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*穏やかな日々 [#q1441924]

**カトリック君主流断捨離のススメ[#lcbc7b5a]

Gáspárの政治的努力により、ハンガリーは突出した権威権力を持つ王の下で安定した政治バランスを保つことに成功しました。
内外ともに問題はありません。
Gáspárの長子、Istvánが受け継いだのはこの状態のハンガリー王国なのでした。
ここまで基盤がしっかりと組まれているのなら、多少のことでは屋台骨はゆるぎません。そう、例えば次代の王がちょっとばかり無能でも・・・。
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   なんとも言えない数値の中、何故か軍事値は10超え。どうもÁrpád家の者は皆軍事値が高い傾向にある。武門の家、ということか。
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先王の改革のお陰で土地の流出はなくなり、Istvánは封建諸侯の中でも飛び抜けて高い力を有しています。
しかし、改革にも弊害はありました。
それは、諸侯の中にくすぶる不満。
長子相続はいい。一族以外の者にとって、選挙制でもない限り相続法の影響はないのですから。
しかし、王権の拡張は別です。
数々の実績を残したGáspár王ならともかく、何故にこんな怠け者の胃痛持ち(ストレス)を崇めなければならんのだ。
と、言った感じです。Istvánの実績の無さはもとより、性格の部分で嫌う諸侯もかなりの数に及びます。
当然、Istvánは国内の雰囲気には感づいていました。彼は考えます。
「私は父上のように国をまとめ上げることは出来ない。
 出来るとしたら、父上の作ったバランスをそのままにすることだけだ」

「さて、それにこんな強大な王権は要るだろうか?
 ・・・そう、逆に考えるんだ、無くてもいいじゃないかと考えるんだ」

IstvánはGáspár時代に制定された王権に関する法の廃案を提言。
王の側からの思わぬ譲歩に諸侯会議は大いに驚いた後、全会一致で可決。これで王と諸侯の力関係は、法の上では以前の状態に戻ることとなりました。
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   血の滲んでないものは、手放すのも容易い

法の上では元に戻りましたが、変わったままのものもあります。
それは王の持つ権力。
ペスト公爵の土地を全て召し上げ、首都Pestを始めとして、Csanad、Heve、Fejer、Pecsと言った直轄領にせっせと投資を行った結果、
直属の兵だけで5000を超え、常備軍の騎馬隊3,000騎((重騎兵600、軽騎兵2400))をあわせると総勢8000。
更にÁrpád王時代のイベント兵の生き残りが12000。Istvánは諸侯に頼らずとも20000もの軍勢を動かすことが可能でした。
とは言えこうした兵力は言わば伝家の宝刀。抜かないほうが吉というものです。
無用の権威を捨て、王と領主たちとの関係はだいぶ緩和されました。今すぐ叛乱、という空気ではなくなったのを確認すると、Istvánは戴冠式と記念のトーナメントを挙行します。
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トーナメントの挙行に際し、Istvánは今まで前例になかったことを行います。なんと、自らもトーナメントに出場したのです。あまつさえ、優勝までしてしまいます。
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   つい血が騒いで、な。しかし勝つことは気持ちがいい

今までIstvánを軽蔑の眼差しでしか見てこなかった諸侯たちもこれには驚き、以来Istvánへの対応も少しづつ変わり始めました。

**パパっと不穏分子一掃 [#lcbc7b5a]

王権を元に戻して諸侯の不満を抑え、トーナメントでそれまでの悪印象を払拭したとはいえ、陰謀を企む諸侯はまだまだ残っています。
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Istvánはそういった不穏分子たちのもとに密偵長を送り込んでは弱みを握り、忠誠を誓わせます。
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   「ほう・・・では貴公はこっそりと収集していたご自慢の1/1アンティノウス彫像が無残に砕け散ってもいい・・・と?」

アンティノウス像((五賢帝、ハドリアヌス兄貴の愛人。ナイルでワニに食べられて神格化され、ローマ帝国中に彫像が置かれた。))
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そうして一つ一つ叛乱因子を潰していき、最後に陰謀の黒幕、クロアチア公の尻尾を掴みます。
クロアチア女公は反乱を起こすも呼応するものはなく、あっさりと鎮圧されました。
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   「我々のアンティノたんを守れ!ホモショタの灯火、ノンケなんぞに消させはせぬ!」



