスはこの後もテマ内の支配を強め、790年頃にはテマ・トレビゾンド全域を直轄支配するようになる。 804年、皇帝エウドキモスの主催したカルケドン公会議にてイコン礼拝禁止が解除され、正教の正統性が確認された。コンスタンティオスも皇帝に従い、正教へと回帰した。 807年死去。天然痘によるものとされている。 所領は嫡子アントニオスに継承された。 **二代目 [#i31cfb60] &ref(02.jpg); アントニオス・クリニテス(776~839)は、ギリシャ人の貴族。テマ・トレビゾンドのストラテゴス。 807年の父コンスタンティオス死去後、その所領を引き継ぐ。同時に、テマ・トレビゾンドのストラテゴスにも任命された。 808年、アミソス伯の妻ヴァレリアとの間に嫡子コンスタンティオスが生まれる。 813年から822年にかけ、帝国は宗教政策を巡り大きく分裂する。皇帝エウドキモスの聖像破壊派再回帰に諸侯は大きく反発。退位に伴い担ぎ上げられた新皇帝ヘクトリオスは、紫衣を纏うやいなやカトリック信仰を明らかにした。これにより帝国内は聖像破壊派、カトリック派、旧来の正教派の3派が血で血を洗う内戦へと突入した。 823年、それまで静観していたアントニオスが事態の収拾を図る。アントニオスは正教派の諸侯をまとめ上げ、皇弟クリストフォロスを推戴して、帝国国内を武力でもって制圧した。反対派の諸侯の多くは禁錮刑か、若しくは所領を没収された。 この一事は、帝国内でのクリニテス家の権威を著しく向上させるきっかけとなった。 834年、25歳の若さで嫡子コンスタンティオスが死ぬ。 839年、アントニオス死去。享年62歳。所領は三男メギストスが継承した。 **三代目 [#i31cfb60] &ref(03.jpg); メギストス“痛風王”クリニテス(820~885)は、ギリシャ人の君主。ポントス王。 839年に父アントニオスが死去した為、所領を引き継ぐ。だが、父の代では即日任命されたテマ・トレビゾンドのストラテゴスの地位は、皇弟のコンスタンスに渡された。これを不服としたメギストスは、テオドシオポリスに設置された総督府前に自下の兵士を並べ、コンスタンスにトレビゾンドの「ドゥクス」の地位の移譲と、トレビゾンドからの退去を要求した。コンスタンスは了承し、以後トレビゾンドのストラテゴスはクリニテス家の世襲となった。 843年、母ヴァレリアが死去。アミソスの領地を継承する。 844年、父アントニオスの擁立した皇帝クリストフォロスが暗殺される。帝位に就いたのは「カトリック者」ヘクトリオスだった。だが彼も845年、反乱を鎮圧中に流れ矢に当たり死去する。 新しく帝冠を頭上に戴いたのは、メギストスの妻、エウニケ・イサウロスであった。 851年、メギストスはテマ・アルメニアコン全域の支配権を確立した。 同年、メギストスは諸侯から一段抜けた「王」へと登る。当初は「トレビゾンドの王」と署名をしていたが、やがて古代のポントス王国にちなみ「ポントスの王」と名乗るようになった。 852年、妻で皇帝のエウニケが死去する。皇帝位に就いたのは、メギストスとエウニケの娘エウドキシア・クリニテスであった。 854年、後妻ウルリケとの間に嫡子アントニオスが生まれる。 858年、幼い娘エウドキシアが暗殺される。これにより、皇帝位は再びイサウロス家に戻った。 866年、嫡子アントニオスが死んだ。宮廷内には次男コンスタンティオスの関与が囁かれ、アントニオスの心を痛めた。 878年、皇帝ニフォンが退位。諸侯が推したのはヘクトリオスの末弟コンスタスであった。 885年、メギストス死去。65歳であった。所領は次男のコンスタンティオスが継承した。 **四代目 [#i31cfb60] &ref(04.jpg); コンスタンティオス“残虐王”クリニテス(860~907)はギリシャ人の君主。ポントス王。 幼少時より、コンスタンティオスには不穏な噂が付きまとっていた。姉のマリア、兄のアントニオスが死んだのは、コンスタンティオスの仕業だという噂が宮廷内に渦巻いていた。人々は彼の事を、「悪魔の子」と呼び恐れた。 885年に父メギストスが死に、コンスタンティオスはポントス王となる。宮廷内は恐怖で支配され、時折何の知らせもなく失踪する者がいても、その事自体口にする事が憚られた。 891年の王妃マハウト失踪、翌年には1歳になったばかりの娘シビュラが失踪したが、これらに関しても詳細な記録は全く残っていない。 907年に死去。コンスタンティオスが死んだという噂を聞いた民衆は喜び、葬儀の最中も笑い声や侮蔑の声が絶えなかったという。所領は全て、嫡子マクシモスが相続した。 悪王と断じられることの多いコンスタンティオスだが、後の研究では都市の再開発や道路網の整備、教育の振興など、行政面での功績が明らかになりつつある。 特に、ポントス王国の首都であるトラペズスの現代まで残る区画を整備し、後の発展の礎を築いたのはコンスタンティオスだとされている。 **世界図 [#i31cfb60] 900年時点での世界図。 &ref(05.png); &ref(06.png); &ref(07.png);