**イベリアン・レコンキスタ[#lcbc7b5a]

961年7月12日、時の教皇HonoriusⅡは、異教徒に迫害されるキリスト教徒の保護のために、邪悪なる異教徒を武力でもって徹底的にこれを打ちのめす
所存であることを明らかにしました。第三次十字軍の始まりです。
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目標はイベリア半島の南半分、アンダルシア地方。
教皇庁も前回のイエルサレムで、何がしか学んだ点があったのでしょう。
イベリア半島なら北にアストゥリアスが健在であり、またキリスト教国と海で隔てられることもないため支援が得られやすく、維持が容易だと考えられます。
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   イベリア半島の様子(見づらい)。写ってないが、バレンシアからピレネー山脈にかけてもUmayyad朝の勢力圏

例によってIstvánにも参戦要請が来ますが、国内の異端・異教勢力の改宗に尽力を尽くしており、小規模ながらこれも立派な十字軍活動であるとしてお引取りを願いました。
Istvánにとってイベリアはあまりに遠く、また彼は神に対してそこまでの献身をする必要性を見いだせないのでした。

別名を「イベリアン・レコンキスタ」ともいう第三次十字軍は、ヴェネチア共和国やロタリンギア王国といった面々が名を連ねていましたが、最も活躍したのは
サンチアゴ騎士団でした。彼らは60年ほど前にアラゴン地方から追い出された騎士たちの子弟であり、父祖の地イベリアから憎き異教徒どもを追い出すという意気込みには
並々ならぬものがありました。
同じような経緯で結成されながら資金繰りに難渋していたカラトラヴァ騎士団を援助と引き換えに指揮下におさめることに成功((騎士団が騎士団を雇用していた模様))、
起伏の多いアンダルシア地方で広範囲に渡りゲリラ戦を展開、Umayyad朝軍に出血を強います。
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戦争が続くこと5年。Umayyad朝はついに力尽き、アンダルシア地方の割譲を認めました。同地方はサンチアゴ騎士団に管理が委任され、これをきっかけに
サンチアゴ騎士団は急速に世俗化していくこととなります。
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**ローマ巡礼[#lcbc7b5a]

968年12月、Istvánはローマへの巡礼へと出ます。
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目的は一つ。教皇に目通りを願い、ハンガリー王位の継承を直々に認めてもらうことです。
Árpád家のハンガリー王世襲はIstvánで4代目になりますが、配下の司教経由での認可はあったものの、教皇と直接相見え、王位継承の正当性について教皇のお墨付きを得たことはありませんでした。
これまでは教皇に対する工作を行うほどの余裕も、また行うだけの必要性もなかったのです。しかし、十字軍に成功した教皇の威信は、今や絶頂に達していました。変な難癖をつけられて破門を受ける前に、手を打つ必要があったのです。
Istvánは首都ペストを出立し、ローマへと向かいます。
途中であったホスピタル騎士団の騎士と友情を育みながら旅は続き、
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ついに一行はローマに到着しました。
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ローマでの教皇との会見は終始和やかな雰囲気で終始しました。イベリアン・レコンキスタの成功に得意満面の教皇は、十字軍に参加しなかったことを詫びたIstvánに
対して領内の異教徒排除に対する尽力ぶりを褒め称え、却ってこれを賞賛します。もちろん、Istvánが求めた王位継承のお墨付きについても、二つ返事で了承してくれました。

あっさりと目的を果たしてしまったIstvánは、残りの時間をローマ観光に費やします。
かつての帝国が遺したものは未だにローマのあちこちに残っており、その偉大さ、優美さに、Istvánは感嘆するばかりでした。

ローマに残る遺跡の美しさを頭の中で反芻する度に、Istvánは同じローマにいる教皇と、彼の取り巻きについて考えずにはいられませんでした。
神に仕える清らかな存在。
しかし実際は、利権にまみれ陰謀を巡らす、飢えたハゲタカのような人々でした。
では、彼らが説く神とは一体何なのか。Istvánは神の絶対性について考えずにいられませんでした。

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** 文化都市ペストへ[#lcbc7b5a]

ペストへ帰ったIstvánでしたが、偉大な都市ローマの面影は頭から離れませんでした。
しかし、彼の住むペストとて東欧の強国となりつつあるハンガリー王国の首府、活気ではローマにも負けてはいません。
では、何が足りないのか?
Istvánは考えます。そして、彼が至った結論は・・・。

翌日、Istvánの名で布告が出されました。
ペストの周りを囲むようにして存在する衛星都市、それぞれに大学を創設する。
すなわち、哲学を学ぶKecskemét大学、
神学を修めるVác修道学校、
医学を教えるKiskőrős大学、
そして法学を習えるÁbrahámtelke大学。

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これら4つの大学に通う学生のなかで優秀なものは奨学金が与えられ、また卒業後も優遇されました。
特に王の侍医に関してはKiskőrős大学の出身者がほとんどを占め、各地から優秀な頭脳が四大学に集まるようになりました。

Istvánは優秀な頭脳を集め、彼らを重用することでペストの「文明化」が成ると考えたのです。
実際、これ以降のハンガリーの技術水準の向上にはこの四大学が深く関わっています。
・・・最も、大学を四つも創設したことで、Istvánの財布は殆ど空になってしまったのですが。




**甘く、優しく、穏やかに[#lcbc7b5a]

973年、ハンガリー王国内の全ての領域において、異端・異教勢力の排除が終了します。

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その知らせが来てまもなく、Istvánは病がちになり、ベッドから起きることすらままならない日々が続きます。

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976年、Árpádの征服行から百年。スラヴォニア公爵領は法的にもハンガリーの一部になりました。
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同年5月、一進一退を繰り返しながら3年持ちこたえていたIstvánの病状が急激に悪化します。
彼はついに、意識不明の状態になってしまいました。

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執政には彼の長子であり王位継承者、Gábrielが就きます。

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一年後の977年、Istvánはベッドの上で静かに息を引き取りました。享年50歳。
大規模な戦乱に晒されずに終始した彼の一生は、死に様まで穏やかで、安定したものでした。
弱肉強食、下克上が当たり前の中世において、このような穏やかな日々が送れたのは幸運に他なりません。
しかし、安穏とした時間も彼の治世で終わります。
再び、戦乱の時代がやってくるのです。

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ハンガリー王Istvánは50歳で天国へと渡っていった。ベッドの上で昏睡状態のまま亡くなった。王Gábriel万歳!

**István時代の世界[#lcbc7b5a]

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ビザンチンは未だに叛乱を鎮圧できず。

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イタリア半島。トスカーナ公爵は完全に独立している。南伊ではアマルフィ共和国が勢力を拡大。茶色はロタリンギアの飛び地

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見づらいが西ヨーロッパ。西フランクはフランス王国と名称を変えている。また、アキテーヌとの同君連合を解消。
東フランクはブルグンドとバイエルンを同君連合下に収めている。継承マジックでブルターニュをイタリアが保持。
イタリア半島内に王の所領は存在せず、実質ブルターニュ王国である。それを言うならアキテーヌだって首都はバイエルンの方にあるのだが。
なお、4王国とも未だKarling朝である。
また、東欧ではポーランドが興隆。大モラヴィアを併呑寸前である

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イベリア半島はモザイク模様。南部アンダルシア地方にサンチアゴ騎士団が割拠。北部にアストゥリアスとガリシアのキリスト教国。
西部、ポルトガル地方と東部、アラゴン・ナヴァラ地方はイスラムのタイファ諸朝とUmayyad朝の残存勢力。

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ブリテン島とアイルランド。Ivaring家のスコットランド=アイルランド連合王国がグレートブリテンの大多数を支配。この後程なくして帝国となる。
しかしパガンとカトリックという宗教的対立、またノース、アングロ・サクソン、ブルトン、ウェールズ、アイルランド、スコットランドと多種に渡る文化対立を内包し、
帝国の維持は困難を極めることになる。

Gábriel'the Apostle'の治世へと続く[[覇権国家への道>AAR/ユサールの馬蹄記/覇権国家への道]]
Gábriel'the Apostle'の治世へと続く [[覇権国家への道>AAR/ユサールの馬蹄記/覇権国家への道]]

TIME:"2014-07-31 (木) 23:22:09"

